「……団長。私と結婚してください」「承知した。副団長には俺から話を通そう」――違います、黒熊騎士団長。あなたへ求婚しているのです シリーズ
「……団長。私と結婚してください」「承知した。副団長には俺から話を通そう」――違います、黒熊騎士団長。あなたへ求婚しているのです
一
「団長。私と結婚してください」
王都騎士団本部、団長室。
執務机を挟んで、私は言い切った。
ダリウス・ベルグ様は、しばらく私を見下ろしていた。
正確には、見下ろしていただかなければ目が合わない。
やがて、重々しく頷かれる。
「承知した。副団長には俺から話を通そう」
……何を、承知されたのだろう。
「お待ちください。私が結婚していただきたいのは、団長です」
「分かっている」
分かっていない。
驚くほど、何一つ。
「公爵家へ直接申し込めば、あちらも身構える。俺を通す方が早い」
低い声だった。
地面の底から響くような、聞き慣れない声。三日前は、この声が怖かった。
「面会の場は俺が設ける。表向きは騎士団への慰問にすればいい。あなたの名に傷はつかん」
ダリウス様は立ち上がった。
窓の光が遮られ、部屋が薄暗くなる。肩幅が窓枠とほとんど同じだった。
扉が開き、廊下の副官が呼ばれる。
「ジュリアン副団長の向こう三日の空き時間を出せ。それから、ロシュ公爵家への打診状を作れ。宛先は当主ではない。まずはジュリアン本人の執務室だ」
「はっ。直ちに」
私は口を開いた。
開いただけだった。
私の声は、間違いなくこの方に届いている。
ただ、一番大事な部分だけが、途中で別の書類に差し替えられている。
どうして、こうなったのか。
※
三日前。
私は施療院へ薬草を運んでいた。座席の下に木箱を二つ。乾かした止血用の粉と、洗いたての布。
王都の外れで、馬車が跳ねた。
咆哮。
車体が傾ぐ。私は薬草の箱ごと床へ転がり、窓枠にしがみついた。
悲鳴。馬のいななき。街道へ迷い込んだ魔獣の、濡れた息の音。
次の瞬間、黒い塊が視界を横切った。
一度きりの、風を裂く音。
それだけで、魔獣は声も上げずに崩れた。
剣を振って血を落とした男は、私の乗る客車を見なかった。
まっすぐに、投げ出された御者のもとへ歩いていく。
「箱を」
私は傾いた車内から声を張った。
「座席の下です。布と、止血の粉が入っています」
巨大な背中が、一拍だけこちらを向いた。
顔に傷のある、恐ろしく大きな男。目が合って、心臓が縮んだ。
それでも、私は続けた。
「もっと上です。腿の付け根を縛ってください」
彼は何も言わず、扉をこじ開けて箱を掴み、御者のもとへ戻った。
私の言った場所を、言った通りに縛った。
護衛の騎士へ短く指示が飛ぶ。傷の位置、運ぶ順番、王都へ走らせる馬。
誰を先に助けるかを、この人は迷わなかった。
興奮して暴れる馬の首を、太い腕が押さえ込む。低い声で二言、三言。
馬は、嘘のように静かになった。
道の端で、子どもが泣いていた。
ダリウス様は歩み寄ろうとして、足を止めた。
自分の手を見る。魔獣の血で、指の間まで黒く濡れていた。
その手を、背中へ回した。
そして別の騎士へ顎をしゃくり、子どもの方を示した。
最後に、彼は私のところへ来た。
歪んだ扉を片手で開け、私と目が合う。
そして、無言で一歩下がった。
「足場が悪い。降りられるか」
差し出されたのは、手ではなく前腕だった。踏み台にしろということらしい。
私はそこへ手を置いた。岩のようで、少しも揺らがない。
地面へ降りた瞬間、右の足首に鋭い痛みが走った。
顔をしかめたのは、ほんの一瞬だったと思う。
「足首か」
見られていた。
「捻ったようです。歩けます」
「抱き上げる。構わないか」
甘い言葉ではなかった。
怪我人の搬送手順を、順番通りに確認する声だった。
「……お願いいたします」
身体が浮いた。
片腕だけで、私はまったく揺れなかった。
その肩越しに、彼が外套を脱ぐのが見えた。
自分の外套を、血の気の失せた御者へ掛けている。八月の街道で、汗だくの男が。
「団長。遅れました」
馬を降りて駆けてきたのは、長い金髪の美しい騎士だった。副団長のジュリアン様だと、後で知った。
ダリウス様が、ほんの少し私を見た。
それから、視線を逸らした。
あの一瞬に何を思われたのか、私が知るのは、もっと後のことになる。
※
その夜。
無事に戻った私を見て、父は長く息を吐いた。
そして、オスカー・ランデル伯爵令息との縁談を切り出した。
家柄がよく、真面目で、社交界の評判も悪くない方だという。
父は娘の平穏を願っている。それだけの話だ。
私は、少し時間をいただきたいと答えた。
三日、考えた。
命を助けられただけではないのか。英雄への憧れを、恋と呼び違えているのではないか。
何度でも自分に問い直した。
けれど、思い出すのはいつも同じだった。
私を見なかった背中。
血の付いた手を隠す仕草。
汗だくのまま、他人へ外套を掛ける肩。
私はあの方を、もっと知りたい。
そして、知りたいと思ううちは、他の誰とも婚約したくない。
