93.「なんて、ひどい男だったんだ」――暗闇で向き合う若き日の傲慢。伊織が意識の底で叫んだ、絵里奈への“謝罪”と“再始動”。
暗闇の中に、ぼんやりと光が差し込む。
その光の向こうに、見覚えのある街並みが浮かび上がった。
古いアパート。
薄い壁。
散らかった部屋。
煙草の匂い。
深夜のコンビニ弁当。
ここは…
20歳のころの自分が住んでいた部屋。
伊織は何故か、夢だと分かっていた。
部屋の中では、若い自分がソファに寝転がっていた。
髪は伸び放題、無精ひげ、だらしないTシャツ。
机の上には、開きっぱなしのノート。
隣には、ギターが転がっていた。
ペンは動いていない。ため息ばかりついている。
「才能なんて、ねえよな」
若い伊織が呟く。
そこへ、ドアが開く。
「伊織、また散らかして……」
絵里奈だった。
20歳のころの彼女。
留学資金をためるために、フリーターとして朝はコンビニ、昼はデパートでアルバイトしていた。
小さなバッグを肩にかけている。
若い伊織は、ちらりと見るだけで言う。
「悪い、あとで片付ける」
「あとでって、いつも言うじゃない」
「うるさいな……」
その言い方に、今の伊織は胸が痛んだ。
若い自分は、絵里奈の優しさに甘え、絵里奈の時間に甘え、絵里奈の気持ちに甘え、そして何も返していなかった。
絵里奈は、散らかった机を見て言った。
「……これ、続き書かないの?」
「気分じゃねえんだよ」
「でも、バンドの曲でしょ?」
「分かってるよ。分かってるけど、やる気が出ねえんだよ」
若い伊織は、苛立ちを隠そうともしなかった。
絵里奈は、少しだけ寂しそうに笑った。
「伊織、才能あるよ。私、あなたの書くもの、好きだよ」
その言葉に、若い伊織は顔をそむけた。
「……そういうの、今はいいから」
煙草に火をつける。
絵里奈の笑顔が、ほんの少しだけ揺らいだ。
伊織も一応、アルバイトをしていた。コンビニの深夜バイトだった。
絵里奈と出会ったのが、そのコンビニだった。
夜に出勤すると、早朝に新しく入ってくる人がいるから、とオーナーに聞かされた。
次の日の朝、出勤してきたのが、絵里奈だった。
「よろしくお願いします」
「…よろしく」
それが初めての言葉だった。
アルバイトの入替の時に、会うたびに、少しずつ打ち解けていった。
用事もないのに、アルバイト先に残って、彼女と一緒にレジを打ったこともあった。
素直に夢を語る彼女に惹かれていった。
意を決して、飲みに誘い、そこで告白した。
「あ〜……だりぃ」
「そういうこと言わないの。明日、私も早いんだから」
「……なあ、まだ時間あるよな」
スラックスを履き終え、シャツのボタンを半分まで留めたところで、伊織が動きを止めた。
振り返ったその瞳には、仕事の気怠さとは違う、熱を帯びた色が混じっている。
「え? 何?」
絵里奈が小首を傾げた瞬間、強い力で引き寄せられた。
「ちょっと……気持ち切り替えたい。頼むよ」
低い声が耳元で跳ねる。
有無を言わせない強引さは、いつもの伊織だ。
けれど、その指先が絵里奈の顎を優しく上向かせたとき、彼女は抗うのをやめた。
伊織は再びシャツを脱ぎ捨てると、絵里奈を促した。
彼女がその意図を察して跪くと、視界の先で、彼の熱が昂ぶっていくのがわかる。
「…ん、んんん…」
口内に、熱を帯びた感触が満ちていく。
ストレスを吐き出すかのような激しさと、彼女を求める執着が、その動きから伝わってきた。
絵里奈は時折苦しそうに眉を寄せながらも、彼の腰に手を添え、懸命にその熱を受け止める。
「……っ、そう、そこ……いい」
伊織の短い吐息が頭上から降ってくる。
彼の指が絵里奈の髪を乱暴に、けれど愛おしそうにかき乱した。限界が近いことを知らせるように、伊織の身体が微かに震える。
「……だすよ、…っ」
低い警告が響くと同時に、熱い奔流が彼女の口内へと溢れ出した。
喉を鳴らしてそれを受け止めると、絵里奈の視界が白く霞む。
伊織は荒い呼吸のまま、彼女の肩を抱き寄せ、その頭を自分の腹部に預けた。
「……ふぅ。悪い、無理させた」
言葉とは裏腹に、伊織の声にはどこか満足げな響きがあった。
絵里奈が口元を拭いながら見上げると、そこにはいつもの「だるそう」な表情ではなく、一人の男としての、充足した顔があった。
しばらくして、伊織は深く息を吐き、椅子にもたれかかった。
「ふう……よし。これで頑張れそうだわ」
「まったく……。行ってらっしゃい」
