転寝 3
不意に。
鼻腔をついた甘い香り。
それは、尋常でないαの男子生徒の様子にわたしが息をのんだ瞬間のことだった。気づいたときには、思いっきり吸いこんでしまっていた。
――また……。
内と外から、すべての感覚をもっていかれるような――。わたしの全身を目に見えない甘美なベールが覆い、まとわりついている。
逃れようという意思さえ、しっとりと、浸食されていくような……。
精いっぱい抵抗を試みるものの――。
……なんか。今までで、一番……。
匂いが弱まるのと、わたしを包みこむ存在とを感じたのは同時だった。右の肩をやさしく抱かれる感触に、目と鼻と、一部の感覚がわずかながらもどってくる。
どのくらいの時間、わたしはそれにとらわれていたのか。匂いの残滓をふりはらおうと頭を振ろうとしたけれども、動かすことはまだかなわなかった。
わたしを抱く腕の持ち主が、匂いの主が、誰かなんてわかっている。
重たい瞼を上げておぼろげに像を結んだわたしの視界に、紙のように白い男子生徒の顔が揺れているのが映る。
彼もまた、わたしと同じように、連れの男子に肩を抱きこまれるようにして支えられていた。
うなだれた横顔の、半ば以上伏せられた瞼の影からのぞく虚ろな瞳に、幽かにだけど光がもどる。
ゆっくりとした動作で、友人らしい生徒の肩を弱々しく押しやるその姿を、わたしは見るともなしに見ていた。
「――歩けるか、亜希?」
低くとおる貴晶の声。耳朶を震わせる彼の声が呼び水となったのか、すぐにノイズが戻ってきた。聞こえてくる階下の遠い喧騒と、αの男子生徒たちの気遣わしげに交わされる声と足音が離れていく。
わたしを覗きこむ貴晶の顔が、視界いっぱいに割って入ってきていた。
するりと彼の右手が背中へとまわる。差し出してきた貴晶の左手には、わたしが取り落していたペットボトルと一緒に、彼のぶんのペットボトルが握られている。貴晶はそれらをわたしの手に持たせようとしてきた。
そのまま受け取ろうとして、突如として今朝の出来事がフラッシュバックする。
そして、昨日の保健室での――。
「……ぁああ、あるけるっ。じぶんで、歩くから」
「そうか」
やんわりと、自習室のほうへと背中を押される。弛緩していた身体に、ようやくとたしかな鼓動が戻ってきた感じがする。
いや、むしろ。どきどきと、うるさいくらい。
もう先ほどの男子生徒のことは、すっかり頭から消え失せていた。
自習室の受付の職員さんはとうぜん初めてお目にかかるお顔で、淡々とした対応に先ほどまでとはまったく別の意味で心臓がうるさい……。
所持品がペットボトルのみの姿を見とがめられて、なにかしら言われるのではないか。職員さんを前にますます膨れ上がるわたしの懸念は、杞憂におわった。
さっき自習室に先にひとりで入っていった貴晶が、わたしのぶんまで手続きを進めてくれていたおかげで、あとはわたしが受付で学生証を提示するだけ。あっさりと通過することができた。
教室ふたつ分くらいはありそうな広いスペースに仕切り板で区切られた机の並ぶ自習室は、期末テストが近いこともあり、こんな時間でも目に入る範囲の三分の二ほどのブースが埋まっていた。
みんな、頑張ってるんだなー。やっぱり三年生が多いみたい。
ネクタイの色からそう判断して、わたしの胸をむくむくと不安がおおいはじめる。
静寂のなか、教材のページをめくる音と、ペンの走る音だけがやけに耳について聞こえて――。
わたしは毎日地道に勉強をして、それでかろうじていまの成績を維持している。αである弟のような余裕はわたしにはない。ずっと同じ屋根のしたで暮らしていれば、鬼子であるわたしとαの家族――その歴然たる差に、おのずと気づかされる場面などいくらでも転がっていて。悠希が高校の寮に入るまで、わたしは容赦ないその現実に、否応なしに向きあってこざるを得なかった。
わたしがその格差を縮めようと願うなら――ひたすら、努力するしかないのだと。
昨日はもうそれどころではなかったし、今日にしてもこの有様では勉強に集中できるかどうか怪しそう。土曜日も病院でたぶん半日はつぶれる。そのあとで試験勉強をしようなんて、はたして気力と体力が残っているかどうか。
どうしよう。
『――大学も一緒がいいな』
美雪ちゃんの可憐な顔が思い浮かぶ。わたしは彼女と約束をした。
よほどのことでもないかぎり、美雪ちゃんならΩ枠での受験は楽勝だろうし。むしろ問題だらけなのはわたしだから……。推薦をかちとるためにも、今回はとくに力を入れて臨みたかったのに。
「亜希、こっち」
身近に感じる彼の気配に顔を上げれば、じっと見つめられている。促されているのだとわかっていても、わたしの身体はぎこちなく身じろいだだけだった。
「心配ないって。他にも寝てるやついるから」
――どぉこーにー?
