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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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91/107

91.「このいのちがもえてる」――新田浩介、狂乱の果ての自滅。警察官が告げた“犯人死亡”と、処置室前の祈り。

救急車の赤い光が、路地の壁に反射して揺れていた。

伊織の身体が担架に乗せられていく。

その光景を見ているはずなのに、どこか遠くの出来事のように感じた。


「伊織……伊織……」


声は震えていた。

呼びかけても返事はなく、ただ救急隊員の短い指示だけが耳に届く。


「ご家族の方、こちらに」


救急隊員に促され、絵里奈はふらつきながら救急車に乗り込んだ。

ドアが閉まる瞬間、外のざわめきが一気に遮断される。

胸の奥が、締め付けられる。


どうして、こんなことに。


伊織の手に触れようとしたが、震えてうまく触れられなかった。


救急車の中で、絵里奈のスマホが震え続けていた。

画面には「優子」の名前が何度も表示されている。

出ようとしたが、指がうまく動かない。

ようやく通話ボタンを押すと、すぐに優子の声が飛び込んできた。


「絵里奈!? どこにいるの、無事なの!?」

「…伊織が…」

それだけ言うと、喉が詰まって声が出なくなった。

優子は息を呑んだようだった。


「今、会社が大騒ぎなの。 片桐常務が意識を取り戻して、犯人の名前を言ったのよ。新田浩介。あなたの…」


言葉が途切れた。

絵里奈は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「さっき…会った…伊織が…伊織が…」

絵里奈はたどたどしく、端的に状況を伝えた。


優子は絶句した。

少しの沈黙の後、優子が落ち着いた声で続けた。

「警察が動いてる。専務も社長も、全員があなたの安否確認でパニックよ。支店にも連絡が回って、もう大変なことになってる」


救急車のサイレンが、優子の声をかき消すように響いた。


「絵里奈、今どこ?」

「…うん…救急…車…」

「え…旦那さんは…?」

「…伊織が…あいつに…」

「え…」

「ご、ごめん優子」

通話を切って、絵里奈はスマホを胸に抱えた。

会社の混乱が、遠い世界の出来事のように思えた。

今はただ、伊織の呼吸の音だけを確かめていたかった。


----


救急車が止まり、扉が開く。

冷たい夜気が流れ込んでくる。


「ご家族の方、こちらへ」


絵里奈は頷き、伊織の担架の後を追った。

病院の白い光が、現実を突きつけてくる。


処置室の前で立ち止まると、看護師が言った。


「中には入れません。終わったらお呼びします」


扉が閉まる。

絵里奈は、壁にもたれかかり、ようやく息を吐いた。

震えが止まらない。


伊織が倒れたのは、私のせいだ。


その思いが、胸の奥に重く沈んでいく。


----


スマホが再び震えた。

出ると、怒鳴り声が飛んできた。


「水原GM! 無事なんか!? どこにおるんや!」

「…病院です。私は…無事です…伊織が…」

「なんやて!…絶対に一人になったらあかん!」


その言葉に、絵里奈は小さく頷いた。


「……はい……」

通話が切れたあと、絵里奈は深く息を吸った。

病院の廊下は静かで、遠くの機械音だけが響いている。

世界が、音を失っていくようだった。


----


走っているのか、歩いているのか、自分でも分からなかった。

ただ、足が勝手に前へ進んでいた。


路地を抜け、大通りに出る。

車のライトが眩しくて、思わず顔をそむけた。

胸の奥がざわついているのに、不思議と恐怖はなかった。


やることはやった。


その感覚だけが、身体の中心に残っていた。

背後で誰かの叫び声が聞こえた気がした。

振り返らない。

振り返ったら、何かが終わる気がした。

街灯の下を通るたび、影が長く伸びる。

その影が、自分とは別の生き物のように見えた。

「……えりな……」

名前を口にすると、胸の奥がじんと熱くなる。

あの瞬間、確かに目が合った。

変わり果てた自分を見て、怯えた顔をしていた。


それでもいい。

覚えていてくれた。

ごめんね。まだ、愛してる。

今更でも許してくれよ。

君がだめと言っても、でも生きたい。

運よく生き延びただけの命が、偉そうに言うよ。

お前だけが幸せになるなんて、許せない。


その思いは、怒りでも憎しみでもなく、

もっと静かで、もっと深い、底のない感情だった。


遠くでサイレンが鳴っている。

