同棲
開花から三日目。
僕はマユとの二人の時間を大事にしたくて、三日間寝ずに過ごした。だが、それが祟って僕は病気になる。
極度の睡眠不足が体の抵抗力を失い、僕は肺炎になった。
「ゼェ、ゼェ」
と息苦しい。立つこともままならない。
あれー……。体が思うように動かない。
「……目の前が、回っている」
そう言うと、僕は崩れるように倒れた。
意識が遠のく。心配そうなマユの顔が一瞬映った。不安がる彼女はどうしていいか分からずに混乱している。
「……御主人様? 御主人様!」
マユを安心させなきゃ、と思いながらも更に意識が遠のく。目の前が真っ暗になり、僕はその場で気を失った。
「お目覚めですか! 御主人様。良かったです……。わたくし、すっごく心配しました」
僕が目覚めると、マユが手を握り締め心配そうに見詰めていた。涙が枯れるほど泣いていたのだろう、その目は真っ赤に充血していた。
僕の額には、水で冷やしたタオルが乗せてあった。マユがずっとそばにいて看病、見守ってくれていたのだ。病気で弱気になる病人にとって、付き添いがいてくれるのは心強い。
僕はなお重症で、熱が出て寒気がした。
「大丈夫ですか? 御主人様」
目を覚ました僕に喜び、マユが思わず抱き締めて来た。密着され、マユの胸が当たる。違う意味で熱が出た。
「グーー」
突然、僕の腹の虫が鳴った。何も食べずに寝続けていたからで、体は正直だ。
マユが僕を気遣って、お粥などの柔らかい食事を用意してくれた。ありがたかった。独りだと滅入るばかり。だが、マユと一緒にいられると思うと、病気になって良かったとさえ思う。仕事なんてやってられない、と。
体の不自由な僕を支えながら、マユが食べさせてくれた。
「御主人様、口を開けて。あーーん」
やれやれ、マユにかかると、まるで子供扱いだな~。
「御主人様は、二日間も寝ていたんですよ。わたくし、もの凄く心配しました」
「二日? 間も……」
開花から五日目を迎えていた。僕は昏睡状態のまま、二日間眠り続けていたのだった。
あぁー、マユとの貴重な時間を、二日間も寝ていただなんて。第一、ゲームで三日ぐらい寝なくったって平気だったのに、なんてもったいないことをしたんだ、僕は……。
「心配掛けて、ご免。でも、もう大丈夫だから」
マユに心配かけまいと僕は無理に強がって見せた。
それにしても、献身的に看病してくれるな~。汗を拭ってくれてサッパリしている。ふと窓を見ると、ベランダに自分の下着が干してあり、風になびいていた。
もしかして……。布団に潜り確かめた。新しい下着に代わっている。誰が換えたのか? もちろん、マユだった。
「あのう、僕の下着は?」
「御主人様、汗でびしょびしょだったものですから、新しい下着と交換しました」
それって、まさか……僕のすべてを……。
「マユ、僕に変ったところはなかった? マユと違ったところ」
「御主人様に、変ったところですか……そういえば、何かに引っ掛かって、下着を脱がしづらかったですね。でも、わたくし、目を閉じていたので、その~、じゃあ、今から見ます。わたくしと人間とでは少し違うんですね、気になります。恥ずかしがらずに、ちょっとだけ見せて下さい、御主人様」
嬉しそうにマユが言う。
何かに引っ掛かる、というところが気になるが……見てなかったことに僕はホッとする。でも、ひょっとして、勘違い? 僕が男であることに気付いていないんじゃ、マユと同じだと。
思わず下半身を見た。そして、僕は強く思った。
「いや~、今はちょっと、無理。自信ないよ」
僕の言った言葉の真意がつかめぬまま、不思議そうな顔で僕の表情をうかがうマユ。
「じゃ今度、しっかり見てみます」
「いや、しっかり見なくていい、見るな!」
と、つい強い口調で言ってしまった。
考え込むようにして首をかしげた後、僕の恥ずかしそうなしぐさに、何かに気付いたマユがカーッと真っ赤になり、「わ、わわわ~!」と悲鳴を上げだ。
うろたえるマユを見て、なんだ? なんだ、と思わず身構える。
「わ、わたくし、御主人様の大事なところが見たいだなんて、はしたないことを言って……」
そう言ってうつむくと、急に黙り込んだ。
