第7話:潜入、沈黙の誓約
古く痛んだ廊下だ。剛太に連れられて初めて足を踏み入れたその場所は、彼が思っていた景色と違っていた。剥き出し壁はひび割れ、窓ガラスを補強するガムテープが西日にさらされて茶色く変色している。建物の老朽化は想像以上だった。壁の傷みや床のきしみが、そのまま捨て置かれている。
剛太は特に気にする様子もなく、淡々と施設の説明を続けた。案内された手狭な遊戯室に入ると、部屋の隅に置かれた二本の棒を剛太がひょいと手に取った。それは使い古されたドラムのスティックだ。剛太が床やテーブルを太鼓代わりに叩き始める。軽快なリズムが乾いた室内に響き渡った。即興とは思えない巧みな打音。ケンシンは『ただ力任せな音じゃないな』と思いながら、その音の粒に思わず聞き入っていた。側にいたコウキが壁際にある棚から古いギターを取り出した。全体的に色あせているが弦はしっかりしている。コウキはたどたどしいながらも器用に音を奏でた。独学ながらも上手いもんだとケンシンが思っていると、ドアの方から声がした。
「何をやっているのかと思ったら、また太鼓叩きと弦弾きの練習か」
低く、ねっとりとした声がした。園長の沼田が姿を現したのだ。沼田はケンシンの存在に気づくと、脂ぎった顔をテカらせてにこやかな笑顔を向けた。
「おや、今日はお友達が来ていたのか。どうぞ、ゆっくりしていきなさい」
そう言って、どこかわざとらしい笑顔を向ける。一見すると、穏やかで人当たりの良い人そのものだった。しかし、剛太とコウキ、アカリはうつむいたままで沼田の方を見ようとしない。その様子を見た沼田は、ふんと小さくため息をついた。そんな状況にケンシンは違和感を覚えていた。どうも様子がおかしい。ケンシンがふと気が付くと、またどこかで赤ん坊の泣き声がする。そばにいたアカリに、あの泣き声は? と聞いてみたのだが、アカリはうつむいて首を振るだけだった。
この施設にはなにかある。ケンシンは沼田の笑顔の奥に隠されたもの――言葉にされない不穏な気配を見抜いたようだ。
その夜、自宅に帰ったケンシンなのだが、その日見た剛太とアカリが生活している施設のことを思い出していた。静謐な書斎で、父・隆之と母・英子が彼を待っていた。ケンシンは二人の前に立った。
「父さん、母さん。話があるんだけど」
「どうしたの? ケンシン。藪から棒に」
英子が顔を挙げる。
「僕、家を出たい。別の所に住んでみたいんだ」
「急にどうした。何か不満でもあるのか?」
「いや、違うんだ。そういうんじゃなくて、友達が住んでいる施設で寝泊まりしてみたいんだよ」
隆之は手元に広げた新聞から顔を上げず、静かに話しかけた。
「公立中学に通わせたのは『普通』を知るためだ。施設に住むというのは、その範疇を超えているぞ」
「今日、友達が住んでいる曙養育院というところに行ってきた。あんなんじゃあいつらがかわいそうだ。僕にできることがあるんじゃないかと思って話しているんだ」
ケンシンの言葉に英子が小さく微笑んだ。
「あら、曙養育院って養護施設じゃない。友達思いなのね。そういう気持ちはとても大切よ。でも私は反対。あなたが別の所で暮らすなんて寂しいじゃない」
「まあ待て英子。ケンシンの話を聞こうじゃないか」
ケンシンは一瞬詰まったが、真っ直ぐに父と母を見返した。
「今日行った曙養育院の廊下の窓からすき間風が入っていた。とても寒かった。園長とも会った。目を見ただけでどんな人なのか分かった気がする。それに……。近くから赤ん坊の泣き声が聞こえた。とても寂しそうな声だった」
隆之が新聞を置き、ケンシンを見つめた。その目は、南郷財団の経営者として、また一人の父として、ケンシンの覚悟を見抜こうとしていた。
「分かった、ケンシン。だが、少し考える時間をくれ。その曙養育院というところは少しややこしそうだ。それに、お前が家を出るとなると、何かと準備も必要だ。お母さんとも話し合ってみる。なあ、英子」
隆之の言葉に英子は少し諦めたように小さなため息をついた。
数日たった日、隆之はケンシンを自室に呼び出した。
「あれからお母さんともよく考えたよ。お前が住みたいと言っているところは養護施設になる。親と離ればなれになった子とか、いろんな事情を抱えた子供たちを保護する場所だ。曙養育院について色々調べてみたんだけど、表面化していない問題がいくつか分かった。そこの園長先生は少し癖のある人物のようだな。その中に、お前が単なる孤児として入れば、その施設の管理者は君を無視するか、単なる労働力として潰すだけだ。そこで、ここからはお父さんの考えなんだが、言い方は悪いが、保険というか相応の『餌』が必要になる」
