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インターネットお化けを愛でてください  作者: 著がみん/イラストがみん(21)
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 第一章。パパをめでて。

 第一章。パパをめでて。


 自分を暮井京太くれいきょうたと名乗っている俺は起きてすぐに十六歳の誕生日を一人で祝っていた。

 だから誕生日プレゼントなんて何もなく、我が家に押しかけてくれる友達なんて誰もいなく、メールや電話の着信さえ何もなく、俺は本当に一人で孤独に誕生日を迎えていた。

 二年前だったら、ギルドのみんなが一緒にクエストに連れて行ってくれて、俺にチケットなり、高級アイテムをプレゼントしてくれて、知り合いのアート職人からはイラストアートをもらったな……。ゲームの話だが。

 ――うっ……頭がっ……そうだ……俺は……ネカマだったんだ……

 ギルドのみんなが俺に優しくしてくれたのは俺を女性プレイヤーだと思い込んでたから。高級アイテムをくれたのは俺が『一一月二九日が僕の誕生日なんだよ』『あれ欲しいなぁ……でも確率低いしなぁ』とか書き込んでいたから。イラストアートは『フヒヒ、君のキャラクリギザカワユス、ぜひアート描かせてくれお!』とアート職人に言われたから。

 ああ、なんで、なんで俺は女性でキャラクリエイトをしたんだろう……

 そのことを考えると頭が痛くなり、我を忘れてしまいそうになる。

 俺は昔やっていたオンラインゲームでネカマだったことがトラウマで、あまり現実をエンジョイ出来ていない。いわゆる黒歴史というやつだ。

 でもまぁ……誕生日ケーキは特注で予約して買った。二個のコップにカルピスを注いでやる。チョコプレートには俺とクレメルヒェンの二つの名前、ロウソクも二〇本刺し点火する。照明もリモコンで消した。これで準備万端だ。

『ハッピバースデートゥーユー! ハッピバースデートゥーユー! ハッピバースデーディアパーパー……ハッピバースデートゥーユー!』

 俺は手を叩きながらクレメルの歌を聞いて、ロウソクに強く息を吹きかける。頑張って一息で全部消えた、さすが俺の肺活量は伊達じゃない。他の人がどうなのかは知らんが。

 パン! ポン! ポン!

 続いてクラッカーを引いた。他に引く人がいないから二つも引いてしまった。クレメルも一つ引いて青い瞳を大きくしてびっくりしている様子。

『誕生日おめでとう! パパ!』

「ありがとー! クレメル! パパもう十六歳だぞ!」

『僕も四才だよ!』

「そうかー早いなーパパもう十六歳だぞ!」

『僕も五才だよ! 四才!』

「そうかー偉いなーパパもう十六歳だぞ!」

『僕も五才だよ! パパ! もう四才だよ!』

「もう五才かークレメルかわいいなーなでなではーと、らーぶらーぶだ!」

 いつからだったか、俺の視界に昔やりこんでたゲームで作成したキャラ『クレメルヒェン』の姿が見えるようになったのは。そのかわいい声が聞こえ始めたのは。

 白に青を薄く塗った空色の長い髪、大きな瞳はどこまでも澄んだ綺麗な青、高い透明感とほどよい弾力を持つ白い赤ちゃん肌、金色のロザリオが何十個も縫いつけてあるワンピースのような純白の法衣を身に纏う少女。闇耐性は驚きの九九パーセントカット!

 俺はその一二〇センチにも満たない身長の天辺にある空色の頭を撫でてやる、純白の法衣ごと抱いてやる、らーぶらーぶと言いながらお互いの頬と頬をこすりつけてやる。

『パパ、くすぐったーい』

「クレメルが可愛すぎるからいけないんだぞぉー」

『きゃはははは』

 俺の腕からするりと抜け出し、ケーキが置かれたこたつテーブルの周りをクレメルが笑いながら走り出す。こらこら。

「そんなに走ったらコップのジュースまかしちゃうぞぉー?」

 俺が注意するが、それでも走り続けるクレメルを捕まえるために追いかけた。最低限に全力で。海岸やお花畑で追いかけっこをしてる感じだ。

 こたつテーブルがある居間から始まり、台所、玄関、仏間、階段を登り、何もない部屋、俺の部屋と我が家の中を一周して居間に戻る。

 追いかけっこが落ち着いた頃、俺の作ったあぐらの上でクレメルを拘束しながらケーキを食べさせていると思い出した。「ああ……あの時か」と呟く。

『どうしたの? パパ?』

 思い出した。クレメルが現れたあの日。俺にはまだクレメルの声がはっきり聞こえなかった時のことを。




 太平洋大震災から半年が経った夏だった。俺がバイトの面接に失敗し、自己PRを見直してなるべく暗記で答えようと発音練習で頭に内容を擦り込ませていた時のこと。

「私の名前は暮井京太と申します。接客は赤子からご老人までお手の物、注文のお品は出来上がり次第冷めないうちに速攻で仕留め、お客様のお会計の際は支払額からさらに割引を効かせます、好きな動物はキリンです。こんな私ですがどうかよろしくお願いします……。完璧だ……我ながら自分の才能に恐ろしくなるぞ……」

 自己PR文の内容は上手い、早い、安いの飲食販売店三大源則に則って考えた。この方が受かりやすいだろう?

 夏なのに片付けるのが面倒という理由で、こたつテーブルは出しっぱなしで布団もかけっぱなし。ジジィがいた時から片付けたことは一度も無い。

 そんな伝統ともいうべき思い入れがあるこたつテーブルに足を入れて、自己PRの文を考えていると、なにやら足に柔らかい感触。

 おーこれはこれは、ぷにぷに。昔、ジジィが猫を飼っていたのを耳に聞いたことがある。おそらくその猫のお化けがこたつで寝ていて俺の伸ばした足がその猫の腹に当たった、そうだろう? ウチは猫なんて飼っていないしな。

 ひんやりして気持ちいい。こたつの中は暑苦しかったのでちょうどいい感じに。

 すると足の親指をつねられる。でも握力はあまりないようで痛くも痒くもない、むしろ……わはは……むず痒いぞ、猫。

 きっと、俺の足が腹にぶつかって、足の臭さで目が覚めて、足の親指をその柔らかい肉球で包まれた両手で掴んで挟み込み、ヘッドロックをかましたんだろ?

 俺は口元を歪ませ、本当にむず痒くて足を跳ねあげた。こたつテーブルが浮き上がる。でも、俺が跳ね上げた後にさらに大きく跳ね上がったんだ。俺の足じゃない。

『わっ!』

 わっ? わって言った? こたつの中の猫のお化けがわって言った? 嘘だろ、だってお化けが発音するなんて……

 俺は口もない、足もない、というか実体のないのがお化けだと思っていた。この前、おばあちゃんの幽霊を見たことがある。本当に足がなくて台所でひっそりと無音でキャベツを千切りしてるんだ、それもすごい優しい顔でジジィの好物である煮豆をコトコト……。そういや煮豆を作るのにキャベツっているか? いや、きっと煮豆を煮ている間にサイドメニューにとキャベツの千切りを作っていたに違いない。食べれなかったけど。

『いったーい』

 猫の鳴き声じゃなくて人の声がした。それも甘ったるく甲高い女の子の声で、テレビで深夜放送するちょっとえっちなアニメにいる背の低いロリキャラ声に近かった。

 そこで思い至った。

 お化けというのは化けているもの。幽霊はもちろん、宙に浮く火の玉やこんにゃく、生霊や夢の中に出てくるものもお化けの一種なのだ。だから発音するくらい出来て当然。

「誰かいたのか?」

 だから俺はあまり驚きもせず淡々と言った。人がいる可能性を探る。

『マイスター、ご飯の時間はまだですか?』

 俺の問いに答えはない。グルルーンという擬音なら響いてるが……

 耳を澄ますと俺の腹が鳴っていた。

「ご飯か、そういえば考え事ばかりで今日はまだ食べてなかったな、よし飯にするか」

『やった! ご飯だ! 僕、カレーライスがいいなぁ』

「カレーライス……確かレトルトの買い置きがあったな、お米も冷蔵庫にあるのをチンすればいいし、カレーでも食おうか、最近ウコンが不足しがちだしな」

『やった! カレーだ! 具にエビを入れてね! あさりも!』

 俺は居間から台所へ移動し、レトルトや缶詰が保管されている棚を確認する。なにやら体が重たい気がするがきっとウコンが足りないせいだろう。夏バテ気味なのかもな。

「シーフード……その手があったか、確かシーフード味はこっちの棚だったな、味は辛口しかないか……まぁいい」

『えー辛口は嫌! 僕、辛口なんて食べられないよ! 辛口反対! めーーーー』

「ぐっ! なんてことだ! 急に! 急にぃ! シーフード甘口カレーが食べたくなった! クソ! なんで! うちには辛口しかないのに! コンビニじゃなくて大型スーパーまで行かないと甘口はないのに!」

