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……って、とんでもない  作者: 文音
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幼馴染


 ――近い!


 高校に入ってからまた一緒に登校するようになったご近所さんで幼馴染の和泉貴晶いずみたかあき――前々からずーーっと思っていたけど、貴晶のパーソナルスペースはいったいどうなっているんだ!


「おはようって言ってるのに。今日も寝不足? 亜希あき


 そうやっていちいちわたしの顔をのぞきこんでこないでほしい。ものすごく、その……端整な顔が近くて、――いくらわたしが貴晶の顔を見慣れているからといって、もう少しで鼻が触れてしまいそうな至近距離まで近づけてくるってどうなんだ! お互いもう高三にもなって、……いくら幼馴染みでもありえないでしょ。


「おはよう! それとわたし、ちゃんと十一時には寝ました。貴晶こそ、もっと遅くまで起きてたでしょ。わたしが寝るとき、まだ部屋の灯りついてた」

「俺は、亜希と違って低血圧じゃないし」


 あんたのおかげで、毎朝毎朝血圧上がってるわ! と言いたいけど言えない。前にうっかり口にしたら、「怒ってるの。なんで? どうして?」とさんざん訊かれた。横にあったはずの貴晶の顔が、しまいには正面から迫ってくるし……

 でもこれもあと少しの辛抱だ。この路地を右に曲がって高台に向かって伸びている広い通りに出てしまえば、貴晶はわたしから離れていく。


 通りの歩道は、わたしたちと同じ制服を着た学生が列をなして歩いていた。この時間は、下手の駅で電車を降りた学生たちの群れとかち合うので、いつもこんな具合だ。

 学年色の臙脂が入ったネクタイをしているのがわたし達三年生で、紺色が一年生、橙は二年生。


 ゆるやかな登り坂を道なりに進んでいくと、わたしたちの通う高校が見えてくる。私立の進学校ではあるけれど、貴晶はお兄さんの貴俊たかとしさんが卒業したαの通う高校に進学すると思っていた。将来のことを見据えるなら、エリートの集うそちらのほうがなにかと都合がいいだろうに。

 ただ遠い、らしい。貴俊さんは在学中そこの寮に入っていた。弟の悠希ゆうきも、この春から家を出て、そこのエリート学校で寮生活を送っている。


 あいつは貴晶に心酔しているから――悔しいことに姉のわたしではなく――絶対うちの高校にくると思っていた。お母さんから知らされたときは、わたしすごい驚いたのを覚えている。

 わたし達が通う高校は、α、β、Ωの男女共学の高校だ。人口比率で圧倒的多数を占めるβと、少数派のαと、希少なΩ。その昔は、彼ら特有の体質が故に偏見や差別を受けてきたΩも、昨今は法整備がすすめられ次々といい薬が開発されて、他の生徒達とほぼ変わりなく学校生活を送れるようになってきた……のだそうだ。制服だけでなく体操服の上衣も高い襟付きのデザインになっているのが共学校の特徴で、悠希の高校の半袖の体操服は丸首のデザインだった。こんなところにも違いがあるのかと、妙にしみじみと感じたものだ。

 もし貴晶がその学校に進学していたら、こんなふうに一緒に歩いてる……なんて、なかっただろうなぁ。




「和泉、たちばなさん、おはよう」


 とりとめのないことを考えながら歩いていたら、後ろから貴晶の隣に並んできた片桐かたぎり君がわたしにも挨拶をしてきた。クラスメイトの彼は、貴晶と同じく――恐らくαだろうとクラスの皆から目されている優等生だ。

 見目がよくて頭がよくてスポーツ万能で何事もソツがなくて、それからリーダーシップがあって、あとなんだっけ? 第二次性をわざわざ公表することもないのであくまで噂に過ぎないのだけれど、とにかく二人とも、理想的なαの条件にピッタリあてはまっているということらしい。

 もっともタイプは違う。二人とも学内でその抜きん出た恰好の良さで女子にすこぶる人気があるけど、こうして二人が並ぶと個性の違いがはっきりわかる。貴晶が優しげな印象を与えるのに対し、片桐君は精悍というか、……正直、苦手だ。

 ただ、これはしょっちゅうつるんでいる彼ら二人の対比をわかりやすく表現しただけで、貴晶は女顔ってほど線の細い顔立ちではないし、華奢でもない。上背があるし肩幅も広い。腰の位置も高い。

