第3話:泥団子の洗礼
アカリが園長室から出ると、ドアの外で待っていた職員が「さっさと仕事に戻れ」と冷たい視線で促した。朝の掃除の続きが終わると、アカリは割り当てられた部屋に通された。来たばかりの日に寝たのは客間だ。今日からは他の児童と一緒に一つの部屋に寝泊まりすることとなる。部屋には二段ベッドが5つあり、そこにはアカリと歳が近しい女児が9人いた。今朝一緒に園の掃除をした子たちだ。ふと気づくと、薄い壁を隔てて隣接した建物からかすかな泣き声が聞こえてきた。そこは、生まれて間もない赤ん坊たちが預けられている乳児院だった。
「……あ、あぁ……」
聞こえてくるのは、寂しくて、おなかがすいて、わびしくてたまらない、とても弱々しい赤ん坊の泣き声だった。そこには、泣いている赤ん坊をあやす大人の気配はない。設備は最低限のもので、赤ん坊が泣いていてもそのまま放置されていることが多かった。ただひたすら、誰かに届くはずのない声を上げ続ける赤ん坊。その泣き声はアカリの耳の奥深くに突き刺さるようだった。
(あの赤ん坊も、私と同じなんだ……)
アカリは胸を締め付けられるような痛みに耐えながら自分の小さな手を握りしめた。両親との思い出が詰まった鞄の感触だけが今の彼女に残された唯一の温もりだった。窓の外で再び風が吹き、建付けの悪いドアがまた『ガタガタ』と鳴った。その音と、絶え間なく続く赤ん坊の泣き声が混ざり合い、アカリは気が付くと自然と涙が零れ落ちた。
曙養育院の園庭は遊び場と呼ぶにはあまりに殺風景だった。周囲を囲む高いコンクリート塀は、長年の雨風に晒されて黒ずみ、塀の上部には侵入者を拒むためか、あるいは逃亡を阻むためか、先の尖った柵が埋め込まれている。園庭の広さはバスケットコート約1面分ほどしかない狭さだ。三角ベースをやるにも打球がすぐに塀を越えてしまいそうで、端から端まで全力で駆け抜ければ五秒とかからないだろう。地面は湿った黒土と砂利が混じり合い、水はけが悪いために至る所に昨夜の小雨でできた泥濘があった。
日曜日の午前。行くところのない子供たちが、その狭い空間に放り出されている。アカリは、上級生の女子に手首を強く掴まれ、裏口から外へと連れ出された。
「新入りは外。部屋にいても邪魔なだけだから」
それだけ言うと、少女はアカリを突き放すようにして建物の中へ戻っていった。外の空気は冷え切っていた。吐き出す息は白く、鼻の奥がツンとするような冬の匂いがする。遊具といえば、鎖の錆びついたブランコが二台と、塗装の剥げた鉄棒があるだけだ。子供たちがその狭い園庭にひしめき合っているため、あちこちで肩がぶつかり、そのたびに鋭い罵声や小競り合いが起きていた。ふと見ると、園庭の隅、日の当たらない湿った壁際に一人の男の子がしゃがみ込んでいた。アカリは泥濘を避けながら、ゆっくりとその子に近づいた。
男の子は小学校低学年ぐらいで、体つきは小柄で細い。しゃがんで俯いている男の子の横顔は驚くほど整っていた。透き通るような白い肌に、長く折れそうな睫毛。泥に汚れた古着を着ていなければ、どこかの良家のご子息に見えるほどの美少年だった。男の子は小さな指先で、地面の湿った土を黙々と捏ねていた。
「何を作っているの?」
今はむしょうに誰かと話がしたいアカリは、少し遠慮がちに声をかける。すると、男の子の肩がビクリと跳ねた。彼は顔を上げず、ただ手に持った泥の塊を強く握りしめる。
「……」
返事はない。男の子は存在を消すように背中を丸め、ただひたすらに土を丸めている。
「私はアカリ。昨日ここに来たの」
アカリは彼と同じ目線になるように、少し離れた場所にしゃがんだ。男の子は一瞬だけ、怯えたような、それでいて拒絶するような視線をアカリに向けた。その瞳は煌めくようにきれいな漆黒だが、ひどく冷めている。
「……あっちに……、行けよ」
掠れた小さな声。それが彼の最初の言葉だった。
