第19話:私と付き合ってみない?
気が重い、というのは今の猛の状況を説明する的確な言葉だろう。
――テストの点が悪くて親に叱られるのが嫌な子供の気持ちだ。
嫌なことは先延ばしにしたい。
その結果がさらに悪化を招いてしまった。
家に帰ってから自室で彼は小さくため息をつく。
「俺たちの関係か」
実は言葉で説明すると、ものすごく単純なものだった。
だが、それを撫子にする自信がない。
「……さて、どうしたものやら」
いざという時のために、姉の雅にいてほしいが。
「こういう時に限って友達と食事に行ってるとか」
頼りにしたいときにいない。
そういうものである。
夕食を終えてから、撫子が部屋に来るのを待っていた。
「そうだ。別に真実を包み隠さず教える必要はないよな」
撫子を騙すような真似をしたくはないが、必要なことでもある。
「何とかこの場をしのげれば、いいんだけど」
この状況を乗り切るためには何でもする。
「――まさか、その場しのぎの嘘なんてつこうとは考えていませんよね」
「はっ!?」
気が付けば扉を開けて、撫子がそこにいた。
紅茶のカップを乗せたトレイを持ちながら彼女は部屋に入る。
「お邪魔しますよ、兄さん」
「ど、どうぞ」
「嘘はいけませんよ、嘘をつくという行為は自らを苦しめる事になります。一度ついた嘘は、ずっと嘘をつき続けなければならなくなるんです」
「……嘘はよくないな。うん」
「苦しい思いをしたくはないでしょう?」
猛は内心、かなり焦りながら撫子に向き合う。
「嘘は積み重ねていかなくてはいけなくなります。真実を隠そうとすればするほど、自分は苦しく、相手からは見苦しく感じてしまいます」
「嘘をつくには覚悟が必要ということか」
「ですね。最初から嘘なんてつかなければ、苦しむことなんてないのに」
口調はやんわりとしているが、『嘘なんてついたら分かってるよね?』と言う感じが撫子の雰囲気から伝わってくるのが怖い。
――撫子相手に誤魔化せる気がしないや。
無駄な抵抗はやめて、撫子攻略を諦めることにした。
「嘘はつきません。正直が一番です」
「良い心がけです。紅茶を入れてきました。お茶を飲みながらお話をしましょう。ちょうど、明日は休日です。兄さん、今夜は寝かせませんよ?」
「その言葉は色っぽい状況で言ってほしい台詞だ」
「兄さんが望むのなら、そういう意味でも寝かせませんけど?」
「い、いや、今の冗談であって。そんな意味では」
「こういう時のためにちゃんと用意するべきものは用意してあります」
魅惑の唇を近づけて誘惑する妹。
彼さえ望めば本当に撫子はその身体を差し出すであろう。
兄妹である限りは一線は超えられない。
「……遠慮しておきます」
軽く震える手でそのティーカップを手に取る。
アールグレイのいい香りがする。
それに口づけながら、猛は深呼吸をひとつする。
「そんなに気になることかな」
「私は兄さんの事を心の底から愛しています。だからこそ、貴方の全てを知りたいと思うのはおかしなことでしょうか?」
「些細なことかもしれないぞ?」
「いえ、そんなことはありません。私のしている事は正しい行為だと思います」
撫子がこういう場合に押しが強いのは兄妹ゆえによく知っている。
普段は大人しく可愛い子なのに、ゾッとするほど怖い時もある。
……今がその時だ。
「兄さん。私は不安なんです。この乙女心を理解してください」
「俺も不安なんです。素直に話したら撫子に何をされるのか」
「つまり……そのような何かがあった関係だと言うことでしょうか? 」
低い声で撫子が囁くので「い、いえ」と顔をひきつらせた。
「怒りませんから聞かせて下さい。偽りのない真実のみを私は聞きたいです」
「笑ってるのに顔が怖い……」
「普通の顔ですよ? 兄さんが好きな妹の可愛いらしい笑みです」
「嘘だ。怒らないって言う保証がどこにもなさすぎる!?」
「私は信じています。兄さんが私との信頼を傷つける真似をするはずがありません」
とんでもないプレッシャーをかけてくる。
この子を怒らせると怖いのはよく知っている。
「……俺と淡雪さんは普通の友人関係なのに」
「それを判断するのは私ですよ」
「わ、分かったから睨まないで。ちゃんと素直に真実を話します」
気が重いけれども、妹には嘘をつけない。
「話は長くなるけども、いいかな? ダイジェスト風に短くまとめても……」