だから、自分の足で行くと決めた。
父に決められた相手と会う前に、私が選んだ相手へ、私の口から。
三日後の朝。
私は騎士団本部の門をくぐった。
この時の私は、まだ何も知らなかった。
半刻後、自分の求婚が、公爵家宛ての打診状に変換されて戻ってくることを。
二
求婚から、半刻。
団長室の机には、私が頼んだ覚えのない書類が並んでいた。
「足首は」
書類の角を揃えながら、ダリウス様が言った。
「もう痛みません。三日で治りました」
「そうか」
それだけ言って、彼はまた紙を一枚増やした。
一枚目は、ロシュ公爵家への内々の打診状。
二枚目は、ジュリアン・ロシュ副団長の、三日分の空き時間。
三枚目は、贈答品の候補一覧。菓子、花、書物、香水。値段まで書いてある。
四枚目は、両家の面会場所の候補。三か所。それぞれに、警備上の利点と欠点が添えられていた。
魔獣討伐の作戦書と同じ書き方だった。
「香水は避けた方がいい」
ダリウス様が真面目な顔で言った。
「好みが分かれる。初回は花が無難だ」
「ダリウス様」
「花なら白がいい。あれは、色に意味を持たせる家だ」
「聞いてください」
私は一度、息を吸った。
声を荒らげてはいけない。ここで泣いても、たぶん彼は「体調不良」と書類に書き足す。
「私が妻になりたいのは、ジュリアン様ではありません。ダリウス様です」
部屋が静かになった。
彼が立ったままなので、窓の光は半分ほど遮られている。その影の中で、傷のある顔がわずかに動いた。
扉が叩かれたのは、そのときだった。
「団長、お呼びで――」
入ってきたのは、噂に聞いたとおりの人だった。
金の髪。整った顔。歩き方まで絵になっている。
その美青年が、机の上の書類を見て、みるみる青くなった。
「これは何ですか」
「お前の縁談だ」
「聞いていません」
「今、通した」
「通さないでください」
ジュリアン様が両手で顔を覆った。指の隙間から、私を見る。
「ハーウェル嬢。念のため伺いますが、あなたは俺と結婚したいのですか」
「いいえ」
即答した。
ジュリアン様が深く息を吐き、ダリウス様が眉を寄せた。
「では、なぜ団長室に来た」
「ですから、ダリウス様に求婚しに来たのです」
もう三度目だ。
ダリウス様は答えなかった。信じていない、というより、その言葉の置き場所を知らない顔だった。
私は書類を一枚、指で押さえた。
「ダリウス様。私はこの半刻、ジュリアン様と結婚したいと一度でも申しましたか」
「……いや」
「街道で一度お見かけしただけで、口をきいたこともありません」
「そうか」
「そうです」
彼の視線が、机の上をゆっくり滑った。打診状。空き時間。贈答品の一覧。自分で書かせたものを、初めて見るように見ていた。
「……こちらの手違いだ」
それだけ言って、彼は書類を裏返した。
全部ではなかった。公爵家への打診状だけは、まだ表を向いたままだった。
この方は、まだ疑っている。
少しだけ、腹が立った。それから、少しだけ、考えた。
三日前に助けられた娘が、三日で結婚を申し込んできた。それを額面どおり信じろというのは、たしかに乱暴かもしれない。
私は、一度言えば伝わると思っていた。伝わらないことがあるのだと、今知った。
ならば、時間をかければいい。
「副団長様」
「ジュリアンで結構です。……その呼び方をされると、また書類が増える気がする」
「では、ジュリアン様。騎士団の施療室は、人手が足りていないと伺いました」
ジュリアン様が、少しだけ表情を改めた。
「足りていません。明日から治癒術師が街道の討伐隊に同行します。医師と助手は残りますが、大きな治癒魔法は当分使えない」
「私は王都の施療院を手伝っています。薬草の扱いと、止血と、添え木くらいなら」
「本気ですか」
「本気です」
恩を返したい気持ちはある。けれどそれだけではなかった。
この方をもっと知りたい。この気持ちが三日で消える種類のものなのか、確かめたい。騎士団の匂いと血と怒鳴り声の中で、自分が立っていられるのかも知りたい。
結婚とは、たぶんそういうものだ。
「団長」
ジュリアン様が振り返った。
ダリウス様は、少し考えてから頷いた。
「助かる。……ロシュ」
「はい」
「明日から、毎日施療室に顔を出せ」
私は、机の縁を掴んだ。
この方は、まだ諦めていない。
「お断りします」
ジュリアン様が即答した。
「なぜだ」
「負傷者の見舞いは副団長の職務ではありません。団長の職務です。俺が行けば、部下は『団長は来ない』と受け取ります」
正論だった。あまりに正論すぎて、ダリウス様が黙った。
「……そうだな」
「では、そのように」
ジュリアン様が礼をして、扉へ向かった。すれ違いざま、私にだけ聞こえる声で言った。
「幸運を祈ります。長期戦になりますよ」
扉が閉まる。
残されたダリウス様は、まだ書類を見下ろしていた。
やがて、独り言のように言った。
「明日から、俺が行く」
私は頭を下げた。
下げたまま、少しだけ笑ってしまったことは、この方には見えなかったはずだ。