『えー……じゃあ辛口で我慢する、その代わり食べきったら気づいてね?』

「……お? なんだ? シーフード辛口でもいい気がしてきたぞ? 今ならいける、着水よし! 点火よし! 電磁よし! 沸騰よし! シーフードいれまーーす!!」

 そこで気づいた。ん? なんでシーフードカレー食べるのに戦艦から出撃するようなテンションになってるんだ? やばいやばい、今の俺やばすぎるぞ……

「まずい……いつもの病気か……」

 俺は台所の棚にある薬の瓶を手に取る。そこから五錠取り出し、水と一緒に喉の奥に流し込む。

 すると、俺の体に流れていたさっきのテンションが消え去り、俺の視界は一新され鮮明クリアになる。頭の中がミントガムを噛んだようにシャキッとする。

「最近、頻度が増してるな……」

 精神安定剤。俺はパソコンの電源を入れるのをやめてから度々おかしくなることがある。それは家の中でよく起きるのだが、これから仕事に就いて働いている最中にこの症状が発症してしまうと即クビだ。

 その前に直したいと思っているので、病院で寝ているジジィのお見舞いついでに病院の先生に相談した。先生には俺の生い立ち、あのゲームのこと(ネカマであることは伏せた)を話したらこの薬をもらったのだ。

 この薬を飲むと、頭の中が落ち着いて変なテンションもなくなり俺は平常を取りもどす。

 チン、とレンジでトレーの中にあるご飯が温まると湯で温めたカレーは出来上がっている。トレーのご飯を皿に移し、シーフードカレー辛口をかける。さて、いただくか。

 しかし、この薬は服用してから数分後で急に眠気がやってくる。飲むならカレーを食べてから飲めばよかったな、カレーの辛口がやけに辛く感じる。口から火が出そうだ、でもエビとあさりは冷めないうちに食べてしまう。

 結局、俺はカレーを半分残し、眠気に負けてテーブルに突っ伏して寝てしまった。



 ピニャーピニャーという猫のお化けの鳴き声で目を覚ますと、カレーは綺麗になくなっていた。家に住み着いている猫のお化けが食べてしまったのだろう。俺は半分だけでも腹は満たしていたので皿を洗った。

 病院の先生から言われている薬の服用錠数は一日五錠、さっき五錠飲んでしまったので今日はもう飲めない、そろそろ次の分ももらっておかないと次がなくなりそうなことに気づく。

 冷蔵庫に貼ってあるカレンダーの日付にチェックがあることに気づいた。

 この日の為に整えてある自分の顔を洗って身支度をし家から外に出る。

 おっともう次の日じゃないか、真上の朝日がまぶしい。朝からはバイトの面接があるので遅れないように、俺は家を早く出たのだった。

 面接は近くのコンビニだった。面接をしてくれる店長は禿頭のハゲで、体がごつくてヤクザなんかに組していそうだ。その怖い容姿にコンビニの制服の上からかわいいエプロンを着ている。こいつ、りんごのアップリケまで縫い付けてるぞ。俺は店長と顔を合わせて含み笑いをした。

 すると、店長の機嫌が火山みたいに噴火して、俺は追い出された。近くの公園でブランコを漕ぐに至る。本当についてない、あんな店長反則だ、誰だって笑ってしまう。

 でも、店長は俺が笑ったことに対してではなく、俺が面接時間に遅刻してきたことに腹を立てたようだ。

 だから、今日初めて公園の時計台にある時間を確認すると確かに面接時間を四時間くらい過ぎていたことに気付く。俺が悪かったんだ。手持ちできる時計を買うことを決めた。

 しかし、過ぎたことは仕方ない。せっかく外に出たのだし、病院に行ってジジィのお見舞いがてら先生に薬をもらおう。それと帰りに大型スーパーでシーフードカレー甘口も忘れないように手のひらにペンでメモを書く。

 病院はあまり大きくない三階建て。老人ホームのような病院だった。

 まずジジィの病室に行き、まだくたばっていないか確認しにいった。

 病室には一〇円ハゲが出来つつある白髪のジジィがいて、好物の煮豆を看護師に見つからないようこっそり食べているところに近づいたら、しかめっ面をされて煮豆が混ざったツバを吐きかけられた。俺はそのツバを手のひらで受け止め、病室を去った。まだまだ元気で残念だ。

 煮豆とツバを手のひらに溜めたまま、階段をつかって三階にある薬を調合している部屋に向かう。関係者以外立ち入り禁止という立札が立っていたが俺は関係者なので気にしない。先生のいる部屋はこの先だ。

 三階の一番奥に『調合室あっち』という反対側の部屋を指しているプレートが上に刺さった扉がある。その向こうに黒人で頬が痩せこけた頭にメガネをかぶった人がいる。そいつが俺に薬をくれた、ガーナーとかいう名前の先生だ。看護婦にそう言われているのを聞いて覚えた。

 俺は面接練習を思い出しその扉を二回ノックする。「どうゾ」という変にカクカクした声が返ってきてから扉を開ける。完璧だ。

「ん? キミどこカラはいッテきたノ? ここハ立入り禁止ダヨ?」

「私の名前は暮井京太と申します。接客は赤子からご老人までお手の物、注文のお品は出来上がり次第冷めないうちに速攻で仕留め、お客様のお会計の際は支払額からさらに割引を効かせます、好きな動物はキリンです。こんな私ですがどうかよろしくお願いします」パーフェクト。

「ハ? この仕事接客なんテシないシ、注文の品ハ冷めナイよ? 割引ハドうでモイいいケド、きりンハ僕も好キよ」

 まぁまぁな評価ということか。キリンネタは好感のようだ。

 ガーナー先生はまだ言い続けた。頭にかぶっているメガネを目に当て始めた。

「デモなんカサ、きみオモしろイネ、ちょット僕の研究を手伝ッてくレナい?」

「雇って……くれるんですか?」

「これ飲ンでくレタらね」

 それは俺にくれた薬、精神安定剤だった。そう英語で書かれている気がする、ラベルの色も同じものだ。俺は感謝の気持ちでいっぱいになりガーナー先生の差し出す黒い肌色の右手を受け取り、感動のあまり両手で激しく握手をした。

「コレは同期率を高メル薬でネ、私たちニハ効果がなイカら君達ニ服用サセれば……」

「ありがとうございます、これからよろしくお願いします」

 握手を交わしたことによりガーナー先生の手に煮豆の混ざったジジィのツバがついた。それを自分の鼻先に持っていく先生。

「スンすん、興味深い匂イがすルネ」

 俺はしまったと思い、ガーナー先生の気が変わらないうちに机から精神安定剤を持ち去りその部屋を後にした。最寄りのトイレで石鹸を一つ丸ごと使って手を洗った。薬は瓶でもらったので一ヶ月は持ちそうだ。

 病院を出ると、家に帰る時間だ。カラスが夕日の向こうで終末を歌いだす。

 アーーホーーホーー。

 そう鳴くカラスの声を昔どこかで聞いた気がした。

 それを思い出そうとすると、何かを忘れている気がした。手のひらを見たけど何もなかった。今日も面接失敗したなと振り返る。

「家に帰るか……」



 家に帰ると誰かが歌っていた。猫のお化けではなく、幼稚な女の子の歌声。

 俺は玄関で靴の消臭をしながらそれを聞いていた。

『あーるぷーすいちまんじゃーくーこやーりーの――』

「そこは子ヤギだろう」

 アルプス一万尺の歌だ。昔、俺の通っていた保育園で爆発的に流行って大人の先生、お父さん、お母さんを巻き込んで派手に盛り上がったことがある。あれは楽しかった。

『こやりだよぉー』

「小さな槍の上で踊れる訳が無いだろう」

 子ヤギの上ならかろうじて踊れるだろう。些か可哀想な気はするが。

『んー? 小山の岩の上だって聞いたよ?』

「なに? 誰情報だ? ソースは?」

『そーす? ネットで調べたもん』

「ネット? そんな誰が書いたのか分からない情報を信じるなどどうかしている、いいか? ネットなんてものは人間を外からではなく内から破壊していく物なんだ。心を殺す道具なんだ、俺がいい例えだ。俺はガキの頃からネットばかりをやっていたから、ネットの連中とばかり楽しんでいたから……現実で見放された、俺をもう……気にする人なんて……話しかける奴なんて……誰もいない……」

