梨乃の憂鬱
今にして思えば、それは夢だったんじゃないかと思うぐらい不思議な体験だった。
それは、私が引きこもっていた時のこと。他人の目が気になり、精神的に引きこもっていた私は、何もかも嫌で、この世界から消えて無くなりたいとさえ思っていた。イジメにあった際、ああすればよかった、勇気を出して言い返せばよかったと後悔するばかり。でも、どんなに後悔しても、もう過去には戻れない。生きているのか、死んでいるのかすら分からない。夢も希望も、何も無かった。
私、立花梨乃は、高層ビルが林立する都心を一望出来るタワーマンションの最上階に、両親と暮らしていた。ここは、イジメによる忌まわしい記憶を払しょくするために、両親がセカンドハウスとして購入したマンション。末っ子の私は、両親に可愛がられていたせいか、人の気持ちを顧みない自己中心でわがままに育ったから、みんなに嫌われていたのに、全て人のせいにしていた。
そんな嫌われ者の私は、食事中も家族と会話せず、すぐに部屋に戻るとパソコンに向かってインターネットをした。私にとってインターネットの世界は、外と繋がる唯一の手段であり、それを心の拠り所にしていたの。
私は、部屋から見える東京タワーを見るのが好き。スカイツリーが建った今でも、東京のシンボルである東京タワーは魅力的で、オレンジ色に輝く東京タワーの夜景を見るのが好きだった。私の寂しい心を映した一人ぼっちの東京タワーは、闇の中にともされた一本のロウソクのように、自分の境遇と重なるものがあったから。だから、東京タワーを見ると凄く落ち着くの。でも、社会から隔絶された環境に慣れてしまうと、社会復帰は困難。そんな孤独で寂しい日々が続いていた。
そんなある日のこと、ふとテレビに映った映像が私を釘付けにした。それは毎年、十月三十一日に開催されるハロウィンの仮装行列。渋谷は仮装した大勢の若者達でごった返していた。
各々が今年はやりのコスプレ衣装に着替え、あたかも主人公に成り切り、誰もが楽しそうにしている。素直にうらやましいと思った。と同時に、私でも出来るんじゃないかとも思った。
そういえば私が小さかった頃、両親に買ってもらった変身ヒロインの衣装を着て、その主人公に成り切っていたんだ。その頃から私には変身願望があったんだと思い出した。
内面は変わることは出来ないけれど、外見だけなら変わることは出来る。そして、外見が変わることによって内面も変われるんじゃないかと微かな期待をした。イジメによって人見知りで引っ込み思案にすっかり変わってしまった性格を直し、本来の自分を取り戻したかった。
そう思った私は、オタクの聖地と呼ばれる秋葉原に興味をいだくようになり、そこに行けば、私は変われるんじゃないかと強く思うようになった。
新年度を迎えた四月、街には真新しいスーツに身を包んだ新入社員が希望に満ちた面持ちで、社会に挑もうとしている。私も彼らと同じように行動を起こしたい。そんな衝動に駆られた私は、自分を変えたい一心で、勇気を出して外の世界へと飛び出した。
秋葉原の電気街口周辺には、いたる所にメイドカフェがあって、店頭ではメイドさんが客引きを行っていた。その光景はアキバ独特のもので、ちょっとした文化とも言える。もはや、メイドカフェは秋葉原の象徴の一つなのだろう。もちろん、一人でお店に入る勇気はない。ましてや女子だけで入ってもいいものなのか私には分からない。ただ、店の外から中をのぞくぐらい。でも、そこから見える店内は、非日常の夢の世界のように映った。ここなら知り合いに会うこともないし、誰にも知られない。ここでなら私でも働けるんじゃないかな。そう思うと、自然と嬉しさが込み上げてくるのだった。
しばらく歩いていると、オタクの街には似つかわしくないアンティークショップがあった。
怪しげな店だとは思いながらも、私はなかば吸い込まれるようにアンティークショップに足を踏み入れた。
店の中に入って私は驚いた。引きこもりの私にとっては、どれも高価な物ばかり。一刻も早く店を出たかった私は、小さな苗を買って急いで店を出た。
こんな小さな苗が、五万円だなんて。あの状況、買ったんじゃなく買わされたんだ。だまされたのよね、私……。
勇気を出して変わろうとしたけれど、その微かな期待は裏切られ、残った物は高価な花の苗だけだった。
ホテルのように広い部屋の、一番日当たりの良い場所に買った花の苗を置いた。
もともとガーデニングが好きだった私は、花の種類や育て方のなどをネットで調べた。メコノプシス・ホリドゥラ。別名、天上の妖精。どんな花が咲くのか、私は花の咲く日を楽しみにした。
開花間近なある日、昼食を済ませた私は足早に部屋へと戻った。
また、両親との会話が出来なかった。ベッドに倒れ込むと、私は布団に潜り込んだ。
いつまでこんなことが続くんだろう。両親の悲しそうな姿を見るのが辛かった。何より、夜が訪れると思うと、怖かった。
夜になるといつもそう、猛烈な孤独感と不安感に襲われるの。誰か、私を救ってほしい……。
ふと、何かの気配を感じた私は、布団を払って窓際を見ると、スーツ姿の男性が苗を見詰めてたたずんでいた。
彼が振り返ると、私の大好きな俳優・松本靖似のイケメン。
見知らぬ男性が立っているにもかかわらず、私には驚きはなかった。その男性が悪い人物には思えなかったから。
「梨乃」
不意にその男性が言った。初めて成人男性から名前で呼ばれ、私はドキッとした。
「あなたは誰? 何故、そこにいるの」
「怪しい者じゃない。俺はあの花の妖精、君が精魂込めて育ててくれた花のね」
