第2話:園長・沼田重蔵
やがて通された園長室には、拭っても止まらない脂汗で顔をテカらせた男、沼田重蔵が座っていた。歳は50歳半ばだろうか、薄い頭を隠すそぶりもなく、でっぷりとした下っ腹が机の端に窮屈そうに突っかかっている。
「やあ、アカリちゃん。大変な災難だったね。よく頑張ってここまで来た。今日からは私が君の父親代わりだよ。ここにいるのはみんなアカリちゃんの新しい家族だ。何の心配もいらないよ」
沼田は白い歯を見せて柔和な笑みを浮かべた。彼は椅子から立ち上がると、アカリの小さな肩をそっと抱き寄せるようにして、温かなお茶と茶菓子のかりんとうを差し出した。
「お父さんとお母さんのことは本当に残念だった。でも安心していい。先ほども言ったがここではみんなが家族だ。寂しい思いはさせないからね」
沼田の声は低く、優しさに満ちていた。アカリは、先ほどまでの冷たい空気とは違うその言葉に、わずかな希望を見出した。この人なら、自分を「荷物」ではなく「人間」として扱ってくれるのではないか。親戚の人たちとは大違いだ。アカリは深くうつむきながらも、差し出されたかりんとうを震える手で受け取った。
「ありがとうございます……。園長先生」
「いい子だ。これから一緒に頑張っていこう。何があっても私が君を守ってあげるからね」
沼田は目を細め、慈愛に満ちた表情でアカリの頭を優しく撫でた。案内された部屋へ向かう途中、アカリは再びあの無音の廊下を歩いた。他の子どもたちの気配はするものの、そこには笑い声も、おしゃべりする声すら聞こえない。聞こえるのは風に震えるドアの音だけだった。アカリは両親との思い出が詰まった唯一のショルダーバッグを胸に抱きしめた。
施設に来て、一夜が明けた。
「ちょっと、いつまで寝ているの? さっさと起きなさい」
硬い声とともに冷たい空気が部屋に流れ込んできた。12月の早朝。板張りの床からは足の裏を刺すような冷気が立ち上がっている。前日の夕方、曙養育院に到着したアカリを「可哀想に」などと言いつつ出迎えた女性職員の顔には、もはや慈しみのかけらもなかった。彼女はアカリが返事をする間もなく薄い掛け布団を乱暴に剥ぎ取ると、隣の子供を起こしに次の部屋へと消えていった。
アカリは震える手で、昨日職員から渡されたブカブカの作業服に着替え、指示された通りに長い廊下の雑巾がけを始めた。『ガタガタ、ガタガタ』風が吹くたび、建付けの悪い木製のドアが音を立てて震える。バケツの中の水は氷のように冷たく、数回雑巾を絞っただけでアカリの指先は赤く腫れ、感覚を失っていった。廊下ですれ違う他の子供たちは誰一人として口をきかない。虚ろな瞳でただ黙々と手を動かし、アカリと目が合っても無表情なまま通り過ぎていく。そこには感情を押し殺し、沈黙だけが流れていた。
(お母さんとお皿を洗うときはいつもお湯だったのに……)不意に、自宅の台所の温かな光景が脳裏をよぎる。冬場は「手が荒れるから」と言って、父が代わりに洗い物をしてくれたこともあった。温かな湯気と洗剤の石鹸の匂い。そんな幸福な記憶も指先の激痛が容赦なく現実へと引き戻す。
凍えた手から雑巾を落としてしまった。アカリは雑巾を拾おうとして、たまたま向かいから来た少年の指先に触れそうになった。少年は弾かれたように手を引っ込め、怯えた瞳を一度だけ向けると逃げるように去っていった。そこには関わりを持つことすらやってはいけないという、この場所特有のルールでもあるのだろうか。沈黙がまた静かに流れた。
掃除が終わり子供達は食堂に集合した。比較的広めの部屋で、子供50人くらいが一度に座って食事ができるテーブルと椅子がある。部屋の端に厨房とつながったカウンターがあり、そこに各自トレーを持って並ぶ。アカリは上級生から促されるまま他の子の後ろに並んだ。朝食として与えられたのは、具のほとんど入っていない薄い味噌汁と、古米の臭いをした少量の飯だけだった。
「……これだけ?」
アカリが思わず隣にいた年上の少女に小声で尋ねると、彼女は周囲を見渡し「黙って食べなさい。職員に見つかったら昼抜きにされるわよ」と囁き返した。そのとき、廊下の奥から香ばしい焼き魚と出汁の効いた厚焼き玉子の匂いが漂ってきた。園長や職員たちが食べる別のメニューの匂いだ。子供たちは一様に視線を落とし、その匂いに気づかないふりをして、喉を通らないような冷めた飯を口に運び続けた。乳児院の方向からは空腹に耐えかねた赤ん坊たちの泣き声が聞こえてくる。それはやがて誰かを呼ぶことを諦めたような力尽きた低い呻き声へと変わっていった。食後、アカリは再び園長室へと呼び出された。
「失礼します……」
「どうぞ」
奥から沼田園長の声がする。アカリはドアを開けた。しかし、そこにいたのは昨日とは別人のような目をした男だった。
沼田は机の上に広げた帳簿に目を落とし、苛立たしげにそろばんを弾いていた。室内には山盛りになった灰皿から立ち上るヤニの臭いが淀んでいる。机の隅に半分食べ残された高級な洋菓子の箱が置かれていた。足元には汚れ一つないふかふかの絨毯が敷かれている。沼田は机の上に広げた帳簿に目を落とし、苛立たしげにパチパチとそろばんを弾いていた。昨日、門の前で浮かべていた作り笑いは完全に消え、そこには私欲にまみれた中年の男が座っていた。
「園長先生、あの……」
アカリが勇気を出して声をかけると、沼田は顔を上げずパチパチと乾いた音を立て続けながら言った。
「榊原。お前の親戚から預かった書類を精査したが、本当に何も残っていないようだな。土地も家もローンやら借金やらの返済で全て消える。お前を引き取ったところでうちに入る金など雀の涙だ」
沼田はそろばんを置くと椅子に深くふんぞり返り、アカリを値踏みするように見下ろした。一文無しの孤児を蔑む視線を向ける。
「いいか、勘違いするな。ここはお前の家じゃない。使えない奴を飼ってやるほどうちは裕福じゃないんだ」
沼田の声は低く威圧的だった。
「お前をここに置くのは慈善事業じゃない。お前が持ってきたのはバッグ一つだそうだな。本来ならそれも施設への寄付として没収すべきなんだがな」
アカリが持ってきたカバンは本革の小さなショルダーバッグで、中には小さなアンティーク風のオルゴールが一つ入っている。アカリが11歳の誕生日に両親からプレゼントされたものだ。今のアカリにとって両親の形見と言えるものはこれしかなかった。
「お前はここで生活するんだったら、施設のやり方に従ってしっかり働くことだな。文句があるなら死んだ親に言え。……ああ、もういないんだったな。ハハ」
昨日見せた柔和な笑みはどこへ消えてしまったのか。沼田の卑下た笑いには悪意しか感じることができない。
「もどっていいぞ」と突き放すような言葉を後にしてアカリは園長室を出た。沼田は再びそろばんを弾き始めた。
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