 いつのまにか感傷に浸っていた。またおかしくなっている……

 独り言を呟いていた俺は、薬を五錠と言わず一〇錠ほど水も無しに飲んだ。

 すると目の前がフラッシュバック。

 玄関に置いた靴穴に鼻から倒れ込んだ。くさい……

 でも、それも一瞬のことで体を起こすといつの間にか俺は居間にいて、こたつテーブルに足を入れていた。直前の行動を忘れたように時間が経ったようだ。

「なぜだ? なぜこんなことになっている……」

 俺は居間なんかに来た覚えはないし、それに……

「なぜパソコンの封印が解かれているのだ……」

 俺がまだガキの頃、ジジィがまだ家に居た頃にパソコンを買ったので、ジジィの目につくようにと俺の部屋ではなく居間にパソコンが設置された。それから、あの事件があってから、ずっとパソコンが俺の視界に映らないようにと布を掛けていたはずなのに……

「俺がやったのか? ……俺が……?」

 パソコンは掛かっていた布が取り払われ、コンセントも片付けたはずが付いていて電源がつき、あのゲームの公式サイトが画面に映っていた。

 俺を絶望に陥れた文面が画面中央に並んでいる。

『ウンエントリヒ・リーブリヒ・ルストは四月をもってサービスを終了いたしま――』

「うわぁぁあぁぁあぁぁ!!」

 俺は狂ったようにパソコンの電源ケーブルの電線を持ってコンセントからひっこ抜き、画面に布を乱暴に投げつけ、二階の自分の部屋に逃げ帰った。

 急いで布団と毛布に挟まった。夏の夜は暑かった。



 その次の日のこと。

 平常を取り戻した俺は窓から斜めに差し込む朝日に照らされ、冷たい何かと一緒に目覚めた。冷え切った湯たんぽかと思ったが今は夏だ。

 布団の中に広がる暗闇を見ると長い毛がある。猫のお化けだろう。

 窓の向こうに広がる青空と同じ空色をしていた。毛並みは人間の髪に近く、サラサラしている。いやお化けなのでサラサラなのだろう。

 俺はいまだ眠る猫のお化けを布団の中に残し、廊下に出た。廊下では例の猫のお化けの鳴き声――どうやら二匹いたらしい。もしかしたら、子供を生んだかもしれない。

 台所に着くと冷蔵庫からカルピスを引き出して飲もうとしたら空なので、コップに注ぐのも面倒で独り(ボッチ)な俺は、誰にも見られていないのをいいことに二リットルサイズのペットボトルに入った麦茶を片手に取って、ペットボトルの容器に口を付けグイっと煽る。ワイルドだ。

 でも、息が続かず咽てしまい、濁る麦茶を冷蔵庫に戻す。閉めた冷蔵庫の表面に張り付いているカレンダーを見ると今日は特に予定もなかった。

 今日という日は天気も良かった。しかし気分は落ち込んでいた。

 なので、墓参りを決行することにした。俺の親とおばあちゃんのだ。俺は暗い顔でこたつテーブルに足を入れ落ち着く。

 仏間には母と父の写真が飾られているのでこれに参ってもいいのだが、墓にはおばあちゃんの骨がある。おばあちゃんは大切だ。

 俺には、母と父の好きな物など到底分かりやしないので、まずはそれを考えることにした。



 母と父がいなくなったのは俺が生まれて二年後、その時の俺はかわいい坊やだった。

 両親が俺を生んで出来ちゃった結婚、ケーキ入刀にはゼロ才の俺も参加した。その後、他の子より早めに歩けるようになった俺を抱いて新婚旅行、場所は南アメリカ大陸のチリを経由したイースター島。俺に不思議な力を与えたかったそうだ。パワースポットが豊富なその島は、ハイハイを卒業した俺に鉄の心臓アイアンハートを与えた。

 鉄の心臓ていうのは、どんなことにも驚かない、物怖じしない、硬くて折れない心のことだ。そうジジィが言っていた。

 おかげで今の俺は猫のお化けやおばちゃんの幽霊を見ても驚かないし、怖いヤクザ面した店長に怒鳴られても怖くない。たった一人でもまだ生きている。俺の心はまだ折れていない。

 それから、鉄の心臓をもらったベビーカーの中の俺だが不幸なことに帰国ルート先のチリで地震が起きてしまう。そのせいでイースター島から帰りの飛行機の便が出せなくなり、およそ一ヶ月ほどイースター島で滞在し、ついに帰りの便が決行する。それに乗り込んだのはおしゃぶりを咥え、さらに親指をしゃぶる俺だけだった。

 搭乗員があまりにも多かったのだ。およそ一ヶ月もの間、イースター島は鎖国状態になり食料物資不足、飛行機には何百人も乗れない人がいた。その中で乗れる人に選ばれたのは島民と老人達からだった。

 食料不足で明日も分からないところにいるよりは息子だけでもと思ったのだろう。俺の親は明後日に出る便で必ず行くからね、と言葉を理解できない俺に何度も言い聞かせて、島で仲良くなった島民に俺を預けた。チリの空港に辿りついた俺だが、親が来るまで首都の大きな病院の赤ちゃんと一緒に預かってもらうことになる。しかし、その病院のチリ国出身の赤ちゃんが言う言葉を理解できた俺には満足できない環境だったらしく、何度も隔離室を脱走した。

 それから、親が来たのは約束の明後日ではなく、一ヶ月後だった。いや、親と名乗る人が来た。フサフサの長髪を生やしたナイスガイだったという。

 そいつは、チリの伝統的な食べ物に飽きてきた俺を抱いて日本に帰国した。辿りついたのは新築の俺の家ではなく、田舎の木造の家だった。そいつはあの汚いツバを吐いたクソジジィだった。何日も帰ってこない俺とその親を心配し、待つより現地に向かったのだという。そこで俺を見つけた。ジジィとおばあちゃんは俺を引き取り、暮らしていた田舎の家を見事燃やした。田舎の家は元々古いし床が汚くなったので思い切ったらしい。くさい納豆とか煮豆という日本食を食わされて吐いて床を汚した俺は、ジジィとおばちゃんと一緒に親が建てた新築の家に移り住んだ。

 そこは現在の俺の住所となっている家だ。家は俺とその親が新婚旅行から帰ってきたら出来上がっている、という手筈だったのでそれを知ったおばあちゃんは泣いてた。

 それから、何ヶ月経っても母のおっぱいが恋しい俺の親からの連絡は来なかった。ジジィはもう一度飛んでいってやる、と意気込んでいたが、日本政府に所属するチリの大使館の人が調査した。その結果、『行方不明』という通知が来た。それを聞いたおばあちゃんは気から来る病に倒れ病院に入院。ジジィはおばあちゃんの看病のためにチリに行く野望を断念。そして、おっぱいの代わりにカルピスを飲んで断乳した俺はジジィと家で二人暮らしをすることになる。

 そんな生活が始まっても、俺と一緒の時間が長いのはおばあちゃんだ。おばあちゃんは俺にいろんなことを教えてくれた。知恵袋というやつだろう。時々、夜の病院に泊まったりもした。キリンが好きな俺におばあちゃんは冬に輝くキリン座を教えてくれた。明るい星が目印の点になっていないので見つけるのにいつも苦労をする。でも俺はその星座が一番好きだった。

 ジジィとの二人暮らしはつまらないものだった。唯一の趣味なのか古いレコードに針を垂らしながら音割れがひどい曲を家中に響かせていた。それが耳障りな俺は、家にいるよりおばあちゃんがいる病院を選んだのだ。

 おばあちゃんのお見舞いで来るジジィは煮豆の作り方を聞いて、家に帰っては煮豆を作っていたが失敗ばかり、それを俺は毎日食わされた。泣いて鼻水垂らして「んまんま」と喜んでたらしい。

 そんなある日のことだった。小学校に入学を果たした俺の入学式、ジジィは小学校の門を潜ろうとする俺を肩に乗せて病院に向かう。俺は人生で初めての入学式を欠席したがそんなことはどうでもよかった、おばあちゃんが息をひきとった。

 俺はおばあちゃんのお見舞いに行くたびにあやとりやアルプス一万尺を教えてもらってすっかりおばあちゃん子だったので、入学式から連休してお墓参りをした。雨の日も風の日も傘を差しながらジジィの肩に乗って、無言でおばあちゃんの墓に背中を向けていた。そうして入学と同時、一ヶ月もの間を墓参りという名目で学校をサボり果たした俺とジジィは「とうとう二人だけになったなクソガキ」「死ぬなよクソジジィ」と罵り合った。



 というのが、俺の消えた親と大切なおばちゃんが亡くなった話だ。物心がついていない時の話はほとんどジジィから聞いた話だが。

「そうだ、昨日はシーフードカレー甘口を買うのを忘れていた、あと最新のGAマガジンも買っていない」

 お墓に供えるものは大型スーパーで買うことにする。手のひらでは石鹸で消えてしまうという教訓を生かし、買う物を紙用紙にメモした。頭に浮かんだ物から書いていく。

『お供え物、シーフード甘口、大豆、砂糖、塩、肉、鳥肉、食べ物、飲み物、カルピス、野菜、キャベツ、レタス、魚、食べ物、飲み物、マグロ赤み切り身、カップアイス』

『食べ物』とか『飲み物』とメモに直接書くと頭に浮かんでくるのはなんでだろう?

