旅立ち
病気が回復した僕は、新しい仕事を見付けるために街を歩き回っていた。
残り少ない貯金を工面しながら、僕はこれまでの生活態度を改め、身なりを正した。
あれからというもの、マユのいない部屋は物静かで、ガラリと変っていた。花は枯れ、彼女もいつかは消える運命だった。それは分かってはいたが、突然、僕の目の前から消えたのである。僕の気持ちが大きく揺れ、どうしたらいいのか分からない。何も手が付かず、混乱する一方だった。
でも、花は咲く。本体さえあれば、また咲き、再びマユは僕の目の前に現れるのである。一年待てば花は咲き、マユと会えるんだ。そう思い頑張って行こう。と心に誓った矢先、ある事実を知ってしまった。
花の鉢が小さく可哀想だと思い、一回り大きな鉢に栄養のある土壌を入れて交換しようとした時だった。鉢の裏に何かラベルのような物が張ってあり、そこには原産地と花の説明が書かれていた。
『メコノプシス・ホリドゥラ。一回結実性植物。原産地・ブータン』
原産地はブータンだったのか、マユのメイド服が民族衣装に見えたのも、そのせいなんだな。そういや、ブータンって最近聞いたことがある……幻の蝶が八十年ぶりに見付かったという話をニュースで聞いた。花の妖精が生息していても、なんら不思議ではない気がするな。
この花の名前、メコノプシス・ホリドゥラって言うのか、と花の名前が分かって喜んだのも束の間、問題は次の説明だった。
一回結実性? まさか、花は一回しか咲かないのか!
嫌な予感がした。直ぐさま僕は、インターネットの植物図鑑で調べた。
『一回結実性は、一度だけ実を結び、のちに死ぬ。花は一生に一度しか咲かない植物』
そこには、生涯に一度だけの開花、基本的には開花後に植物は枯れる、とそう書かれていた。
嘘だぁ! それじゃー……一度切りで、もう二度と咲かないなんて……。
動揺を隠せない、不安は募るばかりだった。
そうだ、原産地のブータンに行けば、ブータンに行けさえすれば、気候や土壌などの環境が適しているから、元気を取り戻して、再び開花するかも知れない。
一筋の希望が見えてきた。更に、メコノプシス・ホリドゥラの詳しい情報を調べた。
『メコノプシス属。西ヨーロッパと中央アジア・ヒマラヤの高山地帯に分布し、五十種類近くが知られている。種の多くが開花後枯死する一年生植物で、環境には敏感で、継続して栽培するのが非常に難しい。高山帯が原産地のため、暑さには極端に弱く、日本では夏が越せず栽培は難しい。中でも、メコノプシス・ホリドゥラは、高山地帯であるヒマラヤでも、標高四千メートを超えた地域にしか生えず、天上の妖精・幻の青いケシと言った異名がある。分布域は中国奥地からヒマラヤまでと幅広く、経済発展した中国では、標高四千メートルを越えた地域にまで高速道路が出来たので、そうした場所に行けば道路の路肩でも見ることが出来る』
そうインターネットの百科事典に書かれていた。その説明に僕はホッとした。遠方のブータンにまで行かなくても、旅は中国止まりで済みそうだと。
百科事典に載っていた、花に適した中国の高山地帯に行けば、きっとマユの花は咲くはずだ。そう確信した僕は居ても立っても居られず、海外渡航を決行する。
昔の僕だったら、いくら好きな子に会いたくなったとしても、外国にまでは行こうとしなかっただろう。きっと殻に閉じこもって何もしなかったはず。行動させたのは、マユがこの世の誰よりも掛け替えのない存在であり心の支えとなっていたからで、そんな彼女にもう一度会いたい一心で、僕は後先のことを考えることなく突き進む。だがそれは、僕にとって遥かに遠い道程なのである。
持って行く物は、国際間の移動に必要な旅券と、何より大事な『マユの花』、あとは寝袋などの必要最低限の持ち物だけ。でも、それだけの軽装備でもリュックサックはパンパンだ。
交通機関は飛行機ではなく、料金の安い船。僕は高所恐怖症で飛行機に乗れないから船を選ばずを得ないのだが、何より肝心のお金が無い。僕は無職、残り少ない貯金をはたいても遥かに足らない。それでも、足りないお金は両親や友達から借りた。
そんな情けない僕は、運が良かった。中国行きの貨物船の中で働き、お金を稼ぎながら不透明な滞在費を捻出出来たからである。
東京港の品川コンテナ埠頭で、貨物船からの積み出しの手伝いから始まり、そして積み込と、肉体労働はキツくて辛いものだったが、マユに会いたい一心で耐えることが出来た。