わたし達の立っている入口付近に陣取っている生徒は、皆さん真剣に勉強に取り組んでいますけど。
わたしの不安が伝わったのか、わたしの顔を見て、貴晶がすこし困ったように微かに眉を寄せた。言葉に添えて、わたしのほうへとその大きな手を差し伸べてくる。
「――亜希」
わたしを促す声の優しさと、貴晶の手の他に、なにも映らなくなって。
ただ、嬉しくて――。
わたしは彼の手のひらに、おずおずとじぶんの手を重ねた。すぐに握りこまれた手に直に伝わってくる貴晶の体温に、頬がゆるみそうになる。
おとなしく手をひかれて彼のあとについて歩きだして、ふと思い出す。
――さっきまでの、廊下での決意はどこいった? わたし。
目の前に貴晶の手があると、つい……。わたしが戸惑っていると、貴晶が「ん?」って表情をして見てくるし。
……つい……。
わたしってば、昔っからいつもこう。条件反射?
情けなくてむしょうに恥ずかしくなる。かといって、いまさら後戻りもできないわけで。そんなじぶんの気持ちを誤魔化すように、わたしはほんの小さく頭を振った。
無心に勉強している生徒たちの後ろを通り過ぎ、突き当たった窓際の通路を左に折れて進むうち、だんだん空席が目立ってくる。
貴晶に案内されたブースは、入口から一番遠い壁際の窓からすこし離れた場所。
……ほんとに寝てる生徒がいる。
自習室の奥まった一画に、ひとつずつブースをあけて、五人の男子生徒が思い思いの姿勢で眠っていた。みんな机に突っ伏しているのだけれど、腕や辞書を枕にしていたり、なかにはアイマスクをしている生徒までいて。
「ちなみにこのへんだけ、カメラの監視つき」
――え?
貴晶の指さした方向に視線を上げて。
――ちょっと待って。……イマ、なんと?
絶句する。
たぶん牽制の意味もあるのだろう。無機質なレンズの奥、黒々と丸い目が、天井から不躾にこちらを見下ろしていた。
そのカメラに捕捉されている範囲は、たどるまでもなくのんきに眠っている周囲の生徒たちで、わたし達もそのなかに間違いなく含まれている。
…………。
――こんなところで! 寝られるかーーーーっ!!
ふつふつと、怒りがわいてきた。
貴晶のばか! 気が利いているようでいて、カンジンなところが、致命的に抜け落ちている!
見られているとわかっていて、しかもこの場にいない誰ともしれぬ相手に、あんな機械越しに見られている状況でなんて。仮眠どころじゃない。気味が悪くて、即刻この場から消え去りたい。
おまけに、案の定、女子いない。このひと達、全員αだ、αの男子。
もしかして、自習室で仮眠しようなんて女子、わたしが「初めて」なんじゃない?
カメラの向こうで警備員さんか誰かが呟く「おいおい、とんでもない女子だな」って呆れた声が、聞こえた気がした。
羞恥で千々に乱れる感情のまま抗議しようとして、すんでのところで飲みこむ。視界の端には、すやすやと居眠りをしている生徒たちの背中があって。
危なかった。静かな自習室で取り乱すところだった。
いったん気を散らそうとさまよわせたわたしの目が、どうしてだか貴晶の存在だけはちゃんと拾っている。瞳に映った彼以外のものは、認識すらされずにただ流れていくだけだったのに。
貴晶に視線をもどしてから、わたしはそれが彼の表情のせいだと気がついた。鉄仮面をかぶった貴晶の顔。今のわたしみたいに、面倒くさくなった幼馴染の相手をするときの彼の定石。――中三のときから貴晶は、以前のように良くも悪くもわたしに引きずられてはくれなくなった。
わたしが頭に血が昇っているからか、ますます彼の心のうちが読めなくなっている。
とにかく、手あたり次第に感情をぶつけるのではダメだ。ほんとうに伝えるべきことをよくよく吟味しないと。
唇を引き結ぶ。
「――しーっ」
「……っひっ」
――ちょっと。わたしが懸命にじぶんを鎮めようとしているところへ、『しーっ』?
びっくりした。でもって、ぞわりとした。心臓に……悪すぎる!
貴晶。ひとの耳許でなにを囁いてくれてんの? しかも今のコレも――カメラでバッチリ見られてるんでしょ。
恥ずかしいやら、いたたまれないやらで、もう熱いのか、つたう汗で冷たいのか、ぐちゃぐちゃでわからない。
「大丈夫」
熱を持っている耳の奥深く、密やかに貴晶の低音ボイスが吹き込まれる。かかる吐息の湿り気を帯びた生温かな感触が、さらに追い打ちをかけてくる。それで一気に限界を超えた。戦意喪失。脳内に残る貴晶の声の余韻に浸ってしまっている。
……というか、ここでもたもたしているほうが、よけい醜態をさらすことになるのでは?