 ……こうやってあげていくと、貴晶の高スペックぶり半端ないな。


 もっとも小学生の頃は、貴晶がこんなにモテる日がくるなんて想像もしていなかった。

 貴晶は小さい時から運動神経も頭も良かったけど、いわゆる目立つ子供ではなかった。ちょっとやんちゃなくらい個性の強い子供のほうがクラスの皆の中心になっていて、貴晶は大人しい秀才だと思われていた。


 みんなは気がついていなかったけど、わたしだけは知っていた。クラスで人気のあるどの子供達よりも、かわいいと評判の女の子よりも、貴晶が一番、美形きれいだって――。顔のつくりが整いすぎてて個性に乏しい印象になるというのも可笑しな話に聞こえそうだけど、実際にそうだったのだから子供心に不思議だったものだ。

 と言っても、わたしがそのことに気づいたのは、わたしが貴晶の幼馴染だったから。クラスの誰よりも貴晶の近くにいて、間近で彼を見てきたという特権の賜物。もしもあの当時、わたしと同じ距離で貴晶と接することのできる子がいたとしたなら、きっと誰もが言葉を失い彼の顔に見入ったはずだ。


 それが、中学に入ってから――いわゆる第二次性徴期になって、貴晶は変わった。

 



 貴晶は片桐君達と連れ立って、先に歩いていってしまった。これも、いつものこと。もとよりわたしと彼らとでは歩くペースが違うから、雑沓のなかでもしだいに貴晶の背中が遠ざかって、そのうち前を行く誰かの後ろ姿に隠れて見失ってしまう。

 ……まあ、二年、三年と進級した時のクラス替えで偶然同じクラスになったから、教室でまた一緒になるんだけど。でも、学校では貴晶とそんなにお話したりということもなくて、……一学期も後半となり、すっかりグループ分けができているクラスの中で、わたし達はほとんど接点がない。


 と言うのも。




「亜希ちゃん、組んで」

「うん、美雪ちゃん」


 六時限めの体育の時間。二人一組で行う準備体操。いつものように渡辺美雪わたなべみゆきちゃん――彼女は高一のときからの同級生だ――が誘ってくれた。

 身体の弱い美雪ちゃんは、一年の最初のころはよく体調が悪くて見学をしていたけれど、わたしと話しをするようになって、以前よりは授業に参加するようになった。

 いや、ほんと。


「わたし、重くない? 亜希ちゃん、重かったら無理しなくていいよ」

「へーき」

「で、でも。最近わたし太っちゃって」

「どこがー?」


 美雪ちゃん、背中合わせのあなたを背中にのせてわたしがふらついているのは、単にわたしに体力と筋力がないからです。ぜんぜん気にする必要ないです。だって、美雪ちゃん太ったんじゃないから。つくべきところにお肉がついたたけで、他のところは華奢なままであって、つるっぺたのわたしからしてみればもう羨ましいの一言で、それ気にするの間違ってるから。


「……でも」


「はい、交代ー」


 先生、ナイスタイミング! 今度は美雪ちゃんがわたしを背負う番だ。美雪ちゃんは気にしだすとちょっときりがないところがある。でもこれで、わたしと同じで体力のない彼女はおしゃべりどころではなくなった。



 美雪ちゃんは女のわたしから見ても、ほんとにかわいい。色白で、わたしも色が白いって言われるけど、白さの質がそもそも違う。名前のとおり、雪のように白い。髪もゆるふわつやつやの天然パーマ。見るからにとってもケアが行き届いている。本人はくせ毛だって謙遜してるけど、色素の薄い明るい栗色の髪をいっそ腰のあたりまで伸ばしたら、浮世離れしたお嬢様って感じで素敵になるんじゃないかな。


 それにひきかえ真っ黒で直毛なのをいいことに、ブラッシングだけですませてるわたし……。うちの高校はパーマと染色は校則で禁止されてるけど、髪型は男女ともにそれほどうるさくはない。ただし肩より長い髪は髪ゴムでまとめる。

 で、背中あたりまで伸ばしてると跳ねたりとかの心配もないし、梳かして髪ゴムで括るだけでとりあえずまとまってくれるってのは、朝弱いわたしにはじゅうぶん重宝なんだよねー。

 ただ放っておくとゆるゆるになってしまうので、何度か括りなおさないといけないという欠点はある。ひょっとしてきちっと時間かけてやってれば、そんなことはなかったりする?