こんなに必死になったのはいつ以来だろう。いや、初めてではないだろうか。無我の境地ってやつ。ほんと、こんなに頑張れる自分に驚いている。人間やれば何でも出来るんだな。きっと、彼女の存在が僕を強くしてくれたんだろう。
長い航海の末、貨物船は中国・上海港に入港した。
国内旅行とは違って、ここは異国の地、中国。一番困ったことは言葉の違いだった。中国語も英語も出来ないのに、僕には頼れる者がいない、案内するガイドもいない、何もかも自分でやらなければならない海外一人旅なのだ。
当然、不安や恐怖心はあるが、看板の漢字は表意文字なので字を見ただけである程度の意味が分かるし、なんと言っても文明の利器、携帯の翻訳機能がある。それを使って中国語にすることで、僅かながらも僕を助けてくれるのである。
上海市の中心部まで来ると、『上海站』と書いてある看板を頂く巨大な建物が見えきた。正式名称は上海火車站。中国では火車は列車を意味し、站は駅を意味するそうだ。どこから入っていいのか分からないぐらい巨大な駅舎で、中国は何もかもスケールがデカい。
そこから、上海・成都間を走る長距離列車、中国大陸を東西に走る中国国鉄の鉄道路線を利用し、一気に奥地へと向かう。もちろん、二等寝台だが。
三段式のベッドの一番下が今夜の寝床で、ベッドは狭いものの、一息付ける安らぎの場所だった。国土が非常に広大なため、寝台車は二日間に渡って走る。寝台列車はそれまでの疲れを癒す場であり、ひと時の休養が得られたのだった。
ふと、僕は西遊記の三蔵法師を思い出した。孫悟空や沙悟浄、猪八戒の弟子達に見守られながら天竺まで旅をするという物語。そんな三蔵法師とは違って、心強い見方は一人もいない。強い味方がいない代りに、僕には知識がある。現代には妖怪などの怪物は存在しないという知識が……待てよ、妖精のマユが存在していたのなら……いやいや、マユは妖怪のたぐいなんかじゃない、僕の天使なんだ。その天使であるマユに会うため、行動を起こしたんだ。
でもこれは、安心安全なツアー旅行じゃない。危険を伴う孤独な一人旅なのだ。それでも自分が選んだ道、今更引き帰る訳にはいかない。死んでも悔いはないとさえ思った。
やがて、長距離列車は中国西南部に位置する四川省に入った。四川省は、三国志で有名な劉備が建てた蜀の国で、天府の国と呼ばれるにふさわしい豊かな自然が広がっていた。またここはパンダの生息地、ひょっとしたら、パンダに遭遇するかも知れないな。
さすがは四千年の歴史を誇る中国。至る所に旧所・名跡があり世界遺産もある。人の流れが途切れない。当然のことながら僕は観光で来た訳ではなく先を急ぐ。
川蔵公路南道と呼ばれる国道沿いを、僕はマユの花が咲き誇る場所を求めてひたすら歩く。時折、バスを使うことはあるが、帰り分の費用を考えると無駄には出来ない。だから歩きが中心だ。現地の人とは言葉が通じず、コミュ二ケーションが取れない。そうした気遣いが予想以上に体力を消耗させる。けれども、情報を得たくて身振り手振りで花の場所を聞いて回った。
山奥を進んで行くと、茶馬古道と呼ばれる幅一メートルほどの苔の生えた石畳の道が姿を現す。別名、西南シルクロードと呼ばれる茶馬古道は、茶をチベットの馬と交換したことから名付けられた道で、三千キロに渡って延々と続く交易路である。
茶馬古道には二本の主要なルートがあり、その一つが、ここ四川省・雅安からチベットのラサへと通じるルート。四川の雅安から標高五千メートルを超える高原を横断し、チベットのラサへと数千キロに渡って続く過酷な道。
名称からして神秘的そうな道だ。こういう道端にマユの花が咲いてそうだな、と否応なく期待が膨らんだが、古道の名残はたった十五メートルしかなく、うっそうと茂る木々に阻まれ、それ以上どうしても行けなくなってしまった。
仕方なく諦め、僕は来た道を引き返すと、川蔵公路南道へと戻り、再び国道沿いを歩いて行く。
まずは二朗山を越えよう。二朗山は茶馬古道の中でも、一番の難所と呼ばれた険しい山で、四千メートル級の次郎山を超えて、チベット文化圏の入り口である康定市を目指す。
そんな一人旅をする僕の後ろで車のクラクションが鳴った。家族連れの車が僕の横で止まり、親切に乗せてくれた。異国の地でも、親切な人はいるものだと感心。ありがたかった。
