それは暖かな福音
私は翔にしか見えない男から、目が逸らせなかった。
立ち上がりそのまま近寄って来るその男から、離れる事も考えられなかった。
記憶に違わぬその姿は酷く、胸が痛かった。
「リンコ…!」
クオリに引っ張られ漸く、私は金縛りのような状態から解放された。
白い背中しか見えなくなり、何故か妙な安心感が湧いてきた。
――クオリは絶対死なない。だって強いし人間じゃないもの。
細い腰に抱き付き、チラリと男を見やった。
男はクオリではなく私をジッと見ていて、記憶と変わらぬ笑みは優しかった。
――本当に翔?
だとしたら何故、翔は此処に居るのだろうか。
そうか…シカクとやらの仕業なのかもしれない。
だとしたらなんて最低な奴なんだろうか。
他人の傷口を抉って塩水を掛けるような行いを平然とするのだから。
「私が魔王の翔でございます」
ふわりとした笑みから反転、冷たい笑みに変わる。
嘲笑するような表情に耐えられなくて、私はクオリの背に隠れた。
聞きたくない。
聞きたくない。
けれど高性能な身体は音を拾ってしまう。
「さあ、これは所詮は戯れに過ぎません。何方が勝つのか…真剣な勝負を致しましょう!」
その言葉と同時に、クオリは私を引っ付けたまま跳躍した。
先程までクオリの立っていた場所は黒く淀んでいき、そのまま床が朽ちていった。
…ゾッとした。
翔が私に攻撃をしたのだ。
私は妙な気分に陥り、落ち着かない心を宥めようと胸元に手をやった。
クオリはそんな私をひょいと抱きかかえてから、何度も跳躍していった。
その度に地面は酷く壊れていき、私の胸のざわめきも強くなっていった。
記憶通りの姿はしていても、あれは翔ではない。
翔は――もういないのだから。
目の前がボロボロと歪んでいき、目の前の物体の姿さえも認識出来なくなった。
覚束無い足取りでよろよろと立ってから、私から離れて翔に斬りかかっていく白い塊を見た。
目を擦ってからようく見やると、クオリは相手が反撃出来ない程に精密な攻撃をしている事が解った。
翔は…魔王は冷静に攻撃を捌き、けれども攻撃を仕返す事はせずに、じりじりと後退せざるを得ない状況だった。
そんな時でも変わらない笑みは、逆に私の神経を逆撫でした。
良かった…あれが本当に翔なら、私を攻撃する筈も、彼処まで防戦しか出来ないなら撤退くらい直ぐにする筈だもの。
翔はそういう所が現実的な人だったから。…頭が固いとも言えるが。
何回も打ち合う音が響いていったと思えば、翔が不吉な笑みを浮かべた。
胸騒ぎがする。
慌てて王子の方を見やれば、リジェロに打ち抜かれている姿を目に入れてしまった。
あかい血だ。
私の知り合いからあかい血が噴出している。
それだけで私の頭の中はチカチカとし、気を失おうとした。
それを気合いで押し退ける。
直ぐ様に王子の元へ向かい、リジェロを峰打ちした。
「ふふふ…もう遅いですよ」
王子から零れた血が形を形成していき、それは複雑な形の紋章になっていた。
これは魔法陣…?
慌てた様子のクオリが私とリジェロを持ち上げて、魔法陣の外側へと下がる。
魔法陣は魔王を中心にして、赤く輝いた。
途端にずぷりと七人の王子が魔法陣に沈んでいき、魔王の禍々しさが増した。
私はただそれを呆然と眺めるしか出来なかった。
クオリがそんな魔王に攻撃する所も、それに対してパワーアップした魔法でクオリの肩を撃ち抜いた魔王も、ただ見ているだけしか出来なかった。
情けない事に…またしても気を失いそうになった。
私はグロいのが苦手なのだ。
特にあのピンク色の肉と骨が剥き出しになってなんかいると、余計に気分が悪くなる。
カケルはただ静かにそんな私を見詰めていた。
そんなカケルに苛立ちを感じつつも、私は逆転して防戦ばかり強いられているクオリを見た。
――嫌だ。
あんなに痛そうなクオリを見るのは嫌だ。
グロいのはとても嫌だけど、人死には本当に嫌だけど、クオリがああなる方がもっと嫌だった。
私は震える手で剣を持ち、魔王に向かって――振り下ろした。
嗚呼…
どうして
またも記憶に違わぬ笑みを浮かべながらも、魔王は私によって無惨に斬られた。
赤黒い血が頬に付着して、魔王の残骸がパタリと倒れた。
私が強い訳じゃない。
魔王が無抵抗だったからだ。
ゲームクリアの文字が目の端に映り、何とも言えない気分になった。
たかがゲームだと思えなかった。
それ程にリアルだった。
…物言わぬ骸となった六人の王子と、ギリギリ死に損なった植物人間なラファル王子。
とてつもなく不気味で後味の悪いゲームはそのまま、呆気なく終わった。かに見えた。
最後に魔王が魔力を当てて強化していた魔物の群れに満遍なく喰い殺される住人というエンディングが流れ、そして画面が真っ赤に染まったかと思えば元の世界に――布団の中に私は居た。
長い夢だった。
胸くそ悪い夢だった。
でも、結局は夢だったのだからと、震える己の身体を抱き締めた。
そこで横にクオリが寝転んで居るのに気付き、震えが収まった。
大丈夫だ。だって彼がいるもの。
妙に頼もしい存在に頬を緩ませ、私は微笑んだ。
玄関に置かれた靴の裏が赤黒く濡れているとは、終ぞ知らず。