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……って、とんでもない  作者: 文音
11/21

登校 4


 朝の空気を震わせて、壮麗なチャイムの音が澄み切った蒼空に響き渡る。

 わたし達は予鈴が鳴り始めると同時に、門をくぐり校内に駆け込んだ。

 凄い! 貴晶。どうにか間に合った!


 今朝はひどい寝不足に加え、「明後日の病院行き」が確定したストレスが致命傷となったわたしの足は、学校までの道のりの半ばも行かないうちに、止まりそうになることが幾度もあった。で、途中からは痺れをきらした貴晶が、普通の高校生ならまず思い付きもしないし、ましてや実行不可能な方法――すなわち、わたしを片腕で抱っこするという力業――で学校まで連れてきてくれた。

 そもそもいつもより家を出た時間が遅かったうえに、わたしがモタモタしたからずいぶんと時間が押してしまって。貴晶だけでなく、片桐君まで巻き添えにして遅刻するんじゃないか! と危ぶむほどだったのに。


 貴晶のおかげで、滑り込みだったけどわたし達は、彼の狙いどおり本鈴どころか予鈴に間に合った。

 これで貴晶も他の風紀委員たちの手前、無事に面目を保つことができたみたいだし。

 ただやっぱりというか、すれ違いざまに見やった、この場に居合わせた風紀委員をはじめとする皆さんの目が驚きに見開かれていて――。

 朝の挨拶運動で立っているはずの、彼らの誰からもそれらしい声がかかってこない。思わず漏れたのだろう戸惑いを含んだ呟きが、ちらほらとさざ波のように聞こえてくるだけ。


「……ちょっと?」

「……すげぇ」

「なに? どういうこと?」

「……なんで、和泉先輩が? 女の子抱えてるの?」

「あの女子って……」

「片桐君も一緒って?」


 そして周囲を気にするあまり、いつになく神経を研ぎ澄ましていたわたしの耳は、波が引くように消えていったその全ての声を掬い取ってしまっていて。

 けれどそうした外野の声など意に介していないのか、わたしというお荷物を抱えた貴晶も、わたし達三人分の鞄を引き受けてくれた片桐君も、無言で彼らの前を走り抜けていく。


 ――なんとも、決まりの悪い静寂。

 生徒はともかく、剣持先生までもが沈黙しているって、どういう状況?

 ――って、え?


 ヒヤリと、背中を氷が滑り落ちていくような感覚が走る。あらためて気づいた事実に、わたしは身震いした。

 ……そこまで、なの? わたし達高校生なんかよりずっと人生経験を積んでいるはずの壮年の先生でさえ言葉を失うくらい、コレは「あり得ない」のか!


 先生のほうは怖くて、通りしなにあえて見ないようにしていたので、様子がまったくわからないのがかえって気になる。

 ……というか不気味で。


 こんな状況でわたしなんかが迂闊に声を出そうものなら、藪蛇にしかならないような?

 しかもわたしは、貴晶に未だに抱っこされていて、この薄氷を踏むような気まずい場面をつくりだしたそもそもの元凶なのだ。

 今すぐにでも己の存在を消してしまいたくなるような居心地の悪さに苛まれながら、自らの足で逃げ出すことすらもできない。

 今のわたしは――。

 なんとかしたいけど。なにもかも他人たかあき任せ……自分ではなんともしようがない。

 情けなさに、ジレンマが追い打ちをかけてくる。

 

 



 校門から二メートル程入った地点で、徐々に速度を落としていた貴晶の足がようやく止まる。もうとっくに体力の限界を超えているだろうに、貴晶はそこでわたしを慎重に降ろしてくれた。

 よほど疲れているのだろう。あの貴晶が両膝に両手をついて、大きく肩で息をしている。


「……貴晶」


 不安げなわたしの言葉に、わずかにもたげた貴晶の顔は、うっすらと上気して玉の汗が浮かんでいた。

 濡れてしっとりと艶めいた黒髪が、ほんのりと朱に染まった目許にかかっている。

 無防備に開いた唇からこぼれる乱れた息遣い。朝の陽射しを受けて柔らかな影を落とす前髪の間から、苦し気に細められた、それでいて労わるような光をたたえる貴晶の瞳が、じっとわたしを見つめている。