見ると、育てていた苗が、あざやかな青色の花を咲かせている。
「じゃーあなたは、あの花の、メコノプシス・ホリドゥラの妖精なのね」
彼の澄んだ瞳を見て、嘘を言っているようには思えず、非現実な話なのに私は彼の話を信じて受け入れた。それは彼が私の理想の男性であったからかも知れない。
「名前は? あなた、名前はなんて言うの」
「名前なんて無いさ、だって、今さっき生まれたばかりだから」
私は、イケメン過ぎる妖精の顔を覗き込みながら、
「ヤスシ、ヤスシでどう?」
フアンである俳優・松本靖にソックリだったから、思わず声に出した。
「ヤスシ、か、気に入った。ありがとう」
ヤスシが深々と頭を下げた。
真顔はクールなのに笑うとエクボが出て可愛い。子供のように無邪気に笑うヤスシに私は自然とひかれる。
ヤスシはどんな時も私の目を見て話す。真っ直ぐな目で見られると、自分に気があるんじゃないかと胸が高鳴りドキドキした。
「君は心を病んでいるようだね。悩みを打ち明けられず、一人で抱え込んでいる。闇の中にさ迷っているんじゃないのかい」
「何故、そんなことが分かるの?」
「俺は勘が鋭いんだ。その予知能力で未来が見える。笑って楽しくお喋りしている君の姿がね。必ず治る。だから、俺を信じて欲しい」
誠実そうな人柄、この人なら誰にも話したことのない悩みや心の寂しさを打ち明けられる。そして、孤独の世界から抜け出させてくれそうな気がした。
「ウーン、まずはストレス発散。日頃の鬱憤を晴らさないと……。嫌なことを忘れるにはお酒が一番なんだけど、お酒なんか無いよね」
部屋を見渡しながらヤスシが言った。
「あるわよ、お酒ぐらい。専用の部屋もあるんだから。でもあなた、お酒なんて飲めるの? 花の妖精なんでしょう。水ならともかく、お酒なんか飲んでも平気なの?」
「俺は君の理想の人間として生まれて来たんだ。だから、主人のように大酒飲み、主人の体質に似るのかな~」
「まあ、私が酒豪だなんて、失礼しちゃうわ」
ムッとした私は思わず口をとがらせた。
「ご免、つい本当のことを……」
「つい本当のこと……ぷっ、怒ってないわよ。むしろ、嬉しいの。私、人とお喋りなんかしたことがなかったから……」
「俺は離れない、いつも一緒だから」
私の手を握り締めながらヤスシが言った。
クールでシャイな雰囲気がカッコ良く、私のハートをキュンキュンさせる。その彼の手を引っ張るようにして自宅にあるホームバーに案内すると、私達はカウンターチェアーに座った。
少し緊張気味のヤスシに私は声を掛ける。
「お客が来た時以外は使わないから、両親が入って来る心配はないわよ」
そう言いながらウイスキーを取り出し、勝手に封を開けてカウンターテーブルに置くと、ヤスシがウイスキー見詰め、香りを嗅ぎながら、
「ウーン、これは二十五年ものかな。熟成年数が長いと、アルコール臭やクセがまろやかになり、飲みやすくなるんだ」
そう私に説明すると、
「あなた、分かるの?」
不思議そうに思いながら、
「ねえ、どうやって飲んだらいいの?」
とヤスシに飲み方を教わった。
「ウイスキー本来の味と香りを堪能するならストレートで飲むのが一番なんだけど、梨乃は初心者だから水割りが良いかな」
「じゃあ、氷と水が必要だね」
私は製氷機にある氷とミネラルウォーターに、マドラーという名のかき混ぜ棒を持って来ると、ヤスシがグラスに氷とミネラルウォーターを入れ、適量のウイスキーを注いでくれた。
一口飲むと、口の中で冷たくも爽やかな味わいが広がり、思わず「美味しい……」と声が漏れた。水割り特有の氷の音が、大人の落ち着いた雰囲気を醸し出してくれる。
ヤスシは氷だけのオンザロックで。今度は私がヤスシにウイスキーを注ぐ。
彼がウイスキーを一口、味わいながら飲んだ。
「軽快な口当たりで、香りやコクのバランスが良く、奥深い余韻が楽しめる。しかも、スッキリした後味、これ、高級品だよ。勝手に開けて大丈夫?」
「気にしない気にしない、ほとんど贈り物だから。一本や二本無くなっていても気付かないわよ」
誰にも気兼ねしない空間で優雅な時間を過ごす。酔いも手伝ってか、気持ち良くなり話が弾んだ。今まで味わったことのない夢の世界に舞い込んだかのような錯覚に陥り、それまでの嫌な思い、憂鬱さが忘れられ楽しさに変わった。お酒がこんなに楽しいものだと、私は初めて知った。
「軽快な喋りと、人を持ち上げる話術、あなた、ホストをやれば儲かるんじゃない」
そう言ってヤスシを見詰めたあと、
「嘘、冗談よ。私、お金に困っている訳じゃないから、気にしないでね」
すぐに言い直したけれど、
「俺が、ホスト……」
ヤスシがボソッと呟いた。そして、私が冗談で言った一言をヤスシは気に留めた。
『ホスト』と言ったことがヤスシを苦しめることになるとは、この時の私には知る由もなかった。ヤスシが全身全霊を込めて私に尽くそうとしていただなんて……
「もっと明るい色の服を着ると良いんじゃないかな」
暗いイメージの私を変えようとヤスシが言ってくれた。
「じゃ明日、お似合いの服、ヤスシが選んでよ」
ヤスシと一緒にいたくて私はデートに誘った。
「約束よ、絶対に行くからね」
酔いが回ってきたのか、トロンとした目で言うと、
「今日はこれぐらいにして、お開きにしようか」
ヤスシが私を気遣ってくれた。
すでに私は酔い潰れていた。悪い酒ではなく、楽しい酒だった。ぐったりして机にもたれ掛かっている私を、ヤスシが抱えて部屋まで連れて行くのを、うっすらと覚えていた。
――私が目覚めると、ヤスシが離れた場所で、壁に寄り掛かり両膝を抱えて静かに眠っていた。
