学生食堂
学食のなんの変哲もないきつねうどんを、貴晶が目の前ですすっている。
いや。貴晶が昼にうどんを食べようが、海鮮サラダを食べようが、フルーツサンドをつまもうが……なにを食そうが本人の自由だし、なんら、おかしなことではない。しかしわたしは、貴晶がこのメニューを選んだときから密かに抱いていた違和感をずっとぬぐえずにいる。
貴晶が食事をはじめて、それはますますわたしのなかで顕著になっていった。
貴晶の濡れて紅みを増した唇に、白く細長い麵がずずっと音をたてて滑るように消えていく。
およそとりたてて好物というわけでもないだろうきつねうどんを、貴晶のような真正の美形がなんの感慨もない表情をして。その上こんな、どう贔屓目に聞いてもお上品とはいえない音をさせている光景を、間近で見ている……。
なんだろう。この、不思議なものを見てしまっている感。もっと突きつめて言えば、見てはいけないものを見てしまっているような……。このなかなかお目にかかれない場面を特等席で見物できているのも、わたしが貴晶の幼馴染だからで、こんな思いにとらわれていること自体がどうかしている?
わたしだって、なにも子供のころからの幼馴染に幻想を抱いているつもりはないのだけれど。
ただ最近は、こうして貴晶と面と向かって食事の場をともにするような機会がめっきり減ってしまっていたせいで、こんな目の醒めるような美形に成長した彼がうどんを食べている、その絵面と音のギャップに、戸惑いを覚えてしまっている。
見ず知らずのお嬢様が――というならともかく、幼馴染にたいして、なんでわたしこんなふうに困惑してしまっているのだろう……。
それに――と、妙な気分に引っ張られて落ち着かない自分を誤魔化すように、気になっていた別の事柄についても思いを巡らす。
貴晶ったら、うどんの他にもなにかしら腹の足しになるものを頼むだろうと思っていたのに、まさかのサラダとサンドイッチだけ。
それだけで足りるのかと券売機から出てきた食券を手にした貴晶の姿をまじまじと眺めていたら、逆にわたしのほうが卵とじうどんだけでいいのかと訊かれてしまった。それでわたしも、追加でヨーグルトサラダをチョイス。
でもって。テーブルについてすぐ、貴晶がわたしのヨーグルトサラダのお皿の端っこに自分のサラダのなかからエビを二尾置いてわけてくれたので、わたしもキャベツとりんごとキュウリを少しお返しした。
昨日の夕食で、貴晶にお鍋の具を取り分けてもらったこともあって、咄嗟に手が動いてしまったけど……学校でこういうおかずを分け合ったりとか、わたし女子としか、高校生になってからは美雪ちゃんとしかしていない。
わたしは入学以来お昼はもっぱらお弁当で、二年余りも無欠席で通っていて、学食ですませたことは片手で数えられる程度と少ない。
美雪ちゃんとはずっと同じクラスで、親しくなった彼女と一緒にお昼を食べるようになってからは、なおのこと機会が減った。
美雪ちゃんのお弁当は、控えめな量ながら栄養バランスのいいお料理がセンスよく盛り付けられている。見るからに美味しそうで、わたしも毎日今日はどんなお弁当なんだろうと、自分のお弁当箱だけでなく美幸ちゃんのぶんまで、蓋を開ける瞬間のワクワクを楽しみにしていた。
それでもっておかずにお互いの好物を見つけると、ふたりで分け合ったりして……。
美雪ちゃんのは、どれもほんとに美味しいんだよね。
そんなだから、なにもわざわざお金を払って、学食のお料理で昼食を、なんて考えもしなかった。
美雪ちゃんがお弁当を自分でつくっていると聞いた当初は、「たまには学食行ってみる?」って誘ってみたことも幾度かあった。でも、それってわたしがヘンに気を回しただけだったみたいで。
わたしにしても、大勢の見知らぬ生徒がひとところに集まって食事をとる――美雪ちゃんには黙っていたけど、その喧噪が苦手だったという事情があり……。
結局わたし達はいつもの通り、教室でひとつの机に向かい合うように座って、お弁当を並べていた。
だからたまたまわたしは、学食にご縁がなかった。
一方で、貴晶や片桐君たちが月に何度かは食べに行っているらしいとは、目立つ彼らの姿が昼休みに教室から消えていることから知っていた。
わたしは久々に訪れた我が校の学食を、券売機と料理の受け取りまでの待ち時間の間に、貴晶からちょっとだけ距離を置いて、さも彼の連れではないかのように装って、きょろきょろと観察していた。
そうでもしていないと――今朝のこともあって、わたし達に注がれる周囲の視線にとても耐えられなかった。
食堂の高さのある天井や丸い柱、木目調の床に長卓や椅子など、全体に白とアイボリーを基調にした配色でまとめられた室内は、開放的な雰囲気にあふれている。
出入り口の反対側の壁が校庭に面しており、とりわけ窓を大きく切っているため今日のようにお天気のいい昼間は陽射しが差し込んで、窓際の席は照明に頼らずともとても明るい。
片側に三脚ずつの椅子が並んだ長卓は、配膳カウンターと平行に、縦並びに窓際と中央と廊下側の三列に通路をはさんで配されている。
定番メニューを中心にトータルの品数はそこまで多いとはいえないものの、料理ごとにバリエーションがあり、季節限定メニューもあって変化も楽しめる。個人の嗜好にもよるがまあまあ万人受けのする味で、値段もお手頃だから利用している生徒も多い――という評判だ。
なのに――貴晶とわたしの両隣の席は、なぜか空いている。
食堂内のテーブルは、ほぼ埋まっている。
偶然、人の入れ替わりで空いているのではない。わたし達がここに座ってから、誰も来ない。もう何人も空席を探している生徒がこちらを見ていくのだけど、他に座れる席はないかと通り過ぎていってしまう。
これはいったい、どういうこと?
