登校 3
どうしよう? …………詰んだ。
ようやくわたしの眼にも、ゆるやかな登り坂の先にある四階建ての校舎の最上階部分が見えてきた。
腕時計の針は、八時二十一分になろうとしている。
これでは、貴晶の足で休みなく歩き続けても、ぎりぎり間に合うかどうか?
――どこか適当な場所で降ろしてもらって、わたしが自力で歩いて校門をくぐる。
目的地までの距離が縮まっていくにつれ徐々に冷静さを取り戻してきたわたしが、わずかに残していた儚い望みは、あっけなく潰えてしまった。
わたしが落胆している間にも、遠目に見えていた校舎がどんどん近づいてくる。
どうしよう!
さっきからわたしの眼は、前方と、わたしを抱きかかえる貴晶の顔と、腕時計の間をせわしなく彷徨っていた。
貴晶は、予鈴が鳴り始める二十五分までに、わたしを連れて校内に入るつもりだ。
今朝のわたしの足ではまず間に合わないと、貴晶もわかっている。
だから貴晶に、わたしを途中でおろして歩かせる、なんて考えは露ほども無い!
このままでは……。
今回みたいなアクシデントにわたしが見舞われたとき、そしてその場に貴晶がいたら、ううん、一時疎遠になっていた中学時代でさえ、人づてに聞きつけた高校受験の場合などでも、彼はわたしを助けてくれた。
貴晶は、わたしにとって誰よりも頼もしい幼馴染で――。
幼い頃から母親同士が大の仲良しだったわたし達の家は家族ぐるみのお付き合いで、貴晶にとってわたしは家族も同然。
だから今もこうして貴晶は、体調の優れないわたしの面倒をみてくれている。
血縁でもないβを、αしかいない家族に囲まれて育ったαが身内同様に親切に扱ってくれる。
世間的に見てなかなか無いことだって、中学でβの級友に聞くまでわたしは知らなかった。
貴晶が、わたしをどう思っているのか?
あらためて彼に確かめてみるまでもなく、その答えは明白で。わたしだってよーくわかっていて、貴晶のその気持ちだけでも本当に有難いし、……嬉しい。と思っている。
……ただ。
ときにわたしには勿体ないくらいの――もう繕わずにハッキリ言ってしまえば「――わたしは、なぜここまでされている?」
さらには「――なんで? こんなとんでもなく恥ずかしいことになっているの?」――と赤面して頭を抱えてしまう事態に陥っていたり……なんて笑えない事実も一度や二度ではなくって。
わたし達が年端もいかぬうちなら、まだご愛嬌ですんでいたのかもしれないけれど。
……ちょろっと思い出しそうになっただけで、ソワソワと落ち着かない気分になってきた。
でもって今もなお、「幼馴染」――という呪文に、多感な少女たちが錯覚してしまいがちな淡く微笑ましいイメージを軽く飛び越えてしまうレベルで、わたしは貴晶にちょっかいを出されていたりする。
まぁねぇ……。
なにも貴晶に限ったことではないんだけどね、わたしの周りを見るに。αの性癖も多少影響しているのかな、という気はするものの。
近頃のわたしは、貴晶のけっこう過剰ともいえる接し方に、ドギマギさせられっぱなしなのだ。
それでもわたしをなにかと気遣ってくれてのことだというのがわかるから、面映ゆいながらも結局は流されて、甘えてしまっている。
……ぅ。これがいけないのか? でも……。
それもこれも、貴晶にわたしが親身に接してもらえるのも、わたし達が幼馴染だから――。
それを、じゅうじゅう承知しているから。
貴晶に、生涯をかけて大切にしたいと望むお相手が現れるまで――。
今だけだって、わかっているから。
――今はまだ、このままで……。
しかしその関係性も、学校という環境に身を置いた場合、様相が一変してしまう。
なぜって。
今のわたしは幼馴染の貴晶に、この年齢で幼子のように抱っこされている有様で。しかもこの幼馴染は、それでなくても我が校のαのなかでも屈指の存在として、校内で知られる有名人だったりする。
ムリでも降ろしてほしい。このままでは。
まず貴晶がαでなければありえない状況であるとはいえ……、幼馴染――つまりはわたし――が体調不良で動けなくなったので、片腕抱っこして一緒に登校しました。
……コレ、貴晶に憧れてるコ達にしてみたら、美談として貴晶の株が上がるぶん、わたしに対しては――反発しかないのではなかろうか?