三
騎士団の廊下は広い。
それなのに、ダリウス様と並んで歩くと狭く感じる。
通い始めて三日目に、私は気づいた。この方は、私と歩くとき歩幅を半分にしている。
最初は歩き方が丁寧なのだと思っていた。けれど部下と歩く背中を見て分かった。あちらは、ずいぶん速い。
礼を言えば、たぶん明日から普通に歩いてしまう。だから言わなかった。
施療室の扉を開けて、足が止まった。
窓際に、見覚えのない作業台がある。
低い。私の腰より、少し下。これまで使っていた台は胸の高さで、薬草を刻むたびに爪先立ちをしていた。
「昨日まで、ありませんでしたよね」
ダリウス様は書類架の方を見ていた。
「余っていた」
医師が小さく咳をした。
「団長。昨夜のうちに木工房へ寸法を出しておいて、余りもないでしょうに」
「……余らせた」
私は台に手を置いた。ちょうどいい高さだった。
この方は、私が背伸びをしているところを、たぶん一度も口に出さずに見ていた。
施療室に立つと、噂の黒熊がどういう男なのかが分かってくる。
新兵が薬瓶を割ったときも、怒鳴らなかった。
「怪我は」
「ありません」
「なぜ落とした」
「手が、震えて」
「そうか」
それきりだった。翌日、その新兵は握力の訓練表を渡されていた。
自分の傷は、いつも最後に出す。腕を切っていても、部下の処置が終わるまで座らない。
小指ほどの薬瓶を、太い指でつまむときだけ、動きが極端に遅くなる。壊れ物を扱う手つきというより、壊した経験のある手つきだった。
医師が帳面を繰りながら、独り言のように言ったこともある。
「先月亡くなった隊員のご家族に、また送金があったようです。差出人の名がないので、こちらでは記録が残せない」
私は何も訊かなかった。
訊けば、この方は「余っていた」と言うに決まっている。
五日目の夕方、ようやくその腕を出させた。
左の前腕に、三日前の討伐でできた切り傷があった。塞がりかけているが、縁が赤い。
「三日、放っておかれたのですね」
「浅い」
「浅い傷でも、腫れれば剣は持てません」
ダリウス様は少し黙って、それから腕を差し出した。
太い。私の両手で回しても、指は届かない。
包帯を巻くには、彼の腕の周りを何周も回らせる必要があった。左手で端を押さえ、右手で布を回し、また持ち替える。近づいて、少し離れて、また近づく。
その間、この方は指の一本も動かさなかった。
息すら浅くしている。
「痛みますか」
「いや」
「では、なぜ止まっているのですか」
「動けば、やりにくいだろう」
私は手を止めそうになった。
この方は、私が包帯を巻く数分のあいだ、戦場と同じ姿勢を取っている。
顔を上げると、間近に頬の古い傷があった。目尻から顎に向かって、白く盛り上がっている。
視線に気づいたらしい。
「怖いか」
声が低くなった。
「いいえ」
私は包帯の端を留めた。
「今も痛むのかと思ったのです。天気が変わる前に古い傷が疼く方は、多いので」
返事はなかった。
しばらくして、ぼそりと聞こえた。
「……雨の前に、少し」
「そういうことは、先に言ってください」
私は温めた布を用意するために背を向けた。
背を向けたのは、顔が赤いのを見られたくなかったからでもある。
その夜だった。
夕食の片づけを終えたころ、階下で扉が壊れそうな音がした。
「討伐隊が戻った」
ダリウス様が立ち上がった。
「予定より二日早い」
運び込まれてきたのは、六人。
治癒術師は街道側だ。動かせない重傷者に付いて残っている。ここには医師と助手と、私しかいない。
医師が真っ先に走ったのは、腿を裂かれた大柄な騎士だった。血が床に落ちる音がする。
「押さえて。強く。それから、こちらへ人をもう一人」
私は担架のあいだを回った。
右腕の骨折。頭の裂傷、意識あり。肩の刺し傷、止血済み。
四人目で、足が止まった。
まだ若い騎士だった。壁際に座らされ、外套も脱いでいる。腕に浅い掻き傷が一本あるだけで、誰も彼を見ていない。
肩が、上下していた。
速い。浅い。喉だけで息をしている。
私は膝をついて、その顔を覗き込んだ。
「聞こえますか。お名前は」
「……エ、リク」
声が、途中で切れた。
唇の色が、灯りの下でも分かるほど暗い。青みがかった紫。
掻き傷の縁が、黒く変わりはじめていた。
「団長」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「こちらへ来てください。今すぐに」
四
ダリウス様は、二歩で私の隣に来た。
「毒か」
「おそらく。傷は浅いのに、呼吸が浅くて速い。唇の色も変わっています」
説明している時間が惜しかった。
「この方を起こして、座らせてください。壁に背を預けさせないで。顎を、少し上げて」
彼は理由を訊かなかった。
膝をつき、片手でエリク様の背を支え、もう片方の手で顎を持ち上げる。指一本の力加減で、若い騎士の頭が正しい角度に収まった。
「灯りをもう一つ。それから、この魔獣の名を」
「灰狼だ。街道の北で三体」
「毒を持つ個体ですか」
