流雫と獣
「霊牙の郷?」
「そうだ」
「………祭りは?」
「数日後にあるぞ」
流雫はそれを聞いて小さく頷いた。
「次は、そこだ」
「うむ」
決定に返事をする影は、くるりと身体をひねって流雫を見る。夕日のような赤い双眸が流雫の左眼だけを捉えて、口を開いた。
「たとえ越境できたとしても、そこかしこに神の力は使われているだろう。惑わされぬようにしろよ」
「何を今更」
「念のためだ。貴様は『そう』なってから、幾分物事を忘れやすい」
流雫は無意識に、空いた右手を包帯で隠された右目の上に置いた。
「………幾星霜前から存在する者の記憶力と比べられては、敵わないな」
「種族のせいだと言うか。向上心のないやつめ」
その影は鼻をふんっと鳴らして身体をそらした。同時に黒い躯が流雫をやや見下せる位置までふわりと上がる。猫のような黒い尾が揺らされ、猫というには大きめな耳がぴんっと上を向いた。
この真っ黒な獣が流雫を見下す時のお決まりの姿だ。
もはや腹が立つこともない。
「流雫よ」
「なんだ」
「何を忘れてでも、これだけは覚えておけ、と………昔そう言ったのを、貴様は覚えているか」
「………なんだ?」
「それさえ忘れたのか戯けめ」
「重要なことか」
「それはもう」
「………重要なことを忘れているかどうかは聞かねばわからないが、少なくともそんな話をしたことは忘れた」
「世話の焼けるやつめ、いいか、もう一度言うからしかと頭に刻み込めよ」
「あぁ、なんだ」
ふふん、と大型の猫とさほど変わらぬ体躯を精いっぱいに反らして、獣は言った。
「俺様の好物は団子だ」
そんな声が虚しく響いたのは、流雫が、霊牙の郷へ忍び込むことに成功する、数時間前のことだった。