ぼうっとした頭の片隅にふと浮かんだ疑問。それが、わたしの思考をたちどころに染めていく。
ここまできて貴晶がひく。なんて、無い。そんなのわかりきっている。わたしもダテに貴晶の幼馴染やってない。
思えばこうなったのも、貴晶がわたしの身を思いやってくれてのことで……。かえって心身ともに思わぬ負荷が、とてつもなくかかっている。気がしないでもないけれど。
受付でわたしが指定された番号のブース。そこの椅子を、わたしが思案しているうちに、貴晶がひいてくれていた。そっと背中を押される。
ちらりと見上げた貴晶の横顔は、しれっと涼しい表情をしていて。
さっきから泡を食っているのはわたしだけで。
――やっぱり。
文句は後だ。放課後でも、なんなら家に帰ったあとでも。そのほうが誰に迷惑をかけることもなく、遠慮なく言いたいことが言える。
それに。このブースが今の時間仮眠スペースだとしても、寝なければいい。それだけのことだ。
だいいち気が昂っていて、とても眠れそうにないし。
うん。考えがまとまった。
わたしは、ゆっくりと腰をおろした。
すこし落ち着いたら喉がかわいた。わたしは乾きを訴える喉を潤すために、ペットボトルのキャップに手をかける。勢いよく三分の一ほどお茶を飲んだところで、「あれ、これわたし飲んでよかったのかな?」と慌てて左隣のブースにいる貴晶を見た。
貴晶ももう一本あったペットボトルのお茶を飲んでいた。目があった瞬間、ボトルを口から離して、「寝るか」と形のよい唇が動く。
むり……と、わたしも口を動かそうとした。動かそうとしたのだけど、貴晶の右手が仕切り板を越えてわたしの左手に触れてくる。
思わず振り払おうとして、指先が貴晶の手の甲をかすめた。そこにあてがわれた大きな絆創膏に気づいて、ぎくりとわたしの動きがとまる。
そんな一瞬の隙を貴晶が見逃すはずもなくて、わたしの手は難なく貴晶の大きな手に握りこまれてしまっていた。
その抗いがたい握力に怯んだわたしの身体が、緊張と驚きで固まる。
……貴晶、カメラ――。
悲鳴は声にならなかった。お昼寝真っ最中のまわりの生徒たちをはばかって、わたしが意図して声を殺したのではない。
貴晶にすがるように、目で訴える。
せめても左手を引き抜こうとわたしが力をこめても、貴晶の手にしっかりとらえられてしまっていて、かなわない。
「じっとしてろ」
とたんに耳が熱くなった。
たった一言。貴晶の囁く声に、どうしてこんなに……。
どうして、わたしはなす術もなく、熱を帯びていく身体をもてあましているのだろう。
こちらへと流れてくる柔らかな匂いに、なんだか貴晶に身体ごと抱きこまれているような感覚を覚えてしまう。
貴晶の顔の温かさも、彼の手の熱さも、わたしの耳に、背中に、手に、いつのまにかしっかりと刻みこまれていて。触れられてもいないのに、ふとしたきっかけで身体の奥底から呼び起こされて、そこにみるみる熱が集まっていく――だなんて。
貴晶は隣のブースに座っていて。彼はただそこから手だけを伸ばして、わたしの左手を握っている。
それだけだというのに……。
これもわたしが寝不足のせい? 体調がよくないから?
昨日からいろいろあって、初めて聞いて知ったことがたくさんあって、さんざん考えて、悩んで、もうわたしはいっぱいいっぱいで。
今はお腹がいっぱいで、思考回路が鈍っている?
もう、なにも考えたくない――。
そんなのいけないのに。そう思ってしまうくらい。
あったかくて、ほっとする匂いがして、気持ちいい……。
……また――。
――風にのって。
早咲きの桜の花が今を盛りと咲き匂う。初めて目にする品種のやや大振りな淡紅色の花々に、眼を輝かせて見入るあどけない横顔。
ほんのりと色づく頬は、まだすこし息がはずんでいるからなのか、それとも満開の花の香気にあてられでもしたのだろうか。
早くこの花を見せたくて、急かして連れてきてしまった。ここまで誘ってきた右手のなかの小さな指が熱い。
吹きすぎる爽やかな風に髪の毛がさらりと流れて、稚い首が白日の空気にさらされる。
きめ細かな白い肌と、眉の上と肩のあたりで真っ直ぐに切りそろえられた艶やかな黒髪が、さながら人形のような印象で――。
無邪気なその子の横顔に、しばらくじっと見惚れていた。
降り注ぐ春の陽射しを浴びて、黒目がちのもとより透明感のある瞳が、不思議な色味に変化している。青みがかった白眼に、深い瑠璃色の縁どる虹彩。微細な琥珀色の濃淡がきらきらと綾なし揺らめいている。
濡れて強く煌めくその瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
その瞳に、映るこどもは――。
……貴晶?