 どくん! とわたしの胸が大きく高鳴る。およそ貴晶らしくないその姿を目の当たりにして、身のうちに不意に沸き起こりせり上がってきた情動は、わたしがかつて経験したことのないもので。

 貴晶は男なのに――美しい――と、そう思った。

 わたしをとらえるその表情が、たまらなく愛おしいと。

 無意識のうちに、わたしは貴晶との距離をさらに詰めていた。

 腰をかがめ広げた両腕を、前のめりになった貴晶の背中にまわそうとしたところで。


 ――!


 遠くで聞こえる悲鳴にも似た女の子達の声と、刺すような視線。

 その視線がなければ、わたしの耳には女子達の声は届いていなかったかもしれない。

 それは、時間にしてほんの一瞬、針の先ほどのわずかなものだったけど、その切っ先は過たず貴晶を狙っていた。


 ――認識すると同時の、消滅。

 束の間の、ましてやわたしの脳神経の表層を、かすめていったに過ぎない程度の刺激。

 だけど、それを捉えた瞬間のわたしの反応は異常だった。頭の先から身体へと、四肢の隅々に至るまで、スゥっとなにか冷たいものがおりてきた感覚があった。

 わたしと貴晶を取り巻いている、今この時の状況が、瞬時にクリアになる――視線をめぐらすまでもなく、わたしの脳に見えてきたもの。 

 今わたし達の近くにいる、半径四メートル程度の範囲内にいる十人あまりの人物。その一人一人の位置関係と――その人々のなかから、誰がそれを放ったのか。


 捕捉した途端、反射的にわたしの身体は、その敵対者あいてに向かっていこうと動き出していた。

 それが、たとえ何者であろうとも。


 剣持先生。この――!



 その刹那。


 ――ふわり。


 間髪を入れずに、わたしの眼に飛び込んできたもの。

 同時に、至近距離から俄かに漂ってきた匂いが、わたしの全身を包みこむ。


 ――なに……?


 芳しいその香りは間違いなく、わたしのよく知る幼馴染のものなのに。いつもの、ほっと心の安らぐようなものとは全然違って。


 ――これ、貴晶の?


 濃密で――頭の芯が真っ白になって呆けるほどに……甘い。


 ――こんなの。今まで嗅いだことない。



 くらり。

 束の間、意識が遠のく。

 たちまちにして、わたしの身体はくまなくその香りに絡めとられでもしたかのように、動けなくなっていた。その瞬きをするほどの間の隙をついて、背後から伸ばされた大きな手がわたしの目元を覆って視界をふさぐ。続いてわたしのお腹へと回された腕が、わたしの身体を物理的に拘束した。


「――落ち着け」


 はからずも貴晶がわたしの身にもたらした暗闇のせいで、わたしの感覚がやたらと鋭敏になっている。わたしを捕まえている彼の腕の逞しさも、耳朶にかかる彼の吐息と言葉にこもる熱も……貴晶が与えてくる刺激のひとつひとつが。

 普段なら――ここまでではないのに。


 そのチリチリと熱すぎる温度に、つい先ほどまであれほど殺気立っていたわたしの全ての細胞が、急速に絆されて溶かされていくようだった。

 力の抜けたわたしの身体を、貴晶が背後から抱きすくめて支えてくれる。

 掠れて少しばかりくぐもった貴晶の声が、わたしのぼぅっとした頭に重く響く。


「大丈夫だ。亜希、…………から」



 後方からひときわ高い悲鳴が聞こえたけど、それはすぐに消えていった。

 解放された目が、声があがった方向の校舎の窓を見上げている剣持先生の姿をとらえる。

 きっちりとした七三分けの髪型、銀色のメタルフレームの眼鏡に大きくて薄い唇。長身だけどαにしては痩躯、教職でありながら常にびしっと着こなしたスーツスタイルが定番ときたら、いかにも神経質、ついでになんとなくねちっこそうな雰囲気が全身から滲みでている。


