約束
……なんか、もう。
悠希の高校も休憩時間なのか。
すぐさま返ってきたメールの内容に、意味もなく笑ってしまう。
悠希が高校入学と同時に寮生活となり、離れて暮らすようになって、三ヶ月余り。
αばかりの高校ってだけでも大変そうなのに、見ず知らずのαとの共同生活なんて気が休まらないのではないだろうか? 寮ではどのくらいの生徒が寄宿しているのかわからないけれど、上級生と顔を合わせる機会は学校にいるときよりも確実に多くなるはず。悠希がある程度生活のペースをつかめるようになるまでは、寮に帰ってから過ごす時間のほうが神経をつかうことになっていそうだ。
寮則も学校のイメージからして、なんとなく厳格そうだし。
悠希は、わたしなんかよりよっぽど要領のいい弟だから、きっとうまくやっているとは思うけれど。それでもしばらくは自分のことで手一杯なのではないか――。
姉弟といってももうお互い高校生だし、悠希が環境の変化に慣れて落ち着くまでは――とこうしたやり取りは、ほとんどしていなかった。何度か携帯を手にしたことはあったけれど、母さんが定期的に連絡をとっていたから、それでだいたいの近況もわかっていたし。
まだいいいかな、と思い直しては途中までタップしていた画面をそのままに、携帯を握る手だけを視界からはずして。
エリート校に進んでも、悠希は悠希だ。
一緒に暮らしているときには、たまにうっとうしいと思うことさえあったというのに、たった三ヶ月離れていただけで、わたしは早くも弟の存在が懐かしくなっている。
子供のころから、わたしに対しては小生意気でえらそうだった、自慢の弟。
今朝までこれといった連絡も、わたしには寄越してこなかったくせに。
こんな一方的な、それも「なんなんだ、これは?」と呆れてしまうような短い文が並んだメールを立て続けに送り付けてきて。
心配しているにしても、いささか……ううん、かなり度を越している。
わたし達の姉弟関係が、βの一般家庭の級友たちの感覚からすると、どうやら「ずれている」らしいってことは学習済。
――なんだけど。
ご無沙汰だった弟からの、久しぶりのメール。
わたしにはなにかと口やかましい弟が、感情のままに書き連ねたほんの十行ほどの簡単な言葉。わたしはそれを、ただ受け取っただけだというのに。
――わたしときたら。
文面だけで十二分に伝わってくる、弟の相変わらずな様子に、ほっとしている自分がいる。
気がゆるんだからか、携帯の画面の文字がだんだんぼやけて見えてくる。輪郭もおぼろげとなった画面の向こうから、声だけでなく屈託なく笑う弟の顔まで浮かんできた。
寝不足が、きてるなー。すっごく眠くなってきた。
膝の上においた手から、携帯が滑り落ちていく感覚があった。
――あ。と思ったけど、身体が動かない。硬い椅子にわたしの身体が、まるで沈みこんでいるみたいに重い。
曖昧になっていく五感……それでもかすかに、わたしのすぐ右横でなにかが動いた気配を察した。
「……悠希。帰ってくるのか」
ぼそりと聞こえた声に、重たい瞼をあげる。
「……うん。みたいだね」
自分でも呆れるくらい、寝ぼけた声がこぼれてしまった。
――寝落ちしていたの、まるわかり……。
けれど、それについて、彼はなにも言ってこない。
ぼうっとした視界のピントがゆっくりと合っていく。目の前に、ついさっき自分が落とした携帯をかざされていることに気がついたわたしは、机の下からのろのろと右腕を伸ばして受け取ろうとした。
その手首を、貴晶が掴む。
そっと加えられた力に、わたしの手首から先が回転する。天井を向いた手のひらの上に、固く冷たい物の感触があって、その重みを感じる前に、携帯ごとわたしの手は貴晶の手に握りこまれていた。
その一連の動作をぼーっと受け入れていたわたしの意識は、右手に触れている貴晶の指の温度によって覚醒した。
「――ちょっ……」
ここは教室だっていうのに。クラスメイトもいる前で、なにやってくれてるの?
貴晶の手を振りほどこうとして。
う、動かない。
抗議の意志をこめて見上げれば、聞き分けのない子供をあやすような眼差しをした貴晶が、わたしを見下ろしている。
「スマホ、拾ってくれてありがと。……で、その手を――」
「手が冷えてるな」
わたしの話を最後まで聞くことなく、貴晶が言葉をかぶせてきた。
その低く抑揚のない声音にたじろぐ。
え。――え? 貴晶、不機嫌?