どこまでも主人に対して従順、一線を超えてはならないんだという意志が伝わってくる。
妖精とは分かっている、だから好きになってはいけない。けれども、ヤスシは私の理想の男性として生まれて来た。当然好きだという感情が芽生える。それは自然の流れだった。
翌日、約束通り私達はショッピングに出掛けた。
恋愛経験の無い私にとって、初めてのデート。心ときめかせ幸せ気分、まるで景色が変わったように見るもの全てが新鮮に見えた。
ヤスシが選んでくれた服に着替え、気分を良くした私。でも、彼は違っていた。
「ご免、こういう時は男が払うべきなんだろうけど、俺にはお金が……」
「当然でしょう、生まれたばかりの赤ん坊が、お金なんて持っているはずないじゃない」
「赤ん坊だなんて、酷いな~」
苦笑いのヤスシが頭を掻いた。
通り過ぎるカップルが、イケメンのヤスシに見入っている。釣り合わないんじゃないかという冷めた目線、けれども私は気にしない。私は勝ち誇ったように、強引にヤスシと腕を組み、頭を彼の肩の乗せ体を密着させた。
味わったことのない優越感に浸っている私に、ヤスシが聞いた。
「さて、これからどこへ行こうか、行きたい所はあるの?」
「いざ行くとなると、どこへ、何をすればいいのか悩むわね。う~んと、そうね、映画や居酒屋なんかに行ってみたいわ」
ヤスシは私の願いごとはなんでも叶えてくれる。
映画を見た後、私達は居酒屋に入った。
オープンな場所で楽しみたいと個室を避け、私達はテーブル席に座って酒を酌み交わす。すると、店員が、私の注文した料理を次々と運んで来た。
困惑するヤスシに、私はハッとした。ヤスシは飲み物しか飲めない妖精だということを、すっかり忘れていたわ。
「ご免なさいね、こんな所に連れて来て。あなたが食べれないことを、つい忘れていたわ」
私が言うと、
「いいよ、楽しんでいる梨乃を見ているのが好きだから。でも、こんなに頼んで大丈夫?」
とヤスシは言って心配そうに私を見詰める。
「平気、平気。私、食欲がすごく旺盛で、美味しいものが大好きなの。食は元気の源、食べることで孤独にも耐えてこれたのよ」
ヤスシは食べるふりをして、私に恥をかかせないように気遣ってくれた。でも、さすがにちょっと頼み過ぎたかな、と思いながら膨らんだお腹をさすっていると、声が聞こえてきた。近くの座敷席で女子会をやっているのか、楽しげな声が。
ヤスシが、うらやましそうに見詰めている私に気付いたけれど、
「…………」
あえてヤスシは声を掛けなかった。
「この後、カラオケ、カラオケに行こうよ。私達も盛り上がりましょう。私、一度も行ったことがなかったから」
友達が一人もいない私にとって、カラオケは憧れの場所。でも、ヤスシは違う。曲も歌詞も知らないのに、悪いことをしたと後悔したけれど、不思議なことにヤスシは流行の歌を知っていた。
「凄い! 初めてなのに、なんで歌えるの? しかも、歌上手いし」
ヤスシの歌唱力は抜群で、その歌声に聞き入るほどだった。
「俺は、君を喜ばすために生れて来たようなものだから、梨乃の趣味や、興味のあるものに対応する知識や感性が備わっているんだよ」
「そうなんだ! 甘いマスクに抜群のスタイル、その上、歌がうまいときたら、あなた、完璧じゃない!」
大声で歌うのは最高に気持ち良くスッキリする。デュエット曲で盛り上がり、私は熱唱、マイクを離そうとはしなかった。
一息付くと、上機嫌の私を見計らったようにヤスシが聞いた。
「梨乃は、友達が欲しいんじゃないのかい。居酒屋で、楽しそうにしているグループをうらやましそうに見ていたけど」
ヤスシは知っていた。
「いいのよ、別に。私、一人に慣れているから。どうせ私なんか、心配や祝ってくれる人なんって誰もいないのよ」
諦めに似た弱音が自然と口から出た。
「本当かな、仲間と一緒に馬鹿騒ぎがしたいんだろう」
「理想の男性であるあなた自体、一番興味あるの。だから平気、他には何もいらない。ヤスシがそばにいるだけで幸せなんだもの。こうして、なんの不満もない生活を送っているんだから」
「…………」
再びヤスシは黙ったまま。
「ねえ、いつまでいられるの?」
当然の疑問、恐る恐るヤスシに聞いた。
「持って、一週間……」
「……そう、花と同じかぁ~。確か、一回結実性だったわよね」
「そう、花は一回しか咲かないんだ」
「そう……一回限りなんだね……」
はかない人生、彼を縛りたくはなかった。
思い詰めた表情のヤスシを見て私は、
「そんな暗い顔しないでよ。さあ、もう一曲歌いましょう」
そう言って、ヤスシと声がかれるまで歌い続けた。
そんな中、私の携帯が鳴った。それはお父さんからだった。時計を見ると二十三時を過ぎていた。
私が夜遊びもするのは初めて、慌てて、すぐに帰るからと返事すると、『遅くなっても構わないよ、二人だったら安心だ。なんなら、泊まっていっても構わないぞ、父さん、母さんとしばらく本宅に戻るから、気を遣うこともないだろう』と笑いながら意味不明なことを言った。
二人? 泊まる? もしかして勘違いしているんじゃないかと慌てて言い直したけれど、受け入れてくれない。昨日の真夜中、自宅のホームバーでヤスシと一緒にいたことを知っていたのかも。だって、部屋中ヤスシの匂いがプンプンするんだもの、男の人を連れ込んでいたと思われても仕方ないわ。でも普通、知らない男性といるんだったら、違う意味で心配するだろうけど、何故か喜んでいる様子だった……。
それだけ両親に心配掛けていたんだと思うと、申し訳ない気持ちになる。でも、いつ以来だろう、こうしてお父さんとまともに話したのは。