 剣持先生の視線を追ってちらりと目をやった校舎の窓という窓には、人だかりができていた。ぱらぱらと窓際から離れていく生徒もいるのは、風紀顧問でもあるこの先生にうっかり目をつけられたくないからだろうなぁ。


 それと、今しがたのアレでもうひとつ、わたしは気がついたことがある。

 この先生……。


 わたしの不躾な視線に気づいたのか、剣持先生がこちらに向き直り歩み寄ってくる。


「おはようございます。ところで、橘さんはどこか体調に問題でもありますか?」


 これまで一度も対面したことのないわたしの名前を、よりにもよって剣持先生に憶えられていたことに驚く。

 でも。

 むしろ当然か。さっきのは……わたしの気のせいなんかじゃなかったはず。それであれば納得がいくし。



「剣持先生。おはようございます」


 わたしが思案顔でいたからか、貴晶と、次いで片桐君が先に先生に挨拶を返していた。 

 ハッとしてわたしも、彼らのあとに続いて答える。


「おはようございます。大丈夫です」

「そうですか。授業に出られそうですか?」

「はい」


 剣持先生の口調はじつにあっさりというか淡々としていて、職務として義務的にたずねてきているだけのような印象だった。なのでわたしも先生に、あっさりと簡潔に返事をするにとどめた。

 貴晶だけでなく片桐君も、成り行きが気になるのか待ってくれている。時間もないことだし、今ここで細々と話をする必要もないよね。


「無理はしないように」

「はい。ありがとうございます」



「行こう、亜希」


 一応の区切りがついたところで、貴晶がそっと顔を近寄せて話しかけてくる。またあの非難めいた声が校舎の窓から降ってきそうで、思わず顔をのけぞらせたら、貴晶に心外そうな顔をされた。

 ――あれ?

 その貴晶の様子が、ずいぶん落ち着いてきているように見える。

 このわずかな時間で?

 まじまじと見つめるわたしを見返してくる貴晶の眼には静かな力が宿っていて、顔色も呼吸も戻っている。本人的にはどうなのかわからない。けれど、あんな悩ましい貴晶を見た、という事実が信じられないくらいには……。

 よかったけど……これもαだからなの? ほっんと、とんでもない回復力。



「片桐。鞄」

「ああ。もう平気か、和泉? 俺としては朝から頑張ったおまえに、なんだったら俺の肩を教室まで貸してやろうか、くらい考えていたんだが?」


 片桐君の軽口に、鞄を受け取りつつも、貴晶が微妙な表情になる。


「……おい」

「そうだな。風紀の連中の目もあるし、なんかギャラリーも多そうだし。自重しよう」


 片桐君は意味深な苦笑を浮かべて小声で呟くと、わたしの鞄も貴晶に渡してしまった。


「……あ」

「ほら、行くぞ」


 自分の鞄を受け取ろうと差し出した手を、貴晶に握られて引っ張られてしまう。

 つい先ほど剣持先生に睨まれたせいかいくぶん控えめではあるものの、案の定、女子たちの甲高い声が聞こえてくる。

 手の届かない離れた場所から浴びせられたものだとしても、やはりこの声は心臓によくない。

 どういう意味を持つものであるか、その声の調子からありありと伝わってくる。

 けれど。さっきの貴晶が見せた心外そうな姿が気にかかっていたわたしは、大人しく彼に手をひかれて昇降口へと歩いていった。


 


 今日は、登校時間における正門での風紀委員の活動予定が無い日だったと、貴晶がこぼしていた。

 変化があったのはそれだけではない。本来、今日の一時限目は現国の授業だった。それが急遽LHRに変更になった。しかもうちのクラスだけでなく、全校そろって。


 ふつーでない登校をしてきたわたし達のことを、クラスメイト達はもちろん知っていて、扉を開けた瞬間から教室内は水を打ったような静けさが支配していた。


 貴晶と片桐君が、仲のよいクラスメイトにかける挨拶を無視する者はいない。

 ただ返す言葉がどこかぎこちなかったり、いつにも増して彼らを取り巻く――特に女子の視線が熱烈だったり、そしていつもは彼女たちの眼中にないわたしまで、今日はそのなかに取り込まれていたり。

 おまけに貴晶が自分の席を通り過ぎて、わたしの席まで、しかも椅子までひいてエスコートしてくれたものだから、一気に教室の空気がざわついて。


 空気を読めーーーーーッ!


