メイドのマユ 秋葉原を行く
気が付くと、僕はお花畑の中にいた。
直ぐそばにマユがいる。突然、マユが走り出した。笑いながら駆け出し、何故かマユは僕から離れて行く。
僕は必死でマユを追い掛けるが、彼女は逃げるように離れて行く。何故? マユは僕の手からスルリと離れ、僕の届かない所に。やがて、マユは消えた。
「マユーー!」
その叫び声で、僕は目を覚ました。
開花から七日目、この日は朝から冷えていた。そのせいか悪寒が、病気の体にはこたえる。
ふと我に返り、窓際の花に目をやると、花はいつもと変らず元気に咲いていた。
そのまま視線をマユに向けると、神妙な面立ちで正座している。何かを言いたそうな表情が、いつもと違う彼女からうかがい知ることが出来た。
「何か、あったの? 僕、何かしたかな……」
嫌な予感がし、あえてマユと視線を合わさずに聞くと、
「あのう……わたくし……」
言い難そうで悲痛なマユの表情を見て、ヤバイ、きっと何かあったんだと僕は確信した。
あの時、何があったんだ? 全く記憶が無い。酔っていた訳じゃないのに、僕は無意識の内にマユを襲ったのかも知れない。
『御主人様、どうしてこんな酷いことするんですか! 何もしないって、信じていたのに、やめてーー!』
抵抗することの許されない、か弱い女性を。つい出来心でした、じゃ済まないだろう……マユ、怒っているんだろうなー。ああ、僕はなんてことをしたんだ。これはマズイ、これは非常にマズイぞ。僕に愛想をつかしたマユが、アパートを出て行くって言い出すんじゃ……。
そんな僕の後ろめたい気持ちを知ってか、マユが意を決したように口を開き、ゆっくりと話し出した。
「あのう、実はわたくし、わたくしも日光を浴びなければなりません。一度切りでいいですから、外に出てみたいのですが……」
なぁーんだ、そうだったのか、良かった。でも、マユの様子がいつもと違う。いつも、僕の目を見て話すんだが、目を合わそうとしない。どうしたんだろう?
「そうだな、君は花の妖精。植物は水と光で光合成をして生きているんだから……いいよ、行っておいで。一緒に行きたいのはやまやまなんだけど、体が思うように動かないんだ。昨日、無理して酒を飲んだせいかな、治りかけた風邪がぶり返したかも」
考えみれば、マユは生まれてから一歩も外に出ていないんだよな。これじゃ監禁と同じ、まるで犯罪者だ。そう思うと、ゾッとした。僕は大好きなマユのことなど気にもとめず、自分のことしか考えていなかったんだ。
「心配いりません。わたくしは妖精、危険なことがあれば消えることが出来ますから」
「そうだよな、僕よりも断然しっかりしている。秋葉原という街は、君のようなメイド姿の子は沢山いるし、その格好で街に出ても違和感はないよ」
日光浴がしたいだなんて、彼女が嘘を言っているのが僕には分かった。正直者のマユは、不自然な言動が丸分かり。そもそも、マユは花の分身。本体の幹の葉が日に当たっていればいい訳で、何故嘘を付く必要があるんだろう……きっと、外の世界が見たかったんだな。
「でも、靴が……女物の靴なんか持ってないし、裸足で出掛ける訳には……」
と案じていると、マユが後ろに隠し持っていた可愛らしい黒色のストラップシューズを僕の目の前に差し出した。
なんで? そっか、マユは妖精、衣服は体の一部ね。じゃあ、なんの心配もいらないか。
「外は寒いけど、天気が良いから日光浴には丁度良いかも。でも、日差しが強そうだから、日焼けには十分注意して、その自慢の白い肌が台無しになるから。だから、早く帰って来てね、約束だよ」
そう言って、横になったままマユを見送ると、
