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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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88/107

88.「通り魔なわけないやろ!」――木崎専務の激昂。崩壊寸前の組織を救うため、探偵・篠崎海斗へ下された“非公式の特命”。

会議が終わり、総務フロアに戻った時、総務の外線電話が鳴る。

優子は、デスクの上の受話器を手に取る。

信じられない一報だった。

片桐が緊急搬送されたという警察からの連絡だった。


優子のただならぬ様子に周囲の社員たちもざわつき始める。

優子は、手短に社員達に説明をする、

そして、その後すぐに絵里奈へ連絡を入れた。

電話口の絵里奈は、最初は落ち着いていたが、状況を聞くにつれ、息が浅くなっていく。


「片桐さんが?どうして」


絵里奈の声には、驚きと、どこか言いようのない不安が混じっていた。

つい最近、自分が襲われたばかりだ。


「とにかく、会社に戻るわ」

「ダメ。絵里奈、今日はそのまま帰って。私が対応するから」


優子は強い口調で言った。

人事部長としての判断でもあり、親友としての本音でもあった。


----


総務部はすぐに緊急対策会議を開いた。

社長室からも連絡が入り、警察との連携、社員への説明、メディア対応など、次々とタスクが積み上がる。


「犯人はまだ捕まっていないのか」

「片桐の容体は?」

「社員の安全確保を最優先にしろ」


声が飛び交うが、誰も核心には触れない。

なぜ片桐が狙われたのか。

その問いだけが、重くフロアに沈んでいた。


優子は、片桐が倒れていたという報告書を読みながら、胸の奥にざらつく感覚を覚えていた。

これは通り魔なんかじゃない。そんな直感が、消えなかった。


---


その頃、絵里奈は自宅でニュース速報を見つめていた。

「会社員男性が重体」

名前は伏せられているが、状況から片桐だと分かる。


胸の奥が冷たくなる。自分が襲われた時の感覚が、ふいに蘇る。

背中を走るあの冷たい気配。

視界の端で揺れる影。

息が詰まるような恐怖。


伊織が隣に座り、そっと肩に手を置いた。


「無理に見なくていい」

「でも、気になるの。あの人、私を駅まで送ってくれたばかりなのに」


絵里奈は、胸の奥に芽生えた嫌な予感を振り払えなかった。


----


深夜、会社に残っていた優子は、片桐の緊急連絡先に電話を入れた。

家族が病院に向かっているという。

警察はすでに事情聴取を始めていた。


優子は窓の外を見つめた。

街灯の下を、誰かが歩いていく。

その影が、妙に長く伸びて見えた。


誰が、一体、なんのために。


答えは出ないまま、時間だけが過ぎていった。


----


片桐襲撃の知らせが社内に広がるのに、時間はかからなかった。

だが、最初に動いたのは総務でも人事でもなく、広報だった。


「メディア対応を最優先します。社内向けの通知は後回しで」

その一言で、フロアの空気が変わった。

社員の安全より、会社の外向きの顔が優先される。

この会社では、危機が起きた時ほど、そうした歪みが露骨に表に出る。

優子は、広報部長の言葉に眉をひそめた。


「まず社員の安全確保が先でしょう。犯人が捕まっていない以上、通勤ルートのさらなる見直しや警備の強化が必要です」

「人事は人事の仕事をしてください。広報は広報の判断をしますので」


突き放すような口調だった。

優子は言い返したかったが、今は時間が惜しい。

絵里奈の顔が頭に浮かんだ。


----


緊急会議では、各部門が一斉に口を開いた。


「これは総務の管理不足だ」

「いや、人事がもっと早く危険性を把握すべきだった」

「そもそも片桐常務は何をしていたんだ」

「個人的なトラブルなら会社は関係ないだろう」


誰も本質を見ようとしない。誰も社員の安全を語らない。

ただ、責任の所在を押し付け合う声だけが飛び交う。

優子は、静かに会議室を見渡した。

この会社は、危機に弱い。

それは、制度の問題ではなく、文化の問題だ。


「ところで片桐常務は、最近、水原さんと行動を共にしていたようですが」


その一言で、会議室の空気が変わった。

視線が一斉に優子へ向く。