 最後にデザートを書いて、俺は何か忘れている気がするがペンを置いた、よしこれを買ってこよう。一〇分後に発つことを決めて、先々月のGAマガジンをめくる。

『ふああぁ~よく寝ちゃった~』

 するとどこからか、かわいらしい女の子の欠伸が聞こえた。台所からだ。

 俺の家は玄関から入って四方向に道がある。左が仏間、右が台所となって、直進すれば洗面所、階段を上がれば二階となっている。

 そして、台所からしか俺のいる居間に入って来れない。つまり、俺に逃げ道はなかった。

 女の子の泥棒は気になるな、こっそり台所を覗いた。そこには化け猫と同じ毛色をした、空色の長い髪を垂らした純白の法衣を着た少女、いや身長が一二〇にも達していないので幼女が冷蔵庫を覗いている。

 その小さな背中をどこかで見たことがあるような気がした。

『カルピス切れてるぅ~ちょっとーマイスタ~』

 マイスター、それが彼女のボスなのだろう。俺はそこらへんに立てかけてあったジジィがよく背中とケツをガリガリ掻いていた孫の手を、右手で握り締めて武器にした。

 空色の幼女が麦茶で我慢したのか、可愛く両手でペットボトル容器を挟み込み、頭を真上に向け、柔らかいピンクの唇を麦茶の丸い出入り口に近づかせ密着――ラッパのみ――。

「やめろ! それは俺が先に――」

 ワイルドにラッパのみをしたんだ、と言おうとしたが空色の幼女と目が合って俺の鉄の心臓は活動を停止した。

『マイスター! 起きたなら僕も起こして欲しかったのに!』

「お、お前は……そん……な……」

 上手く呼吸ができない。なんで俺が作ったキャラが――

 右手が震えて孫の手を落とした。どうして俺の目の前に現れ――

 幼女の青い瞳に視線を吸い込まれる。なんで俺の目を見つめているんだ。

 そこで、はっと気づいたように綻びる顔に両手を当てる空色の髪色を持つ幼女。持っていた麦茶を床に落とし中身を床にぶちまける。

『やっと僕の姿が視認できるようになったんですね、マイスター』

 その言葉で我に帰った俺は、居間に戻ってこたつの中に潜り込んだ。空色の幼女はそんな俺の後を追って、笑いながらこたつの中にナイススライディングで滑り込む。こたつに足を入れて毛布をめくって俺を見てくる。

「なぜついてくる!」

『マイスターが楽しそうだったから? あははは』

「楽しくなんかない! なんなんだお前は! 覗くな!」

 そう怒鳴ると、幼女は悲しい顔をしてこたつを閉じた。

 俺は真っ暗なこたつの中で未だそこにある幼女の幼く小さな足を拝みながら、頭の中を整理する。そこで、やっと鉄の心臓が息を吹き返した。取り乱した調子を常に戻す。

「お前、どこ中だ」

『どこちゅう?』

「中学校だ、俺と同じところなら、俺がキャラクリしたアバターを密かに文化祭で匿名希望として飾ったことがあるからな、俺のアバターのコスプレをしているんだろ?」

 考えられるとしたらこれしかない。俺はゲームで使っていたアバターを文化祭の絵画展で密かに飾ったことがある。アート職人に俺のアバターを褒められて、さらに絵まで書いてもらって嬉しくなった俺は、それをコピーしてデジタル絵として先生方に頼んで厚い印紙に印刷した。それを絵画展に匿名希望の名前で担任の先生が飾ってくれたのだ。

 今思えば、当時の俺の行動力は異常だと思う。中二病というか、自分がやることに恥ずかしさを覚えなかったのだろう。

 評価は最高だった。女子は「誰書いたの?」「かわいいね髪色が」と言ってくれるし、男子はブヒブヒ言っていた気がする。その内の誰かが先生に聞いて「あの絵は暮井が書いたものだ」と、とうとう先生が約束を破って言ってしまった、そうして嫌がらせのつもりかコスプレして俺の前に現れた。そうだろう!

『マイスター、僕の名前忘れちゃったんですか?』幼女の震えた声。

 そんなの……覚えてるに決まってる……忘れられるわけないだろ。

「クレメル……クレメルヒェン……なのか?」

 再び、こたつをめくり俺を見てくる空色の幼女、通称クレメル。その顔を見て、やっぱりクレメルだ……。その足裏を掴み、ぷにぷに……やはりクレメルか……

『あはは、マイスター?』

 そこで俺はこたつの中から出た。すごく真剣な顔を取り繕いクレメルを凝視した。

「確かにお前はクレメル……なら聞かせてくれ、なぜお前は三次元化、している?」

 まず、大前提にそれがあり得なかった。ウンリーオーは2DMMORPG、俺は3Dでの繊細なキャラクリエイトはしていないのだ。

 それが、2Dでは見えない後ろ姿や一本一本の髪の毛、唇の色、足裏というマニアックな箇所の柔らかさ、そのどれもが俺の想像していたとおりのクレメルだったからだ。

『マイスターが僕を作ってくれたんですよ? マイスターこそ僕がここに存在する理由……何か知りませんか?』

 この現象に俺が理解できないのだから俺が分かるわけないだろう。首を振った。

「すまないが知らない、でも、やっと姿が視認出来たとか言っていたじゃないか」

『ネットで僕みたいな人がいたんです。記憶にある掲示板で知って……だから……』

 おかしい。クレメルの言動がおかしいのではなくクレメルのテンションがおかしいのだ。なんかもじもじしている。クレメルはもっと笑ってはしゃぐ子だ。

「……だから……その……」

 はぁ、仕方ない。俺はパジャマを脱ぎ、タンスから私服を取り出した。

「ならお出かけだ、クレメルも普通の服に着替えてこい」

『あ、僕はこのままでも……』

「なに? それは困る、近所の奥様方が、幼女にシスタープレイさせてるわーとボヤかれる、はやく着てきなさい」

『僕はマイスター以外に見えないんです、まだ家から出てないから本当か分からないけど、でも……ネットでそう言ってたのを聞いて……』

 ネット、その言葉を聞いて思い当たることがあった。昨日なぜか起動していたパソコン、あれはクレメルが点けたのか。

「なるほど……確かにそうだな、昨日もここにいたんだろう? ということは朝まで俺と寝ていたのはクレメルだな? 俺には姿が見えなかっただけで実際はいた……そういうことだな」

 その俺の言葉にクレメルは青を映す大きな瞳をパチパチさせる。鳩が豆鉄砲な感じの驚いた顔を表している。

『僕の言ってる事、信じてくれるの?』

「なにを今更、誰がクレメルを造ったと思っている? 誰がクレメルを考えたと思っている? 誰が、クレメルを信じてやれると思っている? クレメルを一番理解しているのは、俺しかいないだろ……だから……クレメルの下着の色は――ラインヴァイスだろ?」

 それは俺とクレメルしか知らないことだった。意味は純白。瞳と髪、体の色合いはブロイエを表現している。青空という意味だ。

『マイスター……』

「綺麗な空の色っていうのはな、青いだけじゃなくて白い雲もやっぱり必要なんだ、でも白い雲は流れてどこかに消えていってしまう。その行き着く先を考えたら……自然とそうなっちまった……楽園だってな……ふふっ」

 それを聞いたクレメルは笑顔になった。俺も自然に含み笑いをしていた。ちょうど俺の履いている柄パンツも水色と白のストライプ柄で今日みたいな空色だったからだ。



 家から外に出ると八月の真夏はいよいよ本番を迎え暑かった。今日は特に暑い。

「暑いので涼しいしりとりをしようーぱーるーぱー、クレメルの番だぞ」

『あはは、ぱ? ぱーぱーぱぱ!』

「ぱぱ? ぱーぱーパナマ?」

『あははああひゃははあはは、マーライ、オッオン』

 笑いすぎだろ、オッオンてなんだよ……。終わったし。

『マイスター! あれはなんですか! こっちはなんですか! それはー? あは!』

 横にべったりと俺にくっついては離れるクレメル、それが一番暑いのだ。クレメル自身はあまり暑くないらしい。俺は人が通るたびに冷や汗が出る。このままだと夏風邪をひきそうだ。

