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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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89/107

89.「ごめんね、まだ愛してる」――ぶかぶかのスーツを纏った亡霊。絵里奈を追う新田、復讐の刃は“下り電車”に揺られて。

会社員男性が重体。

その一報を、新田は橋の下に置いた古いラジオから聞いた。


あの後、すぐにここへ戻ってきた。

夜明け前の川風は冷たく、湿った段ボールが背中に貼りつく。

ラジオの音は雑音混じりだったが、内容ははっきりしていた。

住宅街の路地で、男性が倒れているのが発見され、意識不明の重体で搬送された。


新田は、目を閉じた。

あの場所は、夜になると人通りがほとんどない。

車の中に倒れていた片桐が発見されるまで、時間がかかったのだろう。


ラジオの音が、川の流れに吸い込まれるように遠ざかっていく。

新田は、膝を抱えたまま、ただ静かに息を吐いた。


すっきりした、とは思わないが、犯行に対しての良心の呵責みたいなものも無かった。

やらなければならないことをした。

そんな感じなのだ。

そして、もうひとつやらなければならないことがある。


絵里奈。

お前だけが幸せになるなんて許せない。

二人に幸せになろうと誓い合ったじゃないか。

ごめんね…まだ、愛してる。



アタッシュケースを開ける。

会社員時代のスーツだった。

電車に乗るには、ホームレスの格好だと浮きすぎる。

久しぶりに袖を通してみたが、妙にぶかぶかな気がした。

内ポケットに、血のついた折りたたみ式のナイフを忍ばせる。

今日は、いないかもしれない。

あんな事件のあとだから、単独行動はしていないだろう。

それでも、向かわずにはいられなかった。


----


緊急会議には、今日は絵里奈も呼ばれていた。

駅からはタクシーを使うように、と優子に念を押された。


会議室の扉を開けた瞬間、ざわついていた室内がぴたりと静まった。

驚き、好奇、そして憐れみ。


さまざまな視線が一斉に絵里奈へ向けられる。

胸の奥がわずかに強張る。


ここに来たのは、片桐襲撃の直前まで一緒にいた彼女からも事情を聞きたい、と専務が言ったためだった。

絵里奈は、静かに席へ向かいながら、また自分が事件の中心に置かれているという現実を痛いほど感じていた。

絵里奈が席に着くと、専務の木崎が腕を組んだまま、低い声で口を開いた。


「水原GM、悪いけどこないだのこと、話してくれんか」


絵里奈は、ゆっくりと頷いた。

視線が痛いほど集まっている。

誰もが彼女が何か知っている、という前提で見ていた。


「会議が終わって、片桐さんが駅まで送ってくれました。 ホームまで一緒に降りて私はそのまま電車に乗りました」


淡々と話しているつもりだったが、声がわずかに震えた。


「その後は?」


総務部長が身を乗り出す。


「分かりません。 電車が動き出す前に、片桐さんが階段を上がっていくのが見えました。それが最後です」


「つまり……犯人は、駅から片桐常務をつけていた可能性がある、ということか」


広報部長が言うと、別の部長が続けた。


「いや、水原さんを狙っていた線もあるだろう。 前回の件もあるし」


その言葉に、絵里奈の肩がわずかに揺れた。

優子がすぐに口を挟む。


「憶測で話すのはやめてください。警察もまだ何も断定していません」

「しかしだな、中村部長。会社としては最悪のケースを想定しないといけない」

「最悪のケースとは、何ですか?」


優子の声は静かだったが、会議室の空気がぴりついた。


「水原さんが、再び狙われる可能性だ」

その瞬間、絵里奈の胸の奥に、冷たいものが落ちた。


その場にいてずっと黙っていた社長が、重い口を開いた。

「水原さん、しばらく在宅勤務に切り替えてはどうか。安全のためだ」


安全のため。

その言葉が、妙に空虚に響いた。

絵里奈は、ゆっくりと顔を上げた。


「私が出社すると、会社に迷惑がかかるから、ですか?」


誰も答えなかった。

沈黙が、答えそのものだった。

優子が堪えきれずに言う。


「絵里奈、誤解しないで。 あなたを守るための」

「守るためなら、もっと早く言われていたはずよ」


絵里奈の声は、静かで、痛いほど冷静だった。

その空気を断ち切るように、木崎が机を叩いた。


「お前ら、ええ加減にせえや!」


全員がびくりと肩を揺らす。


「水原さんは被害者や!会社の都合で追い詰めるような真似、二度と口にするな!」


広報部長が慌てて言い返す。


「い、いえ、我々はただリスクを――」

「リスクやと? 社員を守れん会社が、何のリスク管理や!」


怒号が会議室に響いた。


木崎は深く息を吐き、絵里奈の方を向いた。


「水原GM、今日はもう帰りや。警察から正式に話が来たら、また呼ぶけえ」


絵里奈は小さく頷き、席を立った。

会議室を出る瞬間、背中に刺さるような視線を感じた。


優子は、彼女の後ろ姿を見送りながら、

胸の奥に、どうしようもない怒りと無力感が渦巻くのを感じていた。


この会社は、弱い者から、切り捨てていく。

その現実が、今日ほど鮮明に見えた日はなかった。


---


会社を出ると、外はもう薄暗かった。

優子に言われた通り、絵里奈はタクシーを呼び、後部座席に座る。


窓の外を流れていく街の灯りが、妙に遠く感じる。

胸の奥には、会議室で浴びた視線のざらつきがまだ残っていた。


また、私が中心に置かれている。

その事実が、じわりと心を締めつける。


タクシーが駅前に停まると、運転手に礼を言い、降り立った。

夕方のラッシュにはまだ早い時間帯で、駅前は比較的静かだった。

だが、その静けさが逆に落ち着かなかった。


---


まさか、本当にいるとは思わなかった。

ああ、これが運命なんだ。


スーツの姿の新田が、絵里奈の後を尾けはじめた。

駅の階段を降りていく。

下り方面の電車に乗るはずだ。

ひょっとして今は、都内に住んでいないのかもしれない。

そんなことを考えながら、新田はつかず離れずの距離を保っていた。


----


ホームに降りると、ちょうど電車が入ってきた。

絵里奈は、ためらわず乗り込む。

車内はまばらに人がいる程度で、空席も多い。

座席に腰を下ろし、深く息を吐いた。


私が出社すると、会社に迷惑がかかるから、ですか?

自分で言った言葉だが、冷静になると、確かに迷惑だろう、と思った。

もし、犯人が自分たちの事を知っているとしたら。


片桐の怪我の仕方は、異様だった。

強い憎悪を感じるような、そんな怪我のさせ方だった。

いや、あるいは、殺意もあったのかもしれない。

常務という立場上、逆恨みを買うことが無いと言えば嘘にはなる。

だが、恨みを買うような仕事の仕方は、片桐に関して言えばないはずだ。

それとも自分が知らないところで、何かあったのか。

考えても答えが出ない。

言葉にならない不安が膨らんでいく。


電車が動き出す。

窓の外の景色が流れ始める。


絵里奈は気づいていなかった。


少し離れたところに潜む影の存在を。


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