「はい、分かりました。御主人様との約束は必ず守ります」
マユが嬉しそうに笑顔で答え、初めてアパートの外へと出て行った。
マユが出掛けた後、自分の体から彼女の甘い匂いが放たれていることに気付き、ふと寝ているベッドを見た。
そうか、全裸のマユと一緒に寝てたんだよな。あの花畑の夢は、マユの香りが影響してたんだろう。でも、マユが消えるだなんて、なんて不吉な夢だったんだ。これも狭いベッドのせいだ。このままだと本当に限界、性欲を抑えられなくなる。それに、病人と一緒じゃ、マユに風邪をうつしちゃうかも。別々に寝ないと、マユも好きでもない男と寝るのは嫌だろうからな。彼女が生きている間、嫌われないように良い人でいなくっちゃ。試練はこの先も続きそうだ。
もう一台ベッドを買わなきゃ、と僕は頭を掻きながら、他人が羨みそうな贅沢な悩みに考え込んだ。
よくよく考えてみれば、こんな狭い部屋に一日中いられるな……テレビも観ないし、ましてやゲームなんて知らない。マユは、手を擦り切らしながら黙々と掃除していたんだよな、僕に喜んでもらうためだけに。あ、そうだ、今度、植物図鑑の本を買ってこよう。マユがどんな花なのか、楽しみだな。
マユが現れてからテレビを観ていなかった僕は、ベッドから上体を起こすと、テレビのリモコンを取り、久しぶりにテレビを点けた。テレビには偶然にも、憧れの沢井真由ちゃんが生出演していた。
やっぱり可愛いな~、真由ちゃん。それにしてもマユによく似ている、そっくりだ。でも、マユとは違う。マユは僕好みの理想の子に育ったから、世界でたった一人の大事な存在なんだ。本来なら、マユもテレビに出るぐらの人気者になっていたはず、頭が良くて、すっごく可愛くて……僕とは釣り合わないよ。マユは、自分の魅力に気付いていなんだな。だから、僕なんかの所に居続けるんじゃないか……好きでもない僕のために精一杯働かされて、彼女は一体……常々、疑問に思っていることがある。それは何故、君が僕の所に来たのか? それを聞くのが怖かった。だって、『偶然』と言われれば悲しい。何か運命的なことがあって出会えたんだと思いたい……おっと、これ以上テレビを観ると、浮気になっちゃうな。
慌ててテレビを消すと、僕と母さんの二人しか見ていないマユが初めて見る世界、大勢の人が行き交う秋葉原の街で戸惑う彼女の顔が浮んだ……
―― メイドのマユは、初めて外の世界に足を踏み入れた。そこは彼女にとって想像を絶する世界、見るもの全てが初めてで戸惑うばかりだった。
秋葉原のメーンストリートの中央通りが歩行者天国となり、多くの人で賑わっている。外国人観光客が押し寄せ、歩行者天国上でのストリートパフォーマンスを行う者、コスプレ、アイドルのタマゴ達が行き交っていた。
メイド萌えのコスプレが闊歩する秋葉原の街にあって、マユのメイド姿に違和感はないが、別な意味で目立っていた。花には元来、人を引き付ける魅力があり、花の妖精であるマユにも、当然その魅力が備わっている。芸能人と見間違うルックスと存在感で、彼女からトップアイドルとしてのオーラが放たれていた。
通り過ぎる男達は誰もが振り返り、所構わず勝手に写真を撮る者もいた。さながらファッションショーのモデルが、ステージ上の細長い舞台を歩いているみたいで、秋葉原のメーンストリートを独占した。
『おい、あれ、沢井真由じゃないのか?』
『いやー、あれは別人だよ。さっき、生放送で出ていただろ。きっと新人のアイドルだ。でも、凄く可愛いな~、まるで天使のようだ』
『あの娘、彼氏がいるのかな?』
『いるに決まってるだろ、周りがほっとかないって』