「お化けは涼しいと思ったんだが……世迷言か」

 大型スーパーの中は涼しかった。途中、警察官が自転車で通ったが、俺とクレメルがくっついて歩いても補導されなかった。途中、犬が俺に吠えていたけど、クレメルが犬の頭を叩くと犬は辺りを見回し小屋に戻って震えていた。つまり、クレメルは本当に周りからは見えないらしい。さらにいえば、物理干渉もできる。

「クレメル、そこのじゃがいもをカゴに入れてくれ」

『これですか? ――はーい、マイスター』

 それはキウイだった。そこっていったのに野菜が並んだこの場所から、わざわざフルーツが並んだところに行ってじゃがいもに似ているキウイをとってきた。

 俺がそう指さしたからだ、目線を配ったからだ、俺の計画的犯行だった。とってくるものは別になんでも良かった。

 その間、キウイはだいぶ移動した。ネットの書き込みによるとクレメルは他の人から見えないという。警察官も犬もクレメルの姿を視認できないということは確かにそれは間違いない。

 それなら、果たして周りから見えないクレメルが持ってきたこのキウイは周りからどう見られるか。店内にはたくさんの買い物客で賑わっている。

「キウイがういちょるぞ……!」おじさんが。

「きゅういちゅうふゆうするきゅういやで……」店員が。

「キュウリですってぇ!?」おばさんが。

 なんかめちゃくちゃ目立っていた。唖然とした買い物客がキウイを見つめる中、そのキウイが俺の肘に掲げたカゴの中に入ったんだ。

 俺はそのカゴの中のキウイを手に取って掲げた。

「このキウイ! 一〇〇円から!」

 それから、俺が始めたセリに買ったのは化粧が濃いおばさん、もといキウイをキュウリと間違えてしまった人だった。俺は食べると空が飛べる、体重が小鳥のように軽くなるんです、というキャッチフレーズでおばさんの心を掴んだ。最初の一〇〇円から五〇〇〇〇円まで値上がりした。ただ、儲けたのはスーパー側だった。その場で、滑舌の悪い店員がおばさんから現金を受け取っている。

 俺はお金はいらない、お前らのやり方にはうんざりだ、と喧騒から離れ肉売り場に。

「クレメル、お前にはこれから静かに暮らす事を提案する」

『静かに?』

「そうだ、お前は他の人に見えないのに現実に干渉できる、いわゆる透明人間だ。日本政府に目をつけられると犯罪に使われる可能性がある」

『それは嫌です! 犯罪は嫌い!』

「だろう? 分かったら前を向いて歩け、人に当たるなよ、ん? 大豆とキャベツ、レタスを買い忘れてしまった、さっきのところに戻るぞ」

『はいマイスター……』

 マイスター。おそらく俺のことを指しているのだろうが、俺にはそんなカッコいい呼ばれ方をされる趣味は生憎持ち合わせていない。この際だから決めよう。俺の呼び方を。

「あと、俺の呼び方、そのマイスターとやらはやめてくれ」

『じゃあ、なにがいいですか?』

「そうだな、俺の名前が暮井京太だから暮井くんと呼んでくれ、くん付されたいんだ」

『く……れいくん?』

 ダメだ、幼女にくん付けされても全然萌えない。

 野菜売り場でキャベツとレタスを取って、大豆はどこかと探しているとフルーツ売り場の近くにあった。キウイキウイ、じゃなくて大豆大豆と。目をフルーツ売り場に持っていくとさっきの化粧がやばいおばさんがいた。

 手にはキウイ。キウイだと?

「あのおばさん何をしてるんだ?」

 俺が気になって見ていると、化粧のひどいおばさんはそのキウイを、フルーツ売り場のキウイが並んだ場所、あるべきところに戻した。

 おばさんは五〇〇〇〇円の大金を出して買った、空飛ぶキウイを手放したのだ。おばさんはその後、レジへと足を進めていた。

 それが気になってしまい、カゴにはキャベツとレタスしか入っていないが、おばさんのすぐ後ろに並んだ。おばさんと顔を合わせたら挨拶でもされるかと思ったが、俺は存在の力が薄いのか見向きもされなかった。

 おばさんのカゴの中はなんだかいっぱいでごちゃごちゃしていたが、レジ係の人が整理しながら精算していくと、最後までキウイは出てこなかった。つまり、このおばさんはキウイを本当に手放したのだ。あんなに体重を軽くしたがってたのに。

 俺がレジに進むと、レジ係の人が――え、これだけ? 今日野菜だけで生きるの? ぷぷぷ――という心の声が聞こえる気がする。

 精算を手軽に済ませ、買い物の続きは後でできるとして、おばさんがマイバックに物資を詰めているところに俺は突撃した。

「おいばばぁ、俺のキウイが食えないっていうのかよ」

「はぁ? あんたいきなりなんだい? あたしはあんたのキウイなんて知んないね! 下ネタかい!?」

「じゃあなんでキウイを元に戻したんだ、痩せたいんだろ! もっと熱くなれよ!」

「あれは、会計にしようと思ったらさ、カゴにいらない物があったから置いてきただけだよ、もしかしてあんたの仕業かい?」

 いらない物? つまり何か? このおばさんは自分のカゴに入れた記憶がない物が入っていたと言っているのか? 例えば、親と子供が買い物に来ていつの間にか子供の好きなお菓子が入っていたように……

「すいません、キウイ違いです、化粧が美しいおばさん」

「全く! 買い物の邪魔だよ! ナンパならもっと若い子狙いな!」

 ナンパ扱いにされた。だが警察を呼ばれるよりはマシか。素早くおばさんから距離をとる。

 俺はキウイのことを考えながら隣にいるクレメルを見た。そうしたら目が合って、逸らされた。

「なぜ逸らす? いや分かるぞ、お前……」

 それはキウイの謎とかクレメルがまだ何か隠しているとか、そういうことじゃなくて、俺がクレメルの姿を視認し会話できてからのこと。

「俺を怖がっているな?」

 クレメルはそれに、こくりとゆっくりぎこちなく首を縦にうなづいた。



 昔、ジジィが怖かった時がある。それは、おばあちゃんのことを馬鹿にした時と、ジジィの命令を拒んだ時だ。前者は俺が悪いが、後者は理不尽極まりない。

 例えば、ジジィが失敗した煮豆を食わせてくるのを俺が拒むと「食べ物は大事にせんか!」と頭をひっぱ叩かれた。理不尽と思うだろう。

 俺はそう思い、家を飛び出し友達にそんなジジィのことを聞かしたらウザがられて友達が他人になった。家に帰ると失敗した煮豆で作ったフルコースが俺を待っていた。怖い目と怖い口調でジジィ、いやクソジジィは「くえ」というのだ。俺はそれを食わされてご飯と一緒に掻き込んで味を誤魔化した。クソ甘かった。

 たぶん、クレメルが抱いてる感情はそういう感じだ。その時のジジィのように俺を、怖がっているのだろう。

 スーパーで買い物を終えた俺とクレメルは、買った物を冷蔵庫に保存するため家の前に来る。道中、あまり会話はできていなかった。仕方ない、俺が折れよう。

「なぁ、クレメルゥ、お前はぁ、どうしたいんだぁ~い?」

 俺はとびきりオカマな口調で、クレメルに甘くねっとりと聞いた。俺の目と心と声はさぞ悲しんでいるだろう。こうすれば、ネカマだった頃の俺の気持ちが分かるような気がしたんだ。

 対するクレメルは「こいつ気持ち悪」とかいう表情一つせずに、悲しい顔でこちらを見上げた。

「なぁ、クレメルゥ、俺はぁ、どうすればいいんだぁ~い?」

 クレメルは青い瞳で俺を見つめながら、言葉も出せず、だんだん顔がくしゃくしゃになって、かわいいピンクの唇がしぼんで、小さな体が震えて――

「悪い、今の俺は怖かった、それは認める、だから泣くな、しかし、お前がどうして普段の俺を怖がっているのか、俺には皆目検討つかんのだ、俺はクレメルのどんなことだって知っている。でもな、お前俺のこと怖いんだろう? なんとなくそれは分かっているんだが、俺には俺が怖い理由がよくわからんのだ……」

