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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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95/107

95.「死なないで、伊織……」――自己嫌悪の闇に堕ちる魂を、絵里奈の祈りが繋ぎ止める。過去の自分を殴り飛ばし、掴み取った“生”の輪郭。

その日は、珍しく映画館に行った。

次の日の絵里奈の早朝バイトが無い日で、かつ伊織の深夜バイトも無い日だったのだ。


伊織の車で、家から少し離れたところにあるショッピングモールの一角にある映画館に行く事になった。

その日の絵里奈は、化粧をしており、いつもとは違う感じが出ていて、伊織はなんだか照れくさかった。 

               

伊織は、映画の上映中、ふと隣に座る絵里奈を見た。

その時の絵里奈の横顔が、とても綺麗だった。


思わず伊織は、綺麗だね、とつぶやいてしまった。


「…え?」

「…綺麗だ、絵里奈」


照れ笑いなのか、絵里奈は映画を観ながら、にこっとした。


「ん?どうした?惚れちゃった?」

「…うん、ホントに」


伊織は、恥ずかしなり、映画を観ようと正面に向き直る。

なんの映画をみたかは、なんとなく覚えていた。


----


その後も、だからといって、絵里奈に対する態度は変わらなかった。

相変わらずの日常。

その後、アルバイト先を変えた。

週3回だけではあったが、なかなかの高時給だったので、それなりの金になった。

今の伊織が、人生で一番後悔しているあの出来事のきっかけとなったのが、このアルバイト先だった。


「今日は…こっちのグループか」

深夜バイトが終わり、封筒に入ったクレジットカードの束を助手席に置いて、車を運転していた。

深夜バイト上がりに、オーナーが来るのを待って、金を受け取る。

今日が消費者金融各社の返済日なのだ。

店のATMに入り、カードを入れて、お金を振り込む。

そうしておいてから、また限度額いっぱいまで、引き出すのだ。

それをカードの枚数分だけ行うと、今月の返済額は、最小限で済む。

そうして回収した金を、オーナーに渡すのだ。

借金は、いつまでも減らない。

さすがの伊織もどうするつもりなんだろう?と思っていたが、深い疑問は抱かなかった。回収してきた金の一部を伊織は、振込の手間賃として、貰っていたからである。


夢の中で、伊織は、昔の自分の愚かさを何度も見せつけられていた。

苦しかったが、どうにもならなかった。


絵里奈が留学のため、日本を旅立ち、オーナーが死んでからは、実家に戻ってきた。

そして、借金返済のため、派遣社員として、自動車部品の工場勤務を始めた。

母は、自分が真面目になった、と思ったようだ。

伊織としては、今までの自分は死んだと思っていただけだった。

朝早くに家を出て、夜は残業もする。

交代勤務だったため、それなりの額は稼ぐ事が出来たが、足腰は痛く、平日は帰って寝るだけの日々だった。遊ぶ暇などなかった。

それでも、俺は、死んでいるんだ、と思えば、どんな苦しみにも耐えられた。

ただ、バンドだけは惰性で、続けていた。

こんな俺でも、俺のベースを聴きたいと言ってくれる奴らがいたのだ。


夢は、そこで、晴子と出会った場面に切り替わる。


ライブ終了後、近くのファミレスで、打ち上げをする事になった。

ライブを見に来ていた客の何人かが一緒に打ち上げいってもいいですか、と言われたので誘ったのだ。


その中に晴子はいた。

伊織の一目惚れだった。

その時には既に絵里奈の事は吹っ切れていた。

何回かライブを見に来てくれて、その都度、打ち上げに誘った。

伊織は晴子と二人きりになると、交際を申しこんだ。


それからは、遠距離恋愛ではあったが、土日になると、車で自分の実家から3時間近くかけて、晴子の家に通った。

晴子の身体つきがとても良かったのは覚えている。


それからも、バンドは続けながらも、隙間時間を縫うようにして、晴子には会いに行った。

晴子が、一人暮らしを始めた。

半ば転がり込む形で、一緒に住み始めた。仕事は、相変わらず工場勤務だった。


ある日の朝、晴子が青ざめた顔をしていた。

手には妊娠検査薬を持っていた。