目を瞬いて見つめなおした貴晶の瞳は、まるで底の見えない湖面をのぞいているかのように物静かで――。
なんで?
いくらわたしが貴晶の幼馴染でも、感情が読めないときの彼は正直あまり相手にしたくない。貴晶はなまじ造形が整いすぎているだけに、そうじゃないってわかっていても、表情が無いとちょっと冷淡に見えるときがある。冷たさ何割増しかの美麗な仮面を被ってしまった貴晶は、わたしの手には余るのだ。
眼と眼を合わせたまま、どうしようと考えるけど、貴晶の硬い眼差しに、己の器官であるはずの眼球どころか脳みそまでも釘付けにされてしまった。
ひどく緩慢に感じられる時間を刻むくらいしか、頭が働いてくれていない。
するりと、貴晶がわたしの右手の甲へと、手を滑らせる。
携帯越しではない。下から貴晶の大きな手に、わたしの手が直接包まれて。
温かくて、大きくて……心地いい。
――じゃなくて!
これもそれも、わたしの体調が悪いせいなの? どうも最近、低血圧のわたしよりも高い貴晶の体温に、絆されやすくなってない?
目を覚ませ、わたし。
思い切って、右手を自分のほうに引き寄せようと試みるも――。
わかってますよ。貴晶の力にかなうはずないってことくらい。
憮然とするわたしの机の正面に、貴晶が回りこんでくる。ちょうどわたしのひとつ前の席の女子が休憩時間で教室にいないのをいいことに、椅子をひいて長い脚でまたがるようにして腰をおろした。
貴晶が今腰かけている席の生徒は、女子としては平均的な身長と体格の子だ。なので授業中その彼女の背中をながめているわたしの眼に、男子の、しかもαである貴晶の身体は圧迫感がある。
貴晶自体は見慣れているし、さっきみたいな近すぎる接触もたまに――昨日から一気に増えたのはこの際おいといて――あったりするんだけど、この状態では新鮮というか。ずいぶんと背もたれが小さく見える。
まぁ。女の子と比べるほうがどうかしてる……。
どうか、している……。
――ダメだ。
これはわたし、寝起きとほぼ変わらない状態に陥ってない? さっきから思考がふらふらと現実と夢の境をさまよっていて、どうにも焦点が合っていないような。
でもってこんな心もとない自分をもてあましているところに、後ろ向きに座って背もたれに寄りかかるようにしている貴晶が、まともに視線を絡めてくる。
――やばい。
なにがやばいのか、咄嗟に浮かんだ考えに答えなんかない。それについて思料する余裕などもない。ただ不意にそう思ってしまったのを誤魔化そうと、眼に力をこめようとしてみるも上手くいかない。
そういえば、制服姿の貴晶と教室でこんなふうに話したことなんてなかったな。
……。
もうね、集中力の欠如もここまでくると。
貴晶に正面切って近づいてこられると、どうして毎度、こうもわたしはぐだぐだになるのだろう。また思考が、明後日の方向に飛んでいってしまっている。
しかもわたしの机に身を乗り出して、貴晶の眼が正面からわたしを見据えてくるものだから――。
こんなどうしようもなくなっている自分を貴晶に見透かされているみたいで、落ち着かない。
わたしの右手は、変わらず貴晶に握られていて。
……なんだろう、いったい。
そう内心でわたしが首を傾げたときに、貴晶の形のいい唇が動いた。わたしにしか聞こえない小声で囁く。
「俺もおまえも、今日は本調子じゃない」
確かに。わたしだけでなく、貴晶も昨夜は寝不足だったとこぼしていた。
「だから、もう今日は、亜希の傍にいることにした」
「……はい?」
思わず声が裏返ってしまった。
寝不足だから、一緒にいる。
なんで?
