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第1話:無音の廊下

 アカリの記憶の中にある「家」は、常に柔らかな光と、安らぐ香りに満ちていた。

 12月の金曜日。榊原アカリ、11歳の誕生日だ。夕食のテーブルにはハンバーグが並び、香ばしく焦げたデミグラスソースの匂いが部屋中に広がっている。居間の隅に置かれたテレビからは歌番組が流れていた。

「アカリ、日曜日は遊園地へ行こう。新しい観覧車が完成したそうだよ」

 父が新聞の折り込みチラシを広げた。アカリはその紙面に顔を寄せ、色褪せた写真の中の華やかな光景を瞳に映した。

 日曜日の遊園地は、雲一つない冬晴れだった。三人は巨大な観覧車のある場所へと向かった。

「おお、思っていた以上に大きいな!」

 父が少年のように喜んでいる。自分が一番観覧車に乗りたかったようだ。まだお客さんの数はそれほど多くない。三人は行列に並びほどなくしてゴンドラに乗ることができた。真っ赤に塗られたゴンドラが、ゆっくりと地上を離れる。高度が上がるにつれ、地上の喧騒が遠のいていく。窓の外には冬の光を反射してキラキラと輝く町の風景が広がっていた。

「アカリ、11歳の誕生日おめでとう。これは、お父さんとお母さんから」

 頂上に近づいた時、父が、丁寧に包装された小さな箱を差し出した。アカリがリボンを解くと、中から本革の小さなショルダーバッグがあった。頬を染めるアカネに向かって、母が「空けてごらんなさい」と言う。するとバッグの中から木製のアンティーク風なオルゴールが現れた。オルゴールの蓋を開けると、繊細な金属の音色が、静かなゴンドラの中に響き渡る。亡き祖母がよく口ずさんでいた優しいメロディだった。

「綺麗……。ありがとう、お父さん、お母さん」

「アカリが大人になっても、ずっと大切にしてね」

 母がアカリの肩を抱き寄せ、その頬に自分の顔を寄せた。母の髪からは、いつも使っている石鹸の匂いがした。観覧車が頂上に達したとき、三人は手を取り合った。眼下に広がる街並みは箱庭のように美しく、このまま時間が止まればいいとアカリは願った。ゴンドラの中は、三人の幸せな笑い声で満たされ、まるで世界のどこよりも安全な聖域だった。

 その時だった。突如、足元から地響きが沸き起こった。不気味な低音が空気を震わせ、観覧車全体が大きく揺れだした。

「地震……?」

 父の言葉が終わる前に、ゴンドラが激しく揺れ始めた。振り子のように左右に振られ、鋼鉄の軋む音が鼓膜を刺す。ガクンという衝撃とともに、観覧車が止まった。アカリの体が窓側に押し付けられる。オルゴールが手から滑り落ち、床を転がった。

「お父さん、怖い!」

「大丈夫だ、アカリ。しっかり捕まっていろ!」

 父が叫ぶ。揺れはさらに激しさを増した。縦に、横に、執拗に箱が揺さぶられる。次の瞬間、ラッチが弾け飛び、閉まっていたはずの扉が勢いよく開いた。大きく傾いた床の上をアカリの体が滑り落ちる。

「アカリっ!」

 放り出されそうになったアカリの手を母が寸前で掴んだ。母は渾身の力でアカリを引き寄せるとそのまま座席の方へと投げ飛ばした。アカリの体はシートに叩きつけられた。しかし、その反動で母は開口部の床を踏み外し、空中に放り出されてしまった。

「お母さん!」

 間一髪、父が身を乗り出して母の手を掴んだ。母の体は完全にゴンドラの外側にぶら下がっている。父は顔を真っ赤にし、母の手を握りしめた。

「離すな! 今、引き上げる!」

 だが、次の瞬間ひときわ激しい横揺れがゴンドラを襲った。

 大きく跳ねた箱の中で、父の足が床を滑る。母の手をしっかりと握りしめたまま、父の体もまた、吸い込まれるように空へと放り出された。

「お父さん! お母さん!」

 アカリが叫ぶ。

「ああーっ! いやーっっっ!!!」

 窓の外を、二人の体が重なるようにして落ちていくのが見えた。その直後、下から鈍い音が響いた。遊園地内に流れる陽気なメロディをかき消すような、重く、残酷な音。

 揺れが止まった。扉が開いたままのゴンドラが、空中で静かに揺れている。地上の悲鳴も、機械の軋みも、すべてが遠のいた。時間が止まってしまったかのような、残酷なまでの静けさが辺りを支配していた。アカリは、座席にうずくまったまま動けなかった。肩には、先ほどもらったばかりのポーチがかかっている。気が付けば、先ほど落とした小さなオルゴールを強く握りしめていた。

 数日後、アカリは親戚たちが集まる通夜の席に座らされていた。葬儀の場となった親戚の家の座敷は、喉を焼くような濃い線香の匂いが淀んでいた。小学五年生のアカリは、冷え切った畳の上で石のように硬直して座っていた。襖一枚隔てた隣の部屋からは、親せきのおじさんおばさんたちの囁きが漏れてくる。

「あの土地を売れば葬儀代と借金の返済くらいはできるだろう」

「テレビも冷蔵庫もまだ新しい。あれはうちが引き取ろうかな」

「問題はあの子だよ。うちには来年中学受験を控えた息子がいる。私の狭い家で、これ以上の子どもは絶対に無理だ」

「押し付け合うのはよそう。人里離れた場所にすぐに受け入れ可能な枠があるそうだ。あそこなら誰も文句は言わまい」

 親戚たちが啜る酒の匂いと、自分を「厄介な荷物」として扱う大人たちの言葉。11歳のアカリにとって、昨日まで「親戚」と呼んでいた人々は、もうただの他人にしか見えなかった。

 数日後、アカリは親戚の女性が運転する車に乗せられていた。車内には煙草の臭いが充満している。

「……悪いようにはされないからね」

 運転席の女性は一度もバックミラー越しにアカリと目を合わせることなく、ただ前だけを見てそう言った。

 車窓から見える景色は都会の華やかさを離れ、やがて冬枯れの荒野や湿った土の匂いがする地へと変わっていく。轍に跳ねるタイヤの振動をぼんやりと感じていた。辿り着いた建物の門には、文字の半分が剥げ落ちた「あけぼの養育院」という看板が掲げられている。女性は車を止めると、事務員に書類を渡し、「あとはお願いします」とだけ言い残した。彼女はアカリを一度も振り返ることなく車に乗り込み、排気ガスの匂いを残して走り去った。

 施設の敷地はさほど広くなく、建物は古い二階建てで、ところどころペンキがはがれた外観が余計に古臭さを感じさせた。アカリは施設の職員に案内されるまま、きしむ廊下を歩いた。窓から差し込む冬の斜陽が長く伸び、廊下には湿ったモップの埃っぽい匂いが漂っている。建付けの悪い窓から隙間風が入り込んでいた。

 アカリは入ってきた玄関を一度も振り返ることなく、冷たく静まり返った無音の廊下へと足を踏み入れた。


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