『彼氏が羨まし~い、一体どんな奴なんだよ。きっと、イケメンの芸能人だろうな。あんな娘と付き合えるんなら、俺、何だってするのになぁー』
『何かのロケか、映画の撮影で来ているんだろう。気安く声を掛けると、後ろの方から恐持ての監督に怒鳴られそうだ』
『こうして、彼女を見ているだけでも癒されるな~。ファンクラブがあるなら、即行で入って彼女を応援したいよ』
一帯は、芸能人が出現したように騒然とし、瞬く間に人だかりが出来た。
「君、君ちょっと、うちの店で働かない? お金ははずむよ」
赤色の眼鏡を掛けた大柄な男が、マユを覗き込みながら言った。
「おかね、頂けるんですか? でも、わたくし、大事な約束事があって、早く帰らないといけないんですけど……」
「いいよ、少しの時間でも。こっちとしては、君みたいな娘が少しでもいてくれるだけで宣伝になるからね」
早速、マユがスカウトされた。――
ほどなくしてマユが帰って来た。別に変った様子はない。だが、
「少しお手伝いしただけで、おかねとやらを頂きました。御主人様に元気になってもらいたいから、是非お使い下さい」
マユが手渡したお金は三万円。三万円って、高くないか? 一体、どんな仕事をしてきたんだろう……えーと、二時間だったかな、マユが出て行ってから。だとしたら自給一万五千円? ヒエー! 一体、どんな仕事をしてきたんだ? まさか風俗? 僕のために体を売ったんじゃ……マユにはそっちの知識だけは備わっているからなー。気になる、ひじょーに気になる、どんなことをしてきたのか。外で、見ず知らずの男と寝たなんて想像しただけで寒気がする。心配でならないよ。
一瞬、僕はマユの親にでもなった心境に陥った。
「マユ、どんな仕事をしてきたんだい?」
恐る恐るマユに聞いた。
「え~と、わたくしみたいな格好の人がいて、お茶を運んだり、お話し相手になったり」
「なぁんだ、メイド喫茶かぁ」
僕はホッとした。と同時に、三万円ってことは、マユにそれだけの価値があるってことだよな。僕の、僕だけのマユだから当然だ。可愛いマユの顔を見て、僕は納得、他のメイドさんとの格の違いを知ることが出来て凄く気分が良い。でも、三万円……花を買った値段と同じだ。これを使っちゃ、もう彼女に奉仕される資格なんてないよな。それじゃー、単なるヒモだよ。
そう思った僕は意地を通した。「マユ、そんなお金は要らない」と。
「御主人様、おかね、使わないんですか?」
「だから、要らないって言っているじゃないか!」
理由が分からず戸惑うマユ。
「それと、もう一つ。もう、外に出ちゃ駄目だ」
いたたまれずマユに釘を差した。芸能人としてスカウトとされたら、もう僕の手の届かない存在になってしまう。そんなの、僕は嫌だ、絶対に嫌だ! マユは僕だけのものなんだから。
「……でも、御主人様が…」
「僕の言うことが聞けないのか! それにマユは、僕に日光浴に行くと言って嘘を付いた。許せないよ!」
マユの言葉をさえぎって、怒り交じりの強い口調で叱り付けた。
初めて見せる僕の怒った姿を見てマユは驚き身をすくめた。そして、悲しそうな顔になり呟くような声で、
「……分かりました、御主人様。もう外には出ません。勝手なことも致しません。お約束します。ですから、嘘を付いたわたくしを許して下さい」
と僕にすがり、許しを請う。そんなマユに、
「嘘付きは、嫌いなんだよ!」
僕はプィとそっぽ向き、布団をかぶって寝たふりをした。
こんな時に、男としてのプライドとやらが沸き立つ。とにかく良い主人にならなければと、さっき決めたばかりじゃないか。職を失い困窮している僕を救うために、一大決心して嘘を言ってまで救おうとしたのに……早く誤りたい。そう心に思ってはいても体が動かない。僕は背中を向けたまま、マユに冷たい態度を取り続けた。