うなずくケンシン。隆之は黒檀の机の引き出しを開けると一通の封筒を取り出し、ケンシンの前に差し出した。
「これはな、施設の管理者、つまり園長先生に渡す紹介状だ。お前は、『お父さんの知り合いの"さる有力者の息子"』ということにしよう。『公にできない事情があって、お父さんの知り合いであるその人と息子さんは、一緒に暮らせない。そのため、しばらくの間施設に預かってほしい』といった内容のことが書いてある。お父さんはその知り合いの代理ということで、お前を施設に紹介する。もちろんこの紹介状はお父さんが書いたんだけどな」
ケンシンは、父の意図を瞬時に理解した。
「僕は、園長先生にとって『将来、親をゆすれる材料』……、ということですね」
「察しがいいな。お前を保護している間、彼、園長先生はその有力者をいつでも脅せる切り札を握ったと錯覚するだろう。欲に目がくらんだ人間は、自分が囲い込んだ獲物が、実は自分を監視する『目』であることに気づかないものだ」
「お父さん、分かりました」
「ああ、あとそれからな。施設への付添人にはトメさんに行ってもらう。もろもろの手続きやその後の対応とかあるからな。お父さんが行ったら立場上大変なことになってしまう」
数日後。ケンシンは、最低限の荷物を詰めたリュックを背負い、再び施設の門を潜った。そばには南郷家の使用人長・渡瀬トメが一緒だ。正門で待っていた沼田は、欲望を隠しきれない濁った瞳で、揉み手をしてケンシンを迎えた。その目は、目の前の少年を人間としてではなく、歩く札束か、あるいは一生遊んで暮らせる年金証書のように眺めていた。
「いやあ、ケンシン君。お待ちしておりましたよ」
沼田は飛び切りの笑顔を振りまき、トメの方に顔を近づけて幾分小声でささやく。
「これはこれは、大変でしたな。後見人の方からの紹介状は拝見させていただきました。いやいやいや、いろんなご事情がおありなのでしょう。ここなら安心だ。誰にも邪魔されず、『秘密』は守られますからな。ほっほっほ」
沼田の低い笑い声が響く。沼田にとって、ケンシンは「金の卵を産むガチョウ」だった。いつかこの少年の実父を揺すり、莫大な金を絞り出す。その妄想だけで、沼田の口角は下品に吊り上がっていた。
「部屋は特別室を用意させました。他の子らとは違う、最高の……」
「いいえ。みんなと同じ部屋でいいです。……『親御さん』に、わがままを言わせるなと釘を刺されていますから」
トメが冷ややかに言い放つと、沼田は「おやおや、殊勝なことで」と、さらに喉を鳴らした。ケンシンを『隠し子』だと思い込んでいる男の卑しさが肌に刺さるようだった。それからの一週間、ケンシンは施設の劣悪な実態をその身で体験しながら、虎視眈々と好機をうかがっていた。
沼田とケンシンが施設の玄関に入ると、廊下の向こうからマサキとアカリが歩いてきた。彼女は、荷物を持ったケンシンの姿を見て息を呑んだ。「ケンシンさん……? どうしてこんなところに、荷物なんか持って……」
「今日からここでお世話になる。まあ、なんというか、事情があってね」
ケンシンは短く応えた。アカリの瞳に深い戸惑いとそれ以上の「心配」の色が浮かぶ。
「アカリ、よろしくな」
アカリに対して軽く言葉をかけ、ケンシンは沼田の後に続いて歩き出した。玄関口でトメは二人の後ろ姿を見て、ケンシンに短い別れを告げる。やれやれと軽いため息をつきながらトメは、玄関を出る時に「……この建物、掃除が行き届いていないわね」と独り言を漏らす。その時そばにいたアカリをちらと見た。その凛とした佇まいに一瞬目を止める。ケンシンとアカリはすでに知り合いのようだ。トメはアカリを横目で見ながら『ふーん』と小さく微笑んだ。
初めて自宅以外の所で生活するケンシン。少し不安な気持ちはあるものの、ケンシンが抱いている決意はゆるぎない。これから始まるのは、言わば戦いだ。泥の中に潜み、アカリの指先のあかぎれを、そしてマサキ達を救うための戦いだ。
ケンシンは心の中でこぶしを握る。その背後を歩いていた沼田が、自分の懐にある「切り札」を愛しむように、汚い手でケンシンの背中を押した。




