第5話:見えない刻印
校庭での騒ぎのあと、冬の夕暮れは急速に色を失っていった。アカリは、泥だらけになったマサキの手を引き、足早に廊下を進んだ。冷え切った板張りの廊下に、マサキの濡れた足音がペタペタと寂しく響く。
「マサキ君、寒くない? すぐにお湯で洗い流そうね」
アカリが声をかけると、マサキはこくりと小さく頷いた。泥のついた頬が、寒さのせいか、わずかに震えている。たどり着いた風呂場は、薄暗い電球がひとつ灯っているだけだった。古いタイル張りの床は冷たく、壁は黒ずんだカビがこびりついている。それでも一応蛇口からはお湯は出る。
「綺麗にしてあげるからここで服を脱いで」
アカリが近くに置いた籠を指すと、マサキは戸惑ったように首を振った。
「……自分でする」
「いいのよ、恥ずかしがらなくて。泥が中まで入っちゃってるでしょ」
アカリが優しく促すと、マサキは観念したように、泥で重くなった上着に手をかけた。ボタンを外す指先が凍えている。一枚、また一枚と、汚れにまみれた衣類が床に落ちる。最後に薄汚れた下着を脱ぎ捨てた。アカリが蛇口をひねると、熱いお湯が勢いよく流れ出す。マサキは洗面器にお湯を溜め、それを一気に頭からかぶった。アカリもまた、自身のスカートが濡れるのを構わず、膝をついてマサキの背後に回った。
「お姉ちゃんが洗ってあげる」
アカリがタオルを手に取ったときだった。湯気に濡れ、白く浮かび上がったマサキの背中を目にした瞬間、アカリの手が止まった。その背中には、およそ七歳の子供にはあってはならない「模様」が刻まれていた。最初はただの湿疹か、あるいは激しい打ち身の跡かと思った。しかし、近づいて目を凝らすと、それは明らかに、鋭利な何かで執拗になぞられた傷跡だった。皮膚が盛り上がり、ケロイド状になった無数の線。それらは複雑に交差し、ある部分は文字のような形を成し、ある部分はただの肉の塊へと変貌している。新しいもの、古いもの、長い期間をかけて作られたことが分かる。あまりにも深く、あまりにも残酷な、一生消えることのない刻印。
「……どうしたの、これ。その背中」
アカリの声が震えた。マサキは振り返らず、洗面器に残ったお湯を自分の肩にかけながら、淡々と答えた。
「お父さんに、釘でぐいぐいやられたんだ」
釘――。その単語がアカリの心に冷たく突き刺さった。
「お父さんに? なんで、そんな……」
「僕が悪かったんだよ」
マサキの声には、怒りも悲しみもなかった。ただ、決められた事実を述べるような無機質な響きがあった。
「お片付けをしなかったり、お返事をしなかったりすると、お父さんが怒るんだ。『これはしつけだからな』って。お父さんは僕のために、一生懸命お仕置きをしてくれたんだ。釘の先で、背中をなぞるんだよ。痛いけど、動くと余計に痛くなるから、じっとしてなきゃいけないんだ」
アカリは無言で、震える指先でその傷に触れた。息を吸い込むことさえ忘れていた。
「でもね」
マサキが少しだけ声を弾ませた。
「お父さんは、優しいんだよ。お仕置きが終わったあとには、薬を塗ってくれるんだ。『ごめんな、マサキ』って言いながら、赤いお薬をいっぱい塗ってくれる。だから、僕もお父さんが大好きだったんだ」
アカリの視界が急激に歪んだ。大好きだった。そう言わなければ、マサキは自分の存在を保てなかったのだろう。暴力と愛情を混ぜこぜに与えられ、壊されていく感覚さえ奪われてしまった。背中の傷は肉体だけでなくマサキの心そのものを切り刻んでいたのか。アカリの目から大粒の涙がボロボロとあふれ出した。膝をついたまま、後ろからマサキの小さな体をぎゅうっと抱きしめた。濡れた細い肩が、アカリの腕の中で驚いたように跳ねる。
「……お姉ちゃん、お洋服が濡れちゃうよ」
マサキが申し訳なさそうに言った。アカリの目からこぼれだした熱い涙が、マサキの背中の傷跡にしみこんでいった。
「マサキ君……。ごめんね」
何に対しての謝罪なのか、自分でも分からなかった。ただ、この子が耐えてきた暗闇の深さを思うと、言葉にならない衝動が込み上げてくる。柔らかくて小さな背中。白くてみずみずしい肌。なぜ、そのようなか弱いものに対して傷つけることができるのか。アカリは、自分の両親を失った悲しみを「絶望」だと思っていた。けれど、マサキが背負っているのは「地獄」だった。信頼すべき者から裏切られ続け、それでもその者を愛さなければ生きていけない。
「お姉ちゃん、泣かないで」
マサキの小さな手が、アカリの腕をそっと撫でた。
「僕、もう痛くないよ。ここにいれば、釘もお薬もいらないから」
その言葉が、さらにアカリの心を切り裂く。この薄暗く、泥を投げつけられるような施設が、彼にとっては「釘のない聖域」なのだ。アカリはさらに力を込めてマサキを抱きしめた。マサキの背中から伝わる、か細い鼓動。それは、過酷な運命の中でも必死に生きようとする命の灯火だった。アカリは涙を拭わず、少年の耳元で囁いた。
「マサキ君、約束するよ。これからは、もう一人で我慢しなくていいの。私が、お姉ちゃんになってあげる。ずっとそばにいるから」
養育院の古い浴場に響くのは、蛇口から滴り落ちる水の音と、アカリの静かな啜り泣きだけだった。マサキの背中に刻まれた見えない刻印を、アカリは自分の心にも刻み込んだ。




