αの名家
世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
この日の昼休みは、……奇妙な夢をみた。
五時限めの古典の授業がはじまってすぐパラパラと教科書をめくっているときに、ふと浮かんだこの和歌が、もうずっとわたしの頭のなかをぐるぐるしている。
授業内容とはまったく関係がないし、いいかげん頭を切り替えないと。
自習室でのお昼寝の時間は、あっという間に終わった。
学食での食事やらなにやらでわたしがだいぶ時間をとってしまったから、正味十分も寝られたかどうか。
……というか。あれだけ直前までキリキリしていて、椅子に座るやいなや、すとーんと眠りに落ちてるわたしって。
睡眠不足、疲労? あの匂い、のせい? それにしたって寝つきがよすぎて、じぶんのことながらちょっと……未だに信じられない。
オマケに――そんな短い時間だというのに、わたしは夢をみた。
最近はあまりみることもなかったのに、昨夜といい……。
しかも今回は、ちょうど夢をみていたさなかに、わたしは貴晶に起こされた。それでわたしは、どんな夢だったかを、目覚めたあともちゃんと覚えていられた。
満開の桜の花――。
その木の下にたたずんで、一心に咲きこぼれる花を見上げる少女。
いたずらな風に舞うしなやかな黒髪と、ほのかに花色に染まる瑞々しい白い肌。
可愛い。とか、お人形さんみたい、とか――。
幼子にかけるありきたりなそんな言葉では言い表せない。なんだろう? あの透明な空気感。
夢のなかでは半信半疑だったのだけど、起きて正常に思考が働くようになったときには、あの女の子はわたしだと――そう確信していた。
それにしても……。
あくまで体感的に、なのだけど。幽体離脱――って、もしかしてこんなカンジ?
いくら夢のなかとはいえ、わたしは、じぶんでじぶんの姿を見ていた。ただ、すいぶんと幼い頃のわたしではあったけれど。もしかしたら就学前後くらい?
それに――幼いわたしを見ていたじぶんは……あのときの意識は、今の十七歳のわたしだったろうか? なんか、なんだかじぶんではないだれか他の人物の目を通して見つめていたような?
桜の木の下で、わたしはなんとも、不可思議な体験をしていた。思い出すと今もふわふわと、足元がおぼつかないような気分。
……夢だけど……夢だからこういうのもアリ、なのかな?
夢のなかのあのこがわたしだったって、頭ではそう理解していても、現実味がわかないというのもまた事実で。けっこう……可愛かった。ううん、美少女。夢だから、そこは無意識にじぶん補正かかっていた?
わたしってばほんとうにはじめのうち、あの子が誰だかわからなかった。あんな子供のときに撮った写真やビデオを、高校生にもなってそうそう見る機会もないし。
ああいう容姿をしていたんだなー。可愛かったので、そこはちょっと嬉しかったりする。
でもって、色つき。桜の花も空の色も、瞳に映るものすべてが鮮明で、すごく綺麗だった。
ふだんじぶんがどんな夢をみているかなんて、起きたらさっぱり覚えていないことのほうが多いから、わたしにとってこれがふつうなのかどうかもわからない。
もともとわたしは寝起きがよくない。それでもたまに身体がおもだるくて動かせなかったりとか、頭を苛む鈍痛に朝から不快感が半端なかったり――そういうとき、なんだかひどく嫌な夢をみたのだと、それだけははっきりと覚えていることがある。そのくせ具体的にどういう夢だったのかはおぼろげで、断片的に記憶に残っていることもあれば、なぜだかまったく思い出せないなんてことも。
あるときは、なにかとても大切なことがあったような気がするのに、それがどうしても思い出せない。……ほんのちょっとの取っ掛かりさえ出てこなくて、だからなおさら気になって、わけもわからず焦燥感にかられて。
そんな日の朝は、もはや日課と化した貴晶との家の前でのやりとりも、少々違ってくる。
