帰る場所ー心の距離ー
午後6時、俺は署を後にした。一日慣れない書類を捌いたせいで肩がこった。俺は外で走り回ってる方が合ってるな。
毎日デスクでパソコンとにらめっこしている上司や、一般サラリーマンに敬意を表したい。
そんな時、俺のスマホが鳴った。相手は奏だ。
電話をかけてくるなんて…珍しいな。
ー 奏、なんかあったの?
ー 亮太にお客様なんだけど、部屋に上げていい?
ー は?客って、誰だよ。
ー あ、名前聞いてなかった。えっと、ゆるふわパーマのくりくりお目めの可愛い女の娘。
ー ・・・、取りあえず部屋で待ってろ
俺を訪ねてくる女は一人しかいない。
一ノ瀬真希だ。
「はぁ、見つかっちゃったか」
真希と奏が二人でいる風景を想像して鳥肌がたった。
やべぇな。駅に向かうのを諦めてタクシーを拾った。一分でも早く帰り着くように。
*
玄関の鍵を開けると見慣れない靴が一足並べられてあった。リビングに目を向けるが扉に遮られていて様子は見えない。音も声も聞こえない。俺はあわてて部屋に上がった。
「ただい」
「亮ちゃん!」
「おわっ」
突然、ドンとぶつかるように抱きついて来たのは予想通り真希だった。一瞬、奏の顔を見た。
驚いて口をぽかんと開けていた。それが普通の反応だろう。
「なんで亮ちゃん引っ越したの?どうして教えてくれなかったの?凄く悲しかったぁ」
「ごめん。ってか何でここが分ったんだ」
「言わない!何の連絡もくれなかった人には教えないっ」
真希は泣きながら俺に抱きついて離れない。俺はどうしたらいいんだ。
肝心な奏の心情が分らない。奏は目を逸らし、静かに立ち上がると「私、外すね」と出ていってしまった。
何を思っただろうか。ただ、悲壮感を露わにしていた事だけは分った。
真希を振りほどいて奏を引き止める事なんて簡単なのに、泣きじゃくる真希を引き剥がす事は出来なかった。パタンと閉まる玄関の扉の音だけが耳に残った。
「なぁ、何かあったのか?」
「亮ちゃん、あの人と結婚するの?」
「結婚。そうだな、そういう事も考えてるよ」
「だめ。亮ちゃんは私と結婚するって言ったじゃない。みんなの前で約束したのに」
それは真希の誕生日会の時の話だ。もう20年以上も前の話。
施設で月ごとに誕生日祝いをする。そこで将来の夢を発表するのに真希は俺のお嫁さんになると言った。
その時俺は6歳で奏は4歳だった。妹の様に可愛がってきた真希に「いいよ」と答えたのは俺だ。
でも所詮子供の戯言なんだよ。俺はみんなの前で真希を傷つけないように返事をした。
真希はずっとそれを覚えていたんだな。
「なあ真希。俺たちはもう大人になった。あの頃と違うんだ」
「違わない!」
「真希だって、彼氏ができたって言ってただろ」
「・・・でも、別れたの。亮ちゃんよりいい男なんていない!」
「俺は真希の兄であって、男じゃない。俺たちはそういう関係だ」
「血の繋がりがない兄なんて、あり得ない!」
そう言って、真希までも玄関から飛び出していった。俺はどうしたらいいんだ。
一人リビングに残され途方に暮れるしかなかった。
真希は何かの壁にぶつかるごとに俺を頼って来ていた。今回は彼氏とうまく行かなくなって俺を探したんだろう。彼女が一番俺を兄だと思ってるはずなのに、ああやって時々俺を困らせる。
俺も真希には甘かった。俺が初めて護ってやらないとって思った子だ。
施設で育った事でいじめにあったり、就職活動も思うように行かなかったり、縁談が破談になったりは良くある話だった。男より女の方が世間の風当たりは強い。
「はぁ・・・」
俺はまず、奏に電話をすることにした。奏なら話せば分ってくれると思ったからだ。
ー 今どこ?
ー え?彼女は?
ー 帰ったよ。で、どこ。
ー 駅前の公園
ー すぐ行く!
奏は先月、マンションを解約したから行く場所はない。俺の事を受け入れ、俺と歩むことを選んでくれた。奏の帰る場所はここなんだからと、俺は走った。
俺の事を他の誰でもない、分かって欲しいのは奏だけなんだ。
外はもう暗くなり始めて人の往来も増えてきた。
交差点を右に曲がれば公園がある。
多分、奏は池が見えるあのベンチに座っているに違いない。
公園の車止めのフェンスを飛び越えて公園に入った。
ウオーキング用の歩道を突き抜け、顔を左に向けた。
目に入ったのは奏だけじゃなかった。
「なんで、真希がいるんだ」
最初に俺に気づいたのは真希で、その後に気づいたのは奏だ。
すぐに近づいて「奏!」と呼んだ。
「亮ちゃん早くこの人と別れてよ」
「は?何言って」
「話、終わってないじゃん。だから外したのに」
「奏、こいつ勘違いしてるんだ。気にしなくていい」
「亮ちゃんに年上は合わないよ」
「真希おまえ」
「それにこの人には私たちの気持ちは分からない。幸せな家庭で育った人に分かるはずない!」
「おいっ!」
奏は立ち上がると目線を下に向けたまま、
「幸せな家庭・・・そうだね。一時でも私には親がいたんだものね」と、酷く傷ついた顔で背を向けた。
俺は奏の手を握った「どこに行くんだ」と攻めるような口調で。
「亮ちゃん!」
真希の声が園内に響く。
「一人になりたいから、離して?お願い」
奏は俺の腕をそっと外した。どんな時も俺に食いついてきた奏じゃない、明らかに俺を拒絶した横顔が前を向いた。
歩き出し離れていく奏の背中を見送る事しか出来なかった。
俺の背中には真希がへばり付いている。
奏、今お前は何を考えているんだ。




