97.「生きてるんだな……俺」――伊織の帰還と三枝社長の辞任。木崎&片桐に託された、崩壊寸前の組織を再生させるための“覚悟”。
絵里奈が伊織の手を包んだまま、静かに呼吸を整えている。
ふいに、指先がわずかに動いた。
ただ、眠りの底から浮かび上がろうとするような、微かな動き。
絵里奈は顔を上げ、そっと囁いた。
「伊織?」
返事はない。
けれど、まぶたの下で瞳がゆっくりと揺れた。
やがて、まぶたが重たげに開く。
今度は、焦点がゆっくりと絵里奈に合っていく。
「えり…な…?」
その声は、さっきよりも少しだけ確かだった。
絵里奈は微笑んだ。
涙の跡がまだ頬に残っているのに、表情はどこか晴れやかだった。
「おはよう。伊織、朝だよ」
伊織は瞬きをし、天井を見上げ、そしてまた絵里奈に視線を戻す。
その瞳には、まだ弱さが残っている。
けれど、確かに生が宿っていた。
「生きて…るんだな……俺」
「うん。生きてるよ。ちゃんと、ここにいる」
絵里奈はそっと彼の手を握り直す。
伊織はゆっくりと息を吸い、吐き、そしてかすかに笑った。
「…よかった…」
その言葉は、絵里奈に向けたものなのか、自分自身に向けたものなのか、
あるいは、もう一度世界に戻ってこられたことへの安堵なのか。
判別できないほど静かで、深かった。
絵里奈は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「無理に話さなくていいからね。先生にもすぐ伝える」
「……ああ……」
伊織は目を閉じ、絵里奈の手を弱々しく握り返した。
その握力はまだ頼りない。
けれど、確かに生きようとする力がそこにあった。
絵里奈はそっと彼の額に触れ、微笑む。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
病室の窓から差し込む朝の光が、二人を包み込む。
その光は、夜の恐怖を洗い流すように柔らかかった。
絵里奈は、静かに思った。
ここからまた、始めればいい。
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伊織が再び眠りについたころ、病室の外、いや、病院の外の世界は、まったく別の温度で動き始めていた。
最初のニュースは、ほんの短い速報だった。
「人気作家・水原伊織氏、何者かに刺され重体」
その一文が、火種になった。午前中のワイドショーが取り上げ、ネットニュースが次々と記事を更新し、SNSでは瞬く間にトレンド入りした。
さらに、ニュースサイトの見出しはどんどん過激になっていく。
「水原伊織氏、襲撃の瞬間を目撃した人物が語る“恐怖の夜”」
「犯人は身近な人物か? 関係者の証言を独自入手」
「水原氏の私生活に“闇”か 元妻との関係を探る」
絵里奈は思わず顔をしかめた。
――元妻。
――関係者。
――闇。
どれも根拠のない憶測ばかりだった。
けれど、センセーショナルな言葉は、真実よりも速く広がる。
だけど、今は目の前の伊織のことだけを見ていたかった。
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スマホが震えた。
画面には「優子」の名前。
絵里奈は慌てて通話ボタンを押した。
「絵里奈、大丈夫? 会社、もうめちゃくちゃよ」
優子の声は、焦りと怒りが混ざっていた。
「そんなに?」
「社内チャットも炎上してる。人事は何してたんだとか、新田を放置したのは誰だとか、…もうカオス」
絵里奈は目を閉じた。
「ごめん、優子。私のせいで……」
「違う。あなたのせいじゃない。でも、あなたはしばらく会社に戻らなくていい。戻ったら、もっと大変なことになる」
優子の声は、必死に絵里奈を守ろうとしていた。
「わかった」
通話を切ると、絵里奈は深く息を吐いた。
病室の外では、誰かが勝手に語り、勝手に憶測し、勝手に物語を作っている。
けれど、この病室の中には、ただ静かに眠る伊織がいるだけだった。
絵里奈は彼の手をそっと握り、小さく呟いた。
「……大丈夫。私が守るから」
その声は、外の喧騒には届かない。
けれど、絵里奈自身の心を支えるには十分だった。
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「あかん…もう、あかん…めちゃくちゃや…」
社長室にいるのは、三枝と木崎だけだった。
「木崎…」
「なんすか、社長。炎上止める、いいアイデアありますか?」
「…記者会見を開く。そして、真実を語るしかあるまい」
「…んなことしたら、会社つぶれまっせ…」
「私が辞任する」
「…なんですって?」
「後任はお前だ、木崎」
「…無理っすわ、社長。社長だけ逃げようったって、そうはいきまへん」
「すべての責任は私にある。私の首ひとつではたりないだろうが、少なくとも時間は稼げる」
「本気ですか?」
「ああ。片桐とお前、二人でなんとか立て直してくれ」
三枝は立ち上がり、受話器を取って、指示を出しはじめた。
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会見場に選ばれたのは、会社の大会議室だった。
普段は社員総会や来客対応に使われる、落ち着いた空間。
だが今日は、まるで別の場所のようにざわついていた。
長机の前には、テレビ局のカメラがずらりと並び、記者たちがマイクを握りしめて席を埋め尽くしている。
ざわめきが止まらない。
木崎は、会場の隅で腕を組んでいた。
顔色は悪い。
寝ていないのが一目でわかる。
「社長、ほんまにやるんですね」
「やる。もう逃げられん」
三枝は、ネクタイを締め直し、深く息を吸った。
その表情には、覚悟と諦めが同居していた。
スタッフが小声で告げる。
「準備、整いました」
三枝は頷き、ゆっくりと壇上へ向かった。
社長は記者会見の場で、まず新田が在籍していた頃の素行不良について語った。
片桐を襲った件も新田によるものであり、さらに元妻であった絵里奈への逆恨みが今回の犯行につながったこと――
会社が把握している限りの事実を、隠すことなく明らかにした。
続けて、田崎による最初の犯行、そして新田による二度の犯行。
三度にわたって社員が関与する事件を防げなかったのは、管理体制の不備、そして企業風土そのものに問題があったと認めた。
「これらすべての責任は、最終的には私にあります」
そう述べた社長は、深く頭を下げ、
自ら引責辞任することを正式に表明した。
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数日後。
片桐は、病室のベッドの上で、木崎から今回の件の顛末を聞いた。
「そうか…社長が…」
顔の一部や、肩に巻かれている包帯が痛々しい。
「後は、ワシら二人に丸投げや。何人かの部長連中の辞表も預かっとる」
「…木崎」
「…なんや」
「…腹くくるぞ。昔のように、死ぬ気で立て直す」
「はあ、もう若くないんやで…」
「なんとかするしかない」
「はあ…しんど…」
木崎は、病室の窓から、外を見る。
「こんな形で、社長になるとはのう…」
片桐は、包帯の隙間から、笑顔をのぞかせる。
「ケガが治るまで、頼むぞ」
「…マジで、きついわ…」
やれやれ、と手を拡げた後、木崎は病室を出ていった。
その数日後の緊急株主総会で、社長に木崎が正式に任命された。




