91.「このいのちがもえてる」――新田浩介、狂乱の果ての自滅。警察官が告げた“犯人死亡”と、処置室前の祈り。
救急車の赤い光が、路地の壁に反射して揺れていた。
伊織の身体が担架に乗せられていく。
その光景を見ているはずなのに、どこか遠くの出来事のように感じた。
「伊織……伊織……」
声は震えていた。
呼びかけても返事はなく、ただ救急隊員の短い指示だけが耳に届く。
「ご家族の方、こちらに」
救急隊員に促され、絵里奈はふらつきながら救急車に乗り込んだ。
ドアが閉まる瞬間、外のざわめきが一気に遮断される。
胸の奥が、締め付けられる。
どうして、こんなことに。
伊織の手に触れようとしたが、震えてうまく触れられなかった。
救急車の中で、絵里奈のスマホが震え続けていた。
画面には「優子」の名前が何度も表示されている。
出ようとしたが、指がうまく動かない。
ようやく通話ボタンを押すと、すぐに優子の声が飛び込んできた。
「絵里奈!? どこにいるの、無事なの!?」
「…伊織が…」
それだけ言うと、喉が詰まって声が出なくなった。
優子は息を呑んだようだった。
「今、会社が大騒ぎなの。 片桐常務が意識を取り戻して、犯人の名前を言ったのよ。新田浩介。あなたの…」
言葉が途切れた。
絵里奈は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「さっき…会った…伊織が…伊織が…」
絵里奈はたどたどしく、端的に状況を伝えた。
優子は絶句した。
少しの沈黙の後、優子が落ち着いた声で続けた。
「警察が動いてる。専務も社長も、全員があなたの安否確認でパニックよ。支店にも連絡が回って、もう大変なことになってる」
救急車のサイレンが、優子の声をかき消すように響いた。
「絵里奈、今どこ?」
「…うん…救急…車…」
「え…旦那さんは…?」
「…伊織が…あいつに…」
「え…」
「ご、ごめん優子」
通話を切って、絵里奈はスマホを胸に抱えた。
会社の混乱が、遠い世界の出来事のように思えた。
今はただ、伊織の呼吸の音だけを確かめていたかった。
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救急車が止まり、扉が開く。
冷たい夜気が流れ込んでくる。
「ご家族の方、こちらへ」
絵里奈は頷き、伊織の担架の後を追った。
病院の白い光が、現実を突きつけてくる。
処置室の前で立ち止まると、看護師が言った。
「中には入れません。終わったらお呼びします」
扉が閉まる。
絵里奈は、壁にもたれかかり、ようやく息を吐いた。
震えが止まらない。
伊織が倒れたのは、私のせいだ。
その思いが、胸の奥に重く沈んでいく。
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スマホが再び震えた。
出ると、怒鳴り声が飛んできた。
「水原GM! 無事なんか!? どこにおるんや!」
「…病院です。私は…無事です…伊織が…」
「なんやて!…絶対に一人になったらあかん!」
その言葉に、絵里奈は小さく頷いた。
「……はい……」
通話が切れたあと、絵里奈は深く息を吸った。
病院の廊下は静かで、遠くの機械音だけが響いている。
世界が、音を失っていくようだった。
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走っているのか、歩いているのか、自分でも分からなかった。
ただ、足が勝手に前へ進んでいた。
路地を抜け、大通りに出る。
車のライトが眩しくて、思わず顔をそむけた。
胸の奥がざわついているのに、不思議と恐怖はなかった。
やることはやった。
その感覚だけが、身体の中心に残っていた。
背後で誰かの叫び声が聞こえた気がした。
振り返らない。
振り返ったら、何かが終わる気がした。
街灯の下を通るたび、影が長く伸びる。
その影が、自分とは別の生き物のように見えた。
「……えりな……」
名前を口にすると、胸の奥がじんと熱くなる。
あの瞬間、確かに目が合った。
変わり果てた自分を見て、怯えた顔をしていた。
それでもいい。
覚えていてくれた。
ごめんね。まだ、愛してる。
今更でも許してくれよ。
君がだめと言っても、でも生きたい。
運よく生き延びただけの命が、偉そうに言うよ。
お前だけが幸せになるなんて、許せない。
その思いは、怒りでも憎しみでもなく、
もっと静かで、もっと深い、底のない感情だった。
遠くでサイレンが鳴っている。