「ご免なさい、ご免なさい、ご免なさい……」
ひたすら謝り続けるマユ。
マユが悲しんでいることは分かっている。泣いているのも分かっている。彼女の悲しみが、背中に伝わって来る。この時こそ、謝る勇気が欲しかった。
知らずの内に眠っていた僕が目覚めると、マユはいない。代わりに、彼女が作った手料理と、何故か商品券が置かれていた。お金でなければ、僕が快く受け取ってくれると思ったのだろう。
その横に、手紙が置いてあるのに気付いた。
『御主人様とのお約束を破って申し訳ありません。私にはもう、時間が無いようです。忘れ物を取りに、街に行きます。どうか私のわがままをお許し下さい。私の大事な、大切な御主人様へ』
時間が無い? 僕は慌てて花を見た。そして全身が凍り付いた。
嘘だろ! 朝はあんなに元気に咲いていたのに……しおれている。今にも枯れそうだ……。
咲き誇っていた花がしおれている。もう、枯れ掛かっていた。
商品券がどんな物か知らないのに、僕のために、誰かに聞いて換えてもらったんだろう……。こうしてはいられない。病気で寝込んでいる場合じゃないんだ!
探す当ては無いが、ジッとしていられない。自責の念に駆られた僕は、無理を押してマユを追った。変貌した夜の、危険な秋葉原の街に。
辺りが暗くなり、ショップのネオンが灯し出す頃、ガラの悪そうな連中とすれ違う。ダボダボのズボンを腰で履き、髪は金髪に染めている。見るからに悪そうな連中だ。
思わず僕は道を開けた。そして、良からぬ何かの話し声に聞き耳を立てた。
「愛だとよ、何が愛だ。そんな言葉を掛けられたら、誰だって男を欲していると思うよな。それなのに、嫌だとさ。訳が分かんないぜ」
「チェッ、惜しいことした。あれはアイドルだ、絶対アイドルに違いない。裸の写真を撮って週刊誌に売り込めば、スクープ写真として大金が入ったろうに。実に残念なことをした」
「あれ、幽霊じゃなかったのか? 消えたぞ」
「おお、消えた、確かに消えたな」
彼らの話を聞き、僕はマユのことだと確信した。
この近くにいるんだ! 『消えた』って言ってたな、まさか……間に合ってくれよ!
僕は必死になって辺りを探した。自身が病気であることを忘れるほど、無我夢中で。
やがて、路地裏に倒れているマユを見付けた。
「マユーー!」
僕の叫びに答えるようにマユが返事する。
「御主人様! どこ? どこにいるんですか!」
「目が、目が見えないのか!」
急いで駆け寄った僕がマユを抱き上げると、光を失ったマユは、かなり怯えていた。
「わたくし、怖かったです……」
こんなに怖がっているマユを見るのは初めて、僕は全身に怒りが込み上げてきた。
「何をされたんだ! アイツら、よくも僕のマユに」
「いいえ、何も……力も出ないし、もう、御主人様を見ることが出来ません。わたくし、御主人様と分かれるのが怖いんです」
「そう、そうなんだ……時間が無いことは分かっている。だからこのままでいい、どこにも行かないで欲しい……こんな所じゃ……君の帰る所は、僕のアパートなんだから……」
マユを背負うと、僕の肩に寄り添い身を任せたマユがささやく。
「ご免なさい、御主人様、心配掛けて。わたくしはいつもドジばかり、御主人様に迷惑ばかり掛けて、本当にご免なさい。今日が最後の日というのに、そのことに気付かず……もっと早く気付いていたら、御主人様に迷惑は掛けなかったのに……」
「そんなことはない! 人間だって、死ぬ日なんて分からないんだ。僕の命だって、今日かも、明日かも知れないんだよ。むしろ悪いのは僕の方、マユが他の男と仲良くなることに嫉妬して、あんなキツイことを言ったんだ。ほんと、自分が情けないよ」