そんなに落ち込まなくても、と声を掛けようとした時、急に顔を上げたマユが、
「今の、聞かなかったことにして下さい」
と何事もなかったようにケロッとした顔で言う。
落ち込んでたんじゃなかったのかい! とマユに突っ込みたくなる。
「いやぁ、それはちょっと無理、記憶は消せないから。そっか、マユはエッチだったんだな~」
と、僕はあえて意地悪く言って思わずニャ付いた。やっぱり、勘違いだったんだな、と。
「わたくし、エッチなんかじゃありません! 信じて下さいよ~」
僕に嫌われると思ったのか、今にも泣きそうな顔のマユが必死で頼み込んだ。
反応が大げさ、その焦る様が、何故か妙に可愛らしくて、もう少し見ていたい気分になった。完璧な女の子より、そういう子供っぽいところやドジなところが可愛くて、僕は好きなんだけど、まあ、マユの場合、ドジというより、何事も一生懸命なんだろう。一生懸命過ぎて他が見えなくなるんだな。何から何まで僕好みに生れて来たんだ。
マユの意外な一面が興味深く、更に、
「君って、意外と意地っ張りなところがあるんだね」
と僕が茶化すと、
「あっ、すいません、つい……でも~」
と、なおも食い下がる。
「分かった、分かったよ、今の話、聞かなかったことにするから」
そう言って僕は何度も首を振って、
「これで、さっきの記憶は消えたから」
と言うと、マユはホッとした表情になった。
そうやって切り替えられるマユって、単純でうらやましいよ。でも、いくら主人を大事に思うからって、そこまで気にするものなのか? ひょっとして僕のことが好きなんじゃ……いや、それはないよな、と僕は湧き起こる想像を振り払うように、また首を振った。
「でも、いいんじゃないかな、なんでも完璧にこなすより、ドジな一面があっても。どうせ二人切りなんだし、僕なんかに気を遣うことなく、自然体の君でいいんだよ」
笑顔のマユが大きく頷いた。
そうか、目をつぶっていたのか……でも男として、いや、僕だけだろうか、自分の裸を見られたいという願望が……見られたいような、見られたくないような複雑な思い。ま、自慢出来るものでもないし、純真無垢な彼女が見たらショックを受け、それこそ嫌われてしまうよ。でも、これって同棲? だよな。この環境、実に落ち着くなぁ。ベランダに干されてある下着が、元気良く風になびいていた。まぎれもなくマユと同棲しているんだと、僕は病気にもかかわらず口元が緩んだ。
ふと見えた、マユの左手首にはめている黄色のリストバンドが、いつもより輝いている。その時、僕は気付いた。そうだ! 二日間、水を与えていない。分身であるマユは本体に何もしてやれないんだ。僕が水を与えないと。
慌てて窓際の花に視線を向けると、花は変わりなく元気に咲いている。僕は安堵の胸を撫で下ろした。
僕は無理してベッドから起き上がるが、当然、足に力が入らずフラフラだ。
「御主人様! 無理をしてはいけません」
僕をささえながらマユが言う。
「でも、水が、花が枯れるよ」
マユに抱えられながら、僕は台所に行きコップに水を入れる。
「ありがとうございます、わたくしのために。でも、無理はしないで下さいね」
そして、窓際に近寄って花に水を与えた。乾燥していた土壌が見る見る潤っていく。
「次は君の番だ。どうせ、水を飲んでないんだろう」
僕の思った通り、マユは看病に付きっ切りで、一口も水を飲んでいなかった。
今度は冷蔵庫に冷やしてあるミネラルウォーターを取り出しマユに与えた。
両手で持ったペットボトルのミネラルウォーターを勢い良く飲むマユを見て、
「実に美味しそうに飲むんだね、マユは。見ていて気持ち良いよ」
気持良い飲みっぷりに僕は感心。
「だって、味が濃くて、すっごく美味しいんですもの。御主人様も、飲みます?」
飲み掛けのペットボトルを渡され、飲み口の部分を直視した。
これって、間接キス、だよな。でも、そのくらいはいいだろう。僕も喉が渇いた。寝汗をかいて脱水症気味だから。あー、水が美味しい。やっぱり水道水でなく、ミネラルウォーターを買って来て良かった。特にマユが喜んでくれて。
マユが水を飲んで潤った途端、彼女の左手首に付けているリストバンドの輝きがなくなる。