「爪の付け根に嚢がある。今回の群れは、あった」
それで足りた。
「薬院へ人を走らせてください。灰狼の毒消しを。名前を出せば、常備しているはずです」
「聞いたな。行け」
扉の向こうで足音が遠ざかった。
私は膝をついて、掻き傷の縁を見た。黒く変わった皮膚が、少しずつ広がっている。
「湯と、清潔な布を。それとセイラン草の粉を、そこの棚の三段目から」
助手が動いた。
「セイラン草は毒を消すのか」
「消しません。腫れを抑えて、進みを遅くするだけです。毒消しが届くまでの時間を作ります」
私にできるのは、そこまでだった。
傷を湯で洗う。強く絞らない。絞れば毒は速く回る。粉を溶いて布に含ませ、傷の周りへ置く。
エリク様の胸が、また浅く上下した。
「エリク様。私の声が聞こえますか」
「……はい」
「息を吐いてください。吸うより、吐く方を長く」
部屋の反対側で、医師が短く指示を出している。
私は振り返って、担架のそばで固まっている騎士に声をかけた。
「そちらの方。布を折り重ねて、傷の上から体重をかけてください。手を離さないで。腕の力ではなく、肩から乗せるように」
「は、はい」
「助手の方は医師のところへ。こちらはもう手が足りています」
「ハーウェル嬢の指示に従え」
ダリウス様の声が、部屋の空気を変えた。
誰も、それ以上ためらわなかった。
医師が処置していた大柄な騎士が、痛みで身を捩ったのはそのときだった。
押さえていた布が外れた。
視界が、黒くなった。
目の前にあるのは、黒い制服の背中だけだった。肩幅で灯りが遮られて、施療室が一瞬夜になったように見えた。
ダリウス様は、何も言わなかった。
私も何も言わずに、その横から手を伸ばした。
布を押さえ直す。エリク様の顎の角度を確かめる。脈を取る。
背中は、動かない。私が処置を続けられる分だけ、ちょうどそこにあった。
守られているのに、手は止められていない。
こんな守られ方があるのだと、私はそのとき初めて知った。
毒消しが届いたのは、それから四半刻後だった。
医師が匙で少しずつ飲ませ、二十を数えるころ、エリク様の呼吸が深くなった。唇の色が、少しずつ戻っていく。
張り詰めていたものが、指先から抜けた。
膝が痛い。ずっと床についていたらしい。
立ち上がろうとしたら、影が落ちた。
ダリウス様が布を持って、私の前に立っていた。
「……触れるぞ」
布を持った手が、途中で止まっている。
何のことか分からなくて、私は自分の頬に手をやった。指先に、乾きかけた血がついた。
「はい」
頷いてから、彼の手が動いた。
顔よりも大きな手のひらが、頬に触れる寸前で角度を変えて、布の端だけが私の肌をかすめた。二度、三度。壊れ物どころか、そこに何もないかのような触れ方だった。
薬瓶を持つときの手つきだ、と思った。
「助かった」
短かった。
労いでも、社交辞令でもなかった。作戦の報告に対する答えのような、その一言だった。
私は、たぶんこの夜のことを一生忘れない。
翌日、施療室にジュリアン様が来た。
エリク様の容体を確かめて、それから壁に寄りかかって、しばらく黙っていた。
「昨夜のこと、団長から聞きました。……あなたに、話しておくべきことがある」
「団長のことですか」
「ええ」
ジュリアン様は、天井の梁を見ていた。
「この五年で、団長へ贈り物を持ってきた令嬢は、私が数えただけで九人います」
「九人」
「全員です。全員が、最後には俺への紹介を頼んだ」
手が、勝手に固くなった。
「団長は、そのたびに引き受けた。断ったことは一度もない。菓子の礼状まで自分で書いて、面会の日取りまで整えて。……たぶん、それが自分の役目だと思っている」
「団長は、ご存じなのですか。笑われていたことも」
「聞こえていたと思います。一度、廊下で。『あの顔で本気にされたら困る』と」
喉の奥が、熱くなった。
同情ではなかった。腹が立ったのだ。あの人の律儀さを、踏み台にした九人に。
「勘違いしないでいただきたいのは」
ジュリアン様が、初めてこちらを見た。
「俺も、彼女たちを信用していなかった。この顔を見て寄ってくる人間は、昔から多い。俺自身を知ろうとした人間は、そう多くない」
声に、感情はなかった。
「彼女たちは、団長も俺も、どちらも見ていなかった。それだけの話です」
私は、自分の手を見た。
三日で求婚して、一度言えば通じると思っていた。九人分の記憶を持つ人に、たった一言で信じろと迫っていた。
伝わらないのは、あの方のせいではなかった。
その日の夕方、私は団長室の扉を叩いた。
ダリウス様は書類から顔を上げた。
「怪我人か」
「いいえ。私の話です」
息を吸った。
「ジュリアン様に、恋愛感情は一切ありません。今までも、これからも」
彼が、わずかに身じろぎした。
「助けていただいた感謝はあります。でも、それだけなら求婚はしません。感謝で一生を決めるほど、私は自分の人生を軽く見ていません」
言葉を選んでいる余裕はなかった。