近づいているのか、遠ざかっているのか分からない。


新田は、街路樹の影に身を寄せた。

呼吸を整えようとするが、胸がうまく動かない。


「……見つかるわけにはいかない」


呟いた声は、自分のものとは思えないほど乾いていた。


ポケットの中で、折りたたみナイフの重さを感じる。

それが、現実と自分をつなぎ止める唯一のもののように思えた。


人通りの多い道を避け、住宅街へと入る。

街灯が少なく、影が濃い。

その暗さが、妙に心地よかった。


あいつは、まだ生きているだろうか。


考えた瞬間、胸の奥にざらりとした感覚が走った。

だが、後悔はなかった。


「次は……」


言いかけて、言葉が途切れた。


頭の中に、絵里奈の姿が浮かぶ。

駅で見た横顔。

ロータリーで待つ姿。

あの男と並んで歩く後ろ姿。

胸の奥が、焼けるように熱くなる。

「……えりな……」

その名を呼ぶたび、足が勝手に動いた。


息が荒いのか、胸が苦しいのか、自分でも分からなかった。

このいのちがもえてる。

ただ、足だけが前へ前へと進んでいく。

このいのちがもえてる。

住宅街の奥へ入り込むほど、街灯は少なくなり、影が濃く、世界が狭くなっていく。

このいのちがもえてる。

「……えりな……」

このいのちがもえてる。

名前を口にすると、胸の奥がざわりと揺れた。

このいのちがもえてる。

あの顔が、頭から離れない。

このいのちがもえてる。

怯えた目。

このいのちがもえてる。

後ずさる姿。

このいのちがもえてる。

伊織の腕の中に隠れるようにしていた。

このいのちがもえてる。

違う。

このいのちがもえてる。

そんなはずじゃない。

このいのちがもえてる。

新田は、頭を振った。

このいのちがもえてる。

思考がまとまらない。

このいのちがもえてる。

呼吸が浅い。

このいのちがもえてる。

遠くでサイレンが鳴っている。

このいのちがもえてる。

近づいているようにも、遠ざかっているようにも聞こえた。

このいのちがもえてる。

「……まだ終わってない……」

このいのちがもえてる。

呟いた声は、夜気に吸い込まれていく。

このいのちがもえてる。

そのときだった。

このいのちがもえてる。

視界の端に、強い光が差し込んだ。

このいのちがもえてる。

路地の出口。

このいのちがもえてる。

大通りへとつながる場所。

このいのちがもえてる。

新田は、ふらつく足のまま、光へ向かって歩き出した。

このいのちがもえてる。

胸の奥で、何かが弾けるような感覚がした。

このいのちがもえてる。

――行かなきゃ。

このいのちがもえてる。

理由は分からない。

このいのちがもえてる。

ただ、その光の先に“答え”があるような気がした。

このいのちがもえてる。

影が伸びる。

このいのちがもえてる。

光が強くなる。

このいのちがもえてる。

耳鳴りがする。

このいのちがもえてる。

そして、新田は路地の先へ――

このいのちがもえてる。

一歩、踏み出した。


このいのちがもえてる…


----


処置室の前で、絵里奈は両手を組んだまま、ただ祈るように座っていた。

伊織の容体を知らせる扉は閉ざされたまま、時間だけが、冷たい廊下をゆっくりと流れていく。


スマホが震えた。

見知らぬ番号だが、110の文字は認識できた。


通話ボタンを押すと、警察官の声が聞こえた。


「水原絵里奈さんで間違いありませんか。警察です」

「はい…」

「新田浩介についてですが、搬送先の病院から、先ほど死亡が確認されたと連絡が入りました」


絵里奈は、息を吸うのを忘れた。

「……亡く…なった……?」


「はい。 詳細はまだ調査中ですが、逃走中に交通事故に遭ったようです。事件性は確認されていません」


言葉が、遠くで響いているようだった。


新田が死んだ。


あの目。

あの声。

あの執着。


すべてが、突然、途切れた。


「……そう、ですか……」


それ以上、言葉が出なかった。


警察官は静かに続けた。


「水原さん。これであなたへの危険はなくなりました。ただ、精神的な負担も大きかったはずです。必要であれば、支援の窓口をご案内します」


「……大丈夫です。ありがとうございます」


通話が切れた。

スマホを握る手が震えていた。

胸の奥に広がったのは、安堵でも、悲しみでも、怒りでもなかった。

ただ、深い、深い空洞のような感覚だった。


――終わったの。

――本当に?


答えは出ない。


ただ、処置室の扉の向こうで、伊織が生きようとしている。


その事実だけが、絵里奈を現実につなぎ止めていた。


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