「いいえ。じっくりと聞かせてもらいますよ」
「ディレクターズカット版は許されますか?」
「ノーカット版以外は認めません。夜は長いんですよ、兄さん」
「は、はひ。そうですね」
割愛は認められず、ダイジェストでお送りしたい作戦が失敗した。
逃げられない、と猛は覚悟を決める。
過去に何があったのかを語ることにした。
猛と淡雪の親密な関係の理由。
遡ること、ほぼ1年ほど前の事である。
桜の清掃の時にずいぶんと信頼されたのか、猛は淡雪とよく話をする仲になった。
学校の屋上でのんびりと食事をしていた。
二人して仲良く購買で売っているパンを食べていた。
「この学校のパンは美味しいな。さすが人気パン屋が卸してくれてるだけはある」
「私はメロンパンが好きよ。さくっとした触感が最高だもの」
「俺はクリームパンかな。購買のパン屋のクリームは格別なんだ」
「メロンパン風なクリームパンがあれば最高ね」
「実は本店の方にはあるらしいんだよ。クリームメロンって名前のパンらしい」
「ホントに? 今度行きましょう。すっごく食べたい」
一緒に食事をすることも珍しくない。
同じ時間を過ごしてもどこか居心地のいい安心感を持てる。
――相性がいいってこういう事を言うんだろうな。
それはこれまで他の誰にも感じたことのない感情だった。
「へぇ、大和クンには妹さんがいるの。可愛らしい子?」
「可愛いと言うか、美人系だけどね。まさに大和撫子。自慢の妹だよ」
「ふふっ。妹なのにまるで恋人の惚気みたいな言い方ね」
口元を手で押さえて微笑する彼女。
「え、えっと、これは惚気かな?」
「うん、十分すぎるほどに。貴方の恋人になる人は大変そう」
「なんで?」
「だって、最強のライバルがいるんだもの」
彼女と光栄なことながら友人関係だと言えるほどに打ち解けていた。
そんな猛だからだったのか。
屋上で彼女は悩みを打ち明ける。
「あのね、大和クンは恋をしたことがある?」
「ごく一般的な恋愛なら経験はあるよ」
幼い頃から好きな子はいた。
その相手は一般的な恋愛対象の相手ではなかったけども。
――妹である撫子がどんなに好きでも、想いを伝えてはいけない。
その恋心に苦しんでいた。
もちろん、それを彼女に伝えることはしない。
「そうなんだ。私はないの」
「意外だな。一度や二度くらい、異性に思いを感じることくらいなかったんだ?」
「ううん。恋をしたいとは思っているのだけど、恋をすることができないのよ」
「恋愛くらい、遅かれ早かれ、いずれはするものじゃないか。焦ることもない」
「違うのよ。そういう意味ではなくて」
彼女には恋愛に踏み切れな事情があった。
自らの意思が介入できない問題。
「私の家ってね、代々、女の方が権力が強い家系なの。須藤という一族をまとめているのも私の祖母だし。それゆえに、女尊男卑的な所があって」
「……難しい立場にあるってことか」
「恋愛すら私は自由にできないわ」
「決められた相手と結婚しなくちゃいけないとか?」
猛の言葉に彼女は「似たようなものね」と自嘲的に笑う。
その笑みはいつもと違って明るさはない。
彼女の悩みの深刻さを物語る。
「男の子と距離を置いてきたつもりはないけど、自然と男の子を信頼できないようになってきて。そんなことじゃ恋もできないでしょう」
「キミは恋がしたいんだ?」
「人並に興味があるわ。家の事情で、私は誰かを愛することはできないけど、恋人のいる日常に憧れはあるの。恋がしてみたい」
普通の高校生の女の子なら、誰だって恋くらいはする。
そんな普通とは違う環境にいる彼女。
家の事情とはいえ、自由に恋もできないのは辛いだろう。
「今、大和クンには恋人はいないの?」
「いないね。付き合いたいと思ったことがないわけじゃないけどさ」
「恋愛には興味があるのでしょう?」
心地よい春の風が吹き抜けていく。
淡雪はふっと彼に顔を近づける。
――ホントに綺麗な髪だな。見惚れるほどに美しい子だ。
母譲りの茶色の髪。
淡雪の自慢の髪が風に揺られる中で。
「あのさ、大和クン。お願いがあるんだけど、いいかしら?」
「なんだい? 俺にできる事なら協力するよ」
彼女は思いもしないことを言ったのだった。
「――私と付き合ってみない?」
顔を赤らめながらの淡雪の告白。
それがすべての始まり。
初夏の屋上、二人の運命の歯車を動かしていく――。