「施療室に通って、あなたの手が薬瓶を持つときだけ遅くなるのを見ました。歩幅を半分にしていることも、作業台のことも知っています。昨夜、私の指示をひとつも疑わずに動いてくださったことが、うれしかった」
「私は、ダリウス様と結婚したいのです。九人と同じに数えないでください」
長い沈黙があった。
やがて、低い声が落ちてきた。
「……信じる」
肩の力が抜けた。
抜けかけたところで、彼が続けた。
「信じた上で、聞いてほしいことがある」
五
「座ってくれ」
ダリウス様は、自分は立ったままそう言った。
私は座らなかった。座れば、見上げる角度がもっと急になる。
「……九人の話は、ロシュから聞いたな」
「はい」
「あれは、俺の勘違いの理由だ。だが、それとは別に」
言葉が、そこで一度切れた。
この方が言い淀むのを、私は初めて見た。
「あなたは、俺と結婚しない方がいい」
部屋の音が消えた。
「社交の場に、二人で出ることになる。そのたびに、あなたが何を言われるか。……見た者は、まず俺を見る。次にあなたを見る。その順番は、変わらない」
「私は」
「聞いてくれ」
初めて、遮られた。
「俺は年に三度は王都を離れる。長ければ二か月。留守を待つ生活になる。屋敷は騎士団の連中が出入りする。夜中に叩き起こされる。上品な暮らしではない」
一つずつ、確かめるように並べていく。
作戦の報告と同じだった。ただし、声が少し速かった。
「それから」
そこで止まった。
太い指が、机の角を掴んでいた。
「……子どもが、生まれたとして。父親の顔を、笑われるかもしれない。あなたは耐えられても、子どもは選べない」
私は、何も言えなかった。
「ランデル家の話があると聞いた。あの家なら、安定した暮らしができる。あなたが苦労する理由はない」
「ダリウス様は」
声が、思ったより低く出た。
「私の気持ちを、信じてくださったのですよね」
「信じている」
即答だった。
「その上で、断る」
信じてもらえなかったときより、痛かった。
あのときは、届いていないだけだった。今は、届いた上で押し返されている。
私はそのまま礼をして、部屋を出た。
言い返さなかったのは、負けたからではない。
あの場で口から出そうになった言葉が、ただの意地なのか、本当に私の望みなのか、自分で分からなかったからだ。
三日、施療室へ行かなかった。
屋敷の自室で、私はあの人が並べたことを、一つずつ検討した。 社交界では、扇の陰で何か言われるだろう。留守は年に三度、長ければ二か月。討伐帰りの担架を見た今、その不安を知らないとは言えない。
夜中に叩き起こされる暮らしは、むしろ困らない。
子どものことだけは、私一人が引き受けると決められない。それでも、もし笑う者がいたら、その子に事実を教えられる。灰狼の毒に倒れた部下を救うため、迷わず動いた父親だと。血のついた手を、泣く子どもから隠した人だと。 三日目の夜、施療室の低い作業台を思い出した。私が背伸びしているのを見て、何も言わず寸法を出した人だ。
答えは出た。私が苦労するかどうかは、私が決める。引き受けると決めた苦労まで先回りして取り上げるのは、守ることではない。私の判断を信じていないということだ。
四日目、施療院の帰りにジュリアン様と会った。
わざわざ待っていたらしい。
「団長から聞きました。断ったと」
「はい」
「あの男の言い分は、半分は本当です」
意外だった。
「否定なさらないのですね」
「事実は事実です。あなたが何も言われずに済むとは、俺も思わない」
ジュリアン様は、少し歩調を落とした。
「ただ、残りの半分は違う。あれは、あなたの幸せを計算しているつもりで、自分の話をしている」
「……自分の」
「九人分の記憶があると、十人目を信じた後が怖いんですよ。信じてしまえば、失うものができる」
夕暮れの光が、整った横顔を照らしていた。
「俺は説得しません」
「なぜですか」
「十年言ってきて、一度も動かなかった男だからです。それに、俺が説得して動いたなら、あいつはまた『他人に決められた』ことにする」
足が止まった。
「動かせるのは、あなただけです。慰め役ではなく、要求する側として」
それだけ言って、ジュリアン様は騎士団の方へ歩いていった。
途中で振り返り、付け足した。
「ああ、それと。今度の慰労会には、団長も出ます。逃げ場のない場所です」
その晩、父に呼ばれた。
父は書斎で、私にお茶を淹れさせてから、しばらく黙っていた。
「慰労会で、ランデル卿と正式に話しなさい」
「お父様」
「お前が騎士団長殿を慕っていることは、知っている。屋敷の者もみな知っている」
父は湯気を見ていた。
「私はあの方を悪く言うつもりはない。娘を助けていただいた。人柄も、噂とは違うと聞いている」
それから、私を見た。
「ただ、あの方の妻になれば、お前は年に何度も、無事を祈って眠れない夜を過ごす。父親としては、それが怖い」
私は、父の言葉を否定しなかった。
同じことを、三日かけて考えたばかりだった。
「お父様。私は、眠れない夜のことを知らずに言っているのではありません」
