96.「……えり、な……」――死の淵からの帰還。元妻・晴子が絵里奈に託した「私には生かせなかった彼」の命。
病室の空気が、ふいに変わった。
さっきまで規則的だった機械の音が、どこか不安定に揺れ始める。
「……え?」
絵里奈は、伊織の顔を覗き込んだ。
さっきまで穏やかだった表情が、苦し気に歪んでいる。
胸の奥が、冷たい手で掴まれたように縮んだ。
「伊織……?」
呼びかけても、返事はない。
まぶたは閉じたまま、呼吸が浅く、弱い。
ナースコールを押す手が震えた。
「すぐに医師を呼びます!」
看護師が駆け込み、病室の空気が一気に慌ただしくなる。
絵里奈は、ただ伊織の手を握ることしかできなかった。
「……いやだ……」
声が震えた。
「いやだよ……伊織……」
機械の音が、さらに不規則になる。
医師たちの短い指示が飛び交う。
誰も絵里奈の方を見ない。
それが、逆に恐怖を煽った。
胸の奥が、張り裂けそうだった。
全てが消えようとしていた。
絵里奈は、伊織の手を両手で包み込み、額をそっと触れさせた。
「……死なないで……」
「……死なないで……伊織……私を置いていかないで……お願い……」
涙が、ぽたりと伊織の手の甲に落ちる。
その瞬間だった。
伊織の指が、かすかに動いた。
ほんのわずか。
けれど、確かに。
「……え……?」
絵里奈は、息を呑んだ。
伊織の眉が、ゆっくりと寄る。
まぶたが、震えるように揺れる。
医師が驚いた声を上げた。
「反応があります!」
絵里奈は、震える声で呼びかけた。
「…伊織…?」
まぶたが、ゆっくりと開いた。
焦点の合わない瞳が、それでも絵里奈を探すように揺れている。
「……えり……な……?」
そのかすれた声が、絵里奈の胸の奥を一瞬で溶かした。
「伊織、ここにいるよ…ずっと……ここにいるから……」
その言葉と同時に、伊織の手が、弱々しく握り返してきた。
絵里奈は、堪えきれず泣き崩れた。
「よかった……本当に……よかった……」
涙が止まらない。
呼吸が乱れる。
声が震える。
でも、そのすべてが、生きている証だった。
伊織は、戻ってきた。
絵里奈の声に、絵里奈の涙に、絵里奈の「死なないで」によって。
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容体が安定した状態で、伊織は再び眠りについたようだ。
明け方だった。
絵里奈も、安堵からか、伊織のベッドのそばで少しだけ、うとうとし始める。
少しだけ、悲しい夢を見た。
若い頃の伊織との思い出。辛かったことのほうが多かった。
はっと目を覚ます。
だけど、今は違う。
伊織の寝顔を見つめていた。
朝になっていた。
病室のドアが控えめにノックされた。
返事をする間もなく、白衣の医師がそっと入ってくる。
朝の光が差し込み、彼の肩越しに淡く広がった。
「おはようございます、水原さん」
声を潜めながらも、どこか柔らかい響きがあった。
絵里奈は慌てて姿勢を正す。
「先生……」
医師はモニターに目を走らせ、伊織の胸の上下を確認し、静かに頷いた。
「容体は安定しています。夜間も大きな変動はありませんでした。今は眠りに入っているだけです」
その言葉が落ちた瞬間、絵里奈の肩から力が抜けた。
胸の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりと溶けていく。
「……よかった」
小さく漏れた声は、涙と安堵が混ざったような震えを帯びていた。
医師は微笑み、少しだけ声を和らげる。
「大丈夫ですよ。ここまで来れば、あとは体力の回復を待つ段階です。あなたも少し休んでください。ずっと付き添っていたんでしょう」
絵里奈は伊織の寝顔に視線を戻す。
さっきまで夢の中で見ていた“若い頃の痛み”が、遠い影のように薄れていく。
「はい……ありがとうございます」
医師は軽く会釈し、静かにドアを閉めて出ていった。
病室には再び静けさが戻る。