岩山のような険しい山の間を車は走る。そして、しばらく走っていると、全長四一七六メートルの世界一高くて長い二朗山トンネルが見えてきた。このトンネルが出来るまでは、二朗山を越えるには一日掛けての大変な移動だったそうだ。長いトンネルを抜けると雪国だった、と冒頭の有名な文書があったが、果して何が待ち構えているのだろう。
車はトンネルを越え、待っていたものは以外にも検問所だった。
そこでは軍人による検問があり、ツアー参加ではない外国人の通行は出来ない、とのこと。
一瞬緊張が走った。彼らの決断次第では、この旅も終わってしまう。そんなことになれば、もう二度とマユには会えないだろう。後部座席に座っている僕は、彼らとは目を合わさず、息をひそめうつむいたままジッとした。別に悪いことをしている訳じゃない。ただマユに一目会いたいだけなんだ。どうか無事に通れますように、と僕は祈る思いで事の成り行きを見守った。
会話の中で、ポンヨォウと言う聞き慣れた言葉が出た。中国語のポンヨウ(朋友)とは友達だと言うことを知っていた僕は、ここは芝居、芝居と自分に言い聞かせ、強張った表情をほぐし、怪しい者じゃないんですと言わんばかりに愛想良く笑ってその場をしのいだ。
すると、僕の心配をよそに車は動き出した。ドライバーが顔見知りの地元の人だったのだろう、難なく通ることが出来た。僕はホッとしたが、ここは勝手の違う外国、国内旅行とは違うことを思い知らされ、緩んでいた気持ちを引き締めるのだった。
程なくして目的地、康定市に到着。そこは小さな川に沿って開けた谷底の小さい町。街には民宿のような客桟と呼ばれる、ホテルよりも格安の料金で泊まれる施設があり、今夜も野宿しないで済みそうだ。
中国大陸の奥地ともなると、虫や鳥、カエルなどの大合唱が響き渡り、都会の騒音とは別世界の賑やかさだ。大自然の息吹を肌で感じる。
時期は春を過ぎ夏に差し掛かっていたが、日本とは環境がまるで違う。初夏を迎えた太陽が、突き刺さるように照り付ける。やたら熱く、花が枯れないか心配で、常に水の心配をしなくてはならない。
そろそろマユの花に水をやらなければと思い、僕は水を探し求めて森の奥へと続く林道に入って行く。
しばらく歩いていると、水の流れる音が聞こえてきた。水の音に導かれるように、僕は音のする方に近付く。そこには湧き水が流れていた。
まず先にマユの花に水を与え、そのあと、ワンバーナー(コンロ)で湯を沸かし、昼食のラーメンを作った。もちろんインスタントだが、携帯の保存食としては重宝する。自宅では簡単に出来るカップラーメンをよく食べていたが、それだと場所を取り携帯には不向き、だから安くて場所もとらず、ゴミの少ない袋麺を多く持って来ていた。
こういう場所こそ威力を発揮するインスタント食。お湯だけで、こんなに美味しいものが食べられるなんて、と発明者に感謝、じっくり味わって食べた。
アウトドアー経験の無い僕には、簡単なラーメン作りにも難儀したが、人間と違って植物は水だけで生きていけるんだなぁ、そう考えると、なんて効率の良い生き物なんだろう。動き回ることは出来ないが、苦労続きの僕からすると、実にうらやましい。
大量に汗をかいたせいか、体がベタ付き気持ち悪い。食後の体が温まった状態で、僕は体を拭いた。湧き水は痛いぐらいの冷たさで、素っ裸になり、気合いを入れて体を拭く。ふと、マユに見られているような気がして、僕は慌ててマユの花をリュックサックの中に入れて隠した。疲れてはいたものの、恥ずかしがる気持ちはまだ残っていた。
やがて、遥か遠方に最高峰のエベレストらしき山脈が見えてきた。空気が薄く霞が無いので、遠くのものがハッキリと見える。まさに絶景と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。だが、感動に浸っている暇は無い。そもそも僕は観光で来ている訳ではないのだ。一刻も早く花を探さなければ、いずれ苗自体が枯れてしまう。早く花を、マユの花に適した場所を見付けたい。祈る気持ちで僕は歩き続けた。
標高が高くなるにつれ環境は厳しさを増した。昼夜の気温の温度差が激しく、体が悲鳴を上げる。街明かりも無い。急に心細くなってきた。
お金はあるが、当然、コンビニなどは無い。ここは、文明からかけ離れた場所であり、当たり前のように便利で快適な生活に慣れ親しんできた僕は、いかに普段、恵まれた環境の中にいたのかを痛感させられるのだった。
幾度となく根を上げそうになったが、ここまで来れば、進むも戻るも同じこと。何より、マユの花がある。マユがそばにいてくれていると思うと、不思議と勇気が湧いてくる。
人生初めての野宿も経験し、ここまで来たのだから、マユの故郷であるブータンを目指したい。ヒマラヤ山脈を頂く秘境、ブータン王国。花が咲くだろう最奥地の秘境を目指してひたすら歩いた。僕は自らの危険も顧みず、一心不乱に歩き続けた。
順調に進んでいた僕の前に、最後の難所というべき山岳地帯が立ちはだかる。山脈が何本も並行して走る山岳地帯、そこは少数民族が住む秘境。そして、その奥に広がる高原。美しい大自然だが、生きていくにはとても過酷な環境だ。でも、僕にとっては厳しい環境だが、マユの花は、こんな環境の中で育ったんだ。確実にマユの故郷に近付きつつあった。
ここからはほとんど山登りと同じ、標高が高いせいか、すぐに息が上がる。当然、進む距離も短い。追い打ちを掛けるように、一帯に深い霧が立ち込めてきた。
人間の進入を拒むような険しい道。下をのぞくと、見えないぐらい深い谷底が、不気味な姿を現した。目がくらむ高さ、のぞき込み耳を澄ませば、底の見えない深い渓谷から川の流れる音が聞こえてくる。もちろん、落ちると命の保証はない。でも、今更引き返す時間は無い。日が暮れるまでに、次の村に着かないと遭難する恐れがあるからだ。
危険を犯して悪路を進む。僕は超が付くほどの高所恐怖症だが、一帯を覆い尽くす霧が恐怖心を掻き消してくれた。その反面、足元が見えづらい。谷底へと落ちる恐怖に怯えながら、慎重に一歩一歩進む。
斜面の谷を越えようと、険しい岩壁に手を、不安定な足場に足を掛けた。体重を乗せた途端、足場が崩れ出し、足を取られ体勢を崩した僕は、崖下へと万歳の格好で滑り落ちて行った。
「ワァーー!」
叫び声が渓谷内にこだまし、そして、消えた。
僕が意識を取り戻すと、周りはすっかり暗くなっていた。
マユは?
幸いなことに、背を上に向け滑るように落ちたため、リュックサックの中のマユの花は無事だった。
マユが無事で良かったと胸を撫で下ろすも、僕には絶望という二文字が待ち受けていた。
川のせせらぎが聞こえる。一帯は川の流れる沢で、雪解け水を源流とした水がふもとの川へと流れている。水気が体の熱を奪うため、非常に寒い場所だった。
疲労困ぱいのうえ、その場所から離れようにも足を捻挫していて一歩も動くことが出来ない。言葉が通じず場所も分からない、日本とは大きく違う環境、大自然の猛威が襲い掛かった。
一縷の希望を抱いて中国に遣って来たが、行き着いた場所は、まるで死後の世界……。こんな所で、死ねない。生きて日本に帰るんだ。僕が死ねば家族が悲しむ。何よりマユが悲しむはずだよな。
まずは一呼吸、落ち着こう。僕は大きく深呼吸をして、沈んだ気持ちを入れ替えた。だが、現実は絶望的だった。昼間とは温度差が違う。寝袋だけの軽装備で、しかも普段着のまま出掛け、大自然に挑もうとしていたのである。自分は馬鹿だったと、後先を考えずに感情や気分に任せた無計画な行動を今頃になって後悔する。無謀な冒険は死を招くということを。
……ここまで来て、これからだっていうのに……僕はいつもそうだ、何をやっても中途半端なんだ。
漂う水気が僕の体温を容赦なく奪っていく。あまりの寒さに意識が遠のき、腫れていた足の痛みも感じなくなった。昔よく聞かされた話、こごえるほどの寒さの中で眠ると人間は死んでしまうのだと。僕は死を覚悟した。
ふと空を見上げると、星が綺麗に輝いていた。大気が澄んでいるせいか、都会の夜空とは違い満天の星空だった。
僕はリュックサックからマユの花を取り出すと、最後の力を振り絞って、花を天高く持ち上げマユに星を見せた。
「君は夜空を見るのが好きだったね、ここだとよく星々が見えるよ。満天に輝く星達よ、どうか僕の願いを叶えて下さい。マユをもう一度蘇らせて欲しい……もう僕は駄目みたいだ……マユだけでも助けて欲しい」
僕は沢山の流れ星に願いを込めた。
もう、駄目だ……最後に一目でいいから、マユ、君に会いたかった。僕は、基本的に考えが単純で浅はかだったんだ。さよなら……愛しきマユ……。
手足の感覚が無くなり、全身が凍ったように冷たくなっているのが分かる。薄れ行く意識の中で、微かな声が聞こえた。
『御主人様、大丈夫ですよ、私が護ってあげます。でも、もう私のことは忘れて下さい。これからは御主人様ご自身のために生きて下さい。それが私の最後の願いです。さようなら、そして、ありがとう。大好きな卓也様』