わたし達、食堂でも腫物扱い、されている?
αである貴晶はともかくとして。
まず間違いなく、昨日までその他大勢のβとして学生達のなかに埋没していたはずのわたしにも、これは確実に累が及んでいる。本来、彼らに気を遣われる対象でもなんでもないわたしの横ですら、ここまで徹底して避けていかれるなんて。
周囲から盗み見られている状況下で、αを相手におかずをもらうだけでもよっぽどのことであるのに、ましてやわたしのほうからαにあげるって――これってもしかしなくてもマズカッタのでは、という気がしてきた。
わたし達が幼馴染だって知らない人達もいる場所で、明らかにやらかしたっぽい。
わたしがエビを好きだって、貴晶が知っていてくれたのだと思ったから、わたしもなにか貴晶に――と考えてしまった。
学校ではふだん接触しないようにしていたから、いざ一緒に行動するとなると、ふとした拍子についポロっと出てしまう。
「わたし達、じつはけっこう仲が良いんです」――まったく! 今朝ので印象づけてしまったイメージを、さらに上塗りしてどうするの。
そもそも学食に来るまでの間も、わたし達は注目されていた。
貴晶に皆の視線が集まるのはいつものこと。平気な顔をして歩いていく貴晶の後ろをついていくわたしは、行き交う生徒たちの好奇の目に晒された。
その視線の意味するところに思いっきり心当たりのあるわたしは、もう居たたまれなくて! 「できるものなら逃げ出したい」とずーーーーっと考えながら、俯いて前を行く貴晶の足元だけを見て歩いていた。
どうして逃げなかったかって。そんなの――そんな素振りでも見せようものなら勘のいい貴晶に気づかれて、わたしが逃げないように腕をつかまれるくらいですめばいいけど……すまなかったときのことを、つい想像してしまったからに他ならない。
悠希ほどではないにしろ、貴晶も、こういうときのαは空気を読まない。
いや、わかっていてのあえての無視。なおさらタチが悪い。
よって。わたしには、大人しく連行されていくしか道がなかった。
ふわり。
鼻腔をくすぐる微かな匂い。ほのかな香りながら、物思いに沈んでいたわたしの嗅覚から、それはダイレクトに脳へと届く刺激となって――その芳しい香りに、わたしは現実へと引き戻された。
匂いのする方へと目を向けると、箸をとめた貴晶の瞳がじっとこちらを見つめている。
「呼んでも返事がなかった。食事もすすんでいないし……」
「あ。ちょっと考え事してた」
「……食べられそうか?」
「うん。……ありがと。大丈夫だから。心配かけたみたいでごめん」
「それならいい。ゆっくり食べろ」
「……うん」
貴晶の眼から逃れるように、わたしはそそくさと丼に視線を落とした。
わたしは何気なくつまんだうどんを一度、丼にもどした。そして少量だけを箸でつまんで、慎重に口へと運ぶ。つるつるとできるかぎり音をたてないようにして。
――緊張する。とても味わってなんていられない。こんなことなら、サンドイッチのほうがよかったかもしれない。
目の前にいる貴晶を、意識せずにはいられない。さっきから貴晶の匂いが漂ってきている。
ごくわずかにだけど、それでも否応なく貴晶がわたしのすぐ傍にいてわたしを見ているのだと――貴晶の姿を直接目にしていなくても、そうわたしが確信してしまえるくらいには、彼の匂いがわたしの知覚に訴えてくる。
話しかけられていたのに、わたしが上の空でちっとも聞いていなかったのが面白くなかったのだろうか。
貴晶も、αだもんなぁ。プライドにさわったのかも。
これだけ多くの生徒が集まっているところで、Ωの生徒も紛れ込んでいるかもしれないのに、微量とはいえこんな甘い匂いを垂れ流しにして。
αはΩの匂いに敏感だっていうし、美雪ちゃんもそれとなくだけど、αだろう生徒の動向を気にしているふうだった。
ということは、逆もまた然りなんじゃないだろうか。βのわたしなんかよりずっと――。
……ん?
こんな、甘い、匂い?