「前から気になっていたんだけど、そのリストバンド、水を欲していることを僕に知らせるためのものなんじゃー」
すると、申し訳なさそうにマユがコクリと頷いた。
主人に対して、直接水を下さいとは言えないのだろう。だからそのリストバンド、それを僕に分からせ知らせるものだったんだ。輝きによって知らせる、一種のカラータイマーのような役割。どこまでも遠慮深くつつましいんだな、君は。
「前にも言ったけど、言いたいことがあるなら遠慮しなくて言ってよね。二人切りなんだから」
そう言って僕は笑った。
久しぶりの僕の笑顔を見て、
「本当に、良かったです。わたくし、このまま御主人様が目を覚まさないのかと、心配で心配で……」
そう言って突然マユが泣き崩れる。
「泣かないで、マユに泣かれると僕も辛いよ。でも大丈夫、でもないか。しばらくマユの世話に……ん……マユ?」
と言った途端、急にマユが体を寄せて来た。安心からか、マユはその場で眠ってしまった。よほど疲れていたんだろう。マユは眠っているというより、意識を失っているようだ。考えてみれば、マユはこの五日間、ほとんど寝てないんじゃないか? 無茶し過ぎだよ。
ここじゃ風邪をひくだろうと、僕はマユをそっと抱き上げた。
軽るっ! この子、なんて軽いんだ。二十キロ、いや、それ以下の重さだ。
見た目より軽くて驚いた。こんな弱弱しい体で、僕を献身的に看病してくれていたんだな~。頑張り過ぎにもほどがあるよ。
そのままマユをベッドまで連れて行き、横にして寝かせた。
一睡もしない看病で、マユは力尽きて眠り込んでいる。まだ子供っぽさの残る寝顔を見て、花も寝るんだな、でも、どんな夢を見ているんだろう、と興味深くマユを見詰める。普段はマジマジと見れないマユの顔をずっと見ていられるんだ。
あの花が雄花だったら、妖精はきっとホスト風のイケメンが現れたんだろうな~。僕は男なんかに興味ないし、断然こっちだよ。『君は男だから、雌花がいいな』と言っていた怪しげな店主のおじさん、雄花と間違わなくて本当に良かった。
よっぽど疲れていたんだろう、無理もない。わがままな僕の自慢話に、夜な夜な付き合ってくれていたんだから。花が献身に尽くすのは、世話をするからだと店主は言っていた。花は自ら動くことが出来ない、そのため、主人に尽くすんだと。世話と言っても、水やりくらい、割に合わないよなぁ。僕も彼女に尽くさなければ……。僕は、眠るマユにそっと布団を掛けた。そして、どこまでも従順であどけない彼女の寝顔を見詰めた。
それにしても、なんて無防備なんだ。無邪気に寝ている。よほど僕は信頼されているんだろうな。でも、それって男としてどうだろう? 僕も一応、男なんだから、いつ狼に変身し、野獣となって襲い掛かるか分からないよ、と僕は心の中でマユに忠告した。
自慢のマユを見詰めながら、いつまで咲き続けるんだろう、花の命は短いってよく聞くけど、ずっと咲き誇って欲しい、いつまでも一緒にいたい、どこにも行かないで欲しい、と僕は心から願うのだった。
その時、何故か玄関の方から携帯の着信音が鳴った。そっと寝かしてあげたかったのにぃ、と重い腰を上げ玄関に向かう。案の定、電話の音で眠っていたマユが目を覚ました。
「ご免なさい、つい眠ってしまいました」
そう言って起き上ると、慌てて携帯を取りに行く。
「よく電話が鳴り……わたくし、電話の使い方が分からなくて……でも、御主人様を起こしてはいけないと思って、玄関に仕舞っていました。勝手なことをして、ご免なさい」
そう言いながら、取って来た携帯を僕に手渡した。
「いいんだ、いいんだよ。どうせまた、母さんからだ。いつもタイミングが悪いな。マユはベッドで寝てていいから」
「いいえ、御主人様が寝ないのに、わたくしだけが寝れません。それに、ここは御主人様の寝床、わたくしなんかの寝る所ではありません」
「いいんだよ、マユはベッドで寝ていても、僕は他で寝るから。これは僕の命令だぞ。でも、仕方ないな~、僕も、母さんとの話が済んだら寝るから、これなら良いだろう」
慌てて通話ボタンを押した。電話の相手はバイト先の先輩で、それは非情にも、無断欠勤でクビになったという悲しい報せだった。