……あれは、幻聴だったのか? 確かに自分のために生きて下さいと……。そして、僕は再び意識を失った。
――これは夢なのか? 僕は生きているのか……。
僕は奇跡的に助かった。どうやら、通りすがりの村人が助けを呼んでくれたらしい。
どこかの部屋の中、見知らぬ人が僕を覗き込んでいる。辺りを見回すと、そこには多くの村人が集まっていて、意識を取り戻した僕を、自分のことのように彼らは喜んでいる。言葉は通じないものの、心の底から喜んでいるのが分かった。彼らは皆、親切で思いやりがあり、温もりのある村人達に僕は護られていたのだった。
見知らぬ異国の地で、この人達と出会えた僕は、本当に運が良かった。
質素だが、この地域に根付く食材を使った郷土料理は美味しいもので、囲炉裏を囲んで皆と味わう食事は大そう贅沢だ。
よく母さんが言っていたことを思い出す。昔は何も無かったけれど、母さんが小さかった頃は、近所の人達とは家族同然の付き合いをしていたから、住みやすくて良かったと。彼らを見ていると、便利なものと引き換えに、何か大切なものを失ってしまったのだと気付かされるのである。
花を大事そうに抱えていたのを覚えていて、家長らしき人が「付いて来い」と言っているような仕草で僕を誘い、若者が僕を支えながら外へと連れ出した。
そこは一面のお花畑。ん? この光景、どこかで見たような……。そうだ、夢で、マユが消えた夢で見た光景だ。まるでデジャブ、夢で見た光景と同じだった。
広々とした畑に、色々な種類の花が生き生きと咲き誇っている。そのかたわらに捜し求めていた『マユの花』が色鮮やかに咲いていた。その花からはマユの匂いが漂い、過ぎ去りし楽しい出来事が走馬灯のように過去の記憶が蘇ってくる。
希少な花だが、この村ではありふれた、どこにでもある花だった。あいにく言葉が通じないので、花の特徴や由来などは聞けなかったが。
マユの花が咲き誇る村で、僕は足が回復するまでの間、滞在することになった。
家族のように接してくれるこの村の人達は、貧しい暮らしをしていた。そんな中でも貴重な食料を誰よりも多く出してくれた。どうして僕なんかに、これほど親切にしてくれるのか? 彼らと生活を共にするうち、本当の幸せがどんなものなのかを分からせてくる。
ふと、何をしているんだろうと思った。厳しい現実を思い知らされた僕は、一人で落ち込んでいたことが恥ずかしく思え、同時に、彼らから元気をもらった。僕は絶望の淵を乗り越え生きて行く力が湧いてきたのだった。
「お礼がしたいのですが」
と僕は言ったが、彼らは、
「わざわざ遠い所から来てくれたんだから」
とでも言っているように、丁重に断った。
「花を探して遥々遣って来たんだろう。何本か持って帰りなさい」
と言われたような気がして、僕は思った。花を探しに来たんじゃない、花を返しに来たんじゃないのかと。
マユが『自分のために生きて』と言ったのはそのことだったのか? それがマユの願いなら、それを叶えてやらなければならない。マユのことは忘れようとしても忘れられない。でも、それが彼女にとって重荷になっているとしたら可愛そうだ。これからは自分のために生きて行かなければならないんだ。
いつまでも甘えてばかりはいられない。彼らにも、そしてマユにもだ。そう僕は強く思った。でも、それを受け入れることは容易ではない。
よくよく考えると、花は故郷に戻りたかったのかも知れない。故郷に帰るため? 今となっては、真相は分からない。きっと何かあって、僕はこの場所に来たんだ。マユの花は二度と咲かないだろう。けれども、この幹の中にマユは宿っている。だから彼女には、一番住み易いこの場所にずうっといて欲しい。そう思った僕は、持って来たマユの花を、花が咲き誇る花畑の真ん中に植えた。沢山の種類の花々に囲まれ、マユの花は楽しそうに風になびいていた。
「仲間に会えて良かったね、いつまでも幸せに」
そうマユに別れを告げ、僕は日本に帰る決心をした。
行きはマユの花を探し求め我武者羅に歩いて来たが、帰りは日本への望郷の念が僕を突き動かした。だが、僕には未だに目指すべき目標が無かった。
僕は、中国・上海港から日本を目指す、国際フェリーのオープン展望デッキにいた。
マユと一緒に撮った携帯の写真を見詰めた。マユとのツーショット写真。
忘れることなんて出来ない、出来るはずないじゃないか。人生で一番楽しかった日々のことを……僕は何を目指して、何を目標にしてこれから生きていけばいいんだ? マユ、教えてくれー!