 ……まあ何にしても、美雪ちゃんと女子力違いすぎる、今更ながら。



 そういえば、彼女もパーソナルスペース狭いかも。けっこう近くで顔寄せ合って話をしたりするのは、美雪ちゃんの地声が小さいってこともあるけれど、アップに耐える顔なんだよね、彼女も。ずーっと見ていられるというか。そんだけ近づいても、匂いとか気にならないし。

 貴晶だとなんか落ち着かないけど、美雪ちゃんだと「目の保養」ってガン見できちゃうのはやっぱり男子と女子の違いなのかな?



 しかし今日の体育はこれで終わらなかった。照り付ける太陽の下、体力のない人間にはさらなる試練が。

 久々の全力疾走でもうすっかり息が上がってしまいました。そのうえ中学のときより、タイムが遅くなってるだなんて……


『おまえ、学校の授業以外でろくに運動してないだろ』


 すでに小学校のときには、貴晶にこう言われてた。

 男子は今日は体育館でバスケットって、誰かが言ってたっけ。よかった! さっきの貴晶に見られてない。




「見て、あれ」


 校舎の影になる場所で計測を終えた他の生徒たちに交じって、念のため体育館の扉が閉まっているのを確認すべくよそ見をしていた私の隣で、ひそひそと棘のある声がした。疲労困憊して、彼女たちがこんなすぐ近くにいるなんて、今まで気がついていなかった。嫌な予感がして、彼女たちの侮蔑を含んだ視線の先を追う。


 トラックを駈ける美雪ちゃんの姿があった。並走している女子とどんどん差が開いていく。


「ほんと。とろいよねーー」


 美雪ちゃんは一所懸命に走ってる。息も切れ切れになりながら、それでも投げ出さないで、あきらめないで走ってる。必死で走るその姿が、健気で痛々しくて……


「……見るに堪えない。やらしーー。ほんっと、なんなのアレ、みっともない! あんなダラダラ走ってるだけであの体たらく。……彼女Ωじゃないかってもっぱらの噂だけど、なんかあの姿見てるとさー……」

「ちょっとソレ……その話はやばいって」

「えー。あれじゃみんなそう思ってるって。今日、男子外いなくてよかったよー! って」


 まただ。最近、美雪ちゃんの雰囲気や身体つきが女らしくなってきて、彼女を気に入らない女子たちの中傷がますます露骨になってきた。だいたい面子は決まってる。三人でこそこそ聞こえよがしに誰かしらの陰口を叩いてて、なんでも一年のときから美雪ちゃんになにかとキツク当たってたらしい。彼女達にしてみたらターゲットは誰でもよくて、過去に誤解やトラブルがあったとかそんなの関係なしに、たまたま同じクラスでネタにしやすい相手が美雪ちゃんだっただけのことなのだ。

 前は、少なくともわたしに聞こえるとこで、そこまで言ってなかったのに。


「やめなって。橘さんがこっちにらんでる」

「橘さんは怒るとおっかないからー」


 わたしみたいな非力が怒っても、ちっとも怖くなんかないでしょうに。気にするだけ時間の無駄ってわかってる。彼女たちは悪意を向けた相手を不快にさせて楽しんでる。それも暇つぶし程度に。だからなおのこといらっとくる。


「もうっ彼女は……」

「和泉君の幼馴染って話? だいじょうぶでしょー、ぜんぜん一緒にいるとこ見たことないし」

「渡辺さん、案外和泉君に近づきたくて橘さんと仲良くしてるんじゃないの? だったらアテがはずれたねー」


 タイムを計り終えて、くたくたになった美雪ちゃんがトラックを出たとこで座り込んでしまった。


「和泉君関係ないし。それと授業中、第二次性の話をするのは感心しない」


 彼女たちに言い捨てて、美雪ちゃんのもとに駆け寄る。どうせまともに聞いてなどいないだろう。逃げるつもりはないけど、これ以上関わっていたくない。あ、これって逃げてるのか。

 でもそれより、


「美雪ちゃん、がんばったね」

「……亜希ちゃん」


 晴れ晴れとした笑顔を見せてくれる美雪ちゃんの傍にいてあげたい。紅潮した頬、はずむ息、玉の汗も、彼女たちにはどう見えてるか知らないけど、やり遂げた後の美雪ちゃんはとてもいい表情かおをしている。