両親に安心させてあげられたんだと思うと嬉しくなった。全てはヤスシのお陰、そう思った私はカラオケ店を出たあと、
「付き合ってくれたお礼に、何か買ってあげるわ、まだ、店も開いているだろうから」
そうヤスシに言うと、
「そうだな、歌い過ぎて喉がカラカラ、ミネラルウォーターが欲しいな。味が濃くて美味しいからね」
単なる水とだけ答える。
「そんな、水なんかでいいの? 遠慮しないで、もっと高価な物。好きな物を買ってあげるわよ。あなた、ホストのようにキラキラした光物が似合いそうだから、おそろいのネックレスなんか、どう? カードで支払うから、お金の心配はしないで」
「そもそも俺は消える運命、高価なものはいらないよ」
とヤスシは笑って答えた。
植物だから、物欲が無いのは分かる。それは分かるけれど、何か物足りない。もっと私に甘えて欲しいのになぁーと、ヤスシに何もしてあげられないのが唯一の不満だった。
家に帰ってからも二人切り。両親のいないマンジョンで、ヤスシを独り占め出来る夢のような楽しい時間は続く。
世の中は、私達だけのためにあるんじゃないかと思えるぐらい、彼を中心に世の中は回っているような気がした。好きな人がいるってこういうことなんだ、こんなにも幸せな気分にしてくれるものなんだ。幸せって一人じゃ実感出来ない、ヤスシがいるからこそ心が、気持ちが満たされる。その事を知った瞬間、目の前が明るくなり、暗い過去から抜け出せたんじゃないかとさえ思えた。
そして、この時の私は、こんな楽しい日々がずっと続くと信じて疑わなかった。花なんだから、いつかは消えることは分かっている。それを忘れようとしていただけだった……
開花から三日目。
ヤスシと出会ってから、私は積極的に家を出るようになり、性格も明るくなった。私は生まれ変わり、本来の姿を取り戻したのかも知れない。
「今日は、どこへ行こうか?」
いつものようにヤスシが聞いてきた。
「そうね、空気の悪い街中より、環境の良い公園。そうだ、植物園に行かない。あなたの仲間が沢山いるよ」
いつも私のために尽くしてくれるヤスシに、今度は彼のために何かをしてあげたい。今日一日は私が奉仕する番、そんな気持ちでヤスシを小石川植物園に誘った。
小石川植物園は三百年の歴史を持つ日本で最初の植物園で、五万坪の敷地に四千種の植物が栽培されているから、ヤスシとのデートにはピッタリの場所。彼、喜んでくれるかなぁ……。
そんな植物園に遣って来た私達。一歩園内に入ると、周りは全て木々に囲まれ、とても都心にいるとは思えない景色が広がっていた。
園内には丘や池、日本庭園があり、エリアごとに植物の種類や雰囲気が変わる。針葉樹林は都会の中とは思えないうっそうとした場所で、木々の間を通る風が涼しくて気持ち良かった。
「争いの絶えない人間と違って、植物は良いわね、平和的で」
「人間と同じさ、基本、動けないだろう。生まれた場所で、全ての運命が決まってしまうんだ。より多くの光を取り込まないと、栄養が取れず生きていけないから、みんな、しのぎを削って生きているんだよ」
「ふ~ん、そうなんだ。植物も、生きるために必死なんだね」
四季折々の草花と木々を眺めながら散歩を楽しみ、憩いのひと時を過ごす。のんびり出来る静かな場所、周りに気を遣うことなく二人の時間を過ごせた。
遺伝の法則を発見したメンデルゆかりのブドウの木や、有引力の法則をひらめいたニュートンのリンゴの木があり、歴史的に貴重な木々にヤスシはもちろん、私も見入った。
「これが有名な、ニュートンが万有引力の法則を発見するきっかけになったリンゴの木か~、接ぎ木によって繁殖させたみたいだけど、世の中のほとんどがニュートン力学で説明がつくし、人間を乗せたロケットを月に着陸させたのも、万有引力の法則が元になっているんだから、植物が人間に与えた影響って、凄いわね」
木々の中を抜ける小道、園内は緩やかな坂道が多く、運動不足の私にとって、ちょっとしたトレーニングにもなった。
「私、家の中でずっとこもっていたから、こんな短い距離でも息が上がるわ」
突然、ヤスシがしゃがんだ。
「疲れているんだろう、背負ってあげるよ」
ハァハァと息を切らしている私を気遣ってヤスシが言う。
喜んでヤスシの背中に抱き付こうとしたけれど、人目を気にして、
「ちゃんと歩けるわよ、子供じゃないんだから」
思いとは裏腹に、わざと嫌そうに言った。
「遠慮することないよ。こう見えて俺、力はあるんだから」
「もしかして、昨日の仕返し? 赤ん坊だって言ったこと、まだ根に持っているのね。あなたって、意外と執念深いわね」
「違うって、俺はただ、梨乃のためを思って」
「わたしのため? そもそも、あなたのために、ヤスシに喜んでもらおうと思って来たんじゃない」
「俺の、ために……」
主人である私に尽くすために生れて来たヤスシにとって、思ってもない言葉だったのだろう。
「ま、まあ、そんなに深く考え込まなくても……私だってけっこう楽しんでいるんだから、ほんと、気にしないで」
「ありがとう、本当にありがとう」
心の底から私に感謝してくれた。
日本最初の植物園とあって、多種多様な植物が共存している。さすがに希少な花のメコノプシス・ホリドゥラは無かったけれど、似たよう花があり、ヤスシが近付いた。
珍しい花と対面。ヤスシは話し掛けたりはしないものの、アイコンタクトでコミュニケーションを取っているように見えた。植物同士の世界に人間の立ち入る隙はなく、後ろで見守るしかなかったけれど、楽しそうな彼の姿を見ているだけで私も嬉しくなった。