 わたしの抗議の眼差しは、貴晶にどこ吹く風で無視されるし。

 それどころか、「今日はお前の傍にいるからな」

 さすがに声は抑えてくれたけど、それでも席が近い生徒には、たぶんこれ聞こえてるって。

 わたしが固まって言葉に詰まっている間に、貴晶はさっさと自分の席に戻っていってしまうし。

 ほんとに、もう!

 なんか貴晶って、必要以上に、わたしがそこまでしてくれなくてもいいってくらい気合のはいった気配りをみせるときもあるくせに、肝腎なところでは無頓着だったり……。

 これもαだからなのか? それとも、貴晶だからなのか?

 なにかと彼に助けられてはいるけれど、こーいうところだけはマジで勘弁してほしい。


 席についてからずっと、わたしは身を小さくして、机の上を見続けている。

 みんなの視線がイタイ。もう早く先生来てくれないかな。




 

 LHRのテーマは、第二次性についてだった。


 ――昨日のことがあったから。

 幸いにも最も恐れる事態にはならなかったとはいえ、体育の授業中に、それも校庭での出来事だったから、生徒達の間で噂が広がるのは時間の問題。動揺が広がる前に、学校側として手を打ってきたのだろう。

 授業でも習った第二次性についての法令などのおさらいや、生徒全員に配布したプリントを読みながらの、第二次性に関する我が校の基本姿勢や取り組みなどの説明とか。


 正直なところわたしは、LHR前のSHRの時間に、昨日のことを思い出した。あの片腕抱っこの衝撃で、一時的に記憶から抜け落ちてしまっていた。その時になってようやくわたしは、美雪ちゃんだけでなく、土屋さんも学校に来ていないことに気がついた。


 発情ヒートを起こしたΩと、その影響を受けてしまったα。

 当事者の二人が在籍しているクラス。

 βなのに、美雪ちゃんとあのときたまたま接触していたわたしまで、なぜだか早々に意識を失ってしまったけれど、体育の授業に参加していた女子全員がその異常な光景を目撃していた。

 生徒達の心理面に配慮してか、しめくくりは設問形式のアンケートに各々思うところを自由に記入して提出。アンケート用紙の最後には個別の相談に応じる旨の記載もあった。




 長く重苦しい時間が終わり、次の授業につかう教科書を鞄から取り出しているときだった。携帯の画面にメールの受信を知らせる表示がある。


 いつの間にか届いていたメール。

 悠希からだ。

 その内容は、目を疑うようなものだった。



『姉さん、倒れたって? 大丈夫なの?』

『無理しないで、ゆっくり休んでたほうがいいよ』

『明後日、病院へ行くんだって? 俺も付き添いで行くから安心してね』

『というわけで、明日の夜には俺、家に帰ってるから』

『あ。でも姉さん身体キツかったら、俺のことなんか気にせずに寝てていいからね』

『じゃ、また明日』


 …………。

 マジで?

 学生寮に入っていて? そんな気軽に帰ってくるって?

 寮生活のことなんて、わたしにはわからない。

 まして悠希の通う高校は、αのなかでも優秀な者ばかりが集まるエリート校。

 いろいろと、厳しそうなイメージしかないんだけど。

 とにかく、心配性の弟に手短に返事を返す。


『いま学校。そんな心配しなくても大丈夫だから」



『学校なの? 今日くらいムリせずに休めばよかったのに』

『それじゃアキ兄に俺から頼んどく。姉さんをよろしくって』

『姉さんは加減できないトコあるから』

『今日いち日、しっかりアキ兄にガードしてもらいなよ』







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