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……って、とんでもない  作者: 文音
14/21

転寝 1


 途中で貴晶がくれたフルーツサンドは美味しかった。

 体調のいいときであれば、わたしはお出汁を吸った溶き卵も、少し細めのおうどんも美味しくいただけたと思う。   

 けれど今日は、寝不足からくる体調不良のうえに朝から過剰なストレスのダメージが積み重なって、それがいまだに尾をひいている。


 今朝は鮭雑炊とふだんより軽めのメニューだった。時計の針はとうに正午をまわり、通常ならお腹がすいていてもおかしくない時間なのに、あまり食べたいとは思えない……。

 合間にヨーグルトサラダを口にねじ込みつつも、変化のないうどんの味に、わたしの食べるペースは徐々に落ちてきてしまっていた。


 おまけに、うどんは時間が経つと、伸びる……。せっせと口に運んでいるのに、おつゆのなかで嵩が増した白い麵が、食べた分だけちゃんと減っているように見えないものだから、わたしの身体は味覚だけでなく視覚においても「もう結構」と訴えてきていた。


 そんな具合で、サンドイッチを箸休めと言ってしまうには、意味合いもちょっと違うしだいぶボリュームもあったけど、キウイのすっきりとした酸味が舌への良い刺激となった。生クリームがほどよい甘さと控えめな量だったのにも救われた。


 卵とじうどんは完食とはいかなかった。でもねばって、わたし的にこれくらいなら残っていても許してもらえるかな、というところまで食べきった。

 これで一緒にいるのが弟の悠希だと、わたしが苦戦しているとみるや勝手に手を伸ばしてきて、私の分の食事まで引き受けてしまう。

 さすがに貴晶が学食という衆目の中にいて、そんな真似をしてくるとは思っていない。けれど踏ん切りのつけられないわたしが、あと少しあと少し――といつまでももたもたと食べている間は、前方からいつ声がかかるか、手が出てくるかと気が気ではなかった。



 なんとか食べ終わってほっとして、湯呑み茶碗を手もとに寄せる。食事の終いには、お出汁のきいたおつゆとふやけたうどんの味がしつこくてたまらなくなっていた。それらがまだ口中にまとわりついて残っている。手っ取り早く流してしまいたかった。


 唇に触れる強化磁器の硬質な感触と、ゆっくりと流れてくる冷めたお茶の温度が心地よい。

 ほんのひとくち含んだだけだけど、色の変わりはじめた緑茶の渋みがさっぱりと清々しく感じられた。今度こそ、ほぅっと全身の力が抜けていって、猛烈な眠気が襲ってきた。

 もともとさほど食欲がなかったのに、その割にはけっこうな量を食べた。

 朝から睡眠不足に耐えてきたわたしの身体は、なんとも素直だった。


 ――もう、動きたくない。


 ここは食堂だ。ましてや、今は昼休み中。ここでこのままぼーっと居座り続けるわけにはいかない。

 しかし……眠い。

 目蓋が落ちてくる……。

 こんなところで、寝入ってしまうわけにはいかないのに!


 わたしは最前から、何度もそう自分に言い聞かせている。

 緩慢に瞬きを繰り返すわたしの視界はぼうっとかすんで、強化磁器の円く白い肌に半分ほど残ったお茶が、像を結んだり消えたりしている。

 お茶でも飲んで、それでどうにか目をさまそうと思うのに、わたしの両手は小ぶりなお椀の形をした湯呑み茶碗を包んだきり、ぴくりとも動かない。

 手のひらに当たる茶碗から伝わる冷たさが、ふわふわと今にも飛びそうなわたしの意識をつなぎとめてくれている。気持ちよく沈んでいこうとしているわたしを、もうひとりのわたしが水面から顔を出そうとしているような――落ちそうで……落ちきれない。





