90.「お前だけが幸せなんて許さない」――新田浩介、狂気の刃。伊織が命を懸けて守った背中と、夜の街に溶けていく意識。
電車が駅に滑り込むと、絵里奈は小さく息を吐き、立ち上がった。
ホームに降り立つと、夜気が肌に触れ、少しだけ現実に戻された気がした。
改札を抜ける前に、スマホを取り出す。
伊織の名前をタップすると、すぐに電話がつながった。
「もしもし、絵里奈? もう駅に着いた?」
「うん……ごめん、迎えに来てもらってもいい?」
「もちろん。すぐ迎えに行く」
伊織の声は落ち着いていたが、その奥に焦りが滲んでいた。
絵里奈は、少しだけ肩の力が抜けた。
電話を切り、改札を出る。
駅前のロータリーは、昼間よりも静かで、街灯の光が広い影を落としていた。
その影の中に、ひとつだけ“動かない影”があった。
新田だった。
スーツ姿のまま、駅前の柱にもたれ、こちらを見ている。
表情は読めない。
ただ、じっと、まるで、確認するように視線を向けていた。
絵里奈は気づかない。
気づかないまま、ロータリーの端に立ち、伊織が来るのを待っていた。
新田は、ゆっくりと歩き出す。
距離を詰めるでもなく、離れるでもなく、
ただ“そこにいる”という存在感だけを保ちながら。
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白い天井がぼやけて見えた。
片桐は、ゆっくりとまぶたを開けた。
喉が焼けるように乾いている。
肩に鈍い痛みが走り、思わず息を呑んだ。
「……気がつかれましたか?」
看護師の声が遠くで響く。
片桐は、かすれた声で言った。
「…ここは…」
「病院です。救急搬送されて…意識が戻られたので、警察の方がすぐに来ますね」
警察。
その言葉で、片桐の記憶が一気に逆流した。
後部座席の影。
低い声。
折り畳みナイフの光。
そして。
「……新田……」
看護師が聞き返す。
「え?」
「……新田……新田だ……あいつ……」
その瞬間、病室のドアが開き、刑事が二人入ってきた。
「片桐常務、意識が戻られたと聞きました。犯人について、何か覚えていることはありますか?」
片桐は、震える指で空を指すようにして言った。
「……新田……新田って男だ…昔、会社にいた」
刑事たちの表情が変わった。
「名前は? フルネームは分かりますか?」
「……新田……新田……」
片桐は息を整え、絞り出すように言った。
「……新田……新田浩介……」
刑事がすぐにメモを取り、もう一人が無線に手を伸ばした。
「至急、照会を回せ!」
病室の空気が一気に慌ただしくなった。
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遠くから歩いてくる伊織の姿が見えた。
心なしか周りを警戒しながら、早足で近づいてくる。
絵里奈は、ほっとして伊織に向かって歩き出す。
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その背中を、新田はじっと見つめていた。
おまえだけしあわせになるなんて、許さない。
ごめんねまだあいしてる。
その目には、静かで、底の見えない闇が宿っていた。
そして、遠く離れた病院では、新田の名前が警察無線に流れ始めていた。
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駅からの帰り道は地方とはいえ、比較的人通りも多い。
少なくなるのは、マンションの近くの路地だけだ。
伊織が絵里奈に寄り添うようにして、帰り道を歩く。
角を曲がった。
絵里奈は、肺腑をえぐられたような感覚に襲われた。
新田がいた。
間違いなかった。風貌は著しく変貌を遂げているが、あの目つき。
足が震える。
なぜあの男がここに。
「…え、り、な」
男がつぶやいた。
伊織は、瞬間的に、前に出た。
絵里奈を背後に隠す。
「…知りあい?」
「…あいつ、よ…」
「…あいつ…?」
えりなか震えているのが分かった。
伊織は、それでなんとなく察した。
男と向き合う。
自分の事が見えていないようだった。
異様な目つきをしていて、手にはナイフを持っている。
今世間を騒がせている、片桐を襲った、通り魔がこいつだろう。
伊織は、ハンドライトをポケットから取り出す。
「え、り、な、おまえだけがおまえだけがおまえだけが…」
完全に狂気に取りつかれているようだった。
伊織は、男の目にハンドライトを照射した。
「うおおお」
「絵里奈、逃げるぞ」
絵里奈は、足がすくんで動けないようだった。
「ご、ご、ごめん、い、伊織…」
「絵里奈っ」
伊織は絵里奈を横抱きにする。