「そんな、御主人様、謝るのはわたくしの方です。まだアイという意味が分かりません。御主人様のために、アイする心を持って、心から尽くすことが出来ませんでした」
「まさか、忘れ物ってそのことだったのか……。愛を知るために、そんな体になってまで……愛するということは、お互いが同じ立場でなきゃならないんだ。たまには僕にわがままを、頼みごとを言ってよ」
「こうしていると、御主人様の温もりが伝わって来ます……このまま、いつまでもこうしていたいです」
「そうか、分かった。じゃあ、ずーっと、ずーっとこうしているよ。それがマユの願いなら……」
マユを背負ったまま歩いて行く。
「ありがとうございます、わたくしのわがままを聞いて下さって。なんだか、アイするという気持ちが分かったような気がします、アイするということが……。わたくし、ずうっと、御主人様のことが好きでした」
「す、好き! 僕のことが。何故、それを言わなかったんだよ。愛することと、好きなこととは同じなんだ」
知らなかった。マユが僕のことを好きだなんて。僕を大事に思うのは、育ての親だからで、つまりは恩返しのためだと思ってた。そこには愛するという感情は無く、ただ奉仕するだけだと……。
「御主人様は、写真の方が好きだと言っていました。だから、わたくし、諦めていたんです。諦めていたけれど、お酒を飲んだ時に我慢しきれなくなって、思わず御主人様を誘ってしまいました。御主人様に振り向いて欲しくて、勇気を出して御主人様を誘ったんですけれど、断られましたね。わたくし、胸が小さいから魅力無いし、御主人様の好みじゃない。だから、わたくしを一度も抱こうとしなかったんですよね。でも、そう分かってはいても、悲しかった。無理して明るく振舞ったんですけど、悲しかったです……あっ、ご免なさい、御主人様を好きだなんて言ってしまって。迷惑ですよね、メイド、失格ですよね」
愛だの恋だのと、回りくどい言い方が君を追い詰めていただなんて……単に、好きでよかったんだ。じゃあ、あの時、酔ってなかったんだな、マユは。彼女なりにアタックしていたというのに何故、マユの気持ちを分かってあげられなかったんだろう。一週間も生活を共にしながら、今頃になって気付くなんて、ほんと、僕はなんて愚かな人間なんだ!
「写真? 沢井真由ちゃんか、彼女はアイドル、僕には手の届かない所にいるんだ。君は勘違いしているよ。マユは僕の理想の女性として生まれて来たんだぞ、だから、頭の天辺から足先までの、君の全てが好きなんだ。好きで好きで、抱きたくて抱きたくて、毎日抑えるのが大変だったんだぞぉ。マユを独占したくて、おかげで二日日間も寝込んでしまった。君との貴重な時間を無駄にしてしまい、後悔しているんだ。分かる? 僕の言っていることが。マユは自分の魅力に気付いていないんだよ。でも、でもそうか、そうだったのか……だとしたら、僕達は愛し合う本当の恋人同士じゃないか。僕達は恋愛関係なんだ。友達に、僕の彼女なんだぞーって自慢するんだ」
「コイビト? レンアイ?」
再びマユにとって聞き慣れない言葉。今度はハッキリと説明した。
「お互いが両想いで、恋し慕うこと、付き合っているってことだよ。君が僕の彼女であり、恋人なんだ」
「コイビト、レンアイ、素敵な響きの言葉ですね。じゃーわたくし、今、コイをしているんですね。きっと、あの時の願いが叶ったんです。流れ星に願いを込めて、本当に良かったです」
あの時、そんな願いをしていたのか。なら、僕の願いも叶うはずだ。マユとずーっと過ごせるっていう願い。僕は微かな望みに託した。