夜が更けようとする頃、ヤスシが遠慮がちに言った。
「ちょっと、出掛けてもいいかな」
「いいも悪いも、私はあなた見張っている訳じゃないんだから、好きに、自由にすればいいのよ。そう私に気を遣ってくれると、息苦しいじゃない」
「俺のわがままを許してくれて、ありがとう」
そう言ってヤスシが出て行き、私は彼を笑顔で見送った。
広い部屋に一人取り残された私、いつものように孤独に襲われ、寂しさが募る。一番そばにいて欲しいヤスシはいない。けれど、ヤスシの短い命、彼を縛ることなく自由に、好きにさせてあげたかった。
せっかく生まれて来たんだから、見たいものぐらいあるわよね……それってまさか、女? いいや、彼に限ってそれは……気になる。
部屋の隅で咲いているヤスシの花に近付いて、私は話し掛けた。
「ヤスシが出て行ったの、あなた、どこに行ったか知らない? お花って、夜に活動するものなの? 人間と同じで、寝るんじゃないの?」
魂の抜けた花に話し掛けても、もちろん返事はない。ただ、寂しい夜を一緒にいて欲しかった。
翌朝目覚めると、いつものようにヤスシが眠っていて、疲れ切ったように熟睡していた。
ヤスシの寝顔を見ているだけで癒される。彼の驚く顔が見たくなり、すっかり恋人気分の私は、ミネラルウォーターの入った冷えたペットボトルをヤスシの頬に当てた。
「ご免、つい眠ってしまって」
「いいのよ、寝ていても。こんな所じゃ、体が痛くなるだけでしょう、私のベッドで寝れば。私は起きるから」
「それは出来ない、君のベッドでは寝れないよ。もう大丈夫、ぐっすり寝たから。何より、君の笑顔から、十分に栄養をもらったからね」
そう言ってヤスシは起き上ると、大きく背筋を伸ばした。
「一体、どこに行っていたの? ずいぶん遅くまで帰ってこなかったけれど」
「それは…」
言い難そうなヤスシに、
「いいのよ、言いたくなければ。誰だって、一つぐらいの秘密はあるもの」
と言って、返事仕掛けたヤスシをさえぎった。
ヤスシは嘘の付けない性格。本当のことを知るのが怖くなり、あえて返事をさえぎった。
その夜も、また次の日もヤスシは同じ時間に出掛けた。一体、どこに出掛けているのか。
まさか、女のところ? 大好きなヤスシだからこそ、他の女性との繋がりを少しでも感じると不安になる。
真相を確かめたくて、私はヤスシを尾行、こっそりと後をつけた。
気付かれないように彼のあとを密かに付いて行く。けれどもヤスシは妖精、人混みを避けるようにスゥーと消えた。
携帯など持っている訳もなく、消えたヤスシの追跡は不可能だった。でも私はホッとした。知らない方が良い場合もあるのだと。
自宅に戻った私は、久しぶりにパソコンを開いた。大好きな『松本靖』のキーワードを検索し、掲示板を見ていたら、『新宿・歌舞伎町に松本靖が夜な夜な出没』という投稿に目がとまった。どうやらネットで話題になっているらしい。まさか……。
私の住む六本木から、新宿まではかなりの距離。世間のことを知らないヤスシが、歌舞伎町なんて場所、知るはずない。きっと別人、そうあって欲しいと願いつつも、確かめたい。
私は居ても立っても居られず、都営大江戸線・六本木駅から電車に乗って新宿駅へと向かう。
新宿に降り立った私は、書き込みに載っていた場所を目指して歩いた。
そして、東洋一の歓楽街と言われる歌舞伎町に遣って来た私は驚いた。そこはホストクラブ、日陰でひっそり生きる私にとって、最も縁の遠い場所だったから。
私の中の情報では、歌舞伎町は危険で怖そうな場所、だと思っていたけれど、何かのイベントがあるのか多くの人だかり。しかも若い女性ばかりだった。
やっぱり別人だ、ヤスシがこんな所に来るはずないもの。そう自分に言い利かすも不安が募る。
そんな私の耳に、彼女達の会話が聞こえてきた。
『今日は会えるかな、やすしに』
『やすしは指名料が高いけど、私、貯金を全部下ろして来たんだ』
『噂では、やすし、彼女がいるって話だけど、一体どんな娘だろうね。きっと芸能人よ』
一帯はやすしという人物の話題で持ちきり。彼女達のお目当てがやすしだった。
彼女達に「やすし、やすし」と連呼され嫌な予感がした。私は人混みをかき分け前に進んで行く。
店の前には、在籍ホスト全員の写真とプロフィールが載っていて、ナンバーワンホストがやすしだった。
悪い予感は的中。彼女達の会いたがっていた人物が、私の愛する妖精のヤスシだった。
理由が分からず頭の中が真っ白になる。唯一考えられるのは女。そう思うと動揺し、激しい絶望感に襲われた。と同時に、信じていた者に裏切られ、抑え切れない怒りが込み上げてくる。
ヤスシは私が育てた妖精、私の、私だけのものよ! ヤスシを他の女性に取られたくないという嫉妬心が、一層強くなっていった。
深夜に帰宅したヤスシが驚いた。ぐっすり眠っていると思っていた私が起きていたから。
「いつも、どこにいているのよ! 私が知らないとでも思ったの!」
私は激しい口調でヤスシを問い詰めた。
「それは……」
思いもかけない言葉にヤスシは動揺し、思わず視線をそらす。
「私には言えない理由? そりゃそうでしょうね。多くの女性に囲まれ、チヤホヤされていたんだから。根暗な私なんかより、派手な女性が好みなんでしょ! 何よ、私の幸せを一番に考えているって言ってたくせに、私をだましていたのね。あなたを信じた私が馬鹿だったわ!」
日頃の不満をぶちまけた。