今来た道をそのまま引き返していく。
うしろから、絵里奈あああ、と叫ぶ声が聞こえてきた。
「くそ、間に合わない」
震えている絵里奈を一度そっとおろすと、背後から迫る男に対峙した。
「えりなえりなりなえりなりな、ごめんねまだあいしてるごめんね」
もうやるしかなかった。もとより話など通じそうではない。
「絵里奈、警察を」
「あ…う…うん…警察…スマホ…」
震える手でスマホの操作を始めた。
男がナイフをふりかぶってくる。
ライトをかざすが、男は片方の手で防いだ。
気が触れている割には冷静だ。
背後の絵里奈が通話をし始めたのが分かった。
とりあえず時間を稼ぐしかない。
ぶんぶんと振り回し始めたそのナイフを躱す。
男は右手でナイフを振り回し、左手で目を防ぐように構えている。
徐々に押される。
だが、背後は、絵里奈だ。
ナイフを振りかぶった隙をつき、体当たりをした。
男は、意外にもがっしりしていて、少しよろめくだけで踏みとどまった。
通りのほうから声が聞こえる。
「おい、なんだあれ」
「誰か、おい、警察を」
伊織はもう一度男を突き飛ばすように腹に蹴りを見舞う。
男はよろめき後ずさりする。
ぶつぶつ言っているのが聞こえる。
背後の絵里奈がようやく立ち上がった。
「絵里奈、逃げろ」
「伊織も」
「すぐ行く」
絵里奈が、人だかりのほうへ走っていく。
男と対峙する。
もう完全に狂っている。
「えりな、おまえだけがしあわせ、えりな」
「いい加減にしろ」
狂っているのに、冷静にナイフだけは繰り出してくる。
まるで、魔物と戦っているようだ。
切っ先が腕をかすめた。
鈍い痛みが走る。
「くそ」
次の瞬間、強烈な蹴りを喰らった。
前のめりになる。
「ぐ…」
「えりなあああああ」
「伊織!」
絵里奈の声が聞こえてくる。
「来るな!」
「えりなあああ」
前のめりになっている伊織をやりすごし、一直線に絵里奈のほうへと向かっている。
「えりななあああああああ」
手には、ナイフを握りしめている。
させるか。
渾身の力を振り絞り、男の背後にタックルをした。
もんどりうって倒れ込んだ。
細い路地に、仰向けになっている男と自分。
起き上がり、男に馬乗りになる。
顔を見るが、見たことが無かった。
「誰だ、お前」
伊織はそう言ったが、男は、ぶつぶつ言っているだけだ。
話しにはならない。
男から離れる。
冷静に見渡すと、少し遠く、人だかりのほうに絵里奈がいた。
そこから、警察官の姿が見えた。
安堵した。
絵里奈に向かって、歩き出す。
「伊織!後ろ!」
絵里奈の声がした。
「ぐ…」
背中に、鈍い痛みが、くいこんでくるような痛みだった。
「えりなえりな…ごめんねまだあいしてる」
さらに鈍い痛みが走る。
「伊織いいいい!!」
絵里奈が叫んでいる。
男は離れそうにない。
「しつこいな」
右腕で背後にいる男に肘内を喰らわす。
男にクリーンヒットしたようだ。
振り返る。
男は、あとずさりをしている。
もう一度。
そう思ったが、声がする。
背後を見ると、警察官の姿。
遠くに絵里奈の姿。
視界が、徐々に滲み始めた。
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優子は、片桐が搬送された病院で、警察官から状況を聞かされた。
片桐を襲った犯人は、新田浩介。
会社を懲戒解雇された、かつての絵里奈の元夫だ。
その名を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
優子はすぐに絵里奈のスマホへ電話をかける。
しかし、つながらない。
嫌な予感を押し殺しながら、今度は支店に電話を入れた。
「あ、もしもし」
「人事の中村です。水原GMは?」
「つい先ほど、お帰りになられました」
受話器の向こうで、サイレンの音がかすかに響く。
「何かあったの? 音が近いけど」
「いや、たった今ですね、鳴ったの」
胸が締めつけられるような感覚が広がる。
悪い予感が、確信に変わりつつあった。
優子は電話を切ると、震える指で再び絵里奈のスマホを鳴らし続けた。
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視界がぼやけている。
絵里奈が見える。
声が遠い。
…しっ…り…て…
サイレンの音が聞こえる。
心臓の鼓動が聞こえる。
あの男は、どうなった?
絵里奈、無事なのか?
声に出したつもりが出ていない。
遠いのだ。すべてが。
手を伸ばして絵里奈に触れようとした。
動かない。
…き…えま…か…
…救……に乗…ま……
…ゆっく………
宙を浮いているような感覚に覆われた。




