98.「彼は、守るべき人を守って倒れました」――片桐常務が語った真実。作家・水原伊織の声明と、世界を揺らした『風の墓標』の復活。
今日は、グローバルリンクジャパン株式会社が記者会見を開く日だった。
その様子は全国ネットで生中継されている。
病室のテレビの前で、伊織と絵里奈は並んでその映像を見つめていた。
ベッドの上にいる伊織が見えるように、絵里奈がベッドの高さを調整していた。
「始まるね」
絵里奈がそう言うと、伊織が頷いた。
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木崎が壇上に姿を現した。
黒いスーツに身を包み、いつもよりわずかに硬い表情をしている。
その隣には、包帯を巻き、松葉杖をついた片桐がゆっくりと歩み出てきた。
会場がざわめく。フラッシュが一斉に焚かれ、記者たちの視線が二人に集中する。
「片桐さん、出てきた」
絵里奈が息を呑むように呟く。
伊織は目を細め、画面の中の片桐の姿を追った。
あの夜の傷が、まだ生々しく残っている。
木崎はマイクの前に立ち、深く一礼した。
「本日は、お忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます」
低く落ち着いた声が、会場のざわめきを静めていく。
病室の空気も、自然と張りつめた。
絵里奈は無意識に伊織の手を握りしめる。
伊織はその手を軽く握り返し、画面から目を離さなかった。
木崎は続けた。
「このたび、私はグローバルリンクジャパン株式会社の新社長に就任いたしました」
「まず初めに、今回の一連の事件で負傷した水原伊織さん、片桐の回復を皆さまと共に願いたいと思います」
片桐がわずかに頭を下げる。
その姿に、伊織の胸の奥がじんと熱くなる。
「ちゃんと立ってるな」
伊織が小さく呟くと、絵里奈は横顔を見つめ、そっと微笑んだ。
「まず、今回の一連の件につきまして、改めて皆様に多大なご迷惑をおかけしたことを、心よりお詫び申し上げます」
木崎が深々と頭を下げる。
その隣で、片桐も松葉杖を支えにしながら、ゆっくりと頭を下げた。
「本来であれば、社長である私からすべてお話しすべきところですが……」
木崎は一度言葉を切り、片桐の方へ視線を向ける。
「この片桐が、どうしても自分の口でお伝えしたいことがあると言いました。ですので、ここからは彼に話をしてもらいます」
片桐が一歩、前に出た。
松葉杖の先が床を軽く叩き、その乾いた音がマイクに拾われる。
会場のざわめきが、すっと引いた。
記者たちの視線が一斉に片桐へ向かい、空気がわずかに重くなる。
片桐はマイクの前に立つと、わずかに姿勢を正した。
その動きに余計な力みはなく、ただ職務としての報告を行う者の静けさがあった。
「……片桐です」
低く掠れた声が、静まり返った会場に落ちた。
記者たちが一斉にペンを構え、空気がわずかに張りつめる。
「まず、私が負傷した件についてですが」
片桐は一度だけ息を整え、淡々と続けた。
「加害者は、弊社の元社員である新田浩介で間違いありません」
会場がざわりと揺れた。
フラッシュが数回、鋭く光る。
「新田は、社内で度重なる問題行動を起こし、すでに懲戒解雇となっておりました」
その言葉は淡々としているのに、どこか冷たい重みを帯びていた。
「私個人に対する因縁は無いと思っておりましたが、私は新田の素行不良調査時に彼を殴ったことがあります」
さらに会場がざわめく。
「その意趣返しと私は判断しております」
今となっては、新田はこの世にいないため、真実は分からない。
だが、片桐の言葉は嘘偽りがないのは、伝わるだろう。
「そして、新田は、おそらく私が、弊社社員である…水原さんを駅まで送っている姿を見ていたのでしょう」
駅まで送っていたのは、田崎の件があったからだ。
「そして、彼女を追いかけ、今回の犯行に及んだと聞いております」
会場は、静まり返っていた。
真実を語る片桐の言葉を待っている。
「私と同じように、負傷された作家である水原伊織さんは、意識不明の重体にまで追い込まれました」
間を置く。まるで、伊織を見るかのように、正面を向いた。
そして、その声は、ほんのわずかに震えた。
「彼は、守るべき人を守ろうとして、倒れました」
会場が息を呑む。
記者たちの手が止まり、空気が重く沈む。
「私が、もっと早く気づいていれば……」
片桐はそこで言葉を飲み込み、わずかに唇を噛んだ。
淡々とした語りの中で、初めて感情が滲む。
「彼が、あのような状態になることは、なかったのかもしれません」
病室のテレビの前で、伊織と絵里奈は黙って画面を見つめていた。
絵里奈は思わず口元を押さえ、伊織はまばたきも忘れたように片桐を見ていた。
片桐は深く息を吸い、再び淡々とした声に戻す。
「以上が、私からお伝えできる事実です」
だが、その一瞬の揺らぎは、会場の誰にも、そして病室の二人にも、確かに届いていた。
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直後に、伊織もウェブサイトでコメントを残した。
水原です。大変お騒がせしておりますが、意識は回復しております。
まだ長く話せる状態ではありませんが、命に別状はありません。
まずは、関係者の皆さまにご心配をおかけしたことをお詫び申し上げます。
今回の件について、さまざまな憶測が飛び交っているようですが、私自身が語れることは多くありません。
ただ、私を助けてくれた方々がいたからこそ、今こうして言葉を残せています。
そのことだけは、どうか知っていただければと思います。
治療に専念し、回復次第、改めてご挨拶させていただきます。
どうか過度な詮索や、関係者への誤解が広がらないよう願っております。
引き続き、よろしくお願いいたします。
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伊織のコメントが公開されてから、わずか数時間。
出版社の公式サイト、SNS、ファンコミュニティ――あらゆる場所に、激励の言葉が溢れた。
「戻ってきてくれてありがとう」
「あなたの物語に救われた人間がここにいます」
「待ってる。どれだけ時間がかかっても」
「命を賭けて、愛する人を守る姿に感動しました」
「こんな旦那さんがいる奥さんがうらやましい」
絵里奈は、スマホの画面を見ながら、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
けれど、彼の言葉は、確かに世界に届いていた。
出版社の編集長からも連絡が入った。
「水原先生の連載中の作品ですが、読者から“続きが読みたい”という声が殺到しています」
「先生のご負担にならない形で、まずは既存の連載分を上巻としてまとめたいと考えています」
絵里奈は、眠る伊織の横顔を見つめながら、小さく頷いた。
「きっと、喜ぶと思います」
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数週間後。
書店の平台には、黒地に銀の文字でタイトルが刻まれた分厚い単行本が並んだ。
『風の墓標(上) 水原伊織』
帯には、編集部の短いメッセージが添えられている。
――この物語は、まだ終わらない。
発売初日からSNSでは感想が飛び交い、書店では品切れが続出した。
「作者の復活を願って買った」という声も多く、作品そのものの力と、伊織の生還を願う読者の想いが重なり、上巻は瞬く間にベストセラーランキングの上位へと駆け上がった。
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病室のテレビでも、そのニュースが流れた。
「すごいな」
伊織は、まだ少し弱い声で呟いた。
絵里奈は微笑む。
「あなたの物語が、ちゃんと世界に届いてるんだよ」
伊織はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。
その表情には、痛みと同じくらい、確かな希望が宿っていた。
「続きを書かないとな」
「うん。ゆっくりでいいから」
絵里奈はそっと彼の手を握る。
その手は、前より少しだけ力強く握り返してきた。