 つられてわたしも、にへらっと笑ってしまうくらい。


 わたしは美雪ちゃんの前にしゃがむと、軽くハグをした。お互いがんばったときはハグをして称える、わたし達のあいだでいつの間にかできていた約束事。


 汗臭かったかと気づいたのは、美雪ちゃんの体臭をかいだからだ。にしても、美雪ちゃんはこんなに汗をかいていても臭くならないんだ。普段から、シャンプーなのか柔軟剤なのか、香水とかはつけてないはずなのに、いい匂いしてるときあるもんね。

 でもこれは……



「集合ー」


 クラスの女子全員の計測が終わった。


「わたし達も行こ、美雪ちゃん」


 先に立ち上がったわたしが、美雪ちゃんの手をとる。


 え、あつ……


「……亜希ちゃん」


 立ち上がりかけた美雪ちゃんの身体が傾ぐ。支えを求めてさまよった美雪ちゃんの右手がわたしの腰に抱きついてきて、目の前をまるでスローモーションのように美雪ちゃんの髪の毛が波打っておちていく。汗の臭いと火照った身体とその重みと……


 ちょっ……

 顎の下にある彼女の髪から強烈な匂いが漂う。当然のことながら、わたしでは美雪ちゃんの身体を支えきれない。ずるずるとおちていく彼女の身体にひきずられてわたしも膝をついたところで、不意に目の前が暗くなった。


 


 ぅわあぁああーーーーーーん!



 痛い。……痛い! 熱い熱い熱い熱い熱い!


 ――あぁ……!



 部屋中を満たすスポンジケーキの焼ける匂い、バニラエッセンスと生クリーム、フルーツとシロップの甘い香り。それらに混じって――甘ったるい、けれどどこか異質な臭いが広がる。

 ボールの床に落ちて転がる音と。


 蹲り、肩で息をする震える背中……


 ……ちゃん。

 ……違う。あかり……ちゃん?




 額にひやりとした感触がした。寝返りを打った右頬の下になにかころころとしたものが当たってる。なんだろうと顔をすりすりして探っていたら、すぐ上から声がふってきた。


「亜希。……起こした?」

「……近い」

「ご挨拶だな。保健室まで速攻で迎えに来て、冷熱シートまで貼ってやった幼馴染に対して」


 なんかトーンが低い。目をつむってると、貴晶の顔に惑わされないからよけいわかる。

 貴晶、不機嫌。


 『――近い』なんて、わたし今までにもさんざん抗議しまくってきてるし、貴晶が機嫌悪くしてるの、そこじゃないよね多分。

 貴晶に心配かけたから? 保健室で目が覚めたのって、小学校以来……それは悪かったけど。……にしても、そんな言い方しなくても。それに、さっきより、もっと声が近くなってる。


「亜希、起きてるんなら目を開けろ」


 開けられないのはあんたのせいだ。この近さで声が聞こえるってことは、また至近距離に貴晶の顔があるってことでしょ。


 貴晶相手によせばいいのに意地をはっていたら、不意打ちがきた。貴晶の太くて冷たい指が左の頬に触れる。そこからゆっくりと首におりて項までなぞってきた。寝汗で張り付いていた髪の毛が貴晶の指に払われて、空気にふれた首筋がすっとする。でもそれはほんの一時、貴晶の掌のなかで、わたしの首はすぐさま熱を帯びてきた。


「――なっ!」


 なにやってんの! びっくりして目を見開いた拍子にわずかに顔が持ち上がる。眼前に、白いシーツにほどけて乱れた自分の髪の毛、それと貴晶の腕が見えた。


「やっと抜けた」


 あ~。わたしも一気に力が抜けた。さっきから頬の下にあったあの感触って、貴晶の左手だったのね。


「手、痛かった? ごめんね、貴晶。枕がわりにしちゃってて……それから、ありがと」


 誤ってしまってから、わたしははたと気がついた。

 そんなの、最初っから言ってくれてたらよかったんじゃない?


 ……返事がない。

 左手が解放されたのに、貴晶の姿勢は変わらない。わたしの横たわるベッドの端に半身はんみに腰かけておおいかぶさるような態勢で、右手はわたしの首にあてられたまま。


 ……? 貴晶の指が直接わたしの肌にふれている? 

