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第4話:雷神の鉄拳

「逃げろよ、ほら! もっとドロ団子を投げつけてあげるから、上手くよけろよ。ほーうら!」

 少年たちは一斉に泥を捏ねなおし、逃げ場のない二人を追い詰めていく。マサキとアカリはすでに泥だらけだ。アカリは絶望の中で、マサキを背中から抱きしめるように覆った。その時だ。

「おい、てめえらッ!」

 冬の冷えた空気を切り裂くような、野太い怒号が響いた。園庭の隅にある勝手口から、一人の少年が猛烈な勢いで飛び出してきた。冬だというのに薄いシャツを崩して着こなしたその姿は、小柄なマサキやアカリとは対照的に、岩のように頑丈で分厚い体つきをしている。雷神剛太だった。

 剛太は泥濘を蹴散らし、凄まじい速さで不良たちのいる場所に突っ込んだ。

「剛太兄ちゃん……!」

 マサキが声を上げる間もなかった。剛太は、リーダー格の少年の胸ぐらを左手で掴み上げると、一切の躊躇なく右拳を叩きつけた。鈍い、重低音のような衝撃音が響く。少年の頭が跳ね上がり、その手から泥団子が力なくこぼれ落ちた。

(がはっ……)

 長身のリーダーは地面に転がり、だぶだぶのジーンズがドロで汚れ、鼻を押さえてうめいた。指の間から赤い血が黒いスウェットと泥の上に滴り落ちる。

「な、何すんだよ、剛太! いきなり……」

 残りの四人が青ざめながら後ずさりした。彼らの手にあった泥団子は、恐怖で固まった指から次々と地面に落ちていく。リーダーは必死に立ち上がり、反撃しようと腕を振り回したが、剛太はそれを軽々とかわし、二発、三発と拳を叩き込んだ。

「動くんじゃねえ」

 剛太の声は低く、地鳴りのようだった。先ほどまでのリーダーの勢いはどこへやら、彼はなす術もなく殴られ、膝をつく。力の差は歴然だった。これはすでに喧嘩ではない。剛太の一方的な暴力。しかも見せしめとも思われる攻撃は執拗に続いた。

「やめろ、剛太! 悪かった、もうしないから!」

 リーダーは完全に戦意を失っている。取り巻きの連中が悲鳴のような声を上げて逃げ出した。しかし剛太は止まらなかった。倒れた少年の襟首を掴み、さらに拳を振り上げる。

「もういい! やめて!」

 叫んだのはアカリだった。その声は鋭く、剛太の振り上げた腕を空中で止めた。剛太は肩で激しく息をしながら、ゆっくりとアカリの方を向いた。その瞳にはまだ鋭い殺気が宿っていたが、アカリの必死な表情を見て、ふっと力が抜けた。剛太は拳を降ろし、泥だらけでボコボコに腫れ上がったリーダーの顔を見下ろした。すると、剛太のすぐそば横からアカリがリーダーに駆け寄った。剛太は『え?』と少し驚いた顔をしている。意外そうにアカリを見た。アカリはリーダーの脇に手を差し込んで体を起こすと、少し震えながら、大丈夫? と小声で話しかける。リーダーは眼をぱちぱちさせながらバツが悪そうにそっぽを向くと、コホコホとむせびながら小さく頭を下げた。剛太はまだ不思議そうな顔をしている。

「もういい。……行け」

 剛太が短く言うと、リーダーは震える足取りで、逃げ去った仲間たちを追うように施設の中へと消えていった。園庭には静寂が戻った。残されたのは、泥だらけのアカリとマサキ、そして剛太だけだ。剛太は拳についた血をズボンで拭い、「大丈夫か?」と言いいながらアカリに近づいた。だが、アカリは腰に手を当てて、剛太を睨みつけた。

「あんなに酷く殴るなんて、やりすぎよ!」

「……え?」

 剛太の動きが止まった。

「助けてくれたのは感謝するけど、あんな乱暴をしていい理由にはならないわ。あんなに怪我をさせて。暴力で解決しても、また同じことが繰り返されるだけじゃない!」

 アカリの説教は止まらなかった。正論が次々と飛んでくる。アカリを襲っていた五人を一人で粉砕した「雷神」。『俺はお前らを助けてやったんだぞ』との言葉が頭の中で何度も繰り返されぐるぐる回っているのだが、今は小さなアカリの前に立たされ、その大きな体が縮んでいる。

「いや……俺は、その……」

 剛太は言い返そうとしたが、アカリの勢いに押され、視線を地面に落とした。岩のような肩が少しずつ丸まり、しょんぼりと項垂れている。その様子を見て、マサキがぷっと吹き出した。

「ぷっ、あはははは。……剛太兄ちゃん、怒られてる。おねえちゃん、すごいね」

 マサキは泥に汚れた顔で、今日初めての笑みを浮かべた。そこへ、息を切らした一人の少年が駆け寄ってきた。剛太と同い年の石崎コウキだ。

「マサキ! 無事か?」

 コウキはマサキの泥だらけの服を見て顔を強張らせたが、マサキがこれまでのことを説明し始めると、安堵の表情に変わった。

「そうか。剛太、マサキのことを助けてくれてありがとう。えぇーっと、君は新しく入った子だね。マサキを守ってくれてありがとうな。僕はこの子、マサキの兄の石崎コウキと言います」

 コウキは二人に深く頭を下げた。

 「あ、わたしは、榊原アカリと言います。私の方こそ、マサキ君に助けてもらったんですよ」

 アカリは少し気恥ずかしくなり、改めて剛太に向き直った。

「剛太さん……でしたっけ。さっきは言いすぎました。マサキ君と私を助けてくれて、本当にありがとうございました」

 アカリが深々と丁寧に頭を下げると、剛太は慌てて後ずさりした。

「お、おう。別に、そんなんじゃねえよ……」

 剛太は後頭部をガリガリとかきむしった。冬の冷たい空気の中、剛太の耳たぶが、夕焼けのような赤色に染まっていた。彼は視線を泳がせながら、ぶっきらぼうに背を向けた。

「……腹、減ったな。戻るぞ」

 剛太の背中は、やはり岩のように大きかった。しかし、その足取りは先ほどまでの怒りに満ちたものとは違い、どこか落ち着かない、ぎこちないものになっていた。アカリは泥で汚れた自分の手を見つめた。ここには暴力と絶望が満ちている。けれど、自分のために盾になってくれた小さな体と、不器用なほど大きな拳があることを知った。石崎コウキ、マサキ、そして雷神剛太。冬の園庭を横切る三人の少年の影を追いながら、アカリは少しだけ希望が見えたような気がした。



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