転寝 2
『――そっかぁ。亜希は明宝高校を受けるのかぁ。で、今まで第一志望だった高校が第二志望になるってわけね?』
『うん。目指してみることにした。まだどうなるかわからないけど。……それで、朋とは一緒の高校に行こうねって話していたから、その……」
『……ぁあーー……うん。そうねぇ……なんか、こうなるかなって気はしてた」
『……え?』
『じつはさぁ以前にあかり達とも話したことあったんだよね。亜希なら、頑張ればもうちょい上の学校でも行けるんじゃないかって』
『……はい?』
『でもあんたのことだから、受験校決めるのも安心安全、たとえテンションおかしくなって飛び跳ねても、落っこちる心配のない鉄橋でがっちり固めていくんだろうなー、なんて話してた。ちょっとびっくりしたけど。亜希が明宝かぁ。うん。いいと思う』
『……』
『なに? キョトンとして』
『あー……はは。そんなふうに言ってもらえるなんて、思わなくて……』
『にしても、この時期になって、亜希がよく決断したよねー。そっちのがわたしビックリした。なんかさ、亜希ってば最近イキイキしてるというか、ずいぶん調子いいみたいだけど。なんかあった?』
『……う、うん』
『へぇえー……』
『ぁありがとう、朋。わたし頑張るね。けど受かるかどうかは……わたし緊張するとダメダメだし』
『自信持ちなよ。亜希には明宝に行くだけのポテンシャルがあるって。わたし断言する。それに、なんてったって亜希は――』
名門校に、じぶんでも高望みをして、勢いで入ってしまった――という自覚はあった。
中三の二学期も後半にさしかかるころになって、あろうことかわたしは第一志望の高校のランクを上げた。
そして無事、合格した。
中三にあがった時点の成績では、おそらく誰も、当のわたしでさえ想像だにしていなかったまさかのランクアップ。
わたしにしたら、家庭教師を引き受けてくれた貴晶からつぎつぎと課される宿題を、無我夢中でこなしていたらそうなった。
貴晶にとっても大事な時期にわたしのせいで……なんて、はじめのうちこそ殊勝なことを考えて奮起していたけれど。
いつしかそれが――彼からわたしへと注がれる眼差しが、語りかける声音が……わずかでもそこに失望の色が滲むことのないようにとひたすらに願って――。そのことが、わたしの一番の気がかりになっていて、そうして励んでいるうちに、いつの間にか幸運の波に乗っていた。
わたしよりはるか高みにいた貴晶の運に、乗せられたようなものだ。
――それは、あたかも長い夢をみていたような……あれは、ほんとうにわたし、だったのだろうか?
勉強したことがみるみると身についていくじぶんの姿が、まるで魔法にでもかかったようで不思議だった。いくどとなくあの当時を振り返ってみたけれど、毎回そんな心地すら覚えるほど、現実感が希薄だったりする。
ただひとつ確かなのは、貴晶という並外れた幼馴染の存在なくしては、まずもってなしえない快挙だった。
ただし、そんなとんでもないラッキーを分不相応に手にすれば、万事いいことばかりではないのも自明の理で。
親しくしていたβの子達とは、進学先が別れてしまった。
わたしの数少ない友人達のなかでもとりわけ成績の近かった朋とは、同じ高校に通う日を夢見て励ましあってきたというのに。
わたしの突然の志望校の変更に驚いていた彼女も、終始歯切れのわるい態度のわたしに焦れたのか、最後は強引に――わたしは『あの、橘悠希のお姉さんだもんね』――と、飛びぬけて出来のいい弟を引き合いに出してエールを送ってくれた。
中学時代の三年間を通して一番仲のよかったあかりちゃんは、悩んだあげく通信制の高校に進んだ。
結果として、中学時代の友人で、わたしと同じ高校に入学してきた娘はいない。
どころか貴晶とも別々のクラスになってしまった。クラス分けの掲示板の前でこの事実を知ったときは、地味にこたえた。しばし落ち込んで、そしてそんなじぶんに気がついて、わたしはさらにショックを受けた。
貴晶とはひところ、たしかに疎遠になっていた時期が存在した。しかし同級生でありながら、わたしの家庭教師となった貴晶は、そんなブランクなどあっという間に埋めもどしてきた。それどころかこの期間、勉強に関しては本人であるわたし以上に、わたしの得手も不得手も知りつくしていたのではないだろうか?
