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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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99.「あの時も、今も、愛している」――鎌倉の潮騒に包まれて。作家・水原伊織の再起と、絵里奈が選んだ“二人で生きる”という光。

退院の日。

病院の玄関前には、冬の光が淡く差し込んでいた。

絵里奈が押す車椅子に座りながら、伊織はゆっくりと外の空気を吸い込んだ。


胸の奥に、まだ鈍い痛みが残っている。足は、もう以前のようには動かない。


「寒いな」

「うん。でも、外に出られたね」


絵里奈の声は明るい。

けれど、その手は少しだけ震えていた。


伊織は気づかないふりをした。

車椅子のフットレストに置かれた足は、まだ感覚が薄い。

医師からは回復の見込みはあるが、長期戦になる、と告げられている。


「歩けるようになるかどうかは、まだわからない」


その言葉は、伊織の胸に重く沈んでいた。


だが。


出版社から届いた分厚い封筒を思い出す。

『風の残響(上)』がベストセラーになり、続刊を待つ声が全国から届いている。


「書かないとな」


ぽつりと呟くと、絵里奈が車椅子の後ろで微笑んだ。


「うん。あなたのペースでね」


伊織は空を見上げた。

冬の光は弱いけれど、確かにそこにある。


「歩けなくても、書ける。書けるなら、まだ、俺は作家でいられる」


その言葉は、誰に向けたものでもなく、自分自身に刻みつけるような静かな決意だった。

絵里奈はそっと彼の肩に手を置いた。


「大丈夫。あなたなら」


伊織は小さく笑った。

その笑顔は、確かに未来を見ていた。


----


絵里奈は車椅子のブレーキをかけ、伊織の横にしゃがみ込んだ。


「じゃあ、ゆっくりね」


声は落ち着いているのに、指先はそっと震えていた。

伊織は頷き、腕を絵里奈の肩に回す。

体を持ち上げると、まだ右足に力が入らず、わずかにバランスを崩す。


「ごめん」

「いいの。慣れていくよ、二人で」


支える腕に力を込め、絵里奈は伊織を助手席の前へ導いた。

改造されたシートが、ボタンひとつでゆっくりと外側へ回転する。

電動モーターの低い唸りが、静かな駐車場に溶けていく。

伊織はシートに腰を下ろし、深く息をついた。

シートが再び車内へ戻りながら、ゆっくりと上昇していく。

その動きに合わせて、伊織は苦笑した。


「……まだ慣れないな、これ」

「慣れなくていいよ。今は、乗れれば十分」


絵里奈はそう言って、身をかがめた。

シートベルトを手に取り、伊織の胸元へそっと回す。

金具がカチリと音を立ててはまる。

その距離の近さに、伊織は少しだけ目を伏せた。

絵里奈の髪が頬に触れ、微かな香りが車内に広がる。

ドアを閉めると、マイバッハ特有の静寂が二人を包み込んだ。

エンジンをかける前の車内には、ただ二人の呼吸だけが、穏やかに重なっていた。

絵里奈はハンドルに手を置き、横目で伊織を見た。


「行こうか」

「うん。頼む」


その短いやり取りに、これから始まる新しい生活のリズムが、確かに刻まれていた。

今日は、これから鎌倉まで走る。

長距離を走るのは、久しぶりだったが、急ぐ必要などないのだ。

絵里奈は、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。


----


数日前のことだった。

伊織が病院でリハビリに励んでいるその頃、絵里奈はひとり、本社へ向かっていた。


退職届を提出するためだ。


駅前でタクシーを拾い、ビルの前に着くと、深く息を吸って車を降りた。

自動ドアを抜けると、受付のスタッフが驚いたように目を見開いたが、絵里奈は軽く会釈するだけで、足を止めなかった。


エレベーターに乗り込む。

上昇する数字を見つめながら、胸の奥で小さく脈打つ緊張を押し込める。


迷わない。

これが、私の選んだ道。


扉が開くと、静かなフロアに冷たい空気が流れ込んだ。

人事部の奥、専務室の扉が見える。

絵里奈はノックもためらわず、まっすぐその扉へ向かった。

扉の前で一度だけ息を整え、ノックをする。


「どうぞ」


低く落ち着いた声が返ってきた。

絵里奈はドアノブを握り、ゆっくりと扉を開けた。

そこには、松葉杖を脇に立てかけ、書類に目を通していた片桐がいた。

顔を上げた片桐は、絵里奈の表情を見た瞬間、わずかに眉を寄せた。


「水原GM…なぜ、ここに?」