写真の削除ボタンに指を乗せたまま、しばし考え込んでいると、
「あのう~」
突然、背後から声を掛けられた僕は、張り詰めていた緊張が解け、ハッとして思わず削除ボタンを押してしまった。
一瞬で思い出が消え去った。マユとの唯一の思い出が……。
「もしかして、貴方は日本人じゃないですか? そうですよね」
僕が振り向くと、そこには綺麗な女性がいた。しかも日本人。
僕と彼女の二人がお互いを見詰めて、
「あのぅ、どこかでお会いになりませんでしたか?」「どこかで会いませんでしたか?」
彼女と僕が同時に言った。改めて見ると、僕はハッとした。
「あの時の……」
怪しげな店先で、僕に親切に忠告をしてくれた人だった。
「あの……」
その先の言葉が出てこない。彼女と話したいが、何を話していいのか分からない。
僕達の会話はそこで止まった。しばらく無言のまま見詰め合ったが、気まずくなった彼女が目を逸らし、「それじゃぁ」と言って振り返った。
離れて行く彼女を引き止めることが出来ない。彼女とはこれっ切り、もう二度と話す機会は無い気がした。
『御主人様、何しているんですか、勇気を出して頑張って下さい。もう、独りなん
ですから』
僕の後ろから再びマユの声が聞こえた。
「えっ?」
振り返ると、誰もいない。いるはずもない。そこから見える空は青く澄み渡り、綺麗だった。道中、いつも慌てていたから、こうしてゆっくりと景色を見ることがなかった。実に美しい青空だ。その時、思った。いや、気付いた。マユの究極の尽くしが、僕の自立を促すことだったのだと。
マユが背中を押してくれたような気がして、僕は彼女の期待に応えるべく、
「あのぉ! あの時の花はどうしたんですか? 怪しげな店主が、同じ花を買って行ったと言っていたんだけどぉ!」
と、勇気を出して大きな声で言った。
すると、離れて行く彼女の足が止まり、
「じゃあ、貴方もあの花の持ち主なんだ!」
彼女が振り返り、笑顔で答えてくれた。
離れて行く赤い糸を、僕は自らの力でたぐり寄せた。
「そう、僕は雌花。貴女は、確か雄花だったかな」
そう言いながら僕は彼女の方へと歩み寄る。
共通の話題を見付けた僕達は、椅子に座ってお互いの自己紹介を始めた。非現実な妖精の話しをしたところで、誰も信じてはくれない。不思議な体験をした者同士、話が弾む。
彼女の名前は、立花梨乃。僕より一つ年上の二十一歳。話を聞いて驚いた。家は裕福でお嬢様育ち。そのため、壮絶なイジメに遭い、それが原因で、いわゆる引きこもりになったと言う。
そんなこもりっ放しの彼女の唯一の楽しみが、インターネットの限られた画面の中だけで、世界各地を見て回る海外旅行。色々な想像で各国を旅行していたとのだと言う。
思った通り、彼女の持っていた雄花の花からは、イケメン俳優・松本靖に似たホスト風の男性が現れ、マユと同じように尽くしてくれたそうだ。
「私は家が裕福で、お金には困っていなかったんだけど、愛情が欲しかったの。引きこもりの私を、彼、いいえ、本当の彼なんかいないんだけど、妖精が癒してくれたのよ」
僕が誤解しないように、立花さんが慌てて、彼を妖精と言い直した。
「私、男の人と付き合ったことが無かったから、一緒にいてくれるだけで嬉しかったわ」
彼女は、人生で最も輝く二十歳の記念日、成人式にも参加出来ず、今なお暗い過去から抜け出せないでいる。それに引き換え僕は、孤独とはいえ、故郷には冗談を言い合える友人がいる。分かり合える親友がいるんだ。彼女は一人もいない。どれほど寂しかったことだろう……。
「妖精がよくデートに誘ってくれて、外へと私を連れて行ってくれたの。楽しかったな~、彼といた時が一番幸せだった」
それが彼女の嘘偽りのない言葉だった。
立花さんはこれまでの生い立ちを、包み隠さず話してくれた。僕も自慢しようとしたが、彼女がメイドだとやっぱり恥ずかしい。自分がオタクなのがばれてしまうから、そこはあえて伏せておこう。
「僕にとっても妖精は、素敵な彼女だった。色々尽くしてくれたし、色んな意味で助けてくれたんだ。余りにも妖精に夢中になり過ぎて仕事を辞めてしまったくらい。もう消えちゃったけど、今も心の中にずっと生き続けているんだよ」
彼女もまた、消えた妖精を蘇らせるために旅に出た。彼に会い一心で、殻を破って旅に出ていたのだ。
「人間、追い込まれると、同じことを考えるんだね」
立花さんがそう言って笑うと、僕も釣られて笑った。
「同じ花は見付けたけど、でも思ったの。妖精の花は、この場所で咲いているのが一番幸せなんじゃないかって。最後に言った彼の言葉、『俺のことは忘れて、今度は自分のために生きて欲しい』そう言っていたことを思い出し、私は日本に帰る決心をしたの。そして、自分自身のために生きるんだって」
