9.プロポーズ
絵里奈の家に着いたのは、明け方にはまだ少し早い午前三時半頃だった。
助手席で眠っている絵里奈を横抱きにし、そのまま部屋へと運ぶ。
なんとか玄関の鍵を開け、そっとリビングのソファへ寝かせる。
彼女はまだ深い眠りの中にいた。
伊織は、メルセデスを自宅の駐車場へ戻すため、一度家へ向かった。
マンションの駐車場は一台分しかない。車なら五分ほどの距離だ。
外に出て、合鍵でしっかりと施錠する。
東の空がわずかに白み始めていた。
徹夜で運転してきたはずなのに、不思議と疲労はそれほど感じない。
自宅に車を停め、着替えを取りに部屋へ入る。
バッグに服を詰めていると、絵里奈からメッセージが届いた。
――どうやら目を覚ましたらしい。
「今、どこ?」
「家。着替えを取りに来た。」
「了解。待ってる。」
短いやり取りを終え、伊織は歩いて絵里奈のマンションへ戻った。
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玄関の鍵を開け、そっと中に入る。
ちょうど絵里奈がシャワーを終えたところだった。
「ごめんね、伊織。今日、昨日? どっちでもいいや。わざわざ迎えに来てもらっちゃって……眠い?」
「少しだけ」
「……シャワー、浴びる?」
その声音は、どこか柔らかく、誘うようだった。
「うん」
伊織はバッグを持ってバスルームへ向かう。
背後から「待ってるね」と小さな声が届いた。
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「……伊織」
「絵里奈……」
寝室のベッドで、二人は静かに寄り添っていた。
触れ合うたびに伝わる体温。
徹夜明けのせいか、伊織の身体はどこか熱を帯びている。
その温度が、絵里奈の胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。
目を閉じると、静かな海に潜っていくような感覚が広がった。
遠くから寄せてくる波のように、胸の奥が揺れる。
全身の力が抜けていくのに、どこかで確かに繋がっている安心感がある。
やがて、静かな余韻だけが残った。
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午前八時。
明け方からずっと、二人はベッドでまどろんでいた。
「……明日さ、実家に行く用事があって」
「うん」
腕の中で、絵里奈がぽつりと続ける。
「その時に、伊織を……両親に紹介したいんだけど」
「……え?」
思わず言葉が詰まった。
「伊織を紹介したいの」
「絵里奈……」
「ずっと、両親には心配かけてきたの。兄と弟はもう家族がいて、私だけが……こんな感じで」
「……」
「だから、今度こそ安心させてあげたい」
「……ご両親は、離婚の時のこと、知ってるの?」
「全部知ってるよ」
「そうか……じゃあ、俺は責任重大だね」
「え?」
「絶対に失敗は許されない」
絵里奈は小さく息を呑んだ。
伊織も一度は結婚を経験し、そして破綻した。
不安がないと言えば嘘になる。
それでも――絵里奈と共に生きたい。
彼女の方が先に、その不安を受け止めてくれた。
これ以上、彼女に言わせるわけにはいかない。
死ぬ時は絵里奈に看取られたい。
絵里奈が死ぬ時は、自分が看取りたい。
「絵里奈」
伊織は彼女を抱き起こし、向かい合って座った。
「……俺は、絵里奈に再会して」
「うん」
そっと手を握る。
「命を貰った。そして、生き方を教わって、ここまで来た。
これから先も、ずっと一緒に歩いていきたい」
絵里奈の瞳から、涙がこぼれた。
「ご両親に挨拶させてほしい」
そして、彼女を抱き寄せて告げる。
「俺と結婚してください」
「……はい」
涙を流しながら、絵里奈は静かに頷いた。
その瞬間、二人の未来は確かに結ばれた。