「……そうか」
「ランデル卿とは、慰労会でお話しします。きちんとお返事をします」
父は少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「お前の返事は、もう決まっているのだろうね」
「はい」
「なら、はっきり言いなさい。曖昧にする方が、あちらに失礼だ」
私は頭を下げた。
自室へ戻って、明日の支度を整えながら考えた。
あの方は、私と二人きりで話せば、また私のためになる理屈を並べるだろう。
だから、逃げ場のない場所で言う。
自分の結婚相手は自分で選ぶのだと、みんなが聞いているところで。
六
慰労会の広間は、思っていたより人が多かった。 討伐隊の慰労を兼ねた集まりだという。騎士たちの家族も呼ばれていて、隅の方では子どもが走り回っている。
ダリウス様は、黒い軍礼装で来ていた。
礼装だからといって、隠せるものは何もない。肩幅も、顔の傷も、そのままだった。むしろ、生地が体の線を拾う分だけ、大きさが際立っている。
入口に立っただけで、人が自然に道を空けた。
初めてお会いしたとき以上に、格好いいと思った。
こちらへは、来なかった。
私を見つけて、目が合って、それから壁際へ移動した。
逃げ場のない場所だとジュリアン様は言ったが、この方は逃げ場を作るのが上手い。
式次第が進み、討伐隊の名が読み上げられた。
施療室の働きにも触れられ、医師と助手と、私の名が呼ばれた。
その後だった。
まだ顔色の戻りきらないエリク様が、前へ出てきた。母親らしき女性と、小さな女の子を連れている。
「団長。あの夜、俺は自分が毒を受けていることに気づいていませんでした」
広間が静かになった。
「気づいてくださったのはハーウェル嬢です。そして団長は、令嬢の指示に一つも異を唱えず、そのとおりに動かれた」
エリク様が、深く頭を下げた。
「おかげで、生きています」
女の子が、その女性に背を押されて前へ出た。
手に、小さな花を一輪握っている。茎が短くて、花弁も少し潰れていた。ずっと握っていたのだろう。
女の子は、ダリウス様を見上げて、固まった。
それはそうだ。この方は、大人でも見上げる。
ダリウス様は、片膝をついた。
それから、花を受け取った。
親指と人差し指だけを使って、他の指は開いたまま。茎の、一番丈夫な部分をつまんで。
あの手なら、握り込めば消えてしまう花だった。
「……ありがとう」
低い声だった。女の子はびくりとして、それから小さく笑った。
広間の空気が、変わった。
噂の黒熊を見にきた人たちの目が、部下と、その家族に頭を下げられている男を見る目に変わっていく。
誰かが小さく拍手をして、それが広間に広がった。
ダリウス様は落ち着かない様子で、その一輪をどうすればいいのか分からず、結局、胸の合わせに挿していた。 窓が開いていた。夜風が入ってきて、汗の引いた肩が冷えた。私は二の腕をさすった。
気づいたのは、離れた場所にいたはずのダリウス様だった。
外套の留め具に手をかけて――そこで、止まった。
止まった理由は、私にも分かった。
あの外套を私に掛けたら、私はほとんど埋まる。裾は間違いなく床を引きずる。
この方は今、慰労会の会場で、私が布に呑まれた姿を想像して固まっている。
私は歩いていって、爪先立ちでその留め具を外した。
「いただきます」
「いや、それは」
肩に掛けた。
重い。そして、大きい。袖からは指先も出ない。裾は、やはり床に落ちた。
温かかった。
顔を上げると、ダリウス様が何か言おうとして、やめた。
私が嬉しそうにしていたからだと思う。
断る言葉を探して、見つからなかった顔をしていた。
オスカー・ランデル卿が来たのは、そのときだった。
「クラリス嬢。少しよろしいですか」
二十四歳の伯爵家嫡男。身なりは整っていて、話し方も丁寧だ。
周囲が、少し引いて場所を作った。父が離れたところからこちらを見ている。
「ご父君を通してお願いしていた件、正式にお返事をいただきたい」
オスカー様は、順序よく話した。
ランデル家の領地。当主となった後の収入。王都の屋敷。私が施療院を続けることにも反対しない。子どもの教育についての考え。
どれも、間違ってはいなかった。
「ありがたいお話ですが、お受けできません」
オスカー様は、少しだけ眉を動かした。
「理由を伺っても」
「私には、結婚したい方がいます」
「ベルグ団長ですね」
言い当てられても、否定する気はなかった。
「クラリス嬢。命を助けられた相手を特別に思うのは、自然なことです。ですがそれは、恋情とは別のものだ」
声に、悪意はなかった。それがかえって始末に負えなかった。
「半年もすれば落ち着きます。そのとき、あなたに残るのは現実の生活だ。団長は騎士としては王国随一でしょう。しかし、貴族令嬢の夫としては……失礼ながら、向いておられない」
視界の端で、ダリウス様が動いた。
立ち去ろうとしている。
この方は今、オスカー様の言葉を半分正しいと思っている。
「ランデル卿」
