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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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96/107

96.「……えり、な……」――死の淵からの帰還。元妻・晴子が絵里奈に託した「私には生かせなかった彼」の命。

病室の空気が、ふいに変わった。

さっきまで規則的だった機械の音が、どこか不安定に揺れ始める。


「……え?」


絵里奈は、伊織の顔を覗き込んだ。

さっきまで穏やかだった表情が、苦し気に歪んでいる。

胸の奥が、冷たい手で掴まれたように縮んだ。


「伊織……?」


呼びかけても、返事はない。

まぶたは閉じたまま、呼吸が浅く、弱い。

ナースコールを押す手が震えた。


「すぐに医師を呼びます!」


看護師が駆け込み、病室の空気が一気に慌ただしくなる。

絵里奈は、ただ伊織の手を握ることしかできなかった。


「……いやだ……」


声が震えた。


「いやだよ……伊織……」


機械の音が、さらに不規則になる。

医師たちの短い指示が飛び交う。

誰も絵里奈の方を見ない。

それが、逆に恐怖を煽った。

胸の奥が、張り裂けそうだった。



全てが消えようとしていた。



絵里奈は、伊織の手を両手で包み込み、額をそっと触れさせた。


「……死なないで……」


「……死なないで……伊織……私を置いていかないで……お願い……」


涙が、ぽたりと伊織の手の甲に落ちる。


その瞬間だった。

伊織の指が、かすかに動いた。


ほんのわずか。

けれど、確かに。


「……え……?」


絵里奈は、息を呑んだ。

伊織の眉が、ゆっくりと寄る。

まぶたが、震えるように揺れる。

医師が驚いた声を上げた。


「反応があります!」


絵里奈は、震える声で呼びかけた。


「…伊織…?」


まぶたが、ゆっくりと開いた。

焦点の合わない瞳が、それでも絵里奈を探すように揺れている。


「……えり……な……?」


そのかすれた声が、絵里奈の胸の奥を一瞬で溶かした。


「伊織、ここにいるよ…ずっと……ここにいるから……」


その言葉と同時に、伊織の手が、弱々しく握り返してきた。

絵里奈は、堪えきれず泣き崩れた。


「よかった……本当に……よかった……」

涙が止まらない。

呼吸が乱れる。

声が震える。


でも、そのすべてが、生きている証だった。


伊織は、戻ってきた。

絵里奈の声に、絵里奈の涙に、絵里奈の「死なないで」によって。


----


容体が安定した状態で、伊織は再び眠りについたようだ。

明け方だった。

絵里奈も、安堵からか、伊織のベッドのそばで少しだけ、うとうとし始める。


少しだけ、悲しい夢を見た。

若い頃の伊織との思い出。辛かったことのほうが多かった。

はっと目を覚ます。

だけど、今は違う。

伊織の寝顔を見つめていた。

朝になっていた。


病室のドアが控えめにノックされた。

返事をする間もなく、白衣の医師がそっと入ってくる。

朝の光が差し込み、彼の肩越しに淡く広がった。


「おはようございます、水原さん」


声を潜めながらも、どこか柔らかい響きがあった。

絵里奈は慌てて姿勢を正す。


「先生……」


医師はモニターに目を走らせ、伊織の胸の上下を確認し、静かに頷いた。


「容体は安定しています。夜間も大きな変動はありませんでした。今は眠りに入っているだけです」


その言葉が落ちた瞬間、絵里奈の肩から力が抜けた。

胸の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりと溶けていく。


「……よかった」


小さく漏れた声は、涙と安堵が混ざったような震えを帯びていた。

医師は微笑み、少しだけ声を和らげる。


「大丈夫ですよ。ここまで来れば、あとは体力の回復を待つ段階です。あなたも少し休んでください。ずっと付き添っていたんでしょう」


絵里奈は伊織の寝顔に視線を戻す。