『ほんっとアキ兄って、姉さんのあしらい、うまいよねーー』
――などと、身近にいてわたし達を、というよりわたしを監視していた弟にも、盛大に呆れられるくらい。
――やだ。情けなくて、むしょうに……。
じわじわと込みあげてくる恥ずかしさとともに、鮮明によみがえる、貴晶の……。
今でもはっきりと思いだせる。それに引きずり上げられるように、体温が急激に上昇してくる。その狂おしい熱にたえきれなくて、わたしは声にならない悲鳴をあげた。
ともあれ、母の実家もからんでわたしにとっては頭の痛い問題であった受験の全面的なサポートを、貴晶が引き受けてくれた影響は大きかった。
そればかりか、わたしの面倒をみながら超難関とされるα高にも、貴晶は合格していた。聞いたときには驚いたし、本気を出したαにとってはこれがはたして普通のことなのかどうか、鬼子のわたしには見当もつかないけど。
それはともかく、これぞαならではの、そこらの一中学生では及びもつかない貴晶のお膳立て――それによっておきたミラクルのおかげで、今わたしはここにいる。
ただし。そのぶん反動も大きかった。
入学式から、わたしは場違いな気がしていた。
受験会場でも感じてはいた。けれど、あのときはじぶんのことで精一杯だったし、なにより貴晶が近くにいた。
――まわりがみんな、すごいひと達に見える。
中学より明らかに生徒たちに占めるαの割合が高い。βだろうなって生徒たちも堂々としていて、名門校に運よく合格できただけのわたしは、なんだか気おくれがする。
期待と不安とで初々しく揺れ動いていた気持ちは早くもマイナスのほうへと、わたしの天秤は入学初日から大きく傾いていた。
高校一年生の四月――わたしは、ぼっちだった。
新しい環境に身をおいて感じる不安材料のうちのひとつに、「勝手がわからない」というのがある。
方向音痴のわたしはなおさらで、おまけにクラスに知っている女子もいなかった。同じ中学出身で親しい生徒といったら貴晶くらい。といって、まさかクラスが別れてしまった幼馴染を、ましてや性別もバース性も違うのにそうそう頼るわけにもいかない。
ならばこれから学生生活を送るうえで関わりのありそうな場所くらいは、じぶんの目で確認しておいたほうがいいだろう。
入学して登校二日目。
放課後になってから、わたしは意を決して、入学時にもらった簡易な案内図を片手に、校内をあちらこちらと歩いて見てまわった。
わたしひとりでも、目的の場所までちゃんと移動できるようにならないと。
「高校生になったんだし、わたしも自立しないとね」などと、なにごとも受け身のわたしにしては珍しく、カラ元気で教室を飛び出したはいいものの。
知らない上級生や新入生ばかりのなかを、いかにも探索してますという態でひとりでうろうろするのは、正直とてもしんどかった。心臓がどきどきっしっぱなしで……すれ違う生徒のなかには、当然ながら並の大人以上に体格のいいαの男子もいて……。
新入生が心細そうにしているのがわかるのか、彼らに見られている気がした。
いくらもいかないうちに、そう感じることが何度もあって、そのたびに肝が冷えた。
――わたしが新入生だから彼らの目をひいてしまっているだけで、ほかの一年生とくらべてわたしだけが特別どうこうというわけではない。きっとそうだ。
そう何度も思いなおして、廊下を進んでいく。そんな具合だから、じぶんがどこをどう歩いてきたのか、どこになにがあったのか。地図を見て歩いているのに、さっぱり頭にはいってこなくて。
これではもう、ムダに神経がすり減るだけで意味がない。この辺でやめようか。
渡り廊下の先にある食堂のある西棟から、わたしは握りしめていた案内図へと視線を落とした。高校から給食がなくなって、今後お世話になることがあるだろう食堂までは直接この目で確かめておきたいと、ここまで粘ってきたけれど。足元から西棟へと伸びるたかだか数メートルほどの廊下の距離が、なぜだかひどく長く感じられる。
いいかげん徒労感に音を上げたくなった、そのとき。
「――亜希?」