そのふたつが、どう結びつくのかがわからない。
「お母さん達に、頼まれたから?」
自分なりにそれらしい理由をさぐって、貴晶に問いかける。
貴俊さんほどではないにしろ、貴晶もこういう部分は律儀だから。スマホと一緒にわたしの意識が落ちかけていたのを見て、心配させてしまったんだろうなぁ。
で、こんな調子のわたしが万一その辺でぶっ倒れたりしないよう、なにかあればすぐさまフォローするために、最初からわたしにくっついていようってことなのかな。
すると即座に返事があった。
「それもある」
「だったら、もうじゅうぶんだよ」
あんなにヘロヘロだったわたしが、貴晶のおかげで、遅刻もせずにちゃんと学校に来られて、授業にも参加できてる。
「わたし家を出たときに比べたら、これでもけっこう調子上向いているし。スマホ落としちゃったのは、休憩時間になってちょっとぼんやりしてしまったからで、ふつうにしていれば大丈夫だと思う。それに貴――和泉君のほうが、よっぽど疲れているでしょう? 今わたしがこうしていられるってだけでも、和泉君には感謝しかないのに――」
貴晶が、わずかに眼を眇める。
「……貴晶にラクさせてもらっておいて、これ以上は――」
「そういう問題じゃない」
「だって……」
「俺が亜希の傍にいると言っているのは、なにもおまえのために、というだけじゃない」
「お母さん達のことなら――」
「――亜希」
わたしの手を握る貴晶の手に、力がこもる。
真っ直ぐにわたしを射抜く貴明の瞳に、たじろいでしまう。
わたしと貴晶は、子供のころからの幼馴染なのに。
子供のころのわたし達は、今ここでこうしている距離よりももっと近くで――こんなこと、いくらでもあったろうに。
なのに。
その、どれとも違う。
「とにかく――」
わたしの緊張を感じ取ったのか、ふっと貴晶の眼もとが柔らかくなる。
「俺が、亜希と離れていたくないだけだ」
…………。
もう、なんと言って返したらいいのかわからない。
――今朝、家でお父さんがこれでもか! と貴晶を威圧していた。
お母さんも実家にいたころは、いかにもな『二つ名』で呼ばれてたりしたらしいし……わたしにはわからない部分で、同じα性の貴晶には脅威? ……だったりして。
あのうちの両親を前にして、そのときは意外と平気そうにしているように見えていたけど。
いかな貴晶でも、相当プレッシャーを受けていたのね……。
こんな泣き言を、貴晶がわたしに話してきかせるだなんて。
わたしの耳に入ってきた言葉が俄かには信じられなくて、何度も反芻していた。
息を吞むくらい驚いたし、聞いてもよかったのかなという戸惑いと、どこかくすぐったいような感情とが交錯して――申し訳なくって、切なくて。
……わたしのとばっちりで。貴晶、ほんとにごめんなさい……。
「――今日は特に。だからおまえは気にするな」
『特に』って。
その言い方が、逆に気になる。
負い目があるぶん、なおさらわたしも、簡単には引き下がれない。
「……片桐君達は? 休憩時間は、貴晶、いつも片桐君と一緒に行動していたよね」
「片桐には、もう話してある」
――なにを?
訊こうとして、言葉に出すのをためらってしまった。貴晶の口から、わたしの大好きな低音で、淡々と淀みなく伝えられた台詞の数々が、今になって無性に恥ずかしくなってきた。
上げていた顔がだんだん熱くなって、下を向いていってしまう。貴晶の手に包まれたわたしの手のなかの携帯が、なにやら湿っぽくなっている。
たまらず吐き出した一言は、なんとも情けないものだった。
「……やめてほしい……」
そんなことを、片桐君にわざわざ宣言してきたというのか。
その上で、ここで、こうしていると?
面食らって俯いていた顔を、恐る恐ると戻してみる。あらためて見上げた貴晶の顔は平然としていて、唖然としてしまう。
ぎこちなく片桐君の席のある方向に目を向ければ、彼のほうでもこちらを見ていて。片桐君の手が軽く挙がり、頷かれてしまった。
――って。え? ……なに、その首肯の意味するところは?
それどころか、わたし達――クラス中の注目を集めている!
片桐君とその周囲に集まっている男子たちは、わたしの視線を受け止めても落ち着いた反応だったけど、その他の生徒達が……。
みんな一様にギョッとしたあと、あからさまに眼をそらしたり、隣にいる友人たちと額がくっつくんじゃないかってくらい顔をつきあわせて、チラチラと眼だけを動かしてこちらの様子をうかがっていたり……。
完全に、腫物扱いされている――。
絶句して固まるわたしの耳に、勇者貴晶がさらなる追い打ちをかけてきた。
「それと――亜希。今日は弁当、持ってきていないだろ?」
「う……ん。学食で、おうどんでも食べようかと思って……」
お母さんに朝、お弁当はいらないって断ったんだよね。
それでもって、この流れは。
もしや……。
そういえば貴晶の鞄、今日の授業で使うものと、ぎりぎりこれだけは要るかな、というものしか詰めてこなかったわたしの鞄よりも軽かった。
「俺も、今日は学食で食べるから」
……やっぱり。
もうすでにわたしは頭を抱えたくなっていたのだけど、貴晶の攻勢は、これだけでは終わらなかった。
「昼は、俺達ふたりで食べよう」
「えっ。ふたり? 片桐君達は?」
「話してあるって言ったろう」
しれっと、さも当たり前のような顔をして貴晶は言うけれど。反論があるなんて、微塵も思ってもいないような口振りで。
……流されてはいけない。不用意な発言をしてうっかり同意と勘違いされたら、取返しのつかないことになる。
働け、わたしの頭脳。
これまでの経緯を整理して……。
――あれ?