さっきまで夢の中で見ていた“若い頃の痛み”が、遠い影のように薄れていく。


「はい……ありがとうございます」


医師は軽く会釈し、静かにドアを閉めて出ていった。

病室には再び静けさが戻る。

ただ、さっきまでとは違う。

朝の光が、ほんの少しだけ温かく感じられた。


----


医師が去ってしばらくすると、廊下のほうから控えめな足音が近づいてきた。

病室の前で一度立ち止まり、ためらうような沈黙が落ちる。

ノックの音。

絵里奈は顔を上げた。

ドアがゆっくり開き、仁が姿を見せる。


「おはようございます」

「おはよう、仁君」


その後ろに、少し緊張した面持ちの晴子が立っていた。


「……おはようございます」


絵里奈は立ち上がり、軽く会釈する。


「おはようございます。水原絵里奈と申します」


晴子は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、すぐに柔らかく微笑んだ。


「成田晴子です。…初めまして」


二人の間に、短い沈黙が落ちる。

互いに相手の立場を理解しようとする、慎重で礼儀正しい沈黙だった。

仁は伊織の寝顔に目を向け、ほっと息をつく。


「容体、安定してるって聞いた。……よかった」


絵里奈は小さく頷く。


「うん、さっき先生もそう言ってたわ」


晴子もベッドに近づき、そっと視線を落とす。

その表情には、過去の複雑さを抱えながらも、心からの安堵が滲んでいた。


「本当に、よかった」


その声は、絵里奈に向けたものでもあり、伊織に向けたものでもあり、そして自分自身に言い聞かせるようでもあった。

病室の空気が、少しだけ温かくなる。

初対面のぎこちなさは残っている。

けれど、三人の間には伊織が無事だったという一点だけが、静かに共有されていた。


「水原さん、仁にいろいろ聞かせていただきました」


伊織の寝顔に視線を落としたまま、晴子が静かに口を開いた。


「……私には、彼を生かすことができませんでした」


絵里奈は息をのむ。


「……成田さん」


晴子はゆっくりと絵里奈のほうへ向き直り、深々と頭を下げた。


「……伊織を、よろしくお願いします」


その真摯な姿に、絵里奈も自然と背筋を伸ばし、晴子が顔を上げたのを見てから、丁寧に一礼を返した。


「私は、これで……仁、行くよ」

「え、もう?」

「あなたは後で来ればいいでしょう。あなたの父親なんだから」

「そうだけど……まあ、いいか」


晴子は踵を返し、病室の出口へ向かう。

仁も慌てて後を追う。


「じゃあ、またね」

「うん、仁君……あと、成田さんも」


晴子は振り返り、控えめに会釈した。

そのまま二人は病室を後にした。


晴子と仁が去ったあと、病室には再び静けさが戻った。

けれど、さっきまでとは違う種類の静けさだった。

絵里奈は椅子に腰を下ろし、そっと息を吐く。

胸の奥に、言葉にしづらい重さが残っていた。

晴子の深いお辞儀。

あの一瞬に込められた、長い年月の痛みと、諦めと、祈りのようなもの。


「……私には、彼を生かすことができませんでした」


その言葉が、まだ耳の奥に残っている。

責める響きではなかった。

むしろ、静かな告白のようで、絵里奈の胸を締めつけた。


――私が、今ここにいるのは。

――私が、彼のそばにいるのは。

――本当に、それでよかったのだろうか。


そんな問いが、ふっと心をかすめる。

伊織の寝顔を見る。

穏やかで、弱々しくて、でも確かに生きている。

絵里奈はそっと彼の手に触れた。

その温もりが、迷いを少しだけ溶かしていく。

晴子の気持ちを否定することはできない。

彼女が背負ってきたものを、軽く扱うこともできない。

それでも――。


「私は、あなたのそばにいたい」


声にならない声が、胸の奥で静かに形を成した。

晴子の痛みも、仁の戸惑いも、全部抱えたうえで。

それでも自分はここにいる。

伊織のそばにいることを選んだのだと、ようやく自分に言い聞かせるように。


朝の光が、少しだけ柔らかく感じられた。


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