貴晶の声に、我に返る。同時にくらりと、わずかに立ち眩みがした。
学校の昼休みに、いったいどこで仮眠をするのか。
わたしにはさっぱり見当もつかなくて、気になりながらも聞きそびれていた貴晶おススメだという場所。その部屋の前まで来て、わたしはそのあまりの意外性に、思わず現実逃避してしまったらしい。
唯一わたしのなかにあったここ関連の記憶が、ところどころ不鮮明ながらも瞬時にして脳裏に投影されていき――しかも、近くまで来ていながら、貴晶に呼びかけられて、過去においても記憶のなかでも終着点にたどり着けない。
そんなところまで同じだった。
貴晶がわたしの手をひいて誘ったそこは、昼寝をするに、食堂よりもありえない空間だった。
「……まさかの――自習室……?」
ここ西棟には一階に食堂、二階に自習室、三階に小講堂が一般の生徒が主に使用する施設としてある。わたしは小講堂へ行くために各階の脇にある階段を上り下りしたことはあるが、二階はいつも素通りしていた。
自習室の扉の前で、貴晶の袖を引っ張る。
「だめでしょ。こんなとこで」
「それが案外そうでもない」
「いや。来週からテストはじまるし。だめでしょ? やっぱり……」
なおも袖を引っ張るわたしの右手に、貴晶の手が重なる。
――こんな、自習室の前の廊下で。
思いもよらない貴晶の行動にわたしは固まり、さらに彼の顔が近づいてきたことで状態は悪化。異を唱えようとしていたわたしの口は、たやすく封じられてしまった。
――だから。近いって!
「何代か前の生徒会役員が、昼休みにここで仮眠したのが始まりだった」
――もうっ近づきすぎ!
わたしの反応を注意深く観察していたと思しき眼が、わたしのこめかみのすぐ横を通りすぎる。
――ま、待って。この内容で、なんで耳元に顔を近寄せてくる必要がある!
心拍数が跳ね上がる。ちょっと前まで寝ぼけていたというのに、こんなの心臓に悪いったらない。
貴晶の声の調子も間近で見下ろしてくる瞳も、彼が聞き分けのないわたしを諭すときのモードに移行している。
――それが、わかっているのに。
唐突にはじまった貴晶の話に、素直に聞きいってしまう。
「その生徒は生徒会の仕事のうえにプライベートでも立てこんで、多忙を極めていた。睡魔に抗えず、あるときからここで二十分程度の午睡をするようになった。ほかの生徒の目もあるなかで授業中に居眠りという失態は、自身の立場的によくないと考えたうえでの行動だった。学校側も、それで午後の授業をきちんと受けられるなら、と彼の自習室での仮眠を黙認した」
わたしも、昼食後に短い睡眠をとると脳がリセットされていいという話は聞いたことがある。脳を休めることで記憶力や作業効率が上がるのだとか。
「――で、俺たちも昼休み限定の自習室の利用法として、ここで仮眠をしてもこのあとの授業にちゃんと出席さえすれば、問題はない。もっとも大っぴらにはされていないから、そういう使い方をしている生徒はそんなにはいないかな」
最後のほうは軽い口調で事もなげにそう言うと、貴晶はするりとわたしの手をほどいて、さっさと自習室に入っていってしまった。
いきなりあっさりと解放されて、わたしは呆気にとられる。貴晶の切り替えが早すぎてついていけない。
ぼうっとしていたけれど、家庭教師をしてもらっていたころの習慣で、貴晶がなにを話していたか、だいたいは頭に入っている。
そう簡単に言われても、いや簡単だからこそ、やはりわたしには抵抗がある。
だって……今わたしの手にあるのは、貴晶が持たせてくれたほうじ茶のペットボトルだけ。教科書はおろか筆記具のひとつも持ってきてはいない。
見学ならまだしも、いちおう自習室を使わせてもらうためにここに来ている生徒が、それも初めて利用するというのに。さすがに、これは――。
最初っから、まさに! 寝るためだけにここ来ました……状態。
こんなの、すっごい非常識な生徒みたいじゃない、わたし。
相手は貴晶なんだから、いったいどこで仮眠をするつもりでいるのか、あらかじめちゃんと聞いておかなかったわたしの落ち度だ。