着信履歴を見ると、何度も先輩から掛かって来ていた。先輩からの着信がこんなに……僕を気に掛け何度も掛けて来たんだな。それなのに気付かなかった。社会人として無断欠勤はやっちゃいけない行為、解雇されても仕方ない。
終わったことをくよくよしても……切り替えなきゃと、自分自身に言い聞かせるも、やはりキツイ。不意に悲しみに襲われる。
「……何をやっても上手くいかない。何事にも中途半端な自分が、実に情けないよ」
ボソッと呟いた。
「……御主人様、泣いているんですか?」
「別に悲しい訳じゃないんだけど、何故か涙が出てくるんだ」
病気で気弱になったのか、今までの辛かったことが一気に噴出した。いやらしい気持ちじゃなく、ただ甘えたいだけ、慰めてもらいたかった。だから、そばにいるマユに、無性に甘えたくなった。男とは、弱い生き物なのである。
「他に寝る場所が無いから、ご免ね。今日だけは一緒に寝てもいいかな」
そう言って狭いベッドに二人寄り添った。
「何故、君も泣くの?」
「だって、だって、御主人様が……」
「もう寝よう。僕も寝るから、君も寝てよ。君まで病気になったらどうするんだよ。これは命令だから」
マユも、僕に何もしてあげられない悲しみに涙を流してる。主人の悲しむ姿が、何よりマユにとって一番辛いことだった。こうして涙に暮れた五日目は過ぎていった。
「おはようございます、御主人様」
開花六日目、マユは相変らず献身的に僕を看病する。
仕事に行かないでいいと思うと、それまで張り詰めていた緊張から解放たれた。と同時に、もの凄い不安に襲われた。職を失えば、たちまち金欠に陥る。僕の恐れていたことが起きたのだ。けれども、事実を受け止めるしかない。
まさか、マユは不幸を招く妖精? 例えそうだとしても、彼女の存在は温もりを、安らぎを与えてくれる、何より僕に尽くしてくれているんだ! 一瞬でもマユを疑った自分を責めた。ご免、ご免よ、マユ、と。
僕は重病ではあったが、一日中家にいられ、マユの観察が出来るのである。彼女が一日をどう過ごしているのか興味深かった。
洗濯するので着替えて欲しいとマユが言うと、
「恥かしいから、あっち向いててよ」
マユにマジマジ見られるとさすがに恥ずかしい。ガラにもなく僕は照れた。
「そうでしたね」
気を遣ったマユが顔をそらす。
「マユは体洗わないの? シャワー浴びてくればいいのに。と言っても、代わりの下着が、男ものの下着しかないんだけど」
「わたくし、匂いますか? ご免なさい、御主人様に不快な思いさせて……」
慌てて僕から離れようとするマユに、
「いや、そうじゃない、そうじゃないんだ。いつもと変わらず良い匂い、良い香りがしているよ」
と彼女が傷付かないように言いつつ、「でも何故?」と疑問が浮かぶ。
「わたくしのような妖精は、服も体の一部なんです。それに、お水は貴重なものですから、そのせいもあって、汗の出にくい体質なんですよ」
「ふーん、そうなんだ」
やはり、人間とは違うんだな。もしかして、中身も少し違うんだろうか? と、興味の眼差しでマユを見詰めると、
「中、見ます? 裸になりましょうか」
マユが恥ずかしそうに言った。
僕の気持ちを察してマユが無理して言ったのだろう。僕は即座に言い返す。
「だ・か・ら、見ないって言っただろう」
マユの嫌がることはしない。見ないって決めたんだ、と。
すると、マユがクスッと笑った。彼女の微笑みは何よりもありがたい。
やれやれ、何か恋人同士の会話になってきたなー。些細なことで笑ったり、少しエッチな話でも受け止めてくれたり、二人はそんな間柄、憧れていたんだよな~。同棲の先にある夫婦の生活を想像し、思わず「マユ」と呼んだ。
「はい?」
目の前にマユがいて、当然僕の顔が赤くなる。
「たいへん! 御主人様、大丈夫ですか?」
と、頭を冷やすタオルを取りに行こうとするマユの手を握り、
「ずっとそばにいて欲しい、どこにも行かないで欲しいんだ」
マユは僕の問いに応えるように、手を強く握り返し、
「どこにも行きません! わたくしはずっと御主人様のそばにいます」
僕の目を見詰めながら言った。