絵里奈は乱れた服を整えながら、半ばあきれ、半ば諦めたように笑った。
「帰ってきたら、また頼むからな」
「……はいはい」
なんなんだ、俺は…
伊織は、ひどい未熟さを見せつけられていた。
見たくなかった。
覚えていたくなかった。
これが俺だったのか。
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伊織は、深夜バイトを終え、絵里奈と入れ替わりになる。
「お先に」
「うん、伊織、お疲れ様」
眠い目をこすりながら、伊織はバイト先から帰路につく。
付き合いたてのころは、忙しくなる朝の時間帯が終わるまで、伊織は残ってレジ打ちを手伝っていた。
いつの間にか、そんなこともしなくなっていた。
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絵里奈が帰ってくると、伊織は玄関に立つ彼女を見るなり、まるで待ち構えていたかのように腕を伸ばした。
「え、ちょっと…まだ帰ってきたばかりだよ?」
「我慢できねえんだよ」
言うが早いか、彼は絵里奈の肩を引き寄せ、強引に口づけをする。
絵里奈は戸惑いながらも押し返せない。
そのまま布団の上に倒れ込む形になり、息が乱れる。
「ね、ねえ……少し待って。準備も……」
「いいだろ、そんなの」
「だめだよ、ちゃんと……」
「うるせえな」
伊織は、彼女の言葉を聞こうともしない。
自分の欲求だけを優先し、絵里奈の不安や戸惑いには目も向けなかった。
それは、愛情というより、若さゆえの衝動と身勝手さだけで満ちていた。
夢の中の光景が、ゆっくりと遠ざかっていく。
若いころの自分が、絵里奈に甘え、頼り、傷つけ、それでも何ひとつ返せていなかった日々。
そのすべてが、まるで刃物のように胸の奥を刺していた。
――なんて、ひどい男だったんだ。
意識の底で、伊織は思った。
あの頃の自分は絵里奈の優しさを“当然”だと思い、彼女の気持ちを受け取るだけで、何ひとつ返していなかった。
「……ごめん……」
声にならない声が、暗闇に溶けていく。
夢の中の絵里奈は、いつも笑っていた。
いつも支えてくれていた。
いつも、伊織の未来を信じてくれていた。
なのに、自分はその手を握り返すことすらできなかった。
――あの頃の俺が、今の俺を見たらどう思うだろう。
きっと笑うだろう。
「何を今さら」と。
でも、今の伊織は知っている。
絵里奈がどれほど大切で、どれほど自分を救ってくれたかを。
夢の中の若い自分が、絵里奈の言葉を突き放すように遮った瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「……あんな俺に、よく……」
言葉にならない。
後悔は、罪悪感は、今さらどうにもならないほど積み重なっている。
でも、今だけは、もう一度だけでいい。
――絵里奈のそばに戻りたい。
その願いだけが、暗闇の中でかすかに灯る光のように、伊織の意識をつなぎ止めていた。
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病室は、夜の気配をそのまま閉じ込めたように静かだった。
機械の規則的な電子音だけが、かすかに空気を震わせている。
絵里奈は、伊織の手をそっと包み込むように握っていた。
温かい。
それだけが、唯一の救いだった。
「……伊織」
呼びかけても、返事はない。
まぶたは閉じたまま、呼吸だけがかすかに上下している。
医師からは、意識が戻るかどうかは分からない、と告げられていた。
その言葉が、胸の奥でずっと重く沈んでいる。
絵里奈は、伊織の指に自分の指を絡める。
「……お願いだから、戻ってきてよ」
声が震えた。
涙が落ちそうになり、慌ててまばたきをする。
そのときだった。
伊織の指が、ほんのわずかに動いた。
気のせいかもしれない。でも、確かに動いた。
「……伊織?」
絵里奈は身を乗りだした。
呼吸が浅くなる。
伊織の眉が、かすかに寄った。
夢の中で何かを見ているような、苦しむような、そんな表情。
「……ごめん……」
かすれた声が、唇の端から漏れた。
絵里奈は息を呑んだ。
「伊織……? 聞こえるの……?」
返事はない。
だが、指先は確かに絵里奈の手を握り返していた。
夢の中で、彼は何を見ていたのだろう。
どんな過去と向き合っていたのだろう。
絵里奈は、そっと彼の手を胸に抱き寄せた。




