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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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93/107

93.「なんて、ひどい男だったんだ」――暗闇で向き合う若き日の傲慢。伊織が意識の底で叫んだ、絵里奈への“謝罪”と“再始動”。

暗闇の中に、ぼんやりと光が差し込む。

その光の向こうに、見覚えのある街並みが浮かび上がった。


古いアパート。

薄い壁。

散らかった部屋。

煙草の匂い。

深夜のコンビニ弁当。


ここは…


20歳のころの自分が住んでいた部屋。


伊織は何故か、夢だと分かっていた。


部屋の中では、若い自分がソファに寝転がっていた。

髪は伸び放題、無精ひげ、だらしないTシャツ。

机の上には、開きっぱなしのノート。

隣には、ギターが転がっていた。


ペンは動いていない。ため息ばかりついている。

「才能なんて、ねえよな」

若い伊織が呟く。


そこへ、ドアが開く。

「伊織、また散らかして……」

絵里奈だった。

20歳のころの彼女。

留学資金をためるために、フリーターとして朝はコンビニ、昼はデパートでアルバイトしていた。

小さなバッグを肩にかけている。


若い伊織は、ちらりと見るだけで言う。

「悪い、あとで片付ける」

「あとでって、いつも言うじゃない」

「うるさいな……」


その言い方に、今の伊織は胸が痛んだ。

若い自分は、絵里奈の優しさに甘え、絵里奈の時間に甘え、絵里奈の気持ちに甘え、そして何も返していなかった。


絵里奈は、散らかった机を見て言った。


「……これ、続き書かないの?」

「気分じゃねえんだよ」

「でも、バンドの曲でしょ?」

「分かってるよ。分かってるけど、やる気が出ねえんだよ」


若い伊織は、苛立ちを隠そうともしなかった。

絵里奈は、少しだけ寂しそうに笑った。


「伊織、才能あるよ。私、あなたの書くもの、好きだよ」


その言葉に、若い伊織は顔をそむけた。


「……そういうの、今はいいから」


煙草に火をつける。

絵里奈の笑顔が、ほんの少しだけ揺らいだ。


伊織も一応、アルバイトをしていた。コンビニの深夜バイトだった。

絵里奈と出会ったのが、そのコンビニだった。

夜に出勤すると、早朝に新しく入ってくる人がいるから、とオーナーに聞かされた。

次の日の朝、出勤してきたのが、絵里奈だった。


「よろしくお願いします」

「…よろしく」


それが初めての言葉だった。

アルバイトの入替の時に、会うたびに、少しずつ打ち解けていった。

用事もないのに、アルバイト先に残って、彼女と一緒にレジを打ったこともあった。

素直に夢を語る彼女に惹かれていった。

意を決して、飲みに誘い、そこで告白した。



「あ〜……だりぃ」

「そういうこと言わないの。明日、私も早いんだから」

「……なあ、まだ時間あるよな」


スラックスを履き終え、シャツのボタンを半分まで留めたところで、伊織が動きを止めた。

振り返ったその瞳には、仕事の気怠さとは違う、熱を帯びた色が混じっている。


「え? 何?」


絵里奈が小首を傾げた瞬間、強い力で引き寄せられた。

「ちょっと……気持ち切り替えたい。頼むよ」


低い声が耳元で跳ねる。

有無を言わせない強引さは、いつもの伊織だ。

けれど、その指先が絵里奈の顎を優しく上向かせたとき、彼女は抗うのをやめた。

伊織は再びシャツを脱ぎ捨てると、絵里奈を促した。

彼女がその意図を察して跪くと、視界の先で、彼の熱が昂ぶっていくのがわかる。


「…ん、んんん…」

口内に、熱を帯びた感触が満ちていく。

ストレスを吐き出すかのような激しさと、彼女を求める執着が、その動きから伝わってきた。

絵里奈は時折苦しそうに眉を寄せながらも、彼の腰に手を添え、懸命にその熱を受け止める。


「……っ、そう、そこ……いい」


伊織の短い吐息が頭上から降ってくる。

彼の指が絵里奈の髪を乱暴に、けれど愛おしそうにかき乱した。限界が近いことを知らせるように、伊織の身体が微かに震える。


「……だすよ、…っ」


低い警告が響くと同時に、熱い奔流が彼女の口内へと溢れ出した。

喉を鳴らしてそれを受け止めると、絵里奈の視界が白く霞む。

伊織は荒い呼吸のまま、彼女の肩を抱き寄せ、その頭を自分の腹部に預けた。


「……ふぅ。悪い、無理させた」


言葉とは裏腹に、伊織の声にはどこか満足げな響きがあった。