これと似たような状況が、つい最近もあったような……。
当事者であるわたしのあずかり知らない間に、関係者同士で話はついていて――もうすでに『決定事項』になっている。
…………。
ということは?
――えぇえええぇええーー!
ふ、ふたりって。
もしかしなくても。わたし達ふたりだけで、学食に行くの?
貴晶ってば、クラスの中だけでなく、学食でまで、わたし達が幼馴染で高三となった今もなお近しい間柄にあるって、オープンにするつもりなの?
「い……ぃい。いや。いいよ」
わたしは力なく微笑んで、わたしにとっては有難迷惑でしかなさそうな提案を、謹んで辞退したいと、貴晶に理由も添えてきちんと伝えることにする。
『病院行き』は、我が家だけの問題だけど、これは違う。
わたしの平穏な高校生活をこれ以上脅かされないために、たとえ貴晶が相手でも、ここは踏ん張らないと!
「わたしそこまで食欲ないし。貴晶は男だし、ガッツリ食べたい派でしょ? わたし今日はちょっと、そういうの……見ているのもキツイかもしれない」
気遣ってもらっておいて、これはずいぶんな言い草かもしれないけれど。でも目と鼻の先で、たとえばカツカレー定食とか食べられたら、今日のわたしはそのニオイだけで胸やけしそうな気がする。
諸々の不調の根本的な原因が寝不足にあることがはっきりしているだけに、学校にいる間の劇的な回復は望めそうにないわけで。
これなら説得力もあるし、貴晶に引き下がってもらえるだろうと淡い期待を抱いたわたしは甘かった。ここまで長い時間、貴晶と会話をするのは久々で、わたしはすっかり忘れていたのだ。
貴晶が、そんな生易しい幼馴染ではなかったことを。
「――そうか。それなら俺も、今日の昼飯はうどんにしよう」
「は? そんな無理しないでいいよ。貴晶、それじゃぜんぜん足りないでしょ?」
予想もしていない展開に、わたしは早くも足をすくわれそうになりながら、それでもなんとか踏みとどまる。
わたしのせいで、貴晶は朝からとんでもない重労働をしている。
悠希と同様に、貴晶も普段からけっこう食べるはず。学食のうどん程度では、彼のこの立派に成長した肉体を維持するエネルギーどころか、消耗してしまった分を補うのにも、とうてい不足だろう。
「わたしに構わないで、誰かほかのお友達としっかり栄養のあるものを摂ったほうがいいって。わたしなら平気だよ」
これで難敵を、どうにか押し返すことができたかと安堵する暇もなく、
「腹いっぱい食べたのでは、眠くなるかもしれない」
「……あー」
それはあるかも。睡眠不足とか関係なく、午後の授業の科目や授業内容によっては睡魔に襲われてものすごくつらいときがある。
今日は……英語と古典って。サイアクだわ、これ。
「決まりだな」
わたしの考えていそうなことなど、まるでわかっていたかのような良い笑顔で、わたしはまんまと貴晶に言いくるめられてしまっていた。
「それで時間があれば、どこかで仮眠でもするか」
「――っ」
なっ。なんだって?
貴晶の、今日何度目になるかもはや覚えていない思いもよらない台詞に、わたしはまたしてもフリーズする。
……仮眠。どこか……。
――って、どこでよっ?
学校で仮眠……それって要は居眠り、だよね。ごくありふれたところでは、教室で机に突っ伏して……とか。
一度寝てしまったらなかなか起き上がれない。まして寝起きもよくないわたしには、学校で睡眠をとろうなんて発想がそもそもなかった。
寝場所として適当なところ――そういう観点で今まで校内を見てまわったことのないわたしには、それくらいしか思い浮かばない。
他に適当な場所なんて。
まさか保健室……ってことはないよねぇ。
昨日の保健室での出来事が、鮮明によみがえってくる。
明石先生のあわてた顔。
田所先生の後ろ姿。
目が覚めたら、ベッドの端に貴晶が座っていて……貴晶の髪から微かな汗の臭いと、シャツからは制汗剤の香りがして――。
それから……。
いくらなんでも。昼寝目的でそれはない、と首を振る。
いつしか彼の手がわたしの手の甲をひと撫でして離れていったのも、目の前の椅子に貴晶と入れ違いにその席の女子が座ったことにも、わたしは気がついていなかった。