第4話 少女の敵 其の四
闇が町を包み始めた頃、アリスはとある少女を見つけた。
焼け焦げた町の中でヘッドフォンをしながら音楽を聞いている少女の姿があった。その光景は明らかにおかしい。音楽を聴くのはどうでもいい、ただ、場所がおかしい。戦場の中で音楽を聴く余裕があるほど人間は精神が出来ていないはずだ。なのに、この少女はどうだ。この場がいつもの光景のように、変わらない日常のように、少女は無表情に音楽を聴いている。
「あなた本当に人間?」
彰と別れて、人外の気配が消えた場所に来たアリスの目の前には彰とほとんど年が変わらないような少女がいた。戦場には似つかわないほどの華奢な少女だ。しかもそれが、ただの人間。アリスは少し驚いた。
少女がぴくりと動きを止めると、アリスの方へとゆっくりと体を向ける。短く切られた茶色の髪の周りが陽炎のようにぼんやりと赤く鈍く光った。
(霊力はそこそこ……)
向かい合うように立つ二人の少女。
ひとりは死霊。もうひとりはただの人間。この光景がアリスには面白く感じた。
アリスを目視する少女のつりあがった茶色の瞳に光が挿す。少女は半歩下がると、何かをアリスに向けて風を切りながら投げた。
アリスは投げられたブーメランでも受け取るように右手で少女が投げた何かを受け止めた。
「何? 監禁趣味でもあるの? 危険人物ですか、……まあ、危険っちゃ危険よね。人外たちにとっては――ね」
受け取った物は犬の首輪のようなものだった。とてつもない霊力の込められた拘束具のようなものにも感じた。
「あんたは、」
少女はゆっくりとヘッドフォンを外していく。そして何かを確認するようにアリスを何度も見眺める。
「……ふ、」
そして確信を得たように、小さく頷く。
「なにかしら?」
嘲笑を浮かべる少女にアリスは上に立つように、霊力を少しだけ漏らしてみる。しかし少女は動じることもなく、ただ笑った。
「人間に飼われている哀れな人外……ならよかったのにね」
「なら私は何だと思う?」
「人間に飼われる人外」
アリスは静かに目を閉じると、一度だけ笑った。
「私のこと知ってるみたいね」
「死霊でしょ? 最悪最低の人外」
「酷い言い草ね、そんなに嫌い? 人外たちのこと」
そうアリスが問うと、少女は唇の端を噛み締める。そして感情を飲み込むように、
「ええ、殺したいほどに――ね」
町の空気が全てが少女を賞賛するように、賛同するように、そして死霊を蔑むように風がアリスに押し、舞う。
少女の人外に対する敵意はこの世の全てを恨むような、独りよがりなものだ。それでもその思いがどんな思いよりも強いと、それはとてつもないプレッシャーとなる。押しつぶされるような殺気がアリスに笑みを零れさせる。
「そういえば聞きたいことがあるのよね」
少女は押し黙る。
「さっき言ってたわよね、人間に飼われる人外って」
「ああ」
少女は悪ぶれる様子もなく小さく首を縦に振った。
「その人間ってのは知ってるの?」
敵意が更に強くなった。人外に対する敵意よりも一〇倍も一〇〇倍も強くなった。そして小さく呟いた。
「知ってるさ、」
声がどんどん大きくなっていく。
「知ってる……ああ、知ってる……知ってる知ってる知ってる、」
闇を切り裂くように少女は吼えた。
「私が殺すべき男だ! あの“偽りの日本最強”のな! 青鬼彰!」
少女はアリスの奥の幻影を見ていた。何よりも憎むべきの青鬼彰のことを。
アリスは黙ったまま動かなかった、人形のように、話をただ聞いていた。青鬼彰というアリスがこの世界で一番愛する名前が出てくるまでは。
「今……言ったわよね、うん。言った。聞いてた。あんたは言ったの、確かに、言った」
顔から全ての笑みが消えた。あるのは“ヒト”としての全てを消し去った“死霊”の顔。