 そんな俺の謝罪にクレメルは泣きながら自分の気持ちを語る。

『僕、マイスターのことが怖いんだけど……でも、同時に面白いんです、だから、よく分かんなくて……ですってつけて話す人なのか、かわいく、なの、とか、よ、とかつけて話せばいいのか……どんな、命令をこなせば……マイスターは、喜ぶ、のか、とか……どんなことを言えば、マイスターを、笑顔にできる、んだろう……て、マイスター……僕を見て……笑ったこと、ないから……僕のこと、気に入らないって……想像どおり、思った、とおりじゃ、ない――』

「そんなことはない!!」

 俺は近所の人達に一人叫びをしていない、大きな手振りをして、これは演劇の一人練習なんです、という思いも含めて腕という羽を大きく広げた。

「クレメルは俺の娘だ、あのゲームでクレメルは俺に友達をくれた、クレメルは俺に勇気と希望をくれた、俺にはクレメルしかいないんだ、俺にはな、クレメルがいないとやっていけないことに……今更気づいた」

 ――ジジィがそうだったように。

 ジジィは俺がいないとやっていけなかったんだろうと考察する。そして、それは俺も同じだ。俺がジジィに命令され、断るとジジィは過剰に俺を叱る。だから俺は仕方なく遂行する。お互いの存在を確かめ合って自己主張をしていたんだ。そうやって持ちつ持たれつの関係を築いていたんだ。

 同じだ。俺がクレメルに命令もしくは質問をすると少しビビって俺に慣れない敬語なんかを使って話す。しかし、俺が楽しいことや面白いことを提案、発言すると、クレメルも砕けて笑い出す。

 昔の俺もそうだった気がする。なんだかんだ言ってジジィの命令は受けたし、いつもジジィの周りには金魚の糞みたいに俺がいた。ジジィはよく分からないことを言うけど、そこが俺には面白くも見え、同時に怖くもあったんだ。このジジィ死んだら絶対代わりなんていないよなって。俺はジジィみたいに生きれないなって。

 クレメルも俺が命令したり、面白いことを言い出すとそう思っていたのだろう。この人についていける相手が僕に務まるのかなって。

 調子を合わせていたんだ。

 つまり、クレメルが言いたいことはクレメルに対する俺の性格、態度を明確にして欲しいということなんだ。

 俺があまり感情を表に出さないのは鉄の心臓とジジィ、おばあちゃんのせいもあるが、一番の原因はあの事件だ。パソコン、インターネット、ゲームのせい。ネカマという女のふりをしていたせい、俺はそうやってゲームを楽しんでいた。それも心の底からな。

 あれからたった四ヶ月ほどしか経っていないが俺の感情は含み笑いしかしなくなっている。これは重症だ。なら伝えるしかないな。俺の気持ちを。

 俺はクレメルの目線まで座り込み顔を見合わせた。含み笑いをする。

「これが俺の笑い方だ、俺はこれで死ぬほど、心がボコボコになるほど、笑っている」

『マイスター……?』

 顔を手で隠し、いないいないばぁーという遊びをした。今の俺の顔は前髪をかきあげ、眉毛を眉間に集め三白眼、普段より目力に気合を込める。まるで鬼の顔だ。

「そして、これが俺の正常の顔、どうだ? 怖いだろ」

『怖いです……』

 そして、含み笑いの顔。まだ不安そうなクレメルの表情。

「これが、俺の死ぬほど笑っている顔」

『…………』

 そして、さっきよりさらに気合を込めて鬼の顔。さらに引きつるクレメルの顔。

「これが、怒り狂う俺の顔」

『怖い……です……』

 最後に、俺はなんでもない工夫一つもしない顔を表す。

「そして、これが俺の顔、クレメルにはどんな顔に見える?」

『これは……笑顔? アホヅラのマヌケヅラ、あはっははあはっは!』

 うそだろ……これは最高にカッコいいイケメンな顔だ。毎日三時間毎にセットする最高の鼻と目、眉、口の位置なのに。

 でも、笑っていたかもしれない。俺の視界には俺の顔が映っていないので分からないが笑っていたかもしれない。俺はこの顔を笑顔と名付けた。路線を変更する。

「……そうだ。俺はいつでも笑顔なんだ、だから、クレメルもそんなに考え込むな、この顔から俺をさらに楽しませろ」

『うん、ぱぱ……』

 ぱぱ? そういや、さっきもそんなことをどこかで……

「クレメル、もう一回言ってくれないか? さっきの言葉」

『え? それじゃあもう一回言うね、僕マイスターのことが怖いんだけどでも同……』

「そうか! ぱぱか! お前はパパを求めてたんだな! よし! 俺のことは暮井くんではなくパパと呼んでくれ、パパだぞ! いいな! 二文字のカタカナでパパだぞ!」

『うん! ぱぱ!』

「違う! パパだ!」

『パパ!』

 こうして俺とクレメルは手を繋ぎくっつき合い、夏の暑さも忘れて『我が家』に帰る。

 袋に入れていたカップアイスが夏の気温で溶けていたことも知らずに。




 それが、俺とクレメルの出会いだった。あの頃の俺は随分と暗い奴だったな。

『パパ、ケーキおいしい?』

「もちろんだ……クレメルのために勇気を出して豪華なケーキを買ったんだからな」

『うん! パパ偉い!』

 クレメルはケーキの上に乗るいちごを崩さないように下の生地を残して、楽しんで食べている。笑っている。俺もケーキを口に含む。甘い、甘すぎだな。ジジィの作っていた煮豆の味がする。

 でも、俺にはそれがたまらなく幸せに思える。

 あの日から、半年経った現状がこれだ。

 クレメルは俺のことをパパと呼び、いつも隣で笑うようになった。

 俺はといえば、俺の世界にクレメルがいてくれるおかげで随分と気が楽になった。ジジィと俺だけだった世界はクレメルのおかげで随分と楽しくなった。

 でも、俺は知っている。真実は誠に残酷だが俺は知らなければいけない。

 あの日、墓参りをクレメルと二人で終わらせて我が家でくつろいでいた時。

 俺は精神安定剤を飲んでみた。一錠だけ。たった一錠なのに俺は気を失って、倒れて、気づいたら倒れた場所と違う場所に居た、辺りを見回したり叫んでも、クレメルの声や姿は、存在はどこにも見つからなかった。

 夢か、幻覚か、幻……。俺はあまりにも孤独な為にクレメルを化けさせてしまったのだ。俺の、俺だけが見ている世界に。

 でも、それに気づいたとしても俺は捨てられなかった。その日から精神安定剤は飲むのをやめた。クレメルが俺の世界から消えないために。

 クレメルの正体は俺が見ている夢だった。俺があのゲームをまだひきづっている何よりの証拠だったんだ。

 それでも、俺は、狂っていてもクレメルがいる愛すべき世界を選んだ。

『パパ……泣いてるの?』

「うん? いや、泣いてないぞ?」しょっぱかった。ケーキが。

『でもほっぺ、濡れてる……』

 クレメルは俺の横顔に小さな手を押し付けてくる。俺はそこで涙を流していることに気づいた。しっかりしろ、鉄の心臓!

「すまんな、俺は悲しくなんてないんだ、これは感動だ、今日までよく生きてきたなと、俺が俺自身を祝ってるんだ」

 そう言って誤魔化した。空色の頭を強く撫でた。嬉しそうに体を揺らすクレメル。

 時刻は午後一時、水色、水玉模様のエプロンを着てケーキに使った皿を洗う。その後、そのままの姿で玄関にて靴を履く。

 俺の仕事が始まる時間だからだ。

『パパ、今日もお仕事頑張ってね』

「ああ、立派なガンモを焼いてくるからな」

 クレメルは他の人には見えないので、俺が仕事中も隣でおとなしくしているか我が家で留守番をしている。

 クレメルと一緒に外に出る時はあまりおしゃべりをしないようにしている。そうしないと、やばい人に見えるからだ。本当はきちんと精神安定剤を飲んで直していけばいいのだが、俺はこうすることで対処した。

 その代わり、我が家に帰ったらクレメルを思いっきり愛でてやっている。たとえそれが独り遊びだとしても。

 今の俺の生活はジジィの年金で成り立っている。しかし、さっき食べたケーキは俺が働いて買ったものだ。

 俺の仕事先は近くのおでん屋、午後二時になると開店を始めるので仕込みは午後一時から。俺の仕事は接客なんだが仕込みの仕方も覚えたい。午後二時から働いて午後五時に閉店するので三時間の労働時間。屋台を終う時に店主から五〇〇円を渡されるので時給は一六〇・六六六六六……円。安いが文句は言わないのが男だ。