なにせ、同年代のアイドルでもない一応は一般人の高校生を、仲間うちでは「サマ付け」で呼んでしまうようなヒト達だ。
昼休みとかに集まって、『さっき貴晶サマとすれ違った~!』『一瞬だけど眼が合っちゃった!』『えーーー? あなた達だけずるい! いーなぁ、わたしも……』なんて話題で、始めのうちこそ内緒話でもそのうちクラス中に筒抜けのテンションで騒いていることもあるくらいなのだ。
すれ違った?
一瞬、眼が合った?
彼女達の言葉に一瞬戸惑って、「……あー」とわたしは低く唸った。
いや。わたしだって、彼女たちの気持ちがわからないわけじゃない。
貴晶は文句なく恰好いいし、そんなこと子供の頃からずっと彼を見てきたわたしが一番よく知っている。
だから……わかるけど。
……気持ちは、わかる。
フツーはそうなんだろうなーって。
そういうのって、端から見ればほんの些細なことでも本人にとっては一大事で、初々しくて可愛くて甘酸っぱい、漫画や小説にあるような女子的にはたまらないトキメキのシチュエーション! なんだろうなって。
……。
普通なら、そうだよね?
わたしは深々としたため息をついていた。
わたしと貴晶は、ものごころつく頃にはすでにころころと子犬のようにじゃれ合っていた。
つまりわたしには、そんな初々しい記憶など――もしかしたらあったのかもしれないけど――今となってはさっぱり思い出せない。
今さら思い出すのも困難だろうし、これから先、思い出す可能性も果てしなくゼロに近い?
要するに幼馴染って、いいこともいっぱいあるけど、そうでないことも無いわけではないんだよね。
出会ってから距離が縮まっていくまでの、ウキウキと高揚した気分とか不安とかドキドキ感とか……。
まして幼馴染として育んできた情感って、身内に近いものだと思うし。
瞳を輝かせて恋心を語る彼女達のようなそういうのって、あいにくとわたしにはまるっきり無縁の世界だった……。
でね。そういう方々に、わたし側のやむにやまれぬ事情とか、とうてい納得してもらえる気がしないのですがー。
――このテの感情って、偏差値とかで少しは抑制かかる?
わたし的には、降ろしてもらったほうがいい気が、すご~くしているのですけど。
どうでしょう? 貴晶サン。
あのテンションの彼女たちを知っているわたしには、波乱の予感がひたひたと忍び寄ってきているのです。
――などと声にだせずにこぼしてみても、風紀委員としての面目がかかっている貴晶は、なんとしても予鈴が鳴り終わるまでに校内に入る気でいる。親友でクラス委員の片桐君まで巻き込んでしまったから、なおさらだろう。
貴晶の手を離れたら最後、わたしが遅刻しかねないのは目に見えているし。
そして、わたしの両親からわたしのことをお願いされてしまっている貴晶が、今さらわたしをおいて、自分たちだけで先に行くなんてことするはずもない。
…………詰んだ。
それなりに平和だった、わたしの高校生活が……。
わたしと貴晶はクラスが同じとはいっても、校内ではほとんど接点がなく、プライベートに関わるような内容でとなると……会話すらしていない。振り返ってみて、今気づいた。ちょっとビックリしている自分がいる。
そこまで徹底して、教室で貴晶を避けていたつもりはなかったのだけど? これはわたしだけでなく、貴晶のほうでも意識して避けていないとこうはなっていないよね?
わたしは休み時間などは、美雪ちゃんとほっこりおしゃべりをして過ごしているし、貴晶はたぶん片桐君やクラスの男子達と一緒にいることが多い。
ただ貴晶と片桐君、一人ずつでもじゅうぶん目立つこの二人が一緒にいると、それだけで、なにもしていなくても彼らのまわりの空気が違って見える。
αを見慣れている、わたしの目にも。
あるいは他の第二次性の生徒たちのなかにいるから、かえってその差が浮き彫りになるというか?