わたしの姿を見るなり貴晶の表情が微妙に曇るのが、日頃の低血圧にさらに頭痛が上乗せの二重苦の頭でもわかるから、――貴晶。そこは気になっても顔に出過ぎ――と身勝手な文句を内心でぶつけてしまうのだ。
ノロノロと近づくわたしの顔をなかば呆れまじりに見つめながら、貴晶が短くひとりごとをつぶやく。体調も気分も思いっきり低空飛行のわたしには、はっきりとは聞き取れない声の低さと大きさとで。
それが――こういうことのある度に、なのだと幾度も繰り返していればさすがに気がつく。いつものからかいまじりの口調とも明らかに違っているから、貴晶がなんと言っていたのか、回を重ねるごとに気になって。
涼しげでありながら、奥底には確固たる意思の宿る貴晶の瞳に影がさして、仄見える昏い光があまりよくないことのように思えて。なおさら知りたくて。
心配かけているってのはわかっているのだけど……。なんとなく、それだけではないような――。
夢見が悪いだけでここまでダメージを負うものなのか、じぶんでも謎なのだけど、とにかく体調管理ができていないのは間違いないわけで。それを棚にあげて、貴晶の態度に不満があるなどと。
『――姉さん、ワガママ』
わたしに向けてのものだったのかさえわからないその言葉に、わたしの意識が向いている間に、貴晶がいつの間にやら、もう少しで鼻が触れてしまいそうな至近距離まで近づいている。息をのむわたしの首筋に触れる彼の指がくすぐったくて、しだいに熱を帯びていくのが……。
ガタン。
すぐ右隣の生徒が席をたつ音に、ハッとして我にかえる。
教科書を両手に持って姿勢を正す。どうやら、先生にあてられて彼女が立ち上がったのだと、それでわかった。
授業中だった。わたしったら、美雪ちゃんにノートだってとらないといけないのに。
あわててシャープペンを握りなおし、ちらりと教室の様子をうかがうと、教科書を読み上げる女子の声を聞きながら生徒たちの間を歩いている先生と、一瞬目が合う。
考え事に没頭していて上の空だったわたしが後ろめたさに俯くより先に、先生のほうからぱっと視線をそらした。
――?
これは、見逃された?
……わたし的には朝よりずっとマシになってきているのだけれど、それでもふだんより具合が悪そうに先生には見えているのかもしれない。
昨日のこともあるし。
また物思いにふけりそうになるのを、心のうちで振りはらう。
放課後、わたしは養護教諭の明石先生に呼ばれて、保健室へ顔をだしていた。
昼休みに明石先生がわたしをたずねて教室に来ていたと、倉木さんが古典の授業のあとに、先生からの言づてを伝えにきてくれた。
ちなみに、ここにはわたしひとりで来た。
今日いち日の授業が終わったあともなお、私的な用事にまで、お父さんと悠希の忠犬よろしく貴晶がついてこようとしたけれど。
彼のほうでも、急遽委員会の用事がはいったみたい。
正直ちょっとほっとしているじぶんがいる。
幼馴染というには近すぎるわたし達の関係を、先生にばっちり目撃されてしまった気まずさもさりながら、わたしを気鬱にさせている要因はほかにある。
明石先生の用件は、昨日のわたしのバース性にまつわる『特異な体質』に関してのものだろう。
まだ先生のお話の途中だというのにわたしが失神しかけて、昨日はそのままうやむやになってしまっていた。
がらんとした室内。
保健室についたはいいが、明石先生はいなかった。田所先生もいない。
拍子抜けして扉をあけたまま入口にたって、所在なく室内を見渡す。
昨日は余裕がなくて、さして気にならなかった消毒薬のかすかな臭いが鼻をつく。
白い壁に沿って設置された戸棚に並ぶ薬品や医療用の備品。机上にある昨日使われた簡易検査用の器具や機器が、わたしの不安を呼び覚ましてくる。
Ωやαの第二次性の問題に対処できる資格を有するとはいえ高校のβのいち養護教諭が、α家系にごく稀に現れる鬼子と呼ばれるものの存在について、はたしてどこまで知っているだろうか?