「嘘じゃない、嘘じゃないんだ。俺にとって梨乃は、何よりも大切な存在なんだ。こんなこと、主人に対して絶対に言っちゃいけない言葉なんだけど、あえて言うよ。俺は梨乃が好きだ、大好きなんだよ」
「じゃ、キスしてよ! 私を抱き締めてよ、好きなんでしょ! 今、好きって言ってくれたじゃない」
「俺は妖精、いずれ消え行く運命。君には幸せになってもらいたいんだ。だから、抱けない」
取り乱した私をなだめるようにヤスシが言う。
「じゃ、一緒に寝てよ。それぐらいならいいでしょう。セミダブルベッドだから、二人でも十分広いし、お願いだから私を一人にしないで、不安なのよ。一人になるのが嫌なのよ」
なりふり構わずヤスシを誘った。
「分かった、分かったよ、梨乃」
覚悟を決めたヤスシが近付いた。
「ちょっとぉ、スーツ着たまま寝る訳、服ぐらい脱ぎなさいよ」
ヤスシがおもむろにスーツを脱ぎ、タンクトップにボクサーパンツの下着姿になる。思わず私は見詰めた。
普段、キャシャな体付きに見えたヤスシだったけれど、鍛え抜かれた肉体美に私はウットリ。強烈な色気を放つヤスシに、一瞬、抱かれたいと思った。
「ん? もっと脱ごうか、この先が見たいんだろう。梨乃のして欲しいことはなんでもするよ」
いつもと違う私の視線を感じてか、ヤスシが言った。
「ば、馬鹿言わないでよ! この私が、男の人の裸に興味ある訳ないじゃない。ただ私は、あなたと一緒にいたいだけなの。余計なこと言わないで、早く入って来なさいよ」
ムキになって言ったあと、慌てて上体を起こし、
「言っとくけど、エッチがしたいんじゃないからね。あくまでも、そい寝してもらいたいだけ」
と、誤解を解こうと言い直した。
「もちろんだとも、じゃ、失礼します」
ヤスシが、遠慮がちにベッドに入った。
ヤスシから放たれる匂いや肌の温もり、更に生きている証の鼓動が伝わってくる。ヤスシは人間そのもの、私の理想の男性。だから、自分で誘っておきながら、動揺しドキドキした。ヤバイ、ヤバイ、自分でも感じられるほどの強い胸の鼓動。どうしょう、悟られてしまう。
この時の私は魔法に掛ったみたいに何も言えず、身動きが出来なくなり、ヤスシとの立場が逆転したんだと思った。そして覚悟した、ヤスシのなすがままにと。
ベッドの中でヤスシと向き合い見詰め合った。私の乱れた髪をなでながら、「綺麗だよ、梨乃」とヤスシに言われ、緊張の頂点に達した。思わず私は目を閉じる。
けれども、何も起こらない。えっ、このサインで何もしない訳?
「安心して、何もしないから」
私の心を見透かしにようにヤスシが言った。
期待と不安とが混じり合い、緊張していた私だったけれど、肩透かしを食らった。でも、この流れを止めてはいけないと、心のどこかで期待している自分がいる。このままじゃ、なんの進展もない。何かアクションを起こさなければと思って、
「ねえ、女の私が言うのも変だし、恥ずかしいんだけど、握ってもいい? 落ち着くの」
今の私には、手を握っていいかを聞くだけで精一杯、緊張の余韻が残ったままの私が言うと、
「え! そんなに欲求不満が溜まっていたなんて知らなかった。気付いてやれなくてご免、好きにしていいから」
一瞬、驚いたヤスシが照れながら言う。
彼の仕草にピンときた私は、恥ずかしさのあまり、顔を背けながら、
「欲求不満? 何、勘違いしているのよ! 手、手を握っていいのか聞いたの。私がそんな卑猥なこと言うと思っているの! それに何よ、好きにしていいって。なんでも素直に受け入れないで、恥ずかしいなら拒みなさいよね」
私の紛らわしい言葉に振り回されるヤスシ。
ついつい不満がこぼれる。私が欲求不満だなんて……でも彼の言う通りかも。イケないことだとは分かっている。ヤスシと出会って僅か数日、普通なら純潔を守るべきなんだろうけれど、湧き起こる性的欲求抑を押さえ切れない。だって、こんなイケメンと一緒にいるんだもん、自然とそうなるよ。
「ぷっ、そそっかしいのは私と同じ、ドジなところが似ちゃったようね」
私が笑いながら言うと、ヤスシも釣られて苦笑い。
笑いで魔法が解けたのか、本来の自分を取り戻し、思っていることが自然と口から出た。
「でも、あなたの言う通り、この流れだと、エッチとかするんでしょうね。愛を深め、そして、結婚ってこともあり得るんでしょうね……」
何故人間じゃないの、と口の先にまで出掛ったけれど、私はその言葉を飲み込んだ。
「そもそも、あなたって興奮とかするの?」
「そりゃ、するさ。大好きな梨乃とこうしていると理性が抑え切れなくなる。俺だって一応、男だからね」
「じゃあ、今まで我慢していたって訳、まったく、どこまで従順なのよ」
呆れながら言った私は勇気を出してヤスシの手を握り、自らの胸の上に彼の手を乗せた。
慌ててヤスシが手を引っ込めたけれど、私はその手を強く握り締めて言った。
「私ね、あなたが大好きなの。だって、私の理想の男性だもの」
「俺も梨乃のことが好きだ。好きだからこそ、幸せになってもらいたいんだ」
主人に好きという感情を持って生まれて来たヤスシ。私達は両想い。でも、結ばれない運命。お互いドキドキはしたけれど、それ以上の進展はなかった。
けれども、私の体は僅かに震えている。
「大丈夫だって、何もしないから」
「うん、分かってる。夜はいつもこうなの、一人でいると、もの凄く孤独に襲われるの。怖いのよ、夜が。だから一人にしないで、もう、出掛けないと約束して、私を一人にしないと約束して、お願いだから」
思わず不安を漏らす。昼間は明るく気丈に振舞っていたけれど、夜になるといつもそう、ヤスシが出掛けた後、私はいつも寂しい思いをしていたんだと告げた。