私は、広間に届く声で言った。
「一つ、伺わせてください」
ダリウス様の足が止まった。
「あなたは今、私の気持ちが半年で消えるとおっしゃいました。私の気持ちの期限を、あなたが決められるのですか」
「一般論として」
「私はあなたに、期限の鑑定を頼んでいません」
オスカー様が黙った。
「私がお断りするのは、団長の方が優れているからではありません。あなたが、私に確かめる前に結論を出したからです」
声が震えないように、ゆっくり話した。
「私が誰を好きなのか。何を苦労と思うのか。どんな暮らしなら耐えられるのか。一度も私に訊かないまま、あなたは私にふさわしい生活を用意してくださった。それは、私の人生ではありません」
長い沈黙があった。
オスカー様は、反論を探しているように見えた。それから、探すのをやめた。
「……そういう方だとは、思っていませんでした」
「私も、今日まで申し上げませんでした」
「いいえ。こちらの落ち度です」
オスカー様は、まっすぐ私を見た。
「私は、あなたを知る前に、私にふさわしい妻の形へあなたを当てはめていた。……お恥ずかしい」
一礼して、彼は下がった。
それ以上は何も言わなかった。悪い人ではないのだ。ただ、順番を間違えただけで。
私は振り返った。
ダリウス様は、まだそこにいた。
広間の全員が、こちらを見ている。
外套の裾を引きずりながら、私はその前まで歩いた。
見上げる。首が痛くなるほど。
「ダリウス様。今の話、聞いておられましたね」
「……ああ」
「では申し上げます。あなたは、ランデル卿と同じことをなさいました」
彼の肩が、わずかに動いた。
「私が何に耐えられるか、何を苦労と思うか、あなたは私に訊かずに決めました。私のためだと言って。優しさの形をしていますが、中身は同じです」
言いながら、涙が出そうになるのを堪えた。
ここで泣いたら、この方はまた「体調不良」を疑う。
「私は、あなたが好きです。強いところも、その大きな体も、傷のある顔も、全部含めて好きです。外見は関係ないなどと申し上げるつもりはありません。私はあなたの姿を見て、格好いいと思っています」
広間の誰かが息を呑んだ気がしたが、構わなかった。
「怪我人を見捨てないところが好きです。泣いている子に血のついた手を見せないところが。それを当たり前だと思っているところが。あの夜、私の言うことを一つも疑わなかったところが」
私は、彼の手を見た。
「私に触れるときだけ、手が止まるところが好きです」
答えは、返ってこなかった。
だから、私は最後の問いを口にした。
「世間がどう言うかは、もう結構です。今から、あなた自身のことだけ伺います」
息を吸った。
「ダリウス様。あなたは、私と結婚したいですか」
七
返事は、すぐには来なかった。
楽団の音が止まっている。誰も動かない。オスカー様が退いていった扉のあたりで、まだ空気が揺れている気がした。
ダリウス様は、私を見下ろしていた。
いつもの位置だ。見上げなければ、目が合わない。
その視線が、一度だけ床へ落ちた。
「……笑われる」
「誰がですか」
「あなたが」
「では、笑った方の前で、私は笑い返します」
肩に掛けた外套が重い。裾が床に広がって、私の足はどこにあるのか自分でも分からない。
それでも、私はもう一度尋ねた。
「世間の話はもう結構です。ダリウス様は、どうしたいのですか」
大きな手が、拳になった。
開いた。また、握られた。 自分の望みを問われて言葉を探すこの方を、私は初めて見た。魔獣の前でも、血の海の中でも、この人は必ず即答していたのに。
「俺は」
声が、途中で切れた。
「……帰ったとき、あなたにいてほしい」
広間の照明が、少し滲んで見えた。
「討伐から戻ったとき。施療室の灯りが点いていると、足が速くなる。消えていると、遅くなる」
低い声だった。
「それが、答えだ」
私は息を吸った。吸わないと、声が出そうになかった。
「では、確認いたします。ダリウス様は、私と結婚したい。よろしいですね」
「……そうだ」
彼が一歩、近づいた。
影が私を覆う。窓の光が遮られるあの感覚を、私は最初の日から知っている。
大きな手が、迷うように上がった。
「抱きしめても――」
最後まで言わせなかった。
私は外套の裾を踏みそうになりながら、その胸へ飛び込んだ。
「今さら訊くのですか」
厚い。硬い。心臓の音が、思っていたよりずっと速い。
背中に、両腕が回った。ゆっくりと、力を測るように。それでも、離れる気配はなかった。
どこかで、誰かが手を叩いた。
二人、三人。すぐに、広間中に広がった。
ダリウス様が、私を離した。
そして、膝をついた。
石床に、重い音がした。
視界の高さが、揃った。
この方の顔が、見上げずに、正面にある。頬の傷も、黒い瞳も、全部が同じ高さにあった。
「クラリス嬢」
目を逸らさずに、彼は言った。
「社交は苦手だ。気の利いた言葉も知らん。戦場へ出る仕事は辞めない。何度もあなたを待たせる。夜中に叩き起こされる家だ」
「存じています」