「こんな状況下で、愛があれば完璧なんだけどな~。マユには、愛するという気持ちは無いの? 誰かに恋するとか」
「アイ? コイ? さぁ……わたくしは生まれたばかりで、アイやコイするという感情が無いのかも知れません……。でも、そんなわたくしでも御主人様を大事に思う気持ちはあるのですが、それだけでは駄目でしょうか?」
当然といえば当然、恋愛の経験が無いんだから無理もない。
「僕を大事に思う気持ちだけで十分だよ。それに、植物と人間が、こうして話し合うなんて凄いことなんだよ」
「わたくしは一刻も早く、コイして、御主人様をアイするように努力します」
そう言いながら、愛や恋と言う意味が理解出来ないでいることに、悲しそうな表情を見せた。
気の毒なことをした。経験を積まなきゃ、そんな感情は生まれやしなのに……。
晩御飯を食べているとマユが、
「明日からはおかゆではなく、きちんとした料理を作りますね」
食欲の出てきた僕を気遣って言ってくれた。
「そうだな、おかゆも飽きた頃だし、じゃあ、明日からはいつもの、手の込んだ料理を頼むよ。でも、食事は一日一回でいいよ。別に、君の手料理が嫌いな訳じゃないんだ。お金が無いからね」
頭を掻きながら僕は正直に言った。
「おかねという物が、無いのですか?」
僕を縛り付けている、お金という存在が気になって仕方がない様子。
「恥ずかしい話、貯金も少ないし、好き勝手にやってきたツケが回ってきたんだな、きっと」
「そうですか、おかねが無いのですね。わたくしは、お水さえあれば平気ですが、御主人様が……可愛そうです」
「僕は大丈夫だよ、慣れているからね。心配ない」
「おかねという物は、どうやったら貰えるのですか?」
「働くことだよ。働くことよって給料が貰えるんだ。僕が朝から行っていた、仕事というやつで」
「じゃー、今度はわたくしが働きに行きます!」
力強くマユが言う。
「えっ、 マユが! 冗談じゃない、そんなことはさせないよ。仕事なんてやらなくても、君はちゃんとメイドの仕事をこなしているんだから。別に慌てることはない。家賃だって、まあ、親の仕送りもあり、少しぐらいの貯金もある、君が心配することじゃないよ。ほんと、お金のことはなんとかなるからさ」
「でも~、わたくし……」
思い詰めた様子のマユを見兼ねて、
「もういいから、嫌なことは忘れよう。あ、そうだ、確か冷蔵庫の中、ミネラルウォーターの奥に缶ビールが何本かあったはず」
地元で行われた成人式からの帰りに、大人になった証として何本か買ってあるのを思い出した僕は、冷蔵庫から缶ビールを持って来た。
「嫌な時こそ酒が一番、人間にとって酒は、嫌なことを忘れさせるアイテムなんだ。一口だけ、一口だけでいいから飲んでみなよ、嫌なことを忘れるよ」
「でも~、わたくし、お水しか……」
戸惑うマユに、僕は無理やりビールを勧めた。
主人の僕には逆らえないマユ。彼女が缶ビールを一口飲んだ。
「ひぇー! もの凄く苦いです~」
と言った途端、マユの顔が見る見る赤くなる。
「早っ、しかも弱っ!」
僕も酒は弱い方だけど、まさかマユが、こんな極度の下戸だなんて。植物だから水分の吸収が早いのは分かるけど、それにしても弱過ぎないか? 元々、色白なので酔ったのが一目で分かる。透き通った白い肌が赤く染まっていた。一口だけで異常に早い、しかも弱い。
「マユ、頭の中が、回ってまーす。今、もの凄く気持ちが良いでーす。これもお酒の力なんですね~」
妙にハイテンションのマユ。更に、
「なんだか、眠たくなってきました。それに、体中が熱くなって、服、脱いじゃいますね~」
僕の止めるのも聞かず、マユが服を脱ぎ出した。
「そんな格好じゃ、風邪引くよ。眠たくなったのなら早く寝なよ」
下着姿になったマユを見兼ねて言うと、
「はーーい!」
と、明るく返事した。酔っていてもマユは素直だった。
一口で酔えるなんて羨ましい。そこまでは良かったのだが……。
「御主人様が寝なければ、寝れませんよ~。フワフワしていて不安だから、昨日みたいに一緒に寝て下さーい」
「分かった、分かったよ、一緒に寝よう」
そう言った僕に、突然マユが抱き付いて来た。
「え!」
