第86話:最近、自制心をどこかに失った気がする
学校の屋上で、誰もいないふたりっきりならば。
恋人同士ならこんな事をしていてもおかしくない。
「兄さん……ぅっ……」
撫子が甘く声をあげる。
猛は彼女を抱きしめながらその唇をキスをしていた。
「……学校でキスしてくるなんて。少し前の兄さんなら想像できない光景ですね」
頬を紅潮させて、撫子はうっとりとした表情で囁く。
「自制心をどこかに置き忘れてしまったらしい」
照れ隠しでそう言って猛は撫子から身体を離した。
ここ最近は自分に素直になりすぎて困る。
「そういう兄さんも素敵で好きです。誰かに見られてしまったらどうします?」
「それは困るな」
「私は別にいいんですよ。この関係が世間にバレてしまっても困りません」
兄妹が恋愛をしてる。
その現実を世間は受け入れてはくれない。
――このままじゃ絶対に誰かに気づかれるな。
分かっていても、止められないから本当に自制心を取り戻したい。
「嫌なことを言わないでくれ」
「いいじゃないですか。世界を敵に回す覚悟で私を選んでくれたのでしょう」
「……それでも、できることなら敵に回したくはないね」
屋上に吹き込んでくる風を肌で感じながら、猛は肩をすくめた。
できる事ならと言ったが、それが無理なのも分かっていた。
「いつかは、きっと誰かに気づかれてしまうんだろうな」
ずっと隠し続けることができるものではない。
――そうなった時に俺は撫子を守ってやることができるのか、それが問題だ。
可愛い恋人を傷つけたくはない。
「自分はどうなってもいいが、何があっても撫子だけは守りたい」
「嬉しいですが、私は守られるだけの女の子ではありませんよ」
「そうだな。撫子は強い子だから」
「いえ、やられたらやり返すだけの話です」
守備だけでなく、反撃もする女の子でした。
「あのね、守られてばかりのヒロインでもいいんですよ?」
「やられっぱなしと言うのは性に合わないんですよね」
「ホント、父さん譲りと言うか。将来は弁護士になったらいいと思うよ」
「それもいいかもしれませんが、私の夢は兄さんの傍にずっとい続けることです」
「……俺もそれを願っているよ」
今の現状では輝く未来は想像できない。
こうなって欲しいという願望はあるが、些細な事で猛達の幸せは崩れてしまう。
撫子の髪を撫でると気持ちよさそうに身を委ねる。
せっかく手に入れた幸せを失いたくない。
「なぁ、もう一度キスしてもいい?」
「私の同意なんてなくても、奪ってしまうのが兄さんでしょ?」
微笑む恋人の唇に自分の唇を重ねさせる。
「……んぅっ」
こうやって唇を触れ合わせている時間が好きだ。
なのに。
その幸せは簡単に壊れさる。
――ガタンっ。
何かの物音に猛達はハッと振り向いた。
「今のは……?」
閉めていたはずの屋上の扉が開かれていた。
すぐさま階段をのぞき込むけども、人影はいない。
「まさか、誰かに見られた?」
「……どうでしょう? 風の悪戯かもしれませんよ?」
撫子の言う通り、ちゃんと閉めていなかっただけかもしれない。
だけど。
「どちらにしても、心穏やかじゃないな」
誰かに見られていたとしたら、と不安が胸をよぎる。
「では、覚悟だけはしておいた方がよさそうですね」
「撫子はこういう時でも落ち着いてるな」
「焦って不安になっても仕方ありません」
「そうかもしれないけどさ」
心配性の猛とすれば、ドキドキがおさまらないワケで。
誰かに見られたら、どうしようかと不安になってばかりだ。
「大丈夫ですよ」
「え?」
「世界を敵に回しても、私は貴方が欲しいんです。誰にも邪魔はさせません」
先ほどの事に懲りず、今度は撫子から猛にキスをしてくる。
「キスから始まる嵐。乗り切ってみせましょうよ」
秘密の恋が終わるかもしれない。
大いなる不安と共に、猛達を取り巻く状況が変わろうとしていた――。
「猛クンはここ最近、少し変わった気がするわ」
クラスに戻ると、淡雪からそんな風な言葉を言われる。
――まさか、見られた相手って……?