「……分かった、約束するよ。梨乃をこんなに悲しませていたなんて知らなかったから……もう離れない、ずっと一緒だよ」
夜がいつも不安だった私にとって、手を握り一緒に寝てくれるヤスシに安心したのか、深い眠りについた。
いつものように夜が明けた。なんら変わらない朝、開花から七日目を迎えていた。
目覚めた私が振り向くと、ヤスシがいる。私との約束を守って、ずっとそばにいてくれた。
すでにヤスシは起きていた。いえ、あれから一睡もしていないのかも知れない。彼は天井を見詰めていて、その表情は思い詰め深刻そうだった。私はハッとした。今日がヤスシの最後の日だったんだと。
私はヤスシの寿命を忘れていた訳ではなく、忘れようとしていただけだった。
「……今日が七日目、最後の日じゃないの。あなた、消えちゃうんでしょう」
重い口を開いてヤスシに聞くと、
「そう、今日が、俺にとって最後の日なんだ……」
神妙な面持ちのヤスシが言った。
今日は出掛けることなく、ずっと部屋にいた。私達はソファーに座って寄り添った。
私はいつまでもヤスシの手を、しっかりと握り締めていた。彼が消えないために。
もう直ぐヤスシは消える。それって、死ぬことなのよね。隣で話をするヤスシを見ていると、想像も出来ないくらい元気そうだった。
そんな私の脳裏に、ふと過去の悲劇が浮び自身の境遇と重なった。『神風特攻隊』を、ある記事で読んだことがある。死に行く息子を、恋人を目の前に、どんな思いで出撃の日を迎えたのだろう。きっと彼らも私と同じ思いだったに違いない。
だとしたら、どんな顔をして見送ればいいの。死ぬのよ、消えて無くなるのよ、私には耐えられないよ。
「消えるの、怖くはないの? 死ぬことなんでしょう」
「さあ、どうだろう、この期に及んでもまだ実感が無いんだ。全ての生き物は、生き抜くために痛みがあり、恐怖があるようだけど、俺は生まれると同時に死ぬ運命、恐怖は無い。何より、精一杯生きたから悔いは無いんだ。でも……」
そう言ってヤスシが悲しそうな目を私に向ける。
「私? 私は一人でも平気、こう見えてもしっかり者だから、心配しないでよ」
と私は笑いながら強がって言ったけれど、ヤスシには、私の心の中が見えているんだ。
「梨乃、何がしたい? なんでもするよ」
「これからも、ずっと、ずう~っと一緒にいて欲しい」
「出来る限り、努力する……」
ヤスシの力の無い返事が返ってくる。
「……してもいいわよ。どうせ、我慢していたんでしょう。私ね、あれからずーっと考えていたの、どうしたらあなたが生き残れるかって。早い話、子供をつくっちゃえば良いんじゃないかって。私、シングルマザーとしてやっていく自信はあるのよ」
「馬鹿なことを考えるもんじゃないよ。仮に生まれたとしても、植物と人間の子供だよ、可哀そうだとは思わないのかい」
「だって、このままじゃ消えて無くなるのよ、あなたの生きていた証が何も残らないじゃない」
このままじゃヤスシは消えて無くなり、私と過ごした楽しい思い出も何もかも消えて無くなる。だったら、
「これは、主人である私の命令よ、と言ったら、してくれる?」
ヤスシを引き留めようと無意識のうちに言ってしまい、驚いたヤスシが固まった。
言った後で、男の人って朝から発情するものかしら? と男の生態を知らない私は言ったことを後悔するも、ヤスシが私の心を察したのか、笑みを浮かべながら、
「ちょうど良い時間だな、そろそろ出掛けようか」
深刻な話をさえぎるようにヤスシが話題を変えた。
「出掛けるって、行くところがあるの?」
不思議に思う私の目を見詰め、「嫌?」とヤスシが聞いた。
「嫌だなんて、どこまでも、どこへでもついて行くわよ。ねえ、どこ? どこに連れて行ってくれるのよ」
「秘密、秘密だよ」
ヤスシが意地悪く言いながら笑った。
ヤスシに初めてせがまれ、断る理由はない。ヤスシはもう直ぐ消える運命。私達はあえて笑い、とことん楽しもうとした。
「まだ大丈夫、ほら、花は咲いているだろう」
ヤスシの花は枯れずにしっかり花を咲かせていた。
ヤスシに誘われ、部屋を出た。そして、行き先を聞かされないまま、ある場所に遣って来た。そこはヤスシが働いていたホストクラブだった。
昼の十三時、営業時間にはほど遠い時間。
「こんな明るい時間から開いているの?」
「ちょうど二部を過ぎた頃、一部の開店時間である十八時までは、まだ時間があるから大丈夫、本番は、メインイベントはこれからなんだから。オーナーには許可を取っているから心配しないで。お店に迷惑が掛るといけないから終了時間だけど、一応、貸し切りなんだ。あ、でも、お金のことは気にしないで、もう支払っているから」
「……じゃ、この日のために働いていたって訳、呆れちゃうわ。でも、お店を貸し切り? 一体、いくら稼いだのよ」
「秘密、それこそ秘密だよ。イベントの前に気を遣ってもらうと、台無しになるからね」
「その言い方だと、かなり儲けたんじゃないの。それじゃあ、借金までしてあなたに会っているとしたら、私……」
「心配ないよ、裕福なお客としか会わせてくれなかったから、不幸になる子は誰もいない。それこそ、梨乃の一番嫌がることだからね」
ヤスシの謎の行動が明らかになり、すべては私のために寝る間も惜しんで働いていたのだと知った。
売り上げ成績の良いヤスシは店の代表に気に入られていて、その代表の許可を得て、営業を終了した店を貸し切っていたのだった。
「だったら、言ってくれればいいじゃない。あんなに嫉妬することもなかったのにぃ~」