そう決心はしたものの、守ってくれる妖精はいない。忌まわしい過去の日本には帰りたくはないと、立花さんは飛行機ではなく、あえてゆっくりと進む、のんびりした船に乗り込んだのだった。
初めて会った時は、気弱そうに見えていたのだが、こうして話し合っているうちに、気丈でしっかり者なんだと気付かされる。そんな彼女が、
「大井君って、男らしいね」
「え!」
思わず僕は声を上げた。
この僕が、男らしい……まあ、オタクの中ではイケてる方だけど、でも、信じられない。女の人から初めて言われた言葉で、そんなことを言われると、嬉しい反面、どう反応すればいいのか困ってしまう。
後先考えず、マユのことだけを思って一心不乱に旅して来たけど、今思えば凄いことをしたんだな。彼女が、マユが僕を成長させてくれたんだ。
「立花さんも、しっかりしているよ。よく独りで外国なんか行けるね」
「世界旅行は、子供の頃からの夢だったの。彼がその夢を実現させてくれたんだと思う」
「じゃあ、お互い、妖精の存在が大胆な行動を取らせたんだ」
「でも、それだけじゃない気がする。彼、いいえ、妖精は、落ち込んでいる私を立ち直させるために、大井君に会わせてくれたんだと思うの。今の君だったら、分かってもらえるだろうなぁ」
「僕もそう思う、偶然にしては出来過ぎているよ。きっと、妖精が二人を会わせたたんだろう」
妖精が二人を引き合わせてくれた。進むべき道が無かった自分に、進むべき道を指し示してくれたんだ。
「そうだとしたら、くよくよなんかしていられないね」
僕達は顔を見合わせ大きく頷いた。
不思議なものだなぁ、女の人と普通に話している。こうして対面しているのに緊張もせず、思ったことが言えている。ちゃんと会話が成立しているぞ……。
女性との会話が、自然に出来ていることに僕自身が驚いた。あんなに女の人に対して、極度の引っ込み思案だった僕が……メイド喫茶でも、『ハイ』の一つしか返事が出来ずにメイドさんを困らせ、会話が成り立たなかった僕だぞ……考えて見れば、一週間だったが、マユと同棲していたんだから無理もない。こうやって話すぐらいは簡単なことだよなぁ。
彼女と話をするうちに、つくづく思うことがある。どことなく彼女がマユに似ているんだ。もちろん、容姿は似ていないものの、何もかも包み込む優しさや、人を恨んだりしない真っ直ぐな性格、何より、気持ちが通じ合えそうな気がする。マユを失ってポッカリと大きく空いた穴を彼女が埋めてくれる、そんな気がしてならない。
それは立花さんにも言えることで、信頼出来る妖精のお墨付きを得た僕を、運命の人として映っているんだろう。全てはマユのお陰、彼女が導いてくれたんだ。そんなマユの期待に応えるべく、僕は勇気を振り絞って立花さんに言った。
「今度、今度会いませんか? 是非、休みの日にでも会って下さい。お願いします」
男らしい言葉だった。その言葉はオタク返上を物語っている。
「私なんかで良いの? 独り暮らしだと困っているんだろうな~。じゃー今度、片付けに行くよ」
『今度』という言葉が気になる。社交辞令でやんわりとかわされたのかな、と思っていると、
「その代わり、君って秋葉原に詳しいわよね」
と条件を付けてきた。
「まあ、一応住んでいる場所だから、行きたい所があるなら案内するよ」
「じゃあ、メイドカフェに連れてって、一度行って見たかったの。こう見えて私、コスプレに興味があって、変身願望があるのよ。あっ、今、引いたでしょう、意外って顔したよ」
「へえ~、そうなんだ。でも、引いたりなんかしないよ。僕もメイド喫茶が大好きで、週二回は通っていたから」
と言ったところで、しまったと思った。彼女の誘導作戦? にまんまと引っ掛かってしまった。
「もしかして、君の妖精は、メイドさん?」
と聞かれ、「…………」嘘は付けず僕は目をそらす。
「別に隠すことないじゃない、君が好きなんだから。大井君は、メイドさんのような可愛い系が好きなのね。私ね、男の人ってみんなセクシー系が好きだと思っていたから、君の妖精は、てっきりセクシー女優さんじゃないかと思っていたの。妖精との間に愛情は無く、体が目的だったとしたら、気まずくて引いちゃうでしょう。だから、あえて触れなかったんだけれど、違っていてホッとしたわ」
僕の妖精がセクシー女優? まあ、それはそれで好きだけど、そっちの方が恥ずかしくて言えないよなぁ、と思っていると、
「あっ、そうだ。連絡先、メールアドレス教えて。それと、住所もね。必ず行くから」