その問いかけに、絵里奈は静かに封筒を差し出した。


「お話があります。少し、お時間いただけますか」


空気が、わずかに張りつめた。


絵里奈は、片桐の前まで歩み寄った。

封筒を胸の前で両手に持ち、深く頭を下げる。


「片桐専務。これを」


封筒を差し出すと、片桐は視線だけでそれを追い、ゆっくりと手を伸ばした。

だが、受け取る直前で動きを止める。


「辞表か」


その声は淡々としているのに、どこか底に沈んだ重さがあった。

絵里奈は、まっすぐに片桐を見た。


「伊織のリハビリを支えることに決めました。これからの生活を、二人で作っていきたいと思っています」


片桐は封筒を手に取り、しばらく黙ったまま見つめた。


「…分かった」


----


絵里奈が去った後、片桐は人事部長の優子を呼んだ。


「絵里奈…来てたんですか?」

「ああ…これを持ってきた」


辞表を差し出した。


「…絵里奈が、これを」

「伊織さんを支えたいと」

「…そう、なんですね」

「私としては、北関東エリアの立ち上げ含め、これまでの功績もある。受理はできない」

「しかし、絵里奈はもう戻らないつもりでは?」

「…休業扱いにしておいてくれないか?」

「…分かりました。いったんそうしておきます」

「すまない」


優子はそのまま立ち去って行った。


窓の外から、絵里奈がタクシーに乗る姿が見えた。

凛とした、昔と変わらぬ佇まいだった。


----


鎌倉の海沿いの道を抜けると、潮の香りを含んだ風が、車の窓越しにそっと入り込んできた。

絵里奈がマイバッハをゆっくりと停める。


目の前には、古い瓦屋根と白い壁を持つ小さな別荘が佇んでいた。

数週間前、絵里奈と伊織が相談して購入したばかりの家だ。

鎌倉の海から少し離れた静かな高台にあり、観光客の喧騒も届かない。

潮の香りと、木々のざわめきだけがゆっくりと流れている。


「…着いたよ」


絵里奈がエンジンを切ると、車内の静寂が、外の波音と溶け合った。

助手席のシートが電動で回転し、伊織の体をゆっくりと外へ向ける。

絵里奈は車椅子をセットし、そっと彼の体を支えた。


「よいしょ、大丈夫?」

「うん。慣れてきたよ」


伊織は苦笑しながら車椅子に移り、深く息を吸い込んだ。

潮の匂い。

遠くで響く波の音。

木々のざわめき。


「……静かだな」

「うん。ここなら、ゆっくりできるよ」


別荘の玄関は、少し古い木の香りがした。

鍵を開けると、柔らかな光が差し込むリビングが広がる。

大きな窓からは、海が一望できた。

伊織は車椅子のまま窓辺に近づき、しばらく海を見つめていた。


「ここで……書けるかな」

「書けるよ。あなたなら」


絵里奈は微笑み、そっと伊織の肩に手を置いた。


「ここから、また始めよう。二人で」


伊織はゆっくりと頷いた。その瞳には、まだ痛みも不安も残っている。

けれど、海の光を映したその目は、確かに前を向いていた。

外では、波が静かに寄せては返していた。

まるで二人の新しい生活を祝福するように。


----


鎌倉の夜は、海の音が静かに家の中まで届いていた。

窓を少し開けると、潮の香りがふわりと流れ込む。

伊織はベッドに横になり、絵里奈はその隣に腰を下ろした。


「大丈夫そう?」

「ああ、でもまさか俺が車いす生活になるなんてな、まあ、すぐに治すけどな」


その言葉に、絵里奈はそっと伊織の手を包んだ。


「ねえ」


絵里奈は静かに言った。


「あなたが生きていてくれることが、私には一番大事なんだよ」


伊織は目を閉じ、深く息を吸った。


「いや、必ずまた歩いてみせる」


その指先が、絵里奈の手をゆっくりと握り返す。

二人の間に、言葉よりも確かな温度が流れた。

絵里奈はそっと身を寄せ、伊織の肩に頭を預けた。


「絵里奈…ごめんな」

「…ううん」

「…夢を見たんだ」

「夢?」


互いの呼吸が重なり、海の音が遠くで寄せては返す。

灯りを落とすと、部屋は柔らかな闇に包まれた。


「…若い頃の、絵里奈と過ごした日々」

「…ああ…あの頃ね…」

「…俺は、ひどい男だった」


絵里奈は、ほのかな光の中で、微笑んでいる。

伊織も、絵里奈も、生まれたままの姿だった。


「でも、これだけははっきり言える」

「…何?」

「あの時も、今も、変わらず愛している」

「…ふふ、知ってるよ」


それから、二人はただ静かに寄り添い、互いの存在を確かめ合うように、指を絡め、額を寄せ、長い時間をかけて心を重ねていった。

夜は深まり、海の音だけが、二人の静かな結びつきを見守っていた。


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