突然のことに驚きを隠せず、僕は思わず声を上げた。
「お願いです、抱いて、抱いて下さい。わたくし、御主人様のことが、す、キャー!」
言葉をさえぎるように、半ば強引にマユを抱き上げベッドに連れて行く。
「もう、酔っているんだから無理しなくていいよ。そもそも、愛が無いのに抱けないじゃないか」
「アイってなんです? 何故、わたくしには備わってないんでしょう」
瞳の奥から真っ直ぐ僕を見ている。酔ってないのか? いや、マユから誘うことなんて無かったし、やっぱり酔っているんだろう。
「今の君に言っても分からないよ。今夜は、もう寝よう」
初めての酔いで、混乱しているんだろう、可哀想だ。酒を無理に飲ました僕が悪いんだよな~。親切なつもりで酒を勧めたけれど、さながら、宴会の席で絡んで来るセクハラ上司と同じだ。つい興味本意で、悪いことをした。そもそも、酒を飲むのは人間だけだから。
彼女を気遣って僕は電気を消した。すると、真っ暗になった部屋の隅から、
「御主人さまぁ、何しているんですかぁ、早く一緒に寝ましょうよ~」
とマユの催促。
「ちょっと待ってよ、これ飲み終えたら行くからさぁ」
アチャー、完全に酔ってるよ。あれは泥酔だな。豹変したマユを見て僕は思った、彼女に酒を勧めるんじゃなかったと。
「御主人様が寝ないと、わたくしも寝れないじゃないですかぁ、早く来て下さーい」
そうだった、マユは僕が寝ないと寝ないだ。仕方ないな。今日はこれでお開きとばかりに、残りのビールを一気に飲み干した。
真っ暗な部屋、ベッドに向かおうとする僕が何かを踏んだ。それを手に取り目を凝らしてよく見ると、それは花柄の下着だった。まさか、全裸? なのか……。
「マユ、マユさん、下着は?」
「熱いから、ぜーんぶ脱いじゃいました」
「て、ことは、やっぱり全裸……」
マユは良い意味で酒癖が悪かった。
行儀良く布団を被ってはいるが、マユは全裸。ほろ酔い気分が一気に吹き飛んだ。
愛があれば、本当の恋人なら、ガバッと抱き締めるところなんだけど、片思いじゃな~と、マユのことを思うと何も出来ない。これじゃ、一種の拷問じゃないか。こんな可愛い子がそばにいて、しかも裸で眠っているのに何も出来ないなんて……早くマユが僕を好きになってくれないかなぁ。
「御主人様、早くぅー、何しているんですか。わたくし、寝れないじゃないですか~」
再びマユの催促。
「一応、素面なんですけど~、意識がしっかりしているんですけど~、病人なんですけど、僕なんかで良いのかな?」
何故か日々、ハードになってきてないか? このままだと性欲を抑えられない。神様は僕に試練を与えているのか? それも強烈な試練を。でも、僕が寝ないと彼女も寝ないし、やれやれ、今のマユには逆らえないなぁ。
「マユ、マユさん、失礼します」
全裸で寝ているマユの横に、僕は申し訳なさそうにそっと近付き、遠慮がちにベッドに潜り込んだ。
酔ったマユに翻弄された僕は、背中を向け、マユと距離を置いて無理に寝ようとしたが、直ぐそばで裸のマユが寝ていると思うと、頭が醒めて眠れない。眠れるはずないじゃないか。
火照ったマユの体から強烈な甘い香りが放たれ、思わず抱き締めたくなる。彼女の温もりのある柔らかい肌に触れている感触があり、いやらしい想像ばかりが頭を駆け巡る。
心なしか、マユが体を寄せて来たような気が……もしかして、僕を誘っているんじゃ、エッチがしたいんじゃ……いやいや、そんなはずない、純真なマユがそんなこと思うはずない。……そうだとしても、酔ってるんだから、本人は気付かないんだし、少しぐらいなら、オッパイ触るぐらいなら……いやいや、駄目だ、駄目。でも、こんなチャンス、二度と無いんだ、少し触るぐらいなら、少し覗くぐらいなら……いや、駄目だ、絶対に駄目だ。僕は好かれている訳じゃなく、一方的な片思いなんだから。
必死で自分に言い聞かせるも、下半身が否応なく反応する。沸き起こる興奮と格闘し、僕は歯を食いしばって耐え忍ぶ。
「御主人様、寝ました? 寝てます?」
「卓也、寝まぁーす!」
アニメの出撃シーンの名セリフのごとく、煩悩を振り払うように言った。
マユの意外な一端を垣間見た一日だった。