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第9話:焦燥の炎

 ケンシンが「部屋をリフォームしましょうか」と提案したのには明確な狙いがあった。“カマ”を掛けたのだ。補助金や寄付金が正しく使われていれば、施設がここまで朽ち果てるはずがない。

(沼田が手にしたはずの金はどこへ消えたのか)

 裏がある。不正の証拠が園長室に隠されている可能性が高いと直感したケンシンは、「リフォーム」という言葉を持ち出した。その瞬間、沼田の顔から血の気が引くのをケンシンは見逃さなかった。図星を突かれた沼田の慌てぶりだ。沼田はその場を取り繕うようにそそくさと立ち去ると、猜疑心に支配された思考を暴走させた。沼田が最初に行ったのは、帳簿を別の所に隠すことだった。しかし、猜疑心に支配された彼の思考は、さらなる暴走を始める。そうだ、金庫そのものを“なかったこと”にすればいいのだ。

(この施設さえ燃えてなくなれば、すべては灰になる)

 この建物は火災保険にも入っている。証拠を消し去り、その金でより立派な施設を建て替えればいい。一度始まった邪悪な思考はもはや歯止めがきかなかった。火事で金庫が焼けてなくなるはずはないのだが、今の沼田にはそこまでの考えは及ばない。その沼田が特に出火元として目をつけたのは、新調されたばかりの厨房だった。ケンシンが主導して最高級の調理器具を揃え、当てつけのように磨き上げた場所。そこを火元にすれば、ガス漏れによる不測の事故として処理できる。何より、あの鼻持ちならないケンシンの「聖域」を焼き払えるという快感が沼田の背中を押した。沼田のやるべきことは決まった。そう思ってからの行動は早かった。

 真夜中、沼田は園長室にある金目の物をバッグに詰め込み終わると、闇に紛れて厨房に忍び込んだ。計画していた通り、揚げ物用の油を厨房全体にぶちまける。どうせ燃えてしまえばわかりゃしない。ガスコンロのバーナー周囲に残りの油を塗りつけると、コンロの栓をひねった。

『カチッ、カチッ』

 静寂に響く金属音。沼田は念を入れるようにもう一度、別の栓をひねった。

(よし……これでいい)

 火はコンロのバーナーを伝って周辺に勢いよく燃え移った。老朽化した木造建築だ。隙間風が火に酸素を送り、瞬く間に火の手が回る。その数分後、曙養育院は地獄と化した。炎は酸素を追い求めて厨房から廊下、そして園庭への窓を突き破って吹き抜けた。巨大な火柱が夜空へと舞う。轟々と建物が叫び声をあげているかのごとき響きとともに、周囲の空気が一気に熱を帯びる。

「ふはふはふは、あはははは! いいぞ、燃えろ、燃えろー!」

 沼田は炎が激しくなってきたころ合いを見計らって廊下に出、園長室のドアの前に置いていたバッグを持つと一目散に外へと駆け出した。

 異変に最初に気がついたのはアカリだった。焦げ臭い、と思っていたら、何やら廊下の方が明るい。木の爆ぜる音がして、どんどん大きくなる。火事? アカリは急いで起き上がった。そして、同室のみんなに声を掛ける。

「みんな! 起きて!」

 すでに火の手は廊下を埋め尽くしている。アカリの声で目を覚ました子達が「きゃー!」と叫ぶ。しかし、幸運なことに窓から園庭に出ることができる。

「みんな、落ち着いて。廊下はもうダメ。窓から外に出るのよ。ゆっくり、慌てないで。大丈夫だから」

 アカリが大声で、そして冷静にみんなを誘導する。同じタイミングで、男子部屋の方から剛太の叫び声が響く。

「火事だ! 逃げろ!」

 剛太の声は施設中に届いた。園は騒然となり、子供たちは寝間着のまま視界を塞ぐ黒煙の中を外へ飛び出した。火勢は沼田の想像を絶する速度で膨れ上がっていた。撒かれた油が猛烈な勢いで燃え広がり、乾いた木造の梁や壁を呑み込んでいく。吹き出す熱風は肌を焼き、立ち上る火の粉が園庭に降り注いだ。剛太が先頭に立って、パニックに陥った子供たちを誘導する。ケンシンもすぐさまやってきて、煙が充満する廊下へ引き返して、最後尾から逃げ遅れがいないかを確認して回る。アカリは上級生数名を引き連れて、まだ火が来ていない乳児院へと走った。院にいる赤ちゃんは5人。落ち着いて抱っこすれば十分救い出せるはずだ。乳児院棟にも煙が立ち込めていたが、火の手はまだ追ってこない。アカリ達は乳児院に着くと、ベビーベッドの中で弱々しく泣きじゃくっている生まれて数ヵ月の赤ん坊を抱きしめて、園庭に出た。