 茫洋とした薄明りのなか、眼に映るものの何もないそこを、うつらうつらとさまよう。そんな心もとないわたしの世界に、ふと大きな影がさした。

 届いてきた声が、浮きつ沈みつ……ゆっくりと回り落ちていくひとひらの木の葉のようなわたしの意識を揺り動かす。


「――キ。……仮眠しよう……」


 低く優しく、直接頭に響いてくる。

 注がれるその声は、わたしの耳に、身体の奥深くに、とうに馴染んだものだった。

 ……起きないと――。


 他にもなにか話していたようなのだけど、ほとんどが泡のようにわたしの周りを通り過ぎていってしまって、わたしの意識が拾ったのはこの一部分だけ。

 それでもこの一言で、わたしは、自分がいま学校にいること、お昼を食べていたことを思い出した。


 そういえば、近くでガタガタとした物音を聞いたような気がする。

 緩慢に開いた視界に、湯呑み茶碗と、力なく添えたわたしの手と、白い天板が映る。さらにその先には食堂の椅子の背もたれが――。


 ……あれ?

 わたし、いつ、トレーを返しに行ったんだっけ?



「――起きたか。亜希、早速だが場所を変えるぞ」


 貴晶の低音がすぐ耳もとで聞こえて、正気を取り戻したわたしの上体がびくりと跳ね上がった。

 わたしの耳をかすめて吐息がかかる。でもそれは一瞬のことで、わたしを覆っていた影はすぐさま離れていった。


 咄嗟にかわしたねぇ。貴晶、さすが慣れてる――。

 ……どうにか椅子の低い背もたれに背中がつくまで上体を起こしたものの、頭はまだぼーっとしているらしい。さっきから頭に浮かぶのがこんなことばっかり。

 右手で前髪ごと頭を押さえる。

 

「亜希がいいなら、食堂ここで昼寝も一興だが――」


 ――そんなわけ、あるかぁ。

 涼し気な顔でしれっととぼけた発言をする貴晶に、全力でやけばちにツッコミを入れる。が、わたしの唇は微動だにしない。

 こんな状態で思うにまかせない口を動かすなら、それよりもっと優先すべきことがある。確かめるべきことを聞くために、わたしは乾いて張り付いてしまっている口腔から声を絞り出した。

 

「……どこ? あとどのくらい……時間あるの?」


 ぼやぼやしていたら、ほんとにここで仮眠をする羽目になりかねない。冗談だと思って曖昧に流していたら、意外にも本気だった――という事故ことが過去にもあった。 

 時間くらい自分で腕時計を見て確かめればいいようなものだけど、今のわたしはこの程度の些細なことにも手間取りそうだ。そんな悠長なことをしている余裕はない。

 貴晶が、ここで仮眠を始めてしまう前に――。

 

 ムリに押し出した声はくぐもってしまった。貴晶にちゃんと聞こえなかったかもしれない。わたしはもう一度と、今度こそ明瞭に発声できるように舌で口のなかを舐めようとした。


 ――ふと、空気が柔らかくなった。

 そう感じた次の瞬間には、わたしの右上腕に貴晶の大きな手が添えられていた。


「――行こう」


 微笑つきで、貴晶にくいと持ち上げるように引っ張られる。それだけで、わたしの身体は素直に立ち上がった。

 貴晶の目もとが、懐かしい笑みに縁どられる。

 なんだったろう――と思いを巡らすまでもなく、すぐにわたしは思い出した。


 貴晶が、わたしの家庭教師をしていた頃の――。

 わたしの目もとに、じわじわと熱が集まる。


 深く寝入っていたわけではないとはいえ、寝起きのわたしをあっさりと立たせてみせた貴晶は、わたしの上腕を支えていた手を手首へと移してしっかりと握ってきた。そうして先導するように歩き出す。彼のもう片方の手には、わたしが先ほどまで手にしていた湯呑み茶碗。