「どうして? 一人で遊ぶより二人の方が楽しいよ。何を作ってるの? 泥団子?」
アカリが努めて明るく問いかけると、男の子はわずかに指の動きを止めた。
「……泥団子じゃない。これは、お守りだ」
「お守り?」
「これを固くして、たくさん作っておけば……、誰も僕に近づかない」
その言葉の意味をアカリが汲み取る前に、背後から甲高い笑い声が響いた。
「おいおい、新入りのお嬢ちゃんと、ノロマのマサキが仲良くおままごとかよ」
男の子の名前はマサキというのか。アカリはそう思いながら振り返ると、五人の少年たちが立っていた。中学1~2年生くらいだろうか。どの子も顔つきが険しく、着古した服からは埃と饐えた匂いが漂っている。中心に立つ背の高い少年が、手に持っていた何かをアカリの頭に向かって投げつけた。
ベチャリ、という鈍い音。
「痛っ……」
頭頂部に重たい衝撃が走り、冷たい感触が広がった。アカリが手で触れると、指先に黒い泥がべっとりと付着した。
「ははは! 命中だぜ!」
少年たちは一斉に囃し立てた。彼らの手には、マサキが作っていたものよりも大きく、黒く湿り気のある泥団子がいくつも握られていた。
「やめてください!」
アカリが立ち上がって抗議するが、それが火に油を注いだ。
「うるせえよ、ゴミが。お前みたいな厄介者が増えるせいで、俺たちの飯が減るんだよ!」
少年が叫ぶと同時に、再び泥団子が飛んできた。今度は三人が同時に投げた。一つはアカリの肩に、もう一つは彼女の頬を掠めて地面に落ちた。逃げ場のない狭い園庭。周囲の子供たちは見て見ぬふりをして離れていく。職員の姿はどこにもない。ここは完全に力の強い者が支配する場所だった。
「逃げろよ、ほら!」
嘲笑とともに、さらに激しい泥団子の雨が降り注ぐ。アカリが恐怖で身をすくませ顔を覆おうとした、その時だった。
「やめろ……やめろよ!」
小さな影が、アカリの前に割り込んだ。マサキだった。彼は細い腕を広げ、アカリを自分の背中に隠すようにして、少年たちの前に立ちはだかった。マサキの体は小刻みに震えている。今にも泣き出しそうだ。それでも彼は一歩も引かなかった。
「女の子を……、いじめちゃダメなんだぞ」
「あ? なんだマサキ。生意気に女を守ってるつもりかよ」
リーダー格の少年がニヤリと笑い、手の中の泥団子をマサキの顔の至近距離で見せつけた。
「どけよ。じゃないとお前も泥だらけにして、便所に突っ込むぞ」
マサキは歯を食いしばり、震える拳を握りしめた。彼の背中越しに、アカリは彼の細い肩が激しく波打っているのを見た。自分よりもずっと小さく、弱々しい少年が、恐怖に打ち勝とうとしていた。
「……どかない」
マサキの声は震えていたが、そこには確かな力強さがあった。
「ちっ、シラけるんだよ!」
少年は苛立ったように、手に持っていた泥団子をマサキに向かって叩きつけた。泥が跳ね、マサキの顔や服を汚す。
「おい、お前ら。もっと持ってこい。今日はこいつらを泥人間にしてやるからな」
少年たちは地面の泥をかき集め、より大きく、半分濡れた塊を作り始めた。そしてその汚い塊をマサキとアカリに投げつける。彼らの目は、遊びというよりは、獲物を追い詰めるような残酷な光を宿している。周囲では他の子供たちが、まるで娯楽を見るかのように遠巻きに眺めていた。助けようとする者はいない。誰かが犠牲になっている間は、自分が標的にならないことを知っているからだ。アカリは、マサキの震える背中にそっと手を置いた。泥の冷たさと、暴力に支配された園庭。高くそびえるコンクリート塀の向こう側からは、時折通り過ぎる車のエンジン音が聞こえてくる。しかし、その日常の音は、この閉ざされた「泥の中」までは決して届かない。ここには、自分を守ってくれる大人は一人もいない。マサキの小さな肩を抱き寄せ。冬の淡い太陽の光はアカリ達にとってあまりに無力だった。