絵里奈が口元を拭いながら見上げると、そこにはいつもの「だるそう」な表情ではなく、一人の男としての、充足した顔があった。

しばらくして、伊織は深く息を吐き、椅子にもたれかかった。


「ふう……よし。これで頑張れそうだわ」

「まったく……。行ってらっしゃい」


絵里奈は乱れた服を整えながら、半ばあきれ、半ば諦めたように笑った。


「帰ってきたら、また頼むからな」

「……はいはい」


なんなんだ、俺は…


伊織は、ひどい未熟さを見せつけられていた。

見たくなかった。

覚えていたくなかった。

これが俺だったのか。


----


伊織は、深夜バイトを終え、絵里奈と入れ替わりになる。

「お先に」

「うん、伊織、お疲れ様」

眠い目をこすりながら、伊織はバイト先から帰路につく。

付き合いたてのころは、忙しくなる朝の時間帯が終わるまで、伊織は残ってレジ打ちを手伝っていた。

いつの間にか、そんなこともしなくなっていた。


----


絵里奈が帰ってくると、伊織は玄関に立つ彼女を見るなり、まるで待ち構えていたかのように腕を伸ばした。


「え、ちょっと…まだ帰ってきたばかりだよ?」

「我慢できねえんだよ」


言うが早いか、彼は絵里奈の肩を引き寄せ、強引に口づけをする。

絵里奈は戸惑いながらも押し返せない。

そのまま布団の上に倒れ込む形になり、息が乱れる。


「ね、ねえ……少し待って。準備も……」

「いいだろ、そんなの」

「だめだよ、ちゃんと……」

「うるせえな」


伊織は、彼女の言葉を聞こうともしない。

自分の欲求だけを優先し、絵里奈の不安や戸惑いには目も向けなかった。

それは、愛情というより、若さゆえの衝動と身勝手さだけで満ちていた。


夢の中の光景が、ゆっくりと遠ざかっていく。

若いころの自分が、絵里奈に甘え、頼り、傷つけ、それでも何ひとつ返せていなかった日々。

そのすべてが、まるで刃物のように胸の奥を刺していた。


――なんて、ひどい男だったんだ。


意識の底で、伊織は思った。

あの頃の自分は絵里奈の優しさを“当然”だと思い、彼女の気持ちを受け取るだけで、何ひとつ返していなかった。


「……ごめん……」


声にならない声が、暗闇に溶けていく。

夢の中の絵里奈は、いつも笑っていた。

いつも支えてくれていた。

いつも、伊織の未来を信じてくれていた。

なのに、自分はその手を握り返すことすらできなかった。


――あの頃の俺が、今の俺を見たらどう思うだろう。


きっと笑うだろう。


「何を今さら」と。


でも、今の伊織は知っている。


絵里奈がどれほど大切で、どれほど自分を救ってくれたかを。

夢の中の若い自分が、絵里奈の言葉を突き放すように遮った瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。


「……あんな俺に、よく……」


言葉にならない。

後悔は、罪悪感は、今さらどうにもならないほど積み重なっている。

でも、今だけは、もう一度だけでいい。

――絵里奈のそばに戻りたい。

その願いだけが、暗闇の中でかすかに灯る光のように、伊織の意識をつなぎ止めていた。


----


病室は、夜の気配をそのまま閉じ込めたように静かだった。

機械の規則的な電子音だけが、かすかに空気を震わせている。


絵里奈は、伊織の手をそっと包み込むように握っていた。

温かい。

それだけが、唯一の救いだった。


「……伊織」


呼びかけても、返事はない。

まぶたは閉じたまま、呼吸だけがかすかに上下している。


医師からは、意識が戻るかどうかは分からない、と告げられていた。


その言葉が、胸の奥でずっと重く沈んでいる。

絵里奈は、伊織の指に自分の指を絡める。


「……お願いだから、戻ってきてよ」


声が震えた。

涙が落ちそうになり、慌ててまばたきをする。

そのときだった。

伊織の指が、ほんのわずかに動いた。


気のせいかもしれない。でも、確かに動いた。

「……伊織?」


絵里奈は身を乗りだした。

呼吸が浅くなる。


伊織の眉が、かすかに寄った。

夢の中で何かを見ているような、苦しむような、そんな表情。


「……ごめん……」


かすれた声が、唇の端から漏れた。

絵里奈は息を呑んだ。


「伊織……? 聞こえるの……?」


返事はない。

だが、指先は確かに絵里奈の手を握り返していた。


夢の中で、彼は何を見ていたのだろう。

どんな過去と向き合っていたのだろう。

絵里奈は、そっと彼の手を胸に抱き寄せた。


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