帰る場所ー緊張ー
河上さん夫婦に言われて、少しだけ気持ちが楽になった。
布団に入る前に、亮太にメッセージを送った。生存確認はしておかないと。それはつい先日、自分が言った事。
ー 今、知り合いのご夫婦の家に居ます。明日はそのまま出勤して泊まり。明後日は帰ります。
暫くして、スマホがブルッと振動した。亮太からだ。
ー 連絡くれて、ありがとう。
分かったとか気をつけてとか、そう言う類のものを想像していただけに、連絡くれてありがとうは思いもよらなかった。
まるで、生きていてくれてありがとうと言われたよう。
不覚にも涙を流してしまった。目が腫れるから泣きたくなかったのに、亮太のバカッ。
その夜は殆ど眠る事が出来なかった。
* * *
翌日は河上さんと出勤した。
「森川、けっこう腫れたな」
「はぁ。最悪ですよぉ、もうこの年齢になると戻りが遅いのに」
「もう曲がり切ってしまったってやつか」
「河上さんデリカシーなさすぎデス!」
「あ、悪ぃ」といってガハハと笑った。もう、伝説の社内アナウンスするくせにと言い返してみた。
息子しか育ててないから分からないって開き直られた。
制服に着替えて帽子を被った。出来るだけ腫れた目が目立たないようにする為に。
若いカップルが通り過ぎる度に、亮太とあの娘じゃないかって見てしまう。妙に人生を悟った振りをした私より、素直に気持ちを出せる彼女の方が似合ってるんじゃないかって思ってしまう。ダメダメ!仕事、仕事と言い聞かせる。それの繰り返し。
ー キーンーーッ!!
うっ、来た。久しぶりに耳鳴り。
右耳を手で押さえ辺りに集中する。何か聞こえないか、何か見えないか。でも、何も感じることはなかった。
「あれ?ただの耳鳴り?なにそれっ」
かなり拍子抜けした。私の能力って消えたの?
その日は何も起きなかった。起きない方がいいに決まっている。なのに妙な胸騒ぎがして落ち着かない。
そのせいか釣り銭間違えたり、改札に立ってお客様とぶつかったりといまいち調子が上がらなかった。
夜になると酔っ払いに絡まれて、からかわれてグデグデな状態で終電を見送った。
「はぁぁ」
「森川さん、珍しいですね」
「え?」
「そんなヨレヨレな先輩初めて見たかも」
結城ちゃんが心配している。いつもは冗談言って寝るんだけど、冗談も出てこなくて「ごめんね、おやすみ」がいっぱいいっぱいだった。
「やだ、重症ですかっ」って更に心配された。
寝る準備をしてスマホを確認したけど、誰からもメッセージはない。
亮太は普段から用もないのに連絡くれる人じゃないし。
でも、やっぱり何か欲しいなと我儘な自分がいた。
*
ウイーン…ズズズ、ウイーン…
「うわっ!あ、起きる時間か」
寝坊や二度寝が許されない私達は特殊な目覚ましを使っている。
時間が来ると枕が動き出し、ベッドがゆっくり揺れながら起き上がる。
有り難いけど、迷惑なベッドだ。
15分でメイクと着替えを済ませコーヒーを胃に流し込む。
「よしっ!」
シャッター組(駅のシャッター開ける当番)に挨拶をし始発を迎える準備をした。キヨスクやコーヒーショップが開き始める。
ー キーンッ!!
「痛った」
今朝から派手な耳鳴りがなった。少しこめかみも痛む。
指で押さえ辺りを確認する。ん!?誰かが走って来る。
ー えっ、あの娘。確か真希さんじゃ。
カッカッカッと忙しげな足音を立て、時折後ろを振り返りながら目の前を駆け抜けて行った。制服姿の私には気づかずに。そして、若い男性がすぐ後ろを追いかける。
「真希!待ってくれ!」
「嫌っ」
それでも男性の足には敵わなかった。男性が真希さんのバッグに手をかけると、二人は絡まるようにして転けた。
私は呆気に取られてその場面を突っ立ったまま見ていた。
二人が起き上がるのを見て私はようやく我に返り、二人に駆け寄った。
「大丈夫ですか!」
真希さんは恥ずかしいのか顔を他所に向けたままで、男性の方か慌てて「大丈夫です」と返事をした。
でも、男性のズボンの膝は転んだ拍子で破けていたし、真希さんに至っては掌と膝を擦りむいているのが分かった。
「お怪我をしていますよ?事務所で消毒だけでもした方がよいと、思いますが…」
「え!真希、怪我したのか。ごめん、ごめんな」
「人が増えますので、取り敢えずこちらへ」
私は応接室に二人を通し、救急箱を取りに休憩室に戻った。
あの二人はどういう関係なんだろう。男性の方はとても大切そうに、そして、必死に取り繕うとしていたけど。
救急箱を手に再び応接室に向かいドアを開けたら、
「っ。あ、ごめんなさい。ノック忘れてました」
「あっいえ。こちらこそすみません」
なんと、男性が真希さんを抱き締めていた。
やっぱりこの二人そう言う関係だったんだ。じゃあ亮太は?あれは何だったの?
「消毒、しますね?」
「ありがとう、ございます」
この日初めて彼女が口を開いた。一昨日とは違い、とても弱々しい声で。そんな姿を見ると、寒さに震えるチワワが頭を過り温めてあげないとって思う。私って本当にバカ・・・。
「あまり滲みないタイプですけど、痛かったごめんなさい」
彼女の掌から消毒する事にした。そっとその白く細い指に触れた時、
ー トクン(トクトク)、トクン(トクトク)
彼女の心音が重なって聞こえた。まるで二つあるかのように。
これ、前にも感じた気がする。確か、ホームで女性が気分を悪くして・・・
もしかして、真希さん妊娠してる!?
今度は自分の心臓がドクンとうねるように鳴った。
誰の赤ちゃん?この男の人、それとも・・・。治療をする指が震えてしまう。それでも冷静なもう一人の自分が弱気な私を叱咤して、
「真希さん。分かります?私の事」
気づいたらそんな風に話しかけていた。驚いて顔を上げた彼女は、私の顔を見て目を見開いた。
「亮太の…」
「はい。森川奏と申します」
彼女はキリッと私を睨み唇を噛みしめた。睨まれる筋合いはないし、亮太と別れる気も譲る気もない。
「もうすぐ仕事を上がります。お時間いただけますか?」
隣の男性は私達の空気を察したのか黙ったままだった。
真希さんはチラリと彼を見て、私の方に顔を向けると「もちろん」と返した。
確かめなければならない。
目の前の男性との関係、新しい命、そして亮太の事を。