「ああ、そうだよ、それも激しい恋。皆がうらやむような恋をしているんだ……じゃ、明日、デートしよう。腕を組んで街中を歩き、似合いの服を買って、映画やコンサートを一緒に見たりすること、それがデートなんだ。君の知らない世界を見せたいな~、珍しい生き物がいる動物園とか植物園を。あ、そうだ、東京スカイツリーや富士山もぜひ見せたい。あと、美味しいものを食べたり、そっか、マユは水しか飲めないんだったね。それなら、どこか遠くの町まで出掛けて、名水百選巡りをしよう。そこでマユさえよかったら、混浴風呂なんかに、一緒に入りたいな~」
「デートって、楽しそう。明日、御主人様と一緒に出掛けるんですね」
「もう恋人同士なんだから、君は奉仕するメイドじゃない。御主人様ではなく名前、名前で呼んでよ」
「タ・ク・ヤ、様」
遠慮がちにマユに言う。すでに彼女の声はかすれていて呼吸は浅く、くすぶり掛けた蝋燭のような、いつ消えてもおかしくない声だった。
「様なんていらない、呼び捨てでいいから」
「わ・た・し、人間として生まれて来たかった……そしたら、タクヤと、いつも一緒に、いられたのに……ずうーと、アイし合いたかった……」
かすれた弱々しい声が消えた。みるみるマユの体が軽くなっていく。
「僕達は愛し合う、恋人同士なんだ。だから、どこにも行かないで欲しい、どこにも行くな!」
軽くなっていくマユが、完全に消えた。
「嘘だろう……これから、これからっていう時に……お互いの気持ちが分かり合えたというのに……なんで、なんで消えちまうんだよ、マユーー!」
僕はそう大声で叫んだが、彼女からの返事はもう返って来ることはなかった。消えたマユの温もりだけを残して。
夜風は冷たく、荒々しい風が吹く。その風に乗って、マユは僕の手の届かない所に旅立った。彼女は一週間というはかなく短い人生を、人間の姿となって全力で僕に尽くしてくれたのだった。
メイドのマユは僕の前から消えた。唯一残されたのは、二人して撮った携帯のツーショット写真だけだった。その写真を見るたび、僕はとめどなく涙があふれ出てくる。
花の命は短くてはかない。でも、マユは死んでいるんじゃない、あの苗の中で眠っているだけなんだ。そう自分に言い聞かせて、何もヤル気が出ず何日も落ち込んで布団の中でこもっていた僕は起き上がると、
「あれから何日も、君の消えた悲しみから立ち直れないでいる。でも思ったんだ、このままじゃいけないんだって。どんなものにも生命は宿っている、短い時間を必死で生きているんだ。それを、君が教えてくれたんだよ」
そうマユの花に語り掛けた。
マユが再び生まれて来ると信じて、僕は今までの抜け殻のような生活を改めなければならないと思った。せっかくマユが生まれて来ても、主人の僕がだらしないままじゃ、彼女に恥をかかせてしまう。このままじゃ駄目、カッコ良いと思われるぐらいに変わらないと。
洗面台に向かった僕は、水道から流れ落ちる冷たい水で顔を洗った。そして、鏡に映った自分の顔を見た。何日も寝込んで、やつれ果てている自分の顔を何度も叩いて気合いを入れると、花が咲くまでの間に、自分が頼られる人間になるんだと誓った。
「こうして、いつも君を見ている。早く花が咲かないかなぁと見ている。早く帰って来いよ、マユ」
毎日、僕は花の散った苗を見詰め、何度も語り掛けた。
花が来年、再び咲き開く。マユは生まれて来るんだ。でも、果たして僕のことを覚えているだろうか、楽しかった日々の出来事を。そして、僕を愛してくれるだろうか……きっと僕のことを愛してくれるはずだ。だって彼女は、僕を幸せに導くメイドのマユなんだから。