ただ、さっきまでとは違う。
朝の光が、ほんの少しだけ温かく感じられた。
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医師が去ってしばらくすると、廊下のほうから控えめな足音が近づいてきた。
病室の前で一度立ち止まり、ためらうような沈黙が落ちる。
ノックの音。
絵里奈は顔を上げた。
ドアがゆっくり開き、仁が姿を見せる。
「おはようございます」
「おはよう、仁君」
その後ろに、少し緊張した面持ちの晴子が立っていた。
「……おはようございます」
絵里奈は立ち上がり、軽く会釈する。
「おはようございます。水原絵里奈と申します」
晴子は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、すぐに柔らかく微笑んだ。
「成田晴子です。…初めまして」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
互いに相手の立場を理解しようとする、慎重で礼儀正しい沈黙だった。
仁は伊織の寝顔に目を向け、ほっと息をつく。
「容体、安定してるって聞いた。……よかった」
絵里奈は小さく頷く。
「うん、さっき先生もそう言ってたわ」
晴子もベッドに近づき、そっと視線を落とす。
その表情には、過去の複雑さを抱えながらも、心からの安堵が滲んでいた。
「本当に、よかった」
その声は、絵里奈に向けたものでもあり、伊織に向けたものでもあり、そして自分自身に言い聞かせるようでもあった。
病室の空気が、少しだけ温かくなる。
初対面のぎこちなさは残っている。
けれど、三人の間には伊織が無事だったという一点だけが、静かに共有されていた。
「水原さん、仁にいろいろ聞かせていただきました」
伊織の寝顔に視線を落としたまま、晴子が静かに口を開いた。
「……私には、彼を生かすことができませんでした」
絵里奈は息をのむ。
「……成田さん」
晴子はゆっくりと絵里奈のほうへ向き直り、深々と頭を下げた。
「……伊織を、よろしくお願いします」
その真摯な姿に、絵里奈も自然と背筋を伸ばし、晴子が顔を上げたのを見てから、丁寧に一礼を返した。
「私は、これで……仁、行くよ」
「え、もう?」
「あなたは後で来ればいいでしょう。あなたの父親なんだから」
「そうだけど……まあ、いいか」
晴子は踵を返し、病室の出口へ向かう。
仁も慌てて後を追う。
「じゃあ、またね」
「うん、仁君……あと、成田さんも」
晴子は振り返り、控えめに会釈した。
そのまま二人は病室を後にした。
晴子と仁が去ったあと、病室には再び静けさが戻った。
けれど、さっきまでとは違う種類の静けさだった。
絵里奈は椅子に腰を下ろし、そっと息を吐く。
胸の奥に、言葉にしづらい重さが残っていた。
晴子の深いお辞儀。
あの一瞬に込められた、長い年月の痛みと、諦めと、祈りのようなもの。
「……私には、彼を生かすことができませんでした」
その言葉が、まだ耳の奥に残っている。
責める響きではなかった。
むしろ、静かな告白のようで、絵里奈の胸を締めつけた。
――私が、今ここにいるのは。
――私が、彼のそばにいるのは。
――本当に、それでよかったのだろうか。
そんな問いが、ふっと心をかすめる。
伊織の寝顔を見る。
穏やかで、弱々しくて、でも確かに生きている。
絵里奈はそっと彼の手に触れた。
その温もりが、迷いを少しだけ溶かしていく。
晴子の気持ちを否定することはできない。
彼女が背負ってきたものを、軽く扱うこともできない。
それでも――。
「私は、あなたのそばにいたい」
声にならない声が、胸の奥で静かに形を成した。
晴子の痛みも、仁の戸惑いも、全部抱えたうえで。
それでも自分はここにいる。
伊織のそばにいることを選んだのだと、ようやく自分に言い聞かせるように。
朝の光が、少しだけ柔らかく感じられた。