思い出したように立花さんが言ってくれた。
やった! 異性の友達が出来た。しかも、芸能人のような美人だぞ。
どこまでも続く青空のように、清清しい気分になれた。今までの鬱憤が一瞬で吹き飛ぶ思いだった。家に帰ったら部屋を片付けなきゃ、真っ先に沢井真由ちゃんのポスターを剥がさなきゃならないな~。もう、オタクは卒業だ。僕は頭を掻きながらそう思った。
「立花さんって美人なのに、本当に彼氏とかいないの?」
嬉しさの勢い余って、つい触れてはいけない言葉を掛けてしまった。
「……それって、私を誘っているの?」
彼女に見透かされ、僕の顔が赤くなる。
お互いが気まずくなり会話が止まったが、今度は立花さんが勇気を出して言ってくれた。
「君のことは好きだよ。妖精に好かれるんだから、きっと良い人なのは分かる、優しいのよね。でも、お互いに、まだ妖精のことは忘れられないでしょう。それに、分かれたからって直ぐにって訳にはいかないじゃない。今は友達以上、恋人未満ってとこかなぁ。私のことも時間を掛けて好きになってくれればいいよ。私のこと、これから宜しくお願いします」
この言葉に僕は襟を正して、
「こ、こちらこそ、お願いします」
心を込めて言った。
「私ね、近い将来、NGO(国際協力に携わる民間組織)の職員になって、貧しい人を救いたい。途上国で、貧困に苦しむ子供達に救いの手を差し延べたいの」
彼女から、悲惨な生活を余儀なくされている子供達のことを聞かされ、自分がなんて贅沢な環境の中で暮らしていたんだと、つくづく思い知らされた。日本にいては知ることが出来ない、悲惨な現状を彼女から聞かされ、現実を知ったのである。別の世界があるのだと。
学校にも行けず、病院にも行けず、僅かな食べ物で飢えを凌ぐ日々。貧困に苦しむ子供達に救いの手を差し延べたい。それは彼らに施しを与えるのではなく、彼らが自立して行くための支えとして人生を捧げる。教育も医療も食事も満足に受けられない子供達のために、NGO活動に参加したい。それが今の彼女の率直な考えであった。
「僕を助けてくれた村人も、安い給料で働かされているんだろうな。当然、子供達を養う余裕も無く、きちんと教育を受けられないでいるんだろう。あの人達は、生きるために今日を精一杯生きているんだ。それに引き換え僕は、一体何をして来たんだろう。当たり前のように、人生にとっての貴重な時間を無駄にしていたんだ」
そう思った途端、なんだか人生が短く思えた。生きたくても一週間しか生きられなかったマユのことを思うと、なんて貴重な時間を無駄に過ごしてきたんだろうと、無性に虚しさが込み上げてくる。
「今回の旅で、目標に向かって頑張っていれば、夢は実現出来るものなんだなーって強く思ったの」
彼女の言葉は、僕の心の中に響いてくる。
「立花さんなら出来るよ。だって僕達、誰も経験したことの無い体験をしたんだから。僕も、花の妖精が住み易い環境になるために力を注ぎたい。世界は思ったより大きくはないし、そこには様々な人間が暮らしている。人間と自然との共生、僕はそれを目指したいな~。今まで考えたことが無かったけど、生きて行く以上、それは一番重要なことなんだと、この旅を通じて分かったんだ」
「人間と自然との共生かぁ……それって大事なことだよね」
「世の中には、お金なんかより大事な物がある。もう、お金に振り回される生活は改めて、自分がやりたいことに進んで行きたい。本当の幸せはお金なんかじゃ買えない、幸せとは皆の笑顔なんだ。人の笑顔は心から嬉しくなれるからね」
「イジメに遭った私には弱い者の立場が分かる。いろんな経験をした分、人の痛みが分かるの。逃げ場の無い辛さを味わったからこそ分かるの、本当の辛さが。今度は私が助けなきゃってね」
立花さんが初めて社会に対して前向けになれたんだ、今度は僕が助ける番だ。
「決めた! 今は無職だけど、僕も、立花さんのその手伝いがしたいな。応援するよ」
社会という大舞台に挑もうとする立花の支えになりたい。自分の足で挑もうとする彼女を支え、力になりたいと強く思った。
別々の道を歩んでいた僕と立花さんが、今、一本の道を歩もうとしている。それまで漠然としか見えていなかった未来が、確かのものに見えつつあった。
この航海は心の疲れを洗い流してくれる休息の場であって、それまでの辛かった人生を癒してくれる、ひと時の安らぎの航海。充電して回復した僕達は、新しい決意を胸に未知なる世界へと挑むんだ。
僕達は寄り添い、どこまでも続く地平線、その更に向こうに見える希望に満ちた世界を見詰めた。
希望の光に導かれ船は進んで行く。快晴微風、波は穏やか。船はゆっくりと日本に向かっていた。