 体操着の首の部分のファスナーが下までおりていて、はだけた襟のなかに貴晶の手が……

 わたしはここでようやく自分が体育の授業中に意識を失い、体操着で寝かされているという事実に思い至った。おまけに、悪夢で寝汗までかいている。


 どうしよう。わたし臭い。そして――間違いなく臭っているだろうその首に、息がかかるくらいの距離で貴晶の顔がある。羞恥でみるみる体温が上がっていく。それがよけいに情けない。貴晶の前で……

 

 もうやだ! 首まで……さっきよりさらに熱い。貴晶のふれている部分が気になってしかたがない。こんなに熱もってたら、きっと貴晶にも伝わってる。 

 息をつめたわたしの喉を貴晶の親指がなぞる。思わず悲鳴をあげそうになった。


 ……なんで、なんなの? この状態? わたし、貴晶になにされてんの? 幼馴染の距離感って、こんなに近いもんなの? 小さい頃ならいざ知らず。いや、それでもあり得ないか? でも、でもそれにしたって。そういうのって成長とともに、変化していくもんじゃないの?

 幼馴染の行動が、さっぱりわけわかりません。



「亜希のとこの母さん、今うちの親と出掛けててすぐには戻ってこれないから、俺がおまえを家まで送っていくことになった」


 貴晶の身体が離れる。鼻先をかすめた貴晶の、男子としては気持ち長めの髪から微かに汗の臭いが、シャツからは制汗剤の香りがした。


「え?」


 それで貴晶、機嫌悪かったの? うちのお母さんと貴晶のお母さんは、α同士仲がいい。お母さん達が結託してなにかを始めたら、もう誰にも止められないってくらい。


 貴晶とお母さん、それと貴晶のお母さんとの間でどういうやり取りがあったか、だいたい想像がついてしまった。しかしそうと話しがついてしまったのなら、もうどうしようもない。ここは素直に、貴晶の言葉に従うことにしたほうがいいだろう。わたしのため、はもちろんだけど、主に貴晶のために。


「でもって、おまえのとこの親父さん出張中なんだろ? それならってうちの母さんが、義姉さんに連絡いれておくから亜希にウチで夕飯食べていってもらえって。おばさんも、『そうしてもらえると助かるわー』……ってことで、おまえ俺の家に連れて帰るからな」


 ……。

 昨夜、夕飯までには帰って来るって言ってなかった、お母さん? 美味しいお弁当買って帰るって、確かに耳にした記憶が。貴晶の家のご厚意になにちゃっかり甘えてるんですか?

 ……というか、わたし、あんまり心配されてない?

 そりゃ、倒れたっていっても実際たいしたことなかったし、学校の授業で走りましたー気分悪くなって倒れました……だなんて、十七にもなってほとほと情けない。その事実が自分でもまだ受け入れられていなかったりする。当の本人がこれでは、「亜希はほんとにもう、なにやってるの?」ってお母さんに呆れられていそうだわ。

 


「……ごめん、なんか面倒かけることになって」

「今更だろ?」


 貴晶の態度にもやっとくるものがあったけど。熱っぽいし、おまけに母親には見捨てられるし、とても今の貴晶を相手にする気力がおきない。


 貴晶から、ぼんやりと移したわたしの視界に保健室の白い天井が映る。


 ――保健室の天井なんて、どこもそう変わらない。その下にわだかまるいろんなものを跳ね返して、……気持ち悪さも熱さも痛みも辛さも……



「……ねえ貴晶。美雪ちゃんは? わたしと一緒に倒れたよね? わたし倒れたとき、美雪ちゃん熱があった」


 時計の針は三時四十五分。日が傾いてきてるし、倒れてからもっと時間がたっているかと思ってた。

 カーテン越しの隣のベッドに、誰も寝ている気配がない。美雪ちゃん、わたしよりずっと具合悪そうだったし先にもう帰ったのかな?


 貴晶はたっぷり五秒間、わたしの顔をじっと見つめた。


「養護の先生が、今他の部屋で渡辺のことみてる」

「他の部屋?」


 なぜ、保健室じゃなくて、他の部屋?


「とりあえず、教室にあったおまえの鞄持ってきた。忘れ物ないか確認してくれ」




 程なくして養護教諭の明石あかし先生が、保健室に戻ってきた。


「よかった、橘さん気がついたのね」


 先生の心底ほっとした表情に、わたしまで心がほぐれる。

 貴晶と二人きり、しかもなにやら重苦しい空気を背負った幼馴染みに気力までごっそり持っていかれていたわたしにとって、明石先生の姿はピンチにさっそうと登場したスーパーヒーロー、あ、ヒロインか――のごとく頼もしいものだった。


「和泉君、先生橘さんと大事なお話があるの。申し訳ないけどこちらから声をかけるまで保健室の外で待っていてもらってもいいかしら?」



 ベッドからわたしは先生の机の前の丸椅子へと移動した。居住まいを正して腰かける。もう大丈夫であることを、言葉だけでなく態度でも先生に示したかった。


「お母さまにご連絡したら、橘さんのことは和泉君に任せるって仰っていました」

「あ~和泉君とことうち、家族ぐるみのおつきあいで、特に母同士がとても仲がよくて。和泉君とわたし、幼馴染なんです」


 先生はきっと、思春期の娘の世話を同じ年頃の男子に押し付けるうちのお母さんの対応に面食らっていたに違いない。どこまでちゃんと先生に説明しているかも怪しかったので、すかさずフォローしてしまった。


「……それとこれからお話しする内容についてなんだけど、電話でお母さまにお伝えしたら、橘さんに直接お話しをしてくださいって、仰っていたので。橘さん、まだ起きられるようになったばかりだし、先生の話の途中でもし疲れたなと感じたら、遠慮なくそう言ってちょうだいね」


 先生にすごい気遣われているのが言葉の端々から伝わってくる。お母さん、先生のなかでお母さんの心証サイアクだよ?




 検温と脈拍、血圧測定と触診のあとに問診。それらの結果を打ち込んだノートパソコンに改めて目をやって、先生は軽くため息を吐いた。保健室に運び込まれてすぐわたしが意識のないときに計ったデータと比較してるみたいなんだけど。

 わたし的には、疲れてはいるけど気分はそこまで悪くない。でも先生のあの様子は、自分で思ってるほど良くはない?


「橘さんの平熱からすると、体温まだ少し高いようね。もう一度訊くけど、体調はどうだった? 和泉君の話だと、橘さん今朝から体調がすぐれなかったって? 橘さんの話と食い違ってるの」

「あっ、それは、わたしの低血圧は毎度のことでそれが普通なので。薬や治療を要するほどでもありませんし、それを、「いつもより体調が悪かった」とは言えない気がしましたので」


 じつは昨夜は寝苦しくて、夜中に何度も目が覚めたりしていた。去年あたりからたまにあって、最近少しそうしたことが増えてきた。なんとなく気怠くて熱っぽかったり、関節が痛かったり。これ体調が云々とかではなくて、わたしの背がまだ伸びてるってことなんだと思うんだよね。


「そう。体育の時間までは、普通に過ごしていたのね?」

「はい」

「運動中はどうだった?」

「……」

「眩暈とかは? 動悸とか……」

「走ったあとは息切れして苦しかったですけど、眩暈はありませんでした。それもしばらくしたらおさまりました」

「橘さんが自分で熱が出てきたなーと感じたのはいつ?」

「……わたし? 美雪……渡辺さんが熱があって……渡辺さんの身体を支えようとしたら、急に立ち眩みがきて。……熱?」


 もしかしてわたしが熱出たのって、体調のせいじゃなくて、あの夢のせい?


「渡辺さんの身体を支えようとしたとき、なにかあった?」

「?」

「……その、臭いとか?」


 途端に美雪ちゃんの強烈な匂いが、わたしの全身にべっとりと纏わりついてきた。――錯覚だ。そうとわかってるのに。

 同時にきりきりとした頭痛と、眩暈。


「橘さんっ?」




 ……発情期ヒート? 二~三月に一度、Ωにのみ訪れる性的衝動。


 その言葉に、自分の身体が過剰に反応するのがわかった。落ち着け、と叱咤するのに、震えがとまらない。心拍数が上がる。


 美雪ちゃんが、発情期ヒート? わたしが? 美雪ちゃんのフェロモンにあてられた?


 発情期ヒートのΩは異性を誘うフェロモンを大量に放出する。そのフェロモンは強烈で……Ωのフェロモンに呼応するさがを持つαの欲情を呼び覚まし狂わせる。αもΩも共に本能に支配され突き動かされる衝動に理性は抗しきれず――不幸にして痛ましい事故や事件に発展してしまうケースが現在いまもなお絶えない。




「……先生。わたし、βです」


 先生はわたしが落ち着くまで待ってくれたけど、話を中断する気はないようだった。


「βでもΩの発情期ヒートの影響と無縁ではないの。α程顕著ではないというだけで。第二次性検査のときの講習で教わってるわ」

「……すみません、わたし第二次性についてあまり関心がなくて。世の中ほとんどβだし、わたしもβでしたし。そうそう……自分がそういう問題に関わることもないかと」


 違う。こんな見え透いた嘘。講習を受けたのは検査の前だった。わたしが何者なのか、明らかになる前。

 まして、「関わることがない」なんて……

 ほんとは、知りたくなかった。αのこと、Ωのこと。……αの――発情ラット



 ――豹変して、血相を変えて……。

 あんな……



「……でも、女同士ですよ。わたし達……」

「橘さん。体育の授業のときは渡辺さんの臭いに、そして今も渡辺さんの臭いを思い出して眩暈がおきたのでしょう?」

「……」

「それで橘さん、ここからが本題なんだけど。先生は橘さんに、一度病院で検査を受けることをおすすめします」

「……はい?」


 昨日まで、少々血圧が低めで朝起きるのにつらい時があっても、さしたる支障もなく日常生活を送ってきた。それが、今日一日で……。先生の話が突飛すぎて、ついていけない。


「ひとくちにβといっても個人差があって、Ωの……誤魔化してもしようがないからはっきり言うわね。世間ではΩのフェロモンに対して……その、それこそ症状は様々なんだけど問題を抱えているひとがいないとは言えないの。体調不良と濃厚接触だったという状況を差し引いて考慮しても、Ωのフェロモンにあてられて失神してしまうほど気分が悪くなってしまうというのは……。橘さんが特異な体質である可能性が考えられます。だから橘さんがより良い社会生活を営んでいくために、今のうちにきちんと検査をしておいたほうがいいと思うの」



 ――検査? 特異体質? いったいなにを調べるの? わたしのどこがおかしいの? Ωのフェロモンに反応する?


「……橘さん?」


 嗅がされて、調べられる? ――ぞわっと肌が粟立つ。



「――亜希!」


 前のめりになったわたしの身体を、背後から支えて抱き起してくれる腕。広く固い胸に力なく背中を預けたわたしの髪に、かかる吐息。幼馴染の温かな体温と匂いに、ほっとしている自分がいる。




「ありがとう和泉君、たすかったわ。橘さんは校内にいる間ベッドで休んでいたほうがいいわね。和泉君、お願いがあるんだけど、橘さんに手を貸してあげてくれない?」


 わたしの脈をみていた先生が話し終えるや、ふわっとわたしの身体が持ち上がった。何事が起きたか理解が追いつかない。――間近で注がれる視線と、わたしの身体を支える固くて暖かい感触と……


 なんと貴晶がわたしを横抱きにしていた。軽々とわたしを抱えベッドへと運んでいく。わたしも固まったけど、先生も相当びっくりしている。先生の表情があんまり情けなくて。恥ずかしいんだけど、恥ずかしいとかおろしてとか言ってられる状況じゃなくなってるあたり……



「……まだ、渡辺の臭いが残ってる」


 ベッドに腰をおろしたわたしの胸元に、貴晶が離れるどころかぎりぎりまで、ぐいと顔を寄せてきた。一瞬ひるんで、そういえば美雪ちゃんがわたしの身体にしがみついていたことを思い出す。


 貴晶……美雪ちゃん、の匂いだから?


 ……って? え? ぇえええーー? ――αの嗅覚、怖ッ! もう結構な時間がたってるのに。こんな汗まみれになったわたしの体操着の臭いと、美雪ちゃんの残り香をかぎ分けるなんて。