近づいているのか、遠ざかっているのか分からない。
新田は、街路樹の影に身を寄せた。
呼吸を整えようとするが、胸がうまく動かない。
「……見つかるわけにはいかない」
呟いた声は、自分のものとは思えないほど乾いていた。
ポケットの中で、折りたたみナイフの重さを感じる。
それが、現実と自分をつなぎ止める唯一のもののように思えた。
人通りの多い道を避け、住宅街へと入る。
街灯が少なく、影が濃い。
その暗さが、妙に心地よかった。
あいつは、まだ生きているだろうか。
考えた瞬間、胸の奥にざらりとした感覚が走った。
だが、後悔はなかった。
「次は……」
言いかけて、言葉が途切れた。
頭の中に、絵里奈の姿が浮かぶ。
駅で見た横顔。
ロータリーで待つ姿。
あの男と並んで歩く後ろ姿。
胸の奥が、焼けるように熱くなる。
「……えりな……」
その名を呼ぶたび、足が勝手に動いた。
息が荒いのか、胸が苦しいのか、自分でも分からなかった。
このいのちがもえてる。
ただ、足だけが前へ前へと進んでいく。
このいのちがもえてる。
住宅街の奥へ入り込むほど、街灯は少なくなり、影が濃く、世界が狭くなっていく。
このいのちがもえてる。
「……えりな……」
このいのちがもえてる。
名前を口にすると、胸の奥がざわりと揺れた。
このいのちがもえてる。
あの顔が、頭から離れない。
このいのちがもえてる。
怯えた目。
このいのちがもえてる。
後ずさる姿。
このいのちがもえてる。
伊織の腕の中に隠れるようにしていた。
このいのちがもえてる。
違う。
このいのちがもえてる。
そんなはずじゃない。
このいのちがもえてる。
新田は、頭を振った。
このいのちがもえてる。
思考がまとまらない。
このいのちがもえてる。
呼吸が浅い。
このいのちがもえてる。
遠くでサイレンが鳴っている。
このいのちがもえてる。
近づいているようにも、遠ざかっているようにも聞こえた。
このいのちがもえてる。
「……まだ終わってない……」
このいのちがもえてる。
呟いた声は、夜気に吸い込まれていく。
このいのちがもえてる。
そのときだった。
このいのちがもえてる。
視界の端に、強い光が差し込んだ。
このいのちがもえてる。
路地の出口。
このいのちがもえてる。
大通りへとつながる場所。
このいのちがもえてる。
新田は、ふらつく足のまま、光へ向かって歩き出した。
このいのちがもえてる。
胸の奥で、何かが弾けるような感覚がした。
このいのちがもえてる。
――行かなきゃ。
このいのちがもえてる。
理由は分からない。
このいのちがもえてる。
ただ、その光の先に“答え”があるような気がした。
このいのちがもえてる。
影が伸びる。
このいのちがもえてる。
光が強くなる。
このいのちがもえてる。
耳鳴りがする。
このいのちがもえてる。
そして、新田は路地の先へ――
このいのちがもえてる。
一歩、踏み出した。
このいのちがもえてる…
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処置室の前で、絵里奈は両手を組んだまま、ただ祈るように座っていた。
伊織の容体を知らせる扉は閉ざされたまま、時間だけが、冷たい廊下をゆっくりと流れていく。
スマホが震えた。
見知らぬ番号だが、110の文字は認識できた。
通話ボタンを押すと、警察官の声が聞こえた。
「水原絵里奈さんで間違いありませんか。警察です」
「はい…」
「新田浩介についてですが、搬送先の病院から、先ほど死亡が確認されたと連絡が入りました」
絵里奈は、息を吸うのを忘れた。
「……亡く…なった……?」
「はい。 詳細はまだ調査中ですが、逃走中に交通事故に遭ったようです。事件性は確認されていません」
言葉が、遠くで響いているようだった。
新田が死んだ。
あの目。
あの声。
あの執着。
すべてが、突然、途切れた。
「……そう、ですか……」
それ以上、言葉が出なかった。
警察官は静かに続けた。
「水原さん。これであなたへの危険はなくなりました。ただ、精神的な負担も大きかったはずです。必要であれば、支援の窓口をご案内します」
「……大丈夫です。ありがとうございます」
通話が切れた。
スマホを握る手が震えていた。
胸の奥に広がったのは、安堵でも、悲しみでも、怒りでもなかった。
ただ、深い、深い空洞のような感覚だった。
――終わったの。
――本当に?
答えは出ない。
ただ、処置室の扉の向こうで、伊織が生きようとしている。
その事実だけが、絵里奈を現実につなぎ止めていた。