「会議の後、駅へ送迎をしてくれていました」

優子が答える。


「水原さんが、また狙われる可能性は?」

「前回の事件と関連があるのでは?」

「会社として、彼女の行動を制限すべきでは?」


優子は、喉の奥が熱くなるのを感じた。

その時だった。

会議室のドアが勢いよく開かれて、木崎が入ってくる。


「おのれら、なにこんなとこで、ぺちゃくちゃやっとんのや?!」

「専務」


優子が思わず席を立つ。


「片桐ちゃん、おそわれとんのや!まずは犯人つかまえてこんか、ああ!?」


珍しく激昂している様子だった。


「しかし、それは警察の仕事じゃ…」


部長の一人が口を開く。


「じゃかあしい!いいから、てめえら全員、自分とこの社員、家族全て端から端まで、思い当たりそうなやつをきいてこんか!」


「ですが…」


「通り魔な訳ないやろ?!」


部長たちが上げた顔は真っ青だった。


「ええか、おのれら?!これで、二回目やど!次あったら、もう会社つぶれてまうど!!!」


部長たちはその言葉で、今回の事態の重さに気が付いたようだ。


絵里奈の一件で、女性社員の退職者が続出した。

内定を出していた中途入社の社員からも内定辞退の連絡があとを絶たなかった。

そして、今年度の新卒採用に至っては、応募がゼロだった。

この規模の会社で、新卒の応募がゼロというのは極めて異例なのだ。


部長たちは、会議室を出て、走り出した。


静まり返った会議室には、木崎と優子しかいなかった。


「木崎、専務」


「優子…あいつ、篠崎…」


「…はい」


「探偵やっとるんだって?」


「ええ、個人で」


「…片桐ちゃん襲った犯人捜し、手伝ってもらえんかな?」


「…え?あ、まあ、できなくはないでしょうが…」


「金はワシが出すけえ、準備してくれんか?」


「…分かりました」


そこまで言うと、木崎も会議室を出て行った。


---


翌朝、始業時間よりもずっと早く、総務フロアには異様な熱気が漂っていた。

普段は静かなオフィスに、電話のベルと早口の会話が飛び交う。


「警察から追加の連絡は?」

「まだです! ただ、昨夜の聞き取りでは」

「いいから、要点だけまとめて!」


総務の若手が青ざめた顔で走り回り、広報は資料を抱えて右往左往している。

人事には、社員からの問い合わせが殺到していた。


「通勤ルートは変えたほうがいいんですか」

「犯人って、まだ捕まってないんですよね」

「また誰か狙われるんじゃ……」


優子は、一つひとつ丁寧に答えながらも、胸の奥に重いものを抱えていた。

社員たちの不安は当然だ。

だが、会社はその不安に応える準備ができていない。


「優子さん、これ確認してください!」


広報部の若手が駆け寄ってきた。

手には、メディア向けの“想定問答集”。


ざっと目を通した瞬間、優子は眉をひそめた。


「これ、片桐常務の個人的トラブルの可能性が高いって書いてあるけど?」

「はい。会社としての責任を最小限にするために――」

「勝手に決めないで。警察はまだ何も断定していないわ」

「でも、会社のイメージを守るためには」


優子は、深く息を吸った。


「イメージより、事実を優先して。それに、片桐常務の家族がこれを見たらどう思うか、考えて」


若手は言葉を失い、資料を抱えて戻っていった。

広報は会社を守ることに必死だ。

だが、その必死さが、かえって組織の歪みを露呈させていた。


---


総務部では、警備会社との打ち合わせが始まっていた。


「正面玄関に警備員を増員します」

「裏口の施錠時間も見直しましょう」

「社員証の再発行を急いでください」


だが、どれも対症療法にすぎない。

根本的な不安は消えない。

「これ、社員の不安を本当に解消できるのか……?」

誰かが呟いたが、誰も答えなかった。


---


昼前、社長室から優子に呼び出しが入った。


「水原さんの件だがしばらく在宅勤務にしてもらえないか」

「理由は?」

「メディアが騒ぎ始めている。彼女が出社していると、余計な憶測を呼ぶ」


優子は、静かに言った。


「それは保護のためですか?」

社長は言葉を詰まらせた。

「もちろん、それもあるが、会社のリスク管理だ」

「彼女は被害者です。会社の都合で、また孤立させるような真似はしたくありません」


社長はため息をつき、視線をそらした。


「万が一、ということもある。検討してