第4話 少女の敵 其の九
少年の精一杯の戯言はやはり少女の耳には届かない。
ヒュン、と風を切る音が少年の口を黙らせる。矛が彰の顔先で止まる。
「……、れよ、――黙れよ、三下。知るか、……知るかよ。んなこと。お前の価値観なんて知らないんだよ、言ったでしょうが! 私は人外という存在自体が嫌いだって!」
蓮水の瞳に殺気の光が篭る。
それでも、彰は言葉を続ける。今のこの状況がどういうことか何て、誰が見ても、不利な状況ということが分かる。なのに、言葉がすらすらと出てくる。甘い言葉が、優しい言葉が、残酷な言葉が、次々に出てくる。
「俺を憎むのは勝手だ。お前にとって人外を庇う俺が“悪”だっていうなら、きっと俺は“悪”だ。でも、人外だからって、それだけで……殺すのは止めろ」
悪いことだから止めろ、って言っている訳じゃない。そんな正論を言うほど子供じゃない。ただ、
どうしても、止めてほしい。
もちろん一人の人間の言葉で信念が変わるほどのことじゃないのも分かっている。それでも、
言葉を続ける。たった一つの戯言を――
「『嫌い』だって理由だけで殺すのは止めるんだ」
蓮水は小さく呟く。
「解除、飛車」
矛よりも凶悪な一撃を持つ飛車の拳を彰の腹に刺す。何度も、何度も、何度も――
なのに彰はさいころどころか、拳さえ握らない。『戦わない』と言わんばかりに、一切、拳を握ろうとしない。
それが蓮水にとってどれだけの侮辱になるか、それすら分からない。だから彰の言葉がどれだけ残酷か、少年には分からない。
だったら、死を目の前に晒してやろう。
「、あああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
死ねばいいと思っていた相手がどうしてこうも憎らしいのかも忘れ、何度も少年の腹を殴る。全ての内臓物でも吐き出せば『戦う』か! なら、吐き出させてやる!
機械のように、同じ動きで、同じ角度で、彰の腹を殴る蓮水は感情を吐き出すように吼える。
「、え……、戦え! そして死ね!」
自分でさえこんな感情に出会ったことのない蓮水は、吼えるしか出来なかった。
「戦え、戦え、戦え、戦え!!」
右の拳、左の拳、右の拳、左の拳。何度も腹を殴る。
それでも、彰は拳を握らない。
「……っ、――!」
電池が切れるように、蓮水の動きが止まっていく。それでも、殺気が蓮水を動かせる。右の拳で彰の腹を思い切り殴る。ぬいぐるみでも殴ったような空しさが拳に宿ってくる。彰は殴られた反動が出てきた。腹を押さえながら、崩れ落ちていく。
「あ、……ぐ……」
喧嘩に勝ったのは蓮水だ。
なのに、唇を噛みながら顔を歪めているのは勝者である蓮水の方だ。
(何だ……これは、!)
殺したい相手が今、目の前に、弱って、声を歪ませているというのに、
どうして、
(殺せない、っ――!)
もう一度、矛でこの男の心臓を貫けばいい。たったそれだけのことだ。今までやってきたことをすればいい。なのにどうして出来ない。
やり方を忘れたように蓮水は困惑する。手が固まり、足が固まり、思考が固まる。
「めろ、……」
声が聞こえた。もちろん蓮水自身の声ではない。憎らしい少年の声。ずっとつぶやき続けていたのだろうか。
「や……め……ろ……」
今にもかき消そうな声だ。その弱りきった声は蓮水の耳に届いてしまった。
「な、……に、を……」
無意識に返事をしてしまった。聞かないと決めた言葉に耳を傾けてしまった。
「………………」
蓮水の返事に彰が答えるこはなかった。そのまま彰は気絶したからだ。死んだように動かない彰を見下ろしながら蓮水は固まる。
「喧嘩はあなたの勝ちみたいね……」
固まった蓮水の後ろに首輪を小さめのリングを指で回転させるように遊びながら笑っている死霊の姿があった。
蓮水は振り向くことさえしなかった。どうやって首輪を取ったのか、そんなことさえどうでもよかった。
アリスは笑いながら話す。
「思った通り……あなたの勝ちよ? もう少し喜んだらどうなのよ」
勝ち? これが?
「あなたの方が強いと思ったもの。喧嘩はあなたの勝ち。予想通りにね」
幾度とアリスは蓮水がこの喧嘩を勝ちという。だが、
「……、どこ、が――、」
納得など出来る訳がなかった。凍り付いていた感情に一気に熱が帯びる。
「どこが、……どこが勝ちだ!!」
蓮水はアリスに振り向き、吼える。アリスは静かに目を閉じながら、彰の元へと歩いていく。
「この状況が物語ってるじゃない? 彰はぼろぼろ、あなたはピンピン――、一〇〇人に聞いてみなさいよ。一〇〇人が一〇〇人あなたに軍配を下すわね」
確かに傷一つ付かずに、蓮水は命を賭けた喧嘩に勝った。ならどうしてこんなに心が晴れない。殺したい相手を追い込んだ。なのにどうして、負けただなんて思う。
「さあ?」
そう笑うアリスは彰の元まで来ると、しゃがみこむと、彰の顔を優しく指の腹で撫でる。そして彰の腕を取ると、自分の肩に持って行く。
「彰は優しいからね、……ほっとけなかったんじゃない?」
「、……だれが、だ、」
アリスは笑いながら、立ち上がる。そして蓮水に向かい、
「……“あなた”と、……“私”のことが」
そう言いアリスは彰と一緒に姿を消した。
その場には唇を噛み砕きそうになるほどの顔を歪ませる少女だけが残った。
次で4話が終わります。長かった……