カップ
コーヒーの湯気が漂う、日曜日の朝。
いつもより早起きした私は、ダイニングテーブルに座って、いちごのジャムトーストそっちのけで、それとなくテレビを観ている。
流れているのはゴルフの大会の様子だ。普段なら、私が起きる頃には特撮やら女児向けアニメやらが放送しているが、ゴルフの風景なんて普段見慣れないものだから、新鮮な気持ちである。
今、誰ともわからない美人な女性選手が、見事なバーディーを決めた。四番アイアンだのチップインだのはよくわからないが、とりあえず彼女はゴルフが上手いというのは辛うじてわかる。
さて、そんな才色兼備が、うちのダイニングにもいよいよおでましだ。
ドタ、ドタ、ドタ。大きな音を立てて、一段ずつ階段を降りてきた。寝癖のひどい濡れ羽色の長髪が、大きなあくびをする。
姉だ。
「あれ、今日は早起きじゃん」
半開きの寝ぼけ眼を擦りながら、テーブルについた彼女は、物珍しそうに言った。
「まあね」
ぽつりと、一言だけ、しかし少しばかり鼻を高くして、返答。
「ふーん。ま、それが毎日続くといいけどね」
姉はさも興味なさげにトーストをかじった。そしてどうやら水分が欲しかったらしく、キッチンに行ってコーヒーを入れ始める。
インスタントのパックにお湯を注いでいるだけなのに、佇まいはさながらバリスタだ。美人だから何をやっても絵になってしまうのだろうか。
私の姉は、はっきり言って、モテる。私は会ったことは無いけれど、曰くイケメンの恋人がいるらしい。
おまけにスタイルもいい。モデル体型というよりは、グラビアアイドル向きな、グラマーな体つきをしている。いつかの時にスリーサイズを測ったらしいが、バストサイズはHで、それ以外の数値も世の女性から嫉妬も羨望も買うようなものだそうだ。
ふと、自分の胸元に視線を移してみた。……虚しくなった。
やがて姉は、コーヒーを持ってテーブルに戻ってくる。
「そういや、なんでゴルフなんて見てるのさ」
唐突に訊かれた。正直、たまたまテレビをつけたら、ニュース以外にはこれくらいしか放送していなかった、程度の理由しかない。
「まあ、ちょっと最近、興味が出てきたというか」
視線を逸らしながらそう返した。
「ゴルフねえ……、小さい頃はよく連れてってもらってたなあ……」
姉はしみじみと幼少期の回想に耽る。
そういえば、両親が打ちっぱなしに行くのに、時折姉と私とでついて行くことがあったっけ。姉はものわかりがよくて、軽く打っただけで百ヤードとか飛ばしていた。私はまだ小さかったこともあって、ろくに飛距離も出ず、度々くじけて泣いていたのを憶えている。
「ごちそうさま」
昔を懐かしんでいると、いつの間にか姉が朝食を終えていた。
「あ、そうだ。あんた、あとであたしの部屋来てよ。ちょっと用あるから」
皿を片付けながら、姉が言った。
姉の部屋は、我が家の二階にある。
「お邪魔します」
『おねえちゃんのへや』と書いたボードのかけられたドアを開けると、八畳程度の空間が広がっていた。
布団が文字通り折り目正しく畳まれたシングルベッド。少女漫画の背表紙がずらりと並ぶ本棚。姿見、化粧台、ぬいぐるみ、エトセトラ……。
壁際の桐箪笥の上を見る。天井の光を受けて燦々(さんさん)と輝く、トロフィーの数々。獲得した本人さえも、どれが何の大会、何の賞のものか、いちいち覚えてなさそうだ。
「ささ、とりあえずそこにでも座って」
促されるまま、ベッドにちょこんと腰掛ける。
「用って何」
率直に尋ねてみる。
「いやあ、渡すものがあってね」
そう答えて彼女は、勉強机の引き出しから、何か小さなものを取り出した。
「これ、あげる」
姉の手のひらに乗っかっていたのは、金色のゴルフボール。
「これって……」
「うん、あたしが人生でたった一度だけ、ゴルフのジュニア大会に出場した時の賞品」
それは、その大会でたった一人、優れた人間にしか貰えないもの。
「なんで……?」
「なんでって……、特に理由はないけど。たまたま見つけたから、『要らないし』、あんたにあげようかと思って」
少し辟易させられた。軽蔑かもしれなかった。
「いいの? こんな貴重な……」
困惑気味に訊ねてやる。すると、彼女は飄々(ひょうひょう)とこんな返答をしてきた。
「あたしにとっては、何も貴重じゃないよ、それ。名誉だって、あんまり持ってても意味ないし。
あたしは、『自分がいくら駄目人間だろうと』、別に構わないよ。名誉なんていらない。高価なものも、貴重なものも。
というか、散々獲るもの獲ったし、もういいかなって。元々一番が好きってわけでもなかったから。これからは、むしろ一番じゃないほうが『幸せ』に思えるかな。
ま、人間頑張ればなんでも出来るっていう、証明にはなったかな。あんたも、きっと努力次第でなんでも手に入れられるわよ。
それ、キラキラで綺麗でしょ? あんたが喜ぶかと思って。それに、ちょうどゴルフ熱が再燃してきたみたいだし。なんなら、タンスの上のも持ってったっていいんだからね」
……ありがとう。
それだけ言って、私はベッドから立ち上がり、ドアの方に踵を返す。
「今度、久しぶりに打ちっぱなしでも行こうよ」
去り際、姉のそんな言葉を、耳にした。
自分の部屋に戻ってきた。
女子力に乏しくて、なんだか閑散としている空間。
ベッドに寝っ転がって、貰ったゴルフボールを握りしめる。
どうも、昔から姉のことは、あまり好きになれない。
それとも、本当に嫌っているのは、自分自身なのだろうか。
私は起き上がると、自分の勉強机に、黄金色に塗装された球をしまい込んだ。
目尻に、涙を浮かべながら。
その晩。
姉は、ゴルフボールを喉に詰まらせて、窒息死した。