貴晶……。
そういえば配膳カウンターでも、同じ匂いをさせていたよね。
食券の番号が表示されて出来上がった昼食を受け取りに行ったとき、カウンターのあたりはいろんな料理のニオイが混じっていて。
思わずわたしが鼻を覆って立ち止まったら、不意に薫ってきた。
貴晶の放つ芳香が、立ち尽くしているわたしの鼻どころかすべての器官に入り込み、すき間なく浸して満ちていくような不思議な感覚に包まれた。
彼の匂いに閉め出されてか、イヤだった他のニオイや雑音がそんなに気にならなくなっていた。
どくん、と心臓が鳴った。
――その匂いって、ほんとうに貴晶の体臭なの?
体温が上がって、ニオイがきつくなったりはあるかもしれない。
今日は、貴晶が不調だから、朝わたしを抱えてあんなに歩いて、最後には走っていたから――ニオイが濃くなっている?
でも。今日いちにちだけでも、何回あった?
どうして、今まで、気づかなかった?
貴晶の体臭を嗅ぎ取れるほどのすぐ傍に、彼とわたしがいるからなのだと、ずっとそう思いこんでいた。
……至近距離に貴晶がいる状態で、わたしが常にこの匂いを感じていたわけではないという事実を、今になってようやく悟って愕然とする。
美雪ちゃんが、頑なに食堂を利用しようとしなかったのも。
……αは、自分の意志で――。
わたしが安堵して、ともすれば甘えてしまいたい衝動すら覚える、あの匂い。
それって、貴晶の体臭だけではなかった?
βでも、Ωのフェロモンに惹き寄せられることがある、と聞いてはいるけれど……。
――なんで?
よくわからない。そういうのって、βのわたしには関係のないことだと思っていた。
身のうちを、冷たいものがおりてくる。
――そうじゃない……。
αに囲まれた環境で、だからこそαのこういう部分には、もとより自分に具わっていないものなのだから、知る必要がないものと決めつけて――わたしはそう思い込もうとして、ことさらに触れないようにしてきた。だから、漠然とした知識しかわたしにはない。
αでもΩでもなく、たとえフェロモンの影響を受けることが少ないとされるβであったとしても、一般的な常識として知り得ていて当然のことでさえ、たぶんわたしはわかっていない。
匂いがしたりしなかったり、微かだったり強かったり。
どれも、さながらわたしの様子を見計らったみたいなタイミングで。……βのわたしにも、これだけの影響を与えて。
そんなことができるなんて、まるで――。
ぞくりと、頭の芯が凍る。ずきりとした痛みを覚えたのは、ほんの一瞬。
くらり。
忽ちに濃度を増した芳しい匂いが、鼻の粘膜どころか表皮を通しても伝わってくる。
わたしは抗う術もなく麻酔を投与された患者のように、とろんとなった頭を垂れた。力をなくしたわたしの右手が取り落とした箸の転がる先に、伸びてきた手。
「亜希」
大好きなはずの貴晶の低い声に思いっきりびくついて、そんな自分に驚いてしまった。
貴晶の匂いは変わらずに優しくわたしの周囲を取り巻いていて。その心地の良さに、わたしはなにもかも放り出して逃げ込んでしまいたくなる。
「……それ。やめて」
貴晶の手のひらのなかで、わたしはぎゅっと右手を握りこんだ。
「……亜希?」
「その、匂い……」
彼の匂いの正体を言い表すに最も適切な単語を用いようとしたけれど、わたしはそれを言葉にして紡ぐことができなかった。
貴晶の体温も、しっとりとたゆたうその香りも、どこまでも温かくて……。
なんとなく――なんだか少し獣じみていて、貴晶に対してつかうには抵抗があった。
「なんか、だんだん強くなってきている気がする。……ここは食堂だよ。ひとがいっぱいいるのに――」
「ああ。それなら問題はない」
明確に「なにが」と言葉にしなくても、貴晶はきちんと受け止めたようだった。心なしか匂いがすこし薄まったように感じる。
やっぱり……αは、コントロールできるんだ?
貴晶がいまどんな表情をしているのか、怖くて顔を上げられない。彼の深みのある低音が、今は底の知れない余韻を伴って聞こえてくる。
昏い気持ちになって、そんな気分を振り切りたくて、わたしはさらに言い募ろうとした。
「だって、他にも誰か――」
「亜希が気にすることはない。――それより、うどん食べられそうにないなら、これも食べてみるか?」
テーブルに落としていた視線の先に差し出されたフルーツサンドからは、ほのかにイチゴとキウイの爽やかな香りがした。
「……ありがとう」
食べ物で、いともたやすく釣られるわたし……。
自嘲まじりの笑みを浮かべて、貴晶から花やかな色彩をしたサンドイッチを受け取る。
ちらりとうかがった貴晶の表情はいつもの幼馴染のもので――わたしはほっとして、それがたまらなく嬉しかった。
踏み込んではいけない領域に、わたしは不用意に立ち入るところだった。その迂闊さに身震いがする。
きっと、碌なことにはならない。そんな予感がしてならない。
それ故に、感情的になったわたしの非難めいた話を、貴晶が一方的に終止符を打ってきても――わたしはありがたく受け入れることにしたのだった。