 ただ、たまに店主と屋台がいないことがあるのでその時は休日だ。五〇〇円は貰えない。賃金は安くとも日々働くことに意味があると俺は思っている。

 と自分を正当化している俺が屋台がある場所、すなわち我が家の目の前にある道路に辿り着くと、そこに目的の屋台がいなかった。

「今日は休みか」

『わーい、やったーー!』

 ここまで見送りしてくれるクレメルが跳ねたりして喜んでいる。

 我が家に引き返そうとした所で道路の向こうが赤いことに気づいた。もしかしたら屋台の光かもしれない。

 目を凝らすと赤くなっている道の先から人が走ってくる。

「あっ! あついっす! 師匠の家はまだっすか!」

 その背丈、格好から見るに大人の女。男が着るような緑の布地に立派な松の木が描かれた和服を着ていた。その背後がほんのり赤い。

「何だあれは?」

『燃えてるね』

 その女の後ろ、そこにいたのは怪獣映画に出てくるようなモスラのようにデカいチョウチョがいた。羽は燃えあがっているのに飛んでいるのが不思議で、羽ばたく度に火の粉に似た鱗粉が舞い、触覚から火炎を吐いて家々を燃やし尽くしている。

 和服の女はものすごい速さで走ってきて、俺の目の前まで来て止まった。近くで見た女はボブカットの髪型に頭の天辺を小さくお団子にした――いわゆるモンブランケーキのような髪型をしていた。顔は幼いが身長が高いので美女と言えるだろう。

「あーここっす! そこのお兄さん! ちょっと聞いていいすか! 暮井さん家はどこか知ってるすか!」

 元気いっぱいという印象の声だ。俺は聞いていいか悪いか肯定もしていないのに和服の美女は要件を口に出してくる。

 それほど何かに必死なんだろう。俺もそれに応えるように答えてやった。

「暮井さん家とは我が家のことだぞ」

「え? そうなんすか!? でも……男? いや、家族にいるかもしれないすね……それじゃ! はやくお兄さんの家に上がらせてくださいっす!」

 そこで、熱い熱気を身につけて辺りを燃やし尽くすチョウチョが『モアモア』と鳴き声を上げた。炎の噴射音だったのかもしれない。

 どっちでもいいが、チョウチョは俺たちのいる場所に火炎放射を向けてきた。

「爆風吹け、オルカーン!!」

 和服の美女がそう叫ぶと目の前に風の流れが視認できるほど高速回転した竜巻が巻き起こり、竜巻は熱気を纏う火炎を吹き飛ばしチョウチョも巻き込む。その巨体を後退させて炭と化している家々にぶつかった。俺はその間にドアを開けた。

「お邪魔するっす! 師匠! いますか~! 師匠~!」

 和服の女が俺の断りもなしに我先にと勝手にお邪魔する。俺は女が少年か青年つまりは男だったら許さなかった。

 そして、師匠、師匠と叫ぶモンブランの頭をした女。もしかしたらあのクソジジィを探しているのかもしれない。

 昔、ジジィはとある拳法を会得したらしい。それを使って悪人を凍らせた伝説を聞かされた。相手を弾き返し吹き飛ばす、硬化術だとも言っていた。俺にはよく分からないし、ジジィがそれを使っているところを見たこともない。それに拳法でも硬化術でもなく暮井流だとも言っていた時期もある。

 まぁ、なんにせよ俺には師匠という人物に思い当たる人物がジジィしかいなかった。俺は一六年しか生きていないしな。

「あれ~? おかしいっすね……師匠と呼べば分かるはずなんすけど……」

「すまんがジジィ……師匠は入院中だ、重度の糖尿病でな」

「そ、そうなんすか! どうりでぱったり連絡が途絶えてたんすね……じゃあその病院を教えて欲しいっす! はやく!」

「それはいいが……」

 そこで隣にいるクレメルが驚いた。ずっと俺の後ろに居てドアの隙間からあのチョウチョを覗いていた。

『卵生んでるぅーー!』

 それは興味深い。俺もモンブラン系の女もドアからひょっこり顔を出す。そこにはチョウチョが燃えている羽を燃やし尽くして地に堕ち、イモムシのような尻尾の先から殻に包まれていない半透明で柔らかそうな卵をポンポン出していた。

「うわー……また増殖してるっす~やっぱ、きりないっすね……」

『あの卵おいしいかな?』

「美味しくはないだろう、あの中に黄身は無さそうだからな」

 卵は黄身が全てだと思っている。白身なんてただのタンパク質の塊で無味無臭だ。その点、黄身はしっとりしてコクがある。液体なら醤油、個体ならソースをかけて食べれば尚更美味しく感じる。目の前にある半透明で柔らかそうな卵は薄白く、見ていて気持ちが悪いので食べない方が体に健康だろう。

『黄身がないなら食べたくないなぁ……』

「そうだろう、明日は卵焼きにするか、ベーコンを巻いたアスパラガスを添えて」

『アスパラは白いのね――』

「ってちょっと待ってくださいっす!!」

 モンブランである女が俺の耳元で声を荒げる。

「なんで、お兄さんがクレメルちゃんと会話できてるんすか!」

 なんでって……聞こえるからに決まっている。いやそれよりもこのモンブランはクレメルと言った。それに俺とクレメルの見ているチョウチョ――俺の幻覚を共有している?

「クレメルが見えるのか? きみは何者だ? 黄身じゃないぞ?」

「私は新里陸っす! ということは……お兄さんが師匠なんすか?!」

 そこで、やっと自分の名を名乗ったモンブラン、じゃなくて新里陸の顔が有り得なーいという表情になる。

 俺だって驚きだ。なにせ、俺の世界だけにいると思っていたクレメルのことを語ったのはこのモンブランのような頭をしている和服の美女が最初だったのだから。でもこの美女はその俺よりさらに奇想天外という文字を顔に貼り付けている。

「師匠……『ネカマ』だったんすね……」

『ネカマ』その言葉を言われた時、俺の脳細胞がブチブチ切れていく。俺は鬼の顔になり、新里陸の見た目より華奢な腕を乱暴に掴む。

「い、痛いっす!」

「出て行け! お前が何者だろうと知ったことか! 俺と、クレメルを馬鹿にするのだけは許さん!」

「ちょっ、ちょっと! 話を聞いて欲しいっす! 私は別に師匠を馬鹿にしたわけじゃなくて……」

「お前は俺を……ネカマと呼んだ、誰からだ? 誰から聞いた? ハッキングか? そこまでして俺を社会的に殺したいのか? これ以上俺から何を奪うつもりなんだ? お前らは!」

 俺は新里陸に怒り、俺の運命を決める何かに怒っていた。掴んだ腕は少し震えていた。

「師匠……」

「とにかく出ていけ」

「話を聞いて欲しいっす! それを聞けば師匠なら私たちの力になってくれるは――」

 その言葉を聞き終える前に、俺は我が家から新里陸をつまみ出した。隣のクレメルが俺のエプロンの裾を掴んで心配の顔で俺を見上げてくれる。

『パパ?』

「ごめんなクレメル、ちょっと一人にさせてくれ」

 そう言って、エプロンの裾を掴むクレメルと一緒に台所に移動し、久方ぶりに棚に保管されてある精神安定剤へと手を伸ばした。

 これを飲めば、俺の世界は正常になる。きっと、あのチョウチョもモンブランな女も俺の悪夢なんだ。

 精神安定剤を五錠ほど飲み込んだ。久しぶりの感覚が俺を襲ってくる。薬のせいなのか俺の精神が安定しているのか分からないが、たちまち俺の心は温かくなり安心する。俺の愛すべき狂った世界から、正常な在るべき現実へと俺を連れて行った。


 ピンポンピンポドンピンポドンピンポンピンポーーンドンドン。

 目を覚ますと俺は台所に立っていた。やはりクレメルはいない。まずは水を飲もうと動くと、我が家のチャイムが鳴っていることに気づく。

 俺は怪しいセールスマンか引っ越しの挨拶かと思い、ドアに設置されている玄関カメラが映す映像を居間のモニターで確認した。ドンドンとドアを叩いている音も聞こえる。

 そこにいたのは、ボブカットの髪型に頭の天辺を小さくお団子――いわゆるモンブランケーキのような髪型をした中学生くらいの少女と、その後ろに立派な角刈りで傷だらけの顔をしたごっつい体に、これまた立派な松の木が描かれた緑色の和服を着たおっさんが映っていた。