「それでも」
太い指が、私の手を取った。指先だけを、慎重に。
「一生、大切にする。あなたが俺を選んだことを、二度と疑わない」
私は頷いた。何度も頷いた。
声が出なかったので、彼の指を握り返した。
「――今度は、俺から求婚させてほしい。俺と、結婚してくれ」
「はい」
やっと出た声は、みっともないほど掠れていた。
そこへ、心底疲れた顔のジュリアン様が歩いてきた。
「おめでとうございます。三か月かかりましたね」
「三か月ではない。十一日だ」
「あなたが十一日を三か月に引き延ばしたんですよ」
ジュリアン様は私に一礼して、それから真面目な顔で言った。
「クラリス嬢。よくぞ諦めずにいてくださいました」
ダリウス様が立ち上がった。膝の埃を払いながら、こちらを見る。
「ロシュ。式の日取りだが」
「はい」
「教会と、招待の順序と、礼装の寸法と、祝辞の順番を」
「お断りします」
「なぜだ」
「副団長の職務範囲外です」
ジュリアン様は、杯を掲げてから、はっきりと言った。
「今回だけは、団長ご自身で通してください。打診状も、ご自分で書くように」
ダリウス様が黙り込んだ。
私は、こらえきれずに笑ってしまった。
肩の外套が滑り落ちそうになって、大きな手が、慌ててそれを掛け直した。
***
指輪が小さいのではない。
自分の指が大きすぎる。
三度、寸法を測り直させた。職人は困った顔をしていた。それでも小箱の中の輪は、俺の小指にも入らない。
クラリスの手を取る。細い。折れそうだと、今でも思う。
覚えている。
あの街道で、俺が魔獣を斬った後、この女は傾いた客車の中から、御者の止血を指示してきた。膝ではない、腿の付け根を縛れと。自分の足首を痛めていたことは、後で知った。あのとき、名前を訊きそこねた。
施療室へ通うたび、扉を開ける前に窓を見ていた。灯りが点いているかどうかを、確かめていた。
ジュリアンを紹介すれば、この女は二度と来ない。そう思っていた。
それが嫌だった。
嫌だと認めれば、期待することになる。期待すれば、笑われた後に残るものが増える。
だから、勘違いのほうへ逃げた。
毒に気づいたあの夜、俺は判断を採用したのではない。この女を信じた。
求婚を断った夜も、正しいと思ったことは一度もない。
指輪が、第二関節で止まった。
手が震えている。剣を持って震えたことはない。
クラリスがその手を握ろうとした。両手を広げても、俺の手は回らない。
彼女は、俺の指を二本だけつかんだ。両手で、しっかりと。
「震えていますよ」
「……知っている」
この手は、握らせるものではないと思っていた。
違った。
選んで、握られるものだった。 指輪が、根元まで通った。
今日は、施療室から出るのが六時だと聞いている。
夕方から雨だそうだ。古い傷が疼くと言えば、クラリスはまた布を温める。
迎えに行く。理由はない。
一緒に歩いて帰りたいだけだ。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、強面すぎて「黒熊」と呼ばれる騎士団長と、そんな彼本人に何度でも求婚するクラリスのお話でした。
二人のお話はここでひとまず完結です。
ただ、もし「この二人をもう少し読みたい」「婚約後も見てみたい」と思ってくださる方が多ければ、長編版も検討しています。
婚約したのに相変わらず女性の好意に慣れないダリウス。
騎士団の施療室で、少しずつ自分の居場所を作っていくクラリス。
そして、なぜか二人の恋愛相談と結婚準備に巻き込まれ続けるジュリアン。
さらに騎士団の魔獣討伐や、ダリウスが「守る側」だけではなくクラリスに支えられていく話まで、もう少し長く描けそうです。
長編版を読んでみたいと思っていただけましたら、感想などで一言「長編希望」といただけると、今後の参考にさせていただきます。
ありがとうございました。
【追記:長編版を始めました】
長編化を希望してくださった皆様、本当にありがとうございました。
複数の方から「長編で読みたい」「二人の続きが読みたい」「結婚式や夫婦の様子も見たい」とお声をいただき、このたび長編版を書くことにしました。
長編版は、短編の続きを付け足したものではありません。
二人の出会いから改めて再構成し、クラリスが最初は怖いと思っていた“黒熊”ダリウスを知り、少しずつ惹かれ、やがて自分から攻略し始めるところをじっくり描いています。
そしてもちろん、
「団長。私と結婚してください」
「承知した。副団長には俺から話を通そう」
にも、改めてたどり着きます。
その先は、短編では描けなかった婚約生活、結婚式、夫婦になってからの二人まで。
短編版を読んでくださった方にも、新しい物語として読んでいただける内容になっています。
長編版
『【長編版】黒熊騎士団長は、私の求婚を信じない』
よろしければ、今度は少し長くなったクラリスと黒熊の物語にもお付き合いいただければ嬉しいです。
シリーズ化しましたので、シリーズページから長編版をどうぞ。