いや、そもそもわたしに検査をすすめてきた時点で、その可能性は低い?
先生がもしβ家系の出自だとしても、大学でバース性に関して学んできたのなら、もしかして都市伝説レベルの噂のような感覚で小耳にはさんだことはあるかも……。
昨日は動転してしまって、ぜんぜんこんなことまで考えられなかった。
だいたい、起きたら貴晶があんなことしてるから。
「橘さん、来てくれたのね」
廊下から明石先生の快活な声が響く。
「わたしから呼びつけたのに、お待たせしてごめんなさいね」
「いえ」
先生はわたしの横を通りすぎて保健室へと入ると、わたしに向きなおった。
「橘さんに渡すものがあって。よかった、またすれ違わなくて。あれから具合はどう? まだあまり顔色がさえないみたいだけど。とにかく座って」
「いいえ」
わたしは先生がすすめてくれた椅子を固辞した。立ったまま先生に軽く頭を下げる。
「昨日はお世話になって、ありがとうございました。身体はもう大丈夫です。わたしはもともと低血圧で、顔色はいつもこんなですので」
後半は嘘だが、昨日まで面識のなかった先生だ。とにかく、用件をすませて早くここから出たい。
先に用が済んだほうが教室で待っている。
そう、貴晶とは約束したけれど。
あいつが大人しくいつまでじっとしているか……ここであまり時間を食ってしまって、貴晶が迎えにきたら、なにやらまたややこしいことになりそうな予感がする。
「……そう? 今朝、和泉君が橘さんを抱えて登校しているのを見て、てっきりそうとう調子が悪いのだとばかり。担任の先生にも、無理せず保健室に来るように、橘さんに声をかけてあげてほしいとお願いしていたのだけど」
羞恥にびしりと身体が強張る。
やっぱり見られていたかぁー。あれだけ生徒が騒いでいたからなぁ。
勝手に熱くなる顔をけんめいに叱咤する。
だめだ、そんなのでおさまるワケない。なにかっ、なにか、今朝のアレから気をそらさないと。
い、いま、わたしは先生となんの話をしていたんだっけ? ええーと、たしか……。
――担任の先生から、わたしにそんな話はなかった。
「……いろいろ心配をかけていたみたいで、すみません」
「そんな。わたしのことは気にしないで。……それで、ほんとに無理してない? 橘さん」
「はい」
「それなら、いいのだけど」
先生が手に持っていたファイルのなかから、校名が印刷されたA4サイズの白い封筒を取り出す。
「これをお母様に。昨日の橘さんの診察データが入っているわ。今日午前中に学校のほうにお電話があって、橘さんが気絶した直後のデータを病院の医師に見てもらいたいから、すべて寄越してほしいとご要望があったの」
手渡すために目の前まで近寄った先生の眼が、まじまじとわたしの全身を見つめる。
そうすると、わたしより五センチほど背が低い先生から、わたしは自然と見上げられる恰好になってしまう。
封筒を受け取って、つい一歩後ずさろうとして、かろうじて踏みとどまった。
こういうの、落ち着かない。
「……あの?」
「あ。……はい、ええと。――いまさらだけど橘さん身長があってモデル体型だなぁと。スラッとしていて……」
「……はぁ」
いちおう褒め言葉だけど、先生の纏う雰囲気からして、あんまり褒められているような感じがしない。
こちらの不信感が伝わったのか、先生はもう一度しげしげとわたしのほうを見て、それからいささかばつが悪そうに続けた。
「わたしにしたら羨ましいかぎりなんだけど、橘さんを――女子高生を縦抱きにして走ってくるなんて、和泉君の体力のすさまじさに、改めて感じ入ったというか、なんというか……」
「……ぁあー。そう、ですね」
勇者どもに囲まれ、その規格外の彼らの行為を目の当たりにすることに慣れている――いや、むしろ慣れざるをえなかったわたしでさえ、今朝のは驚いたくらいだ。まさかあの距離を、ずっとわたしを抱えて歩いて、最後には走り抜けるとは。