 園庭に出たアカリは曙養育院を振り返る。崩れ落ちる天井。炎の熱で激しい音を立てながら割れる窓ガラス。乳児院の赤ちゃんを抱えたアカリ達が立ち止まっていると、側にいたケンシンがアカリの肩に手を掛けた。

「赤ちゃん、無事だったようだな」

「うん」

 少しだけ安心したアカリの目からボロボロと涙がこぼれた。しかしまだ終わったわけではない。近くで低学年の子供たちの泣き声が聞こえる。みんなが集まっている場所へ行ったアカリは、抱いていた赤ん坊を上級生の女子に託し、小学低学年の子供たちに向かって叫ぶ。

 「みんな! 大丈夫だから。しっかり、みんなで手をつないで」

 アカリの手は震えていた。しかし足取りはしっかりとしている。小さな子供たちの手を引き、園庭の中央へ集めた。そして、お互いの体を密着させるようにしてその場に座らせた。轟々と唸りを上げる紅蓮の炎が、夜の闇を真昼のように赤く照らし出す。施設の半分が巨大な火の塊と化し、その熱に晒された窓ガラスが次々と悲鳴を上げて砕け散った。パチパチと激しく木材が爆ぜる音が響く中、園庭の隅に立ち尽くしている沼田の姿があった。外に逃げるのがあまりにも早すぎる。剛太が煤けた顔で駆け寄り、声をかけた。

「園長先生、大丈夫ですか。みんなは無事です」

 しかし沼田は、そっぽを向いたまま、虚ろな目で燃え盛る建物を見つめていた。

「……ああ。そうか」

 その口調は、まるで他人事のように冷淡だった。やがて、夜の闇を赤い警告灯が染め上げ、複数の消防車がけたたましいサイレンと共に滑り込んできた。放水が開始されるが、猛烈な火勢に水が触れた瞬間に蒸発し、白い水蒸気が立ち上る。最初こそ激しい炎に手こずっていたのだが、確実な消火活動により次第にその勢いは消えた。数時間後。まだ夜が明けていない暗い中で、駆けつけた警察官の指示のもと消化確認が行われた。火事の原因はまだはっきりとは分からない。火元は厨房との話声が聞こえる。黒焦げになった瓦礫を見つめるケンシンの瞳は意外にも冷静であった。自分が毎日点検していた厨房で、これほど激しい火が出るはずがない。そこへ、アカリが静かにケンシンの隣へ歩み寄った。

「……ケンシンさん。私、見たの。火が出て外に出ると、園長先生がもう上着を着て、靴を履いて玄関に立っていたの」

「分かった。ありがとう、アカリちゃん」

 ケンシンは、焼け落ちた園長室と厨房を隔てていた「不自然に厚い壁」の跡へ目を向けた。現場検証を行う警察官と消防隊員たちの隙を突き、瓦礫の中へ踏み込もうとしたが、すぐに声が飛んだ。

「おい、! まだ熱いし危ない、入っちゃいかん!」

 消防隊員に肩を掴まれたケンシンは足を止めた。瓦礫の隙間、黒焦げた建材が不自然に重なり合っている。 ステンレス調理台が、崩落した「隠し空洞」の建材を押し潰すようにして重なっていた。ケンシンは掴まれた肩を振り払わず、静かに隊員の袖を引いた。

「あそこ……何か、不自然に壁が厚い場所がありました。その下に、園長先生が大切にしていた箱があったはずです。燃え残っているかもしれません」

 側にいた警官がケンシンの顔をじっと見た。ほう、という言葉を飲み込み、ケンシンに応える。

「箱……? よし、ちょっと待ってろ。おい、あそこのステンレス台の下を重点的に確認してくれ!」

 警官の指示で、太いバールを持った消防隊員たちが瓦礫を力強く退けていく。ガラガラと建材が崩れ、ステンレスの影から、熱で無惨に歪んだ手提げ金庫が姿を現した。 さらに、金庫の底に張り付くようにして、一束の紙の塊が露出した。

「……信じられねえ。この熱の中で、焼け残ってる」

 隊員が驚愕の声を上げる。調理台の下敷きになったことで炭化を免れた、インクのシミが鮮明に残る帳簿の「断片」だった。それは、沼田が葬ろうとした罪の、消しきれなかった燃え残りだった。 確認のために隊員がその断片をケンシンに渡す。ケンシンはそれを手に取ると、鎮火した曙療育院の前に立っている沼田に気がついた。



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