 我に返ったわたしの口から言葉がついて出るより早く、


「急ぐぞ。時間がもったいない」


 貴明にそう言われてしまったら、昼食にずいぶん時間をかけたばかりか寝落ちまでして、さんざん彼を待たせてきた自覚のあるわたしは、何も言えなくなってしまった。


「……うん。……ありがと」


 紡いだ声は思いのほか小さく消え入りそうだった。彼の背中にせめてもの感謝の言葉は届いているのか。うかがい知ることはできない。

 艶やかな黒髪と、広い肩と、制服の上からもはっきりとわかる均整のとれた体躯。わたしの幼馴染は、後ろ姿まで隙がなくて格好いい。


 貴晶の背中を目で追うのに夢中になっていたせいか、反応が遅れた。不意に立ち止まった彼の背中に、危うくぶつかるところだった。


「……もうっ、止まるんなら言ってよね」


 思わず口をついて出た文句に、じぶんで戸惑う。

 貴晶に対してだと、わたしけっこう当たりが強いかも――気怠い頭ながらに、甘ったれな自身の態度に後ろめたさを覚える。


 当の貴晶は気にしたふうもなく、出入口近くに設置された自販機の前でこちらを振り返り、差し出してきたペットボトルを、わたしの左手に当ててきた。

 太腿の横、だらりとおろしていた手の甲に。


 ヒヤリ。


 ――ひぁっ!

 その冷たい感触に、ゆるみきっていたわたしの身体が情けないほど縮み上がる。

 ――ぜぇったい、ワザとだ、これ。

 おかげで束の間とはいえ、諸々クリアになった。そんな気がするくらい衝撃だった。


 貴晶相手に、油断したー……忘れてたよ。

 貴晶ってば、案外そうだった。めっきりと大人びて、今ではちょっと見たカンジそんなことしなさそうに見えるけど。こういうところ変わってないんだ。

 驚きつつも、ちょっぴり子供っぽい貴晶の行為がむずがゆい。


 飲みきりサイズのほうじ茶の入ったペットボトルを手のひらにあてがわれる。

 わたしに持て――ってこと?

 浸っていた思い出から引き戻され、見上げるほどにすっかり体格のよくなった幼馴染みの顔を見やる。

 そうしながらもわたしの手はほとんど無意識にペットボトルをつかんでいて、わたしが受け取ったのを確認した貴晶はさっと前を向いてしまった。表情はよく見えなかったけれど、どうやらそれで合っていたらしいとわたしが思う間に、貴晶が再び歩き出す。



 いまは――歩けば歩くほど、わたし達の距離が離れていってしまうことはない。同じ間隔を保ったまま。

 彼の背中に置いていかれたくなくて、ついていきたくて、わたしは懸命に足を運ぶ。

 わたし達が二人きりで通学しているときの、大通りについてしまうまで二人で歩いているペースよりははやや早めだけど、貴晶が手首をつかんでくれているのだから、わたしだけが取り残されてしまうことれなんてない。

 けれど、そうだとわかっていても。


 制服越しでも伝わってくる貴晶の熱が、手首から腕へだんだんと広がっていってる。

 貴晶に引っ張られているわたしの右手はじんわり温かいのに、左手はまだひんやりとしていて……。



 食堂を出て廊下を、教室のある別棟の校舎への渡り廊下のある方向へと進む。渡り廊下の手前、二階へと続く階段にさしかかったところで、貴晶の足が止まった。

 貴晶が誰もいない階段を見上げて、こちらを振り返る。


 ――え? この上って……。


 この階段を、踊り場で折り返して上がっていった先にある場所、そこにある部屋は、学食以上にわたしには縁遠いところだった。

 それよりなにより、仮眠とその場所とが結びつかない。

 もしかしてわたしの記憶違い? それとも、わたしが知らないだけで、以前とは変わってる?


 呆けたように突っ立って、わたしは階段を見上げる。

 昼下がりの眩い光に、突き当りの壁にある四角い窓が白くけぶって見える。


 階段の一段目に片足をかけて立ち止まり、わたしの斜め上から貴晶がこちらを見つめているのに、わたしは気づいていなかった。

 右手が、貴晶の温かい手に下から掬いあげられる。


「行こう、亜希」



 ――子供のころ、いつもそうしていた。

 貴晶が、わたしを誘うとき。

 いまも、ごく自然にそうされて……わたしも……。

 ゆるく握りこまれた手のひらを、くいっと引っ張られる。


 それが、合図だった。

 彼がつれていってくれるところなら、それがたとえ知らない場所であったとしても、幼いわたしは導かれるままついていった。

 いまも、引き寄せられるように、身体が彼のあとをついていこうとしている。


 そっと力をこめて、わたしからも貴晶の手のひらをを握り返す。


 そうして――。

 一歩一歩、彼とともに手をつないで、わたしは階段を上がっていった。


 

 


 

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