「事案か!」

 瞬間、俺はここぞとばかりに玄関に急ぎドアを引いた。こんな時のために我が家の玄関のドアは両開き構造となっている。設計者は俺の父。

「きゃああやあっす!」

 ドアにのしかかっていたモンブランの髪型をした少女が、まさかの引き戸とは予想してなかったのか、我が家に勢いよくなだれ込む。少女を我が家の中に入れると、怖いおっさんが玄関に入り込もうとする前に急いでドアを閉めて鍵を掛けた。

「大丈夫か! あの男は何者だ! お触りとかキスとかもろもろされなかったか! あーその前に警察に連絡は――」

「このドア引けるなんて聞いてないっす~……ていうか、いれるならシンクも入れてほしいっすよ!」

 よく見るとこのモンブラン系少女の顔は、さっきのモンブラン系和服女と似ている。着ているのはどこの制服か知らないが、黒を基調とした白の雲柄が印象的なミニスカートとブレザーで、中学生のように見えたのはそのせいだ。

「そういえば声も似てるような……それよりあのおっさんはなぜお前を?」

「おっさんじゃなくてシンクっす! 私は師匠に文句言おうと……てそんな場合じゃないっす! チョウチョが動く前に早くここから離れて夜を待つんっすよ!」

 ここから離れる? なぜ夜? 俺は目の前にいる制服の少女の言っている意味がわからなかった。

「何を言って……それよりチョウチョだと? きみは何者だ? 黄身じゃないぞ?」

「さっきと同じ展開になってるっす! 説明はここから離れた後にするっすよ!」

「だから何を言って……」

 ドンドン。外からドアが叩かられる音。おそらく、あの怖いおっさんが我が家の玄関を叩いているのだろう。させるものか、と俺は背中をドアに押し付けて抵抗した。

「あーもうー! シンク! 魔法発動っす! ドアを吹き飛ばせ、リュフト!」

 そこで、玄関が凄まじい力によって吹き飛ばされた。俺はドアが吹き飛んで出来た破片から身を呈して制服の少女に覆い被さり庇う。

「なんだこれは!?」

「うあぁぁ! なんでこっちくるんすか!」

 玄関から倒れた俺たちを見下ろすのはあの傷だらけの顔をしたごついおっさん。このままだと年端もいかない制服の少女が、ごっついおっさんに連れさられてしまう。

「ちょっと! どいてくださいっす! うわぁー! 抱きつくなっすー!」

 俺はモンブラン頭を抱いて守る。ほんのり甘い秋の匂いがした。

 新里陸は俺のことを『ネカマ』呼ばわりした最低最悪の女だ。でも、その顔によく似た少女を見捨てる訳には行かない。相手はドアを突き破るほどの怪力を持つおっさん。

 どうすればこの状況を変えられる? 俺の左脳に魔法の呪文が浮かんだ。

 これが、幻覚でも現実でも俺はどうでもよくなった。かつて俺が愛したあの世界ゲームで使った、地属性小級、上級魔法の呪文を言い上げる。

「荒れ狂う石ころ、シュタインズ・トーベン!」

 そう叫ぶと、ごっついおっさんの背後から我が家の庭に散らばる無数の石ころが飛んできて、おっさんの強靭な肉体を貫いた。

「ちょっとぉぉーー!」

 モンブランが叫ぶ! 俺はまだ手放さない!!

「岩塊となれ! フェルゼーーン!!」

 おっさんは片膝をつき、腕をクロスして傷だらけの顔をガードしている。顔が弱点のようだ。その真上に石ころが集まり巨大な岩塊と化す。

「押せ押せ押せ(ドルックリュックンルックン)!!」

 巨大な岩塊は重力に引かれて落ち、おっさんを押し潰して浮き上がり、また押し潰す。何度も何度も押し潰しては浮き上がるを繰り返した。どうやら岩は俺が唱える度に押し潰すみたいだ。

「押せ(ドリュックン)! 押せ(ルックン)! 押せ(ドックン)! 押せ(ルドックン)!」

 そこで気づいたんだが、おっさんの頭になにやらゲージのようなメーターがついてある。横にはシンクとローマ字で書かれていて、残量メーターはゼロになっていた。

「やっ……やめてくださいっすーー! シンクがかわいそうっすーー!」

 そこで俺は岩塊で潰すのをやめた。岩塊は茶色い粒子になって消えていく。

 どうやらこの傷だらけのおっさんの名前はシンクというらしい。俺はシンクさんにかわいそうなことをした、が悔いはない。

「危なかったな、俺が覚醒しなかったら二人共おっさんに、抱かれていた……」

「そんなわけないっす! ていうか、シンクは敵じゃないっすよ! 敵は外で卵を産んでいる変なチョウチョっす!」

「なん……だと……?」

 俺は立ち上がり横たわるシンクさんを踏みつけて外に出た。モンブランが擬人化した少女も一緒についてくる。

「ていうか師匠、魔法使えたんすか? まさか、クレメルちゃんとジュンパ状態なんすか!?」

「ジュンパ?」

「プッペンとマイスターの同期シンクロした状態っす! さっきの私の状態なんすけど……師匠は……見たところクレメルちゃんの部分ないんすね……それはそれでなんかよかったっす……」

 モンブランさんが何かに安堵していた。俺はモンブランさんの言っている意味を半分も理解せずに外を見回すと、卵を温めているあのでかいチョウチョが道路の真ん中にまだいた。羽は焼けてしまったのかもう生えていなかった。

「あの卵は一撃で壊さないと中の炎が街に流れてしまうっす! それだけならいいんすけど問題はチョウチョと卵の中身が爆熱の中でも生きていけることなんすよ!」

「つまり、一撃必殺の魔法で倒すということか」

 街に炎が流れることを、それだけというモンブランちゃんは少し天然なのかと思う。

 素手の俺には一撃必殺の高威力を持った攻撃なんて魔法しか知らないからな。せめて、あの武器があれば。

「師匠は風属性上級魔法、覚えてるっすか? それならいけるはずっす」

「ああ……心得ている」

 しかし、俺はこの時点で察していた。これから俺が言い上げる呪文はあの世界ゲームの魔法、それが現実で使えるということは、

「荒れ狂い吹き荒れろ、エントリヒ・ウーア・ゲヴァルトーヴェン!」

 それは俺の見ている夢だということ。薬が足りなかったのか、もう治らない末期症状なのか。夢みたいな出来事が現実で起きている。

 それならば、思いっきりぶつけてやるさ。上級魔法でも一撃で倒せる自信はあったが、物は試しとばかりに超級魔法を使う。

 俺の周りに風が吹き、着ているエプロンが羽ばたきめくれ上がる。隣のモンブランちゃんも雲柄のスカートがめくれるので、手で押さえている。

 風は嵐になった。雨が降り大気を切り裂く音があちこちで聞こえて落雷が落ちる。その嵐は一つに収束され竜巻になり螺旋を描いて、上へ上へと登っていき雲を飲み込んだ。

 いつしか空は綺麗な青一色になりどこかで小鳥が鳴いて嵐の終わりを告げた。

「ど、どうなったんすか?」

「そういえばこんなんだったな、さてチョウチョのところに行くぞ」

「え? ちょっと待ってくださいっすよ!」

 チョウチョは道路の真ん中で何時、車が通るのかもしれないのに卵を温め続けていた。俺たちが目の前に来るとチョウチョは悲しそうな複眼を向けて、重々しくもあもあとした口を開いた。

『ありがとう、おかげで大分楽にあったよ……私はね空を飛んでる訳じゃないんだ、羽で風にぶら下がってるだけなんだ……ぶらりゆらりと行く先は風が決める訳……だから風が強すぎても弱すぎても駄目なんだ、今みたいなそよ風は最高……だね……ゼーレスに来れて……よかった』

 そう言って、チョウチョは薄く光を帯びて小さくなっていき、疲れ果てたように地面に横たわる。卵もまた薄く光を帯びて消えていった。

 俺の前髪をそよ風が優しく凪いだ。

「なんか言ってましたっすね……?」

「さぁな。おそらく演出だろう……それより俺はこの状況がさっぱりわからんのだが」

「あーそうすっよね、落ち着くところで説明するっす、あとシンクに蘇生魔法お願いできるっすか?」

 蘇生魔法、タオフェか。

 その呪文が左脳に浮かんで我が家へと振り返った時、目の前が霞み体が重くなる。

「師匠!? 師匠! 大丈夫っすか!? 師匠~!?」

 おそらく例の副作用だ。薬を服用すると起こる眠気。俺はふらついて地面に倒れる。

 モンブランに言葉を返そうとしたが舌が疲れたのかやる気を失って言葉が出ない、そこで気を失った。耳にモンブランの美味しそうで元気いっぱいな声が木霊する。

 

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