免疫があるはずのわたしでもそうなのだ。先生たちが目にしたものが、たとえ校門の手前からのわずかな距離を走る貴晶の姿だけであったとしても、先生の、先生としてはいささか率直すぎる感想も、当然の反応で無理からぬことなのだと思う。
「んー、橘さんのほうが、先生よりよっぽどよくわかっていそうだけど」
と先生は前置きして、
「養護教諭の資格をとるための教育過程で、彼らの記録映像を視聴する機会があったの。もちろん人権やそのほか個人情報保護などの観点からきちんと画像処理されているものよ。そんな加工されたデータでも、――いったい彼らの肉体はどうなっているのだろう――その神秘に驚嘆して、同じ思いを共有する学生同士で語り合ったりしたものだった。それで今朝までは、彼らの能力発現の貴重な映像を見た。この体験だけでも、じゅうぶんすごいことだと思っていたのだけど。まさかαの真の能力を、直にこの目で見られるチャンスに恵まれるなんて! その重みを理解して、大袈裟じゃなく鳥肌がたった」
手にしたファイルを抱きしめて、しみじみとした調子で熱っぽく語る先生のその姿は、わたしに大学病院の研究者たちを、楠本医師を思い起こさせた。
α高はどうか知らないけど、バース性混在のうちのような学校で、貴晶のようなαが体育の授業で本気を出すことはない。
評価の基準はバース性共通。基準をクリアできていれば、それ以上どんなによい結果を残したとしても、成績は変わらない。
「あー。わかります」
それがはからずも、公衆の面前で惜しげもなく披露されたのだ。
ドラマのCGじゃない。ナマのαの実力を……。それは盛り上がるだろう。気持ちはわかる。
――ただし。当事者でなければ!
にしても。一般人より職業柄、目にしてそうなものだけど、そうでもないのか。
わたしの適当な同意に気をよくしたのか、先生はさらに話を続けた。
「あれだけの身体能力を見せつけられたら、昔いたというαの一族の都市伝説めいた噂話も、あんがいまったくの出まかせでもないのか――なんて気がしてきた」
「αの……一族?」
「大学時代にゼミの先輩から聞いた話なのだけど。αのなかでもとびぬけた身体能力の高さを誇る一族がいたと。彼らがどんなことができたのか。――それがもう、まるでスーパーマン! 荒唐無稽すぎて思わず笑ってしまったほどあり得ない。それでね」
愉快そうに空想の世界へと思いを馳せる先生に、じゃっかんひいていたら。
「その一族の名前がね――彼、末裔なのかもしれない、とか想像したら……」
――はい?
……彼?
「今朝の、校内へ駆けこんでくる和泉君の姿を見て、思い出したの。……そういえば苗字も同じだし……ひょっとして? なんてね」
貴晶の……家が?
「あ。あまり真剣にとらないで。かなり盛ってあるにせよ、眉唾かもしれないのだし。ただ――そんな噂がまことしやかに囁かれているのも、納得の雄姿だったわ、和泉君。――素敵な幼馴染ね、橘さん」
……貴晶の家が?
先生の言葉が素通りしていく。
『素敵な幼馴染』――その言葉が、嬉しくないはずがないのに。
おじさんの家が? そんな話は、わたし聞いたことがない。
貴晶からそんなこと一言も……。
でも――わたしも。
貴晶に、じぶんが天河の家の血をひく者であると、わたしの口から漏らしたことは一度もない。
わたしが知っているα家系の一族などほんの一握りだ。現代もなお続いている名家のなかでも、ことに有力な一族くらいしか名前が出てこない。
天河と、仙石と、月島と……。
鬼子であることで、一族のαたちに引け目を感じて育ってきたわたしは、このてのことにはほんとうに疎い。
知ろうと思えば、たぶん可能な環境に、身をおいていたにも関わらず。
たとえ、わたしが――αでなくとも。
※ 世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平
出典:「古今和歌集」「伊勢物語」「和漢朗詠集」他