どう言ったらいいのか、とにかく迫力がありすぎる。
身長もそうだし、どちらも芸能人顔負けのイケメンだし、なんといってもα――のなかでも特別優秀だし。
強いていえば、俗にいうオーラがあの二人からは感じられて、みんなとの間に見えない障壁があるみたいな?
片桐君はどうだかわからないけど、貴晶はねー、そんなつもりは毛頭ないんだろうけど。
いずれにしてもあんな結界を四六時中、無意識に張られていたのでは……。
ちょっとあれは、単にクラスメイトだからってだけでは、特殊スキルのない女の子は近づけないわ。
それに一人よりは二人――の相乗効果を狙っているのか?
こんな見方は穿ちすぎかもしれないけれど、れっきとした用があっても、二人でいるところに話しかけられる女子の姿ってあんまり見たことない気がするし。
気後れするのか、緊張するのか、どっちもなのかな? 友達にお願いして何人かで固まって、それでようやくといったカンジで話しかけている。
こんな調子であれこれまとわりつかれないから、本人たちは「一人でいるよりラク」くらいの感覚なのかもだけど。
そう考えると、あながち間違ってはいないんじゃないか? って気がしてきた。
――とまぁこんなふうに勝手に想像してしまうくらいには、一部熱烈なファンがいるわりには彼らの周囲は平穏そのもので。
彼らのいないとこでは?
……わたし、ずっと美雪ちゃんと一緒にいるからなー。
そういう女子と直接、ましてや貴晶達についてなんてそれほど話したことないからイマイチよくわからないけど、クラスの女子にとどまらず学校全体で、学内の男子のなかではダントツで人気があるっぽい。
ただし、みんな遠巻きにして見てるだけ。
圧倒されて、近寄れない? みたい。
貴晶とつきあいの長いわたしでさえ、いまだにときどき……あー近頃はしょっちゅう? その眉目秀麗な容貌――ハート目女子の言葉を引用――にたじろがされる場面があったりするくらいだから、免疫のないコはひとたまりもない……かも? なおさらキビシイよね?
たまに普通にお互いの会話の声が届く範囲まで接近している女の子達のグループもいるけど、集団だし、そういう場合α、もしくはΩかな? ってコが混じってそうな雰囲気だったし。
でもそうやって女の子たちが決死の覚悟で彼らの懐に飛び込んでも、彼らはいっこうになびかない。
二人ともそれはソツのない対応で、彼女たちは傷跡どころか触れることさえかなわずに、いなされてしまうらしくって。
彼らの高校生活も三年めに入り受験生ということもあってか、そうしたアタックを試みる無謀なPTもナリをひそめて、今年は一見落ち着いてきたように見えているけど。
でもこれも、あくまでも表面上は――。
水面下では……どうなんだろう? こちらから積極的に関わりたくない話題だったからなぁ、今までは。
なんといっても「貴晶の幼馴染」という、彼女たちにとっては決して手に入れることのできない憧れの特権を、わたしは手にしている。
これでわたしが、αであるか、Ωであったなら、まだよかったのかもしれない。
αならβの女子は仕方がないと思ってくれるかもしれないし、Ωなら……って、そもそもわたしみたいな可愛げのないΩはいないか。
ともあれ、わたしは見るからにβなのだ。見た目も能力もそこまで悪くはないと思いたいけど、αやΩの持つある種独特のキラキラとしたそれとは異なる。
中学、高校と、わたしはこの微妙な立ち位置を間違えないように、学校では振る舞ってきたつもりだった。
なので。
さっきからわたしがぐだぐだと悩んでいるのは、わたしと貴晶の近すぎる距離を、これで人前にさらすことになってしまうことへのコワさに怯えているからに他ならない。
接近どころか、接触までしている時点ですでにもうアウトなのに、その接触のしかたが……。
わたし達はカップルでも、こんなことをするに至るような特別なナニかがあったわけでもない。
とりあえずは一般人の高校生の友人同士が、一緒に登校しているだけ……だった。
例のあのドラマでさえ、お姫様抱っこは何度かあったけど、片腕で抱っこしている場面なんてなかったって! もっともわたしはラスト見ていないけど。
……一歩譲って、今のこの状態が、わたし達やわたし達の家族にとって、驚くには値しなくても!