 ドン引きしているのは、わたしだけではなかった。ベッドへ運ばれた後もなお密着ぶりを見せるわたし達の様子に、先生の表情かおがますます引きつっている。



「着替えたほうがいいな。亜希、更衣室のロッカーの鍵」


 貴晶はわたしと先生の困惑と狼狽などお構いなしだ。ここでもたもたしていたら、貴晶が自分で探しはじめかねない。

 それはまずい。先生の手前とか関係なしに、……さっきよりさらにまずい。


 ごそごそとわたしがズボンのポケットの奥からロッカーの鍵を取り出す。受け取った貴晶はそれを先生の方へと差し出した。


「というわけで、先生お願いします」

「――え?」


 咄嗟に意味をはかりかねたらしい先生に、貴晶は容赦がない。


「……さすがにこの時間ならだれもいないですかね? 女子更衣室」


 次の瞬間、鍵をくるくると回して立ち上がりかけた貴晶を、先生の手が必死で押しとどめていた。



 明石先生は、男性の一般養護教諭の田所たどころ先生を呼びつけると、いくつか保健室で作業するよう指示をしてあわただしく保健室を出て行った。

 明石先生は田所先生よりずっと若い。わたしが今回初めて保健室でお世話になって知ったことには、Ωやαの第二次性の問題に対処できる資格を持つ明石先生のほうが田所先生より立場が上なんだそうだ。

 このガタイの良さなら貴晶を抑えられる――明石先生がそう踏んでわたし達の見張りに田所先生を残していったのだと思うと、黙々と仕事をこなすその後ろ姿に合掌したい気分だった。




 着替えのときにざっとだけど身体を拭かせてもらった。さっぱりして、気持ち的にもいくらか楽になった。枕元にあった髪ゴムを見つけて、首の後ろで髪を括る。そうすると気が引き締まった。ネクタイは、「もう帰るだけだし、しなくていいんじゃね?」という貴晶の言葉に甘えさせてもらった。



 帰り支度の整った頃合いで、保健室の扉の向こうから声がかかる。


「和泉、タクシー来てるぞ」


 片桐君の声だ。

 貴晶が右手に自分とわたしの鞄を持ち、左手でわたしの手をとり保健室の外に出る。

 


 廊下でわたし達を待っていた片桐君と正面から向き合って、貴晶の握ってくれている右手に我知らず力がはいった。

 貴晶と片桐君の身長はほとんど変わらない。片桐君のほうが心持ち高いという程度だ。だから彼を前にするとわたしが身構えてしまうのは、彼が高身長……という理由はあてはまらない。

 

「橘さん、もう大丈夫なの?」


 少し前かがみに片桐君に話しかけられ、ちょっと怯んでしまった。気遣ってもらってるのに、失礼だな、わたしってば。


「……はい」

「よかった」


 片桐君の思いがけず気さくな笑顔に見入ってしまった。


「あ、ありがとう」


 片桐君と挨拶以外で言葉を交わしたの、これが初めてかも。わたし彼に怖そうなイメージ勝手に持っていたけど……

 貴晶の友達だもんね。いい人なんだよね? きっと。



「片桐。タクシー裏門?」

「ああ、待ってもらってる」

「サンキュ」

「貴晶、タクシーって?」


 学生のわたしが親のいないところでタクシーを利用したことはない。流れ的にわたしのためなのだろうと見当はつくものの、不安のほうが先に立つ。

 料金のことはもちろん、そもそも制服着た高校生だけで乗せてもらえる?



 ――え? なに?


 片桐君の眼が、信じられないものを見るような色に変わった。

 わたしを見て、それからゆっくりと。


「担任が、同僚の先生から車借りて自分で送るって言ってたんだけど断った。おまえ昔から車酔いひどかったし、プロの運転のほうがまだマシだろ? で、担任に頼んで呼んでもらった」


 わたしへと向けられる貴晶の視線。


 貴晶、気づかないの? 片桐君が貴晶のこと見てるよ。貴晶のこと……すごい眼で見てるよ。

 わたしがちらちらと、貴晶と片桐君とへ交互に視線をさまよわせて訴えてるのに、どうして気づかないの?


「安心しろ、そのくらいの金はある。家には義姉さんだっているし」


 違う。そんなこと心配してるんじゃない。


「それに……おまえ」



 貴晶の左手がするりと、わたしの右手から離れる。すぐに大きな手が、わたしの目の前をおおった。

 

「見てられないくらい、ひどい顔してる」


 え? そんなに? 自覚してなかった。それは……そうだよね。

 にしても……。そこまで、ひどい?


 急速に気になりだした懸念に、一時いっときわたしの意識から片桐君の存在がどこかへ行ってしまった。

 うつむいた私の左肩に、そっと貴晶の手がまわる。


「そんな姿で、街中を歩かせられないだろ?」


 あやすような貴晶の声がまた、近くなった。労りとからかいの色とが混じった貴晶の瞳が、わたしを覗き込む。

 貴晶の腕が、優しくわたしの背中を押してくれて。

 わたし達は前へ、歩き出した。







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