伊織は最初、意味が分からなかった。

泣き崩れる晴子を慰め、伊織は責任を取るべく、籍を入れた。

派遣社員を移り、前の会社に派遣された。

安定している企業だと言う事で、紹介してもらったのだ。

そこで、金のために、毎日残業して、人がやらない仕事も進んで引き受けた。

正社員にならないか、とその部署の上の人間に言われた。

断る理由は無かった。

既に、二人の子供がいたのだ。

近くに頼れる親戚などおらず、自分達で踏ん張るしかなかった。

残業が出来ない時期は、会社の後、アルバイトもした。

辛い、と思う時もあったが、その度に、俺は死んでいるんだと思って、歯を食いしばり生きていた。


やがて、三人目となる娘も生まれ、家も購入した。

自治会にも積極的に参加した。

家の近所で、新しく引っ越してきた家族がゴミの扱いが出来ずに、散乱させていたのを注意したときは、伊織自身が、ああ、俺、変わったな、と思ったほどだ。

それなら、あっという間に月日は過ぎて、離婚を経験した。




また、視界が暗くなった。




絵里奈の顔と晴子の顔が同時に浮かんだ。




目の前に、あの日の自分がいた。

若い頃の絵里奈に対して、ひどい言葉を浴びせている。

伊織は、若い自分に近づいていく。

振り向いた。

タバコをくわえ、こちらを睨んでいる。


「…んだよ、おっさん、何見てんだよ」


近づいてくる。

伊織は、拳に握りしめた。


「な、なんだよ」


有無を言わさずに、若い頃の自分を殴りつけた。


「て、てめえ」


殴り返してくる。


「全然痛くねえな」

「な、なんだと、この野郎」


殴り合いになったが、痛みなど感じなかった。



すべてを壊してしまいたかった。


お前など死んでしまえば良かったのだ。




「や、やめ、やめてくれ」

若い頃の自分が懇願してくる。

その顔に蹴りを見舞う。

すると、若い頃の自分が消えた。



次に見えたのは、晴子の顔だった。

「あなた…話があるの」

「どうしたの?改まって」


今日は、娘が仕事の帰りが遅いと、連絡があった日だった。

二人で、リビングにいた。


「…離婚、しませんか?」

「…え?」

「…離婚、よ」


あの日、こうして絶句していたのは覚えている。


「…どうしてだ?俺に至らないところがあったのか?」


晴子は、首を振る。


「…違います」

「…好きな男でも、他に出来た?」

「…そうじゃないの」


晴子は、それだけ言うと、ただ、俯いていた。


「…嫌い、になったのか?俺の事を」

「…」

「どうしてなんだ?答えてくれ、晴子」

「…ごめんなさい」


晴子は、ただひたすらに頭を下げ続けていた。




また、夢が切り替わった。




少し先に絵里奈がいた。

その、絵里奈の前に二人の男が立っている。

伊織は、咄嗟に走り出した。

絵里奈と、二人の男の間に割って入る。

男の顔はよく分からない。


後ろから、絵里奈の声がする。


「いまさら、何よ」


冷たい声だった。


振り返る。


誰もいない。声だけが響く。


「何が作家だ、おまえは所詮ただのクズだ、偉そうに」


自分の声だった。


「幸せになろうなんて、おこがましいよなあ、家族を捨てておいて、ああ?」

「違う」

「結局、お前は、自分が良ければそれでいいんだ、あの時のお前と、何が違う」

「違う!俺は…」

「しかも、何だ?もう一度、同じ人を傷つけて生きるのか?」

「そんな事ない、そんな事はしない」


叫んだが、何も反応が無い。


次の瞬間、痛みが走る。


喰い込んでくるような痛み。



そうだ、俺は絵里奈を守ろうとして刺されたのだ。


「そうだ、お前は刺された」

「ちょうどいいじゃないか?そうだろ?」

「このまま、死ねばもう苦しむ事は無いし、お前のせいで、誰も傷つかずに済む」


そうかもしれなかった。


「お前はあの時、死んだはずだろう?何故生きている?」


痛みがさらにひどくなる。

苦しい。

このまま楽になりたかった。

楽になれる。





声が聴こえてきた。




「…死なないで…」


「……死なないで……伊織……私を置いていかないで……お願い……」


絵里奈…?


そうか…俺は…




徐々にだが、視界が形を成してきた。


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