とにかく。フツーの日常的なシーンで、コレは無い!
ほんとにね。これで、青くならないほうがどうかしている。
大袈裟でもなんでもなく、女の子の嫉妬ってマジでコワイんだから!
――体調管理もできないくせに、幼馴染という立場を利用して、貴晶に迷惑をかけて、あげく抱っこまでさせて登校してくるとんでもない不届きな女――。
うわ~。罵倒されそうなセリフまで浮かんできてしまった。
ヒトの感情という、カタチの捉えられない得体の知れないものを相手に抗うなんて、イヤだ。
――均衡がこわれる?
それなりに平和につつがなく送っていた高校生活が……。
破綻の危機?
……を迎えてしまう。
ズシリと悲壮感がのしかかってくる。
今日はもう、いったいなんなの?
寝起きから、いや。夢見からか?
――おろして!
ネガティブな予想って、一度気になりだしたら止まらない。
見通しのきかない漆黒の闇のなか、雪の降り積もる斜面を勢いよく転がり落ちていく雪玉のごとく、勝手にどんどん膨らんでいく悲観的な未来に耐えかねて、わたしがそう口に出そうとしたまさにそのタイミングで。
わたしの注意をひきつけるように、貴晶がわたしの耳もとへと顔を寄せる。
心ここにあらずのわたしの耳に、貴晶の低い声が響く。
「――やむを得ん。ちょっと走るぞ。亜希、しっかり掴っていろ」
え?
けれど物思いに沈んでいたわたしの頭は、貴晶の言葉のすべてを拾うことはできなかった。
「――ええ? ……っぅわ!」
「しゃべるな。舌を噛む」
突如走り出した貴晶の声は、微かに掠れていて。
貴晶の足がリズミカルに地面を蹴り着地をする度に、その振動がわたしにも伝わってくる。
対応が遅れてうろたえたわたしは、咄嗟に貴晶の首にしがみついた。その拍子に、貴晶の生温かく湿った吐息が頬にかかる。
その感触にぴくりと震えて。
でもすぐにわたしの神経は、頬から間近で聞こえる呼吸音をとらえる聴覚へと、集中する先を変えた。
――貴晶? 呼吸が……。
「……亜希……心配する、な」
貴晶の大きな手が、ふわりとわたしの頭を撫でる。
首の後ろでひとつに括っているわたしの髪を、ゆっくりと撫でつけるような貴晶の優しい手つきに、わたしは閉じていた瞼をあけた。
それでわたしはやっと、貴晶の足が止まっていたことに気がついた。しかもあろうことか、わたしが貴晶の視界をさえぎってしまっている。
そして貴晶がその場に立ち止まっていることで、わたしはようやく察することができた。
貴晶の肩が、わずかだけど上下している。
……苦しいんだ。貴晶のこんな姿……。
眼の奥がじわりと熱くなる。
「……貴晶?」
開いた口から思わずか細い声が出てしまって、よけい情けなくなってくる。
貴晶の左手が、そっとわたしの腕にかかる。
その手に促されて、わたしは貴晶の首にしがみついていた、両腕の力をゆるめた。
再び走り出した貴晶が、みるみるペースを上げていく。
今度は走り出す前に、貴晶は言葉をかけてこなかった。
――さしもの貴晶も、ここにきての登坂のランニングがこたえているんだ。
ごめん。貴晶。わたし、自分のことばっかり考えていて。
どうしようもないことでわたしがあれこれと悩んでいる間も、貴晶は、わたしを抱えて頑張ってくれていたのに!
わたしは上体を少し屈めて重心を低くして、顔の高さを貴晶に合わせるようにした。あまりひっつきすぎて彼の負担を増やさないように、かつ落ちないように。
揺れるスリルと戦いながら、わたしは懸命にひた走る貴晶の横顔を見つめていた。
貴晶が滅多に見せることのない、真っ直ぐに前を見据える、厳しく力のこもった真剣な眼を。
――早く着いてほしい!――と。
ただただ、それだけを祈りながら。