「私は今までの罪を忘れない。だから私のことをいくらクズだのカスだの言われても構わないのよ。けどね、許せないことがひとつだけあるの。それはね――」
今まで押さえつけてきた殺気を全て吐き出すように、少女に向かい、小さな体を向ける。
「彰のことをバカにされるのがどうにも耐えられないの」
殺気で相手を殺せるなどというが、まさにアリスの殺気がそれだった。脅しも同情も通り越した圧倒的な殺気は心臓を握られているように、命を握る。ただの人間なら失禁すらしてしまう。しかし少女は動じなかった。
それにアリスは少し驚いた。拍子抜けしたアリスはぷつんと糸が切れたように力を抜いていく。
見た目華奢な少女が不気味に感じた。感情がない人形のように感じたからだ。そして、この少女に力の差を見せ付けたかったからだ。自分の信じる偽りではない正真正銘の“日本最強”の。
アリスは今まで握り締めていた首輪を眺める。そして小さく笑うと同時に頷く。
「ふふ、あなた本当に彰を殺せるなんて思ってるの?」
あまりも馬鹿馬鹿しい質問だった。アリスは自分自身の言葉に笑いがこみ上げてくるのを感じていた。それでも少女は、ごく当たり前のように、
「当たり前だ、あんな運だけ男」
そう言った。それが起爆剤になった。
「じゃあ分かるといい。自分の未熟さを」
そう言いアリスは首輪を自分の首につけた。全身の力が抜けていく。自分が人形になっていくようだ。指を動かすことも、筋肉を動かすことさえもつらくなっていく。
「馬鹿か、アンタ? 自分からそれを付けるなんて、馬鹿の極みだ。どういうものか分からなかったのか? それでも死霊か」
少女はアリスをあざ笑うが、アリスはそれ以上に笑った。
「餌になってあげるって言ってるのよ、哀れなアンタのね」
「餌……はっ、」
右手で顔を隠し、大きく笑う少女。
「ははっ、――何? アンタどこまで馬鹿なんだか。自らを餌にする鼠がどこにいる? 何を企んでる」
細い指の間から見える目は微塵の光もない。
「まったく、少しは善意というのを知りなさいよ。あんたにチャンスをあげるって言ってるのよ。一生来ないチャンスをね」
「チャンス?」
この状況だけを見れば不利な状況にいるのはアリスだ。しかし、アリスの顔は自らが上にいるように少女をあざ笑っている。それが酷く少女を苛立たせた。手の中にあった何かを握りつぶすと少女の右手から巨大な矛が炎に包まれアリスの頬を掠める。ちりちりとアリスの髪を焦がす。それでもアリスは笑う。ずっと、笑う。
「怖い、怖い」
顔は笑ったままで、不気味なほどの笑顔。
「弱ったあんたを殺すことだって今の私には出来る。命を握っているのはあんたじゃない、この私。それを理解出来ないなら、あんたは獣以下。そうでないなら、その薄ら笑いをやめろ人外!」
矛の刃をアリスのすらりと伸びた首元にあてがう。アリスは命を握られようとも笑うことを止めない。ゆっくりとアリスは腕を上げて、自らの髪をいじる。その行動すら少女には鬱陶しい。腹立たしい。少女は自らの唇の端を噛み切る。
「止めろって言ってんだよっ! この人外がっ!」
左手の甲でアリスの頬をはたく。音も頬の赤みも少女の念がにじみ出た証だ。それでもアリスは笑うのを止めない。
「何が怖いのかしら?」
「っ、――!」
その言葉が少女の中の記憶を呼び覚ました。
人外に対する圧倒的な殺意。少女は小さく俯くと、
「分かった……」
本当に小さく呟いた。
「これ以上翻弄されてたまるか、貴様ら人外どもに、」そう呟く。
矛が炎に包まれ、消えていく。
「お前がそんなにあの男の死を望むなら見せてやる。あの“偽りの日本最強”が無残に骨になる様を」
少女はゆっくりと振り向く。
「なあ、“偽りの日本最強”さん」
少女の後ろ数メートル先に、
「アリス!」
そこに“日本最強”と呼ばれる少年がいた。