にしても、貴晶も手ぶらだったし……。予想外だった。
――あぁ。
わたしは心中で、ひとつ大きなため息をつく。
それにしても、そもそものことの始まりとなったその生徒会役員さん、もちろんαなんだろうけど。――悠希なみにタチが悪いわ。
でまぁ、経緯はなんとなくわかったけど。
わたしは二年のときに図書委員をしていた。
図書室は各学年の教室からいささか距離があるので、昼休みの時間は利用日が限られている。そのうえ五時限めがはじまるまでに生徒が余裕をもって教室にもどれるよう、昼間の利用終わりの時間もけっこう早めに設定されている。時間厳守は、代々の図書委員たちの間で伝統として引き継がれていて。
せっかく足を運んで来ても、できるのはせいぜい貸出と返却手続きくらい。
なので、昼休みに図書室をおとずれる面子はほぼ固定化。それほど多くはない人数が、皆が皆さっさと用を済ませて帰っていく。
ちょっと味気ないというか、なんというか……。わたしが初めて昼の当番になったとき、そう思ったものだ。
図書室なのに、昼の時間だけは、生徒がゆっくり腰を落ち着けて読書をする雰囲気ではなかった。
その点、自習室は、三年の校舎の隣の棟にあるからかくだんに近い。件の役員の学年までは聞いていないけど、それでも図書室とくらべたら時間的にずっと余裕をもって行って帰ってこられる。
進学校だからなのか、手続きさえちゃんと通しておけば終日希望の時間で利用できるらしいし、ほかに適当な場所を探してへたなところに入りこむより、むしろ効率がいい?
――だからこその、自習室での仮眠。……それもじぶんならまず間違いなく大丈夫だと、まかり通ると見越したうえでの常習。
まったく、αってやつは……。
無論その役員の場合は、ただαだからというだけでなく教師にも生徒たちにも多大な人望があって、それに裏打ちされての尊大ともとれる自負と自信なんだって。
……頭では理解できても、ちょっと、ねえ。
わたし達ふつーのβがそんなマネを繰り返していたら早々に先生から注意されるだろうし、ほかの利用者である生徒からも苦情が出る。
ところが。教科書どおり、いやむしろそれ以上の一部のαたちは、そんなものをはねつけてしまえるのだ。心のうちではαに対し鬱屈する不満を抱えている者がいたとしても、いざ彼らを前にすると、なにも言えなくなってしまう。
αにも、いろんなひとがいるけれど。
彼らは特別なのだ。学校という、こんな狭いコミュニティにおいても。
そして、それは、貴晶も……。
彼と一緒にいればほんのわずかな時間でも――貴晶はわたしにも昔と同じように接してくれる。
成長するにつれ、バース性の分化が身体的にも能力的にもよりはっきりと現れるようになって、子供だったころとは関係性が微妙に変わっていってしまう。そういうケースを、中学、高校と性混在クラスのなかにいてわたしも目にしてきたし、ふつうはそういうものなのだと思うのに。
貴晶はたしかに幼馴染で、でも家族ではない。
ともすれば彼らだからこそ、踏み入ることが認められている場所へも、わたしを引き上げて、なんならその資格が足りなくても、貴晶は連れていこうとしてくれる。
昔と変わっていない。
だから――わたしは勘違いしてはいけないんだ。
何度もそう、じぶんを戒めてきた。
ひとりあれこれとわたしが入口近くの廊下の壁に張りついて葛藤していると、扉が開いた。
「……ふ、ぁああ」
貴晶かと思って、入口に顔を向けたら違った。臙脂のネクタイを締めた三年の男子生徒がふたり、自習室から出てくるところだった。
――α。
不意打ちだった。
いつもは――いつもならある程度まで近くに来たら、気配でそれと気がつくのに。
すっかり気がゆるんでいた。
だって。今日は朝からずっと貴晶と一緒にいて。
さっきまで、貴晶が傍にいたから。
身体が強張る。乾いていた喉が、ひくつくのが気持ち悪い。
そのうちのひとり――廊下に出るなり大きく伸びをしていた生徒と、視線が交わる。
眠そうだった彼の目が、とたんに大きく見開かれた。