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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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94/107

94.「行くなよ、お前がいないと……」――若き日の卑怯な甘え。伊織が意識の底で対峙した、絵里奈への“搾取”という名の過去。

暗闇の奥から、また別の光景が浮かび上がる。

20歳のころの、あの狭いアパート。

薄いカーテンから差し込む朝の光。

散らかった灰皿。

脱ぎっぱなしの服。


そして、 布団の上で、若い自分がだらしなく寝転がっている。

絵里奈が、髪を結びながら言う。


「ねえ、今日こそタバコ減らしなよ」

「あとでな」


若い伊織は、笑ってごまかすように言う。

その“あとで”が永遠に来ないことを、今の伊織は知っている。


絵里奈は、ため息をつきながらも、灰皿を片付けてくれていた。


「ほんと、身体に悪いんだから」

「大丈夫だって」


若い伊織は、彼女の心配を軽く受け流す。

その軽さが、今の伊織には胸を刺した。

何かと言えば絵里奈に甘え、彼女が帰ってくるとすぐに抱き寄せ、自分の欲求を優先していた。

行為そのものは霞んでいるのに、その“空気”だけは鮮明だった。


若さゆえの衝動。

絵里奈の優しさに寄りかかる甘え。

そして、彼女の気持ちを深く考えようとしない幼さ。


今の伊織は、その光景を見て胸が痛んだ。


――俺は、こんなにも彼女に甘えていたのか。

――こんなにも、彼女を雑に扱っていたのか。


----


場面がふっと切り替わる。


二人で歩く商店街。

安い定食屋。

映画館の前で迷う絵里奈。

夜の公園で缶コーヒーを分け合う。


「ねえ、これ食べてみたい」

「いいよ、買ってやるよ」

「ほんと? ありがとう」


そんな他愛のない会話。

そんな小さな幸せ。


若い伊織は、絵里奈が笑うと、それだけで満足していた。


なのにその笑顔を守ろうとはしなかった。


---


夢の中の光景が、まるで古いフィルムのように揺れている。

若い自分は、絵里奈の優しさに甘え、彼女の笑顔に救われ、それでも何ひとつ返せなかった。

今の伊織は、そのすべてを見せつけられながら、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。


あの頃の俺は彼女の愛に値しなかった。

それでも、絵里奈はそばにいてくれた。

その事実が、夢の中で静かに重くのしかかってくる。


光が揺れ、景色が遠ざかり、また暗闇が戻ってきた。

伊織は、その暗闇の中で、ただひとつの名前を呼んだ。

「絵里奈…」


----


「いい加減にして……タバコ、多すぎるよ」

「タールの量、減らしたんだって。健康的だろ?」

「そういう問題じゃなくて……臭いの」

「うるせえな……」


灰皿を片付けながら、絵里奈は眉を寄せた。

早朝バイトから帰ってきたばかりで、身体は重く、目の奥がじんじん痛む。

それでも、散らかった灰皿を見れば、つい手が動いてしまう。


「ねえ……ほんとに減らしてよ」

「はいはい、分かったって」


返事だけは軽い。

その軽さが、胸の奥に小さな棘のように刺さる。

――分かってない。

――分かろうともしない。

そう思うのに、言葉にはできない。

片付けていると、背後に気配を感じた。

伊織が近づき、腰に手を回してくる。


「ちょっと……!」


驚いて振り返ると、伊織は悪びれもせず笑っていた。


「あ、ごめん。怒ってる?」

「……もう、知らないから」


そう言いながら、本当は“知らない”なんてできないことを、

絵里奈は自分で分かっていた。

疲れているのに、

怒っているのに、

呆れているのに、

それでも――

伊織に触れられると、心のどこかがふっと緩んでしまう。


「ごめん、ごめんって。ほら、機嫌直せよ」


その軽い声に、

絵里奈の胸の奥で、

“好き”と“苦しい”が同時に揺れた。

――どうして私は、この人を嫌いになれないんだろう。

――どうして、この人のだらしなさを許してしまうんだろう。

――どうして、こんなに疲れているのに、そばにいたいと思ってしまうんだろう。

答えは分からない。

ただ、伊織の笑顔を見ると、そのすべてが曖昧になってしまう。

絵里奈は、自分の胸の奥にあるその矛盾を抱えたまま、また灰皿を流しに置いた。


----


その夜、アパートの部屋はいつもより散らかっていた。

灰皿には吸い殻が山のように積もり、机の上には開きっぱなしのカップ麺の容器。

床には脱ぎ捨てられた服。

絵里奈は、バイト帰りの重い身体を引きずりながら、その光景を見て、胸の奥がすっと冷えた。


――まただ。


何度目か分からないため息が漏れる。


「……伊織、起きてる?」


ソファに寝転がっていた伊織は、片手だけ上げた。


「んー……起きてる」

その返事の軽さが、絵里奈の胸に小さな棘のように刺さる。


「今日、なにしてたの?」

「別に何も」

「……そう」


その言い方が、あまりにも簡単で、あまりにも無責任で、あまりにも“いつも通り”で。


絵里奈は、胸の奥がじわりと痛んだ。


――どうして私は、この人の“気分”に振り回されてるんだろう。

――どうして私は、こんなに疲れてるのに、まだここにいるんだろう。

灰皿を片付けながら、絵里奈はふと、自分の手が震えていることに気づいた。


「ねえ……」


声がかすれた。


「……私、もう無理かもしれない」

「何が?」


伊織のその一言で、胸の奥が音を立てて崩れた。

――ああ、この人は気づかないんだ。

――私がどれだけ疲れてるか。

――どれだけ我慢してるか。

――どれだけ、この関係にしがみついているか。


「…別れよう」


その言葉は、自分でも驚くほど静かだった。

伊織はようやく顔を上げた。


だが、驚きよりも先に出たのは、不機嫌そうな眉の動きだった。


「は? なんでだよ」

「なんでって…」


言葉が続かない。

続けたら泣いてしまうと思った。


「……疲れたの。私ばっかり頑張ってるみたいで、あなたは……何も変わらないから」


伊織は、しばらく黙っていた。

その沈黙が、絵里奈には耐えられなかった。

――ああ、やっぱり。

――この人は、私がいなくても困らないんだ。

そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。


「……勝手に言ってろよ」


その言葉で、絵里奈の心は完全に折れた。

涙がこぼれそうになり、慌てて背を向ける。

――もう、終わりにしよう。

そう思った。

本気で、そう思った。

でも。

背中に、そっと腕が回された。


「……悪かったよ」


その声は、いつもの軽さとは違っていた。


「行くなよ。お前がいないと俺、何もできねえから」


その言葉に、絵里奈の足が止まった。

――ずるい。

――そんなふうに言われたら、離れられない。


「ほんとに好きなんだ、大好きなんだよ」


涙が、ぽたりと落ちた。


「……ほんとに、ずるいよ……」


その夜、絵里奈は別れなかった。

別れられなかった。

それが、あの頃の二人の限界であり、弱さであり、そして――確かに存在した“愛”の形だった。

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