「言えば、俺の体を心配して引き止めると思ったから。君は優しいからね。俺は不器用で、こんなことしか出来ないけれど、少しでも慰めに、梨乃の気を紛らわせたくて。あの時、ホームバーで飲んでいた君の楽しそうな姿が忘れられなかったんだ」
「呆れるわ、まったく……分かっているわよ、そんなこと。ありがとう、本当にありがとう。こんなサプライズ、想像もしていなかったわ……あなたを、大好きなヤスシを疑ったりして、ご免、本当に、ご免なさい……でも、ホストクラブだなんて、無理していたんじゃないの? いくら酒に強いからと言っても、あなたは水しか飲めない花の妖精、何故、そんな無茶なことするのよ」
「本来の君は、お喋りなんだ。人と話すのが好きで、仲間と騒ぐのが夢なんだろう。ただ、忌まわしい過去の記憶から抜け出せないでいるだけで、こうして切っ掛けさえ与えれば、君は立ち直るはずだよ。本当は、君を救ってくれる仲間、信頼出来る友達を作るべきなんだろうけど、俺の短過ぎる命では、仲間を作ることは叶わなかった。だから、形だけの仲間を呼んだんだけどね」
「すべては、私のため……そこまで……」
うっすら涙を浮かべながら言うと、その涙をヤスシが指でぬぐってくれた。
「梨乃には涙は似合わないよ。笑って、俺のために笑って欲しい」
私達が部屋の中に入るとクラッカーが鳴り、手荒い祝福を受けた。
『梨乃さん、おめでとう!』
『梨乃ちゃん、誕生日、おめでとう!』
ヤスシが、私の誕生日だと偽って開いたパーティ。ヤスシの人柄の良さに、在籍キャスト(従業員)全員が居残って、このイベントを成功させようと協力してくれた。
「梨乃は独りなんかじゃない、こうして、みんなが君を祝ってくれているだろう」
ヤスシは女性だけでなく、こうして男性にも好かれるようだ。だからなのか、みんな、ヤスシのために協力してくれるのだろう。
店中のキャストが一斉に集まり、高級シャンパン持ってシャンパンコール。そして、シャンパングラスをピラミット状に積み上げ、一番上のグラスからシャンパンを注いでいくパフォーマンスを行った。とても高価なシャンパン・ドンペリニョンが惜しみなく注がれていく。
シャンパンタワーは豪華さの象徴、今まで見てきたものの中で最も美しく綺麗、ライトアップされた東京タワーを間近で見ているようだった。
キャスト全員が私に話を合わせ、良い気分で酒を飲ませてくれる。
「いくら飲んでも心配はいらない。帰りは車で送ってもらうことになっているから、好きなだけ飲んでも良いんだよ」
隣で座っているヤスシが笑顔で言って、私にお酒を勧めた。
酒には強いほうだったけれど、場の勢いで飲んだせいか、私の許容範囲を超えてしまったらしい。一気に酔いが回り強烈な眠気が私を襲った。
私が目を覚ますと、何故か自宅のベッドで寝ていた。
少し開かれた窓から明るい陽が部屋に差し込んでいて、清々しい風が頬をかすめる。
彼の温もりが、匂いが……消えるその瞬間までそばにいてくれたんだ……なのに、なのになんで寝むってしまったんだろう、私……。
愛するヤスシはこの場にはいない。ただ手紙だけが残されていた。
『まずは、隠し事をしていたこと、嘘を付いていたことを謝りたい。結果はどうあれ、主人である梨乃を騙していたんだから。梨乃と過ごしたこの一週間は楽しいものであり、動くことの出来る人間として俺を育ててくれたことを、言葉に出来ないくらい感謝しています。どんなに梨乃を好きでも、妖精と人間は結ばれない定め。それは分かっている。残り少なくなっていく命が、あと一日、あと数時間と長くなることを願っていた。だけど、俺の本当の願いは、主人である梨乃が幸せになること。俺のことは忘れて、自分の幸せを見付けて欲しいんだ。君は、自分が思っている以上に魅力的で、綺麗なんだよ。お喋りも得意で、何より人を楽しませ、その笑顔は人を幸せにする。自然体の君に戻りさえすれば、あとは磁石のように人を引き付け、仲間が寄って来るだろう。だから、もっと自信を持つべきなんだ。きっと、俺より優しくて素晴らしい男性に巡り合う、そんな気がしてならない。その彼と幸せになることこそ、俺の願いであり、俺が生まれて来て良かったと思えるんだ。慌てないでゆっくり前に進んで欲しい、君の進むべき未来には、きっと素晴らし人生が待っているのだから。最愛の主人、梨乃へ』
花は枯れていた。あっけない幕切れだった。開花から七日目、それは文字通り命を掛けたヤスシのイベントであり、私と共に、夜明けを見ることなくヤスシは露と消えたのだった。
「こんな別れかったって……あなたのことを忘れるはず、忘れることなんか出来る訳ないじゃない!」
枯れた苗に向かって私は叫んだ。
ヤスシと過ごした七日間の楽しかった日々は、私の脳裏に鮮明に焼き付けられ消えることはないだろう。ヤスシへの思いは一層強くなり、私が幸せになるという、彼の願いは叶えられそうにない。
私は涙がかれるまで泣き明かした。そして決心した。彼を蘇らせるため、生まれ故郷に行くことを……
今にして思えば、夢なんかじゃなかった。
ヤスシは私に教えてくれた。踏み出した先に自分の進むべき道があると。彼の言葉通り、勇気を出して秋葉原に向かった時から、運命の歯車が動き出したのかも知れないな。孤独に悩まされていた私が、自らの手で幸せをつかんだんですもの。
何故なら、その場に、将来の御主人様、いいえ、旦那様であるタッくんがいのだから。
そして、ヤスシが彼に会わせてくれた。
「あのう~、もしかして、貴方は日本人じゃないですか? そうですよね」
船上で再びタッくんと出会い、私は思ったわ。彼が運命の人なんだと。