思わず彼女を疑ってしまう。
ジーっと顔を見つめると、不思議そうな表情をされてしまい、
「そんなにマジマジと見つめられると照れてしまうのだけど?」
「あ、ごめん……何でもないです」
真顔で恥ずかしがられてしまった。
――どうやら彼女にバレたというわけではないらしい。
疑心暗鬼気味なのはどうにかしないといけない。
「変わったってどの辺が?」
「結衣の事もそうだけど、相手を思いやれる心の余裕ができてる気がするわ」
「まるで今までの俺が余裕がなかったような物言いですな」
「なかったでしょ?」
ストレートに言われると傷つく。
「あ、変な意味じゃなくて。心に余裕があるって大事なことだもの。猛クンは撫子さんの事ばかり考えて、周囲を見渡せる余裕がなかった気がする」
「そして、重度のシスコン扱いだ」
「心に余裕ができるって自信だと私は思うの。猛クンは何か自信がついたのかな」
さらっとシスコン扱いをスルーされたことが辛いです。
「自信? あまり考えたこともないけど」
「……自分じゃ感じないことなのかも。他人から見ればよく分かるわ」
猛が変わったと言われて、思い当たることがひとつだけ。
撫子への想いを成就させて、付き合い始めたことだろうか。
それがひとつ、変わるきっかけになったのかもしれない。
「そういえば……最近、自制心をどこかに失った気がする」
「変態発言? 私と妹にはあまり近づかないでね」
「違うっ!? 微妙な拒絶はやめて、マジで凹むから」
女の子に何かしちゃうような変態ではない。
「猛クンは妹に手を出して、それで自信がついたという認識でいい?」
「やめてくれ!?」
「……そっか。ついに手を出してしまったのね。自制心に負けて」
事実ゆえに完全否定できなかった。
しばらく、淡雪さんにいじられていると、クラスメイトから声をかけられる。
「ねぇ、須藤さん。ピュア子見なかった?」
「……眞子さん? 私は見ていないけど」
「俺も椎名さんは見てないな。どうしたんだ?」
「もうお昼休みも終わるのに、戻ってこないの? どうしたんだろう?」
心配するクラスメイト。
ピュア子と愛称で呼ばれる眞子は親しみやすい性格から人気の子だ。
「椎名さんか。体調でも崩して保健室にいるとか?」
「それはあるかもしれない。あの子、意外と弱っちいからなぁ」
「どちらにしても、少し心配ね。言う通り、眞子さんは貧血持ちだから」
「5時間目になっても来なかったら心配だな」
結局、眞子は5時間目の授業にも出てこなかった。
それだけの何かが彼女にあったのを、誰も知らない――。
……。
椎名眞子は自分の目で見た光景が信じられずにいた。
憧れていた相手の秘密の関係。
「嘘よ、あんなこと……」
昼休み、何となく屋上へ足を踏み入れてみてしまったもの。
「……どうして」
信じられずにいたのは、裏切られた想い。
困惑して、気持ちが制御できない。
落ち着けないまま、階段に座り込み、気づけば5時間目も終わってしまっていた。
「私はどうしたらいいの?」
不安、衝撃、ありとあらゆるネガティブな想いが湧き上がる。
脳裏に焼き付いて消えてくれない。
あの光景を見てしまったから――。
「こんな所にいたの、眞子さん?」
クラスメイトが心配した様子で近づいてくる。
「どうしたの? 五時間目にいなくて、みんな、心配していたのよ」
「……」
「何かあった? 私で良ければ聞くけども?」
優しい物言いに彼女はつい、クラスメイトに打ち明けてしまう。
「ほら、悩みがあれば人に話せば楽になれるって言うじゃない」
「あ、あの……私……」
「落ち着いて話して。貴方の悩み、聞かせて?」
動揺していた眞子にとってはクラスメイトの言葉は救いだった。
それが悪魔の囁きだとも気づかずに――。
「さっき見ちゃったんです。実は……」
少女が目撃した光景。
彼女の想い。
たったひとりの目撃者によって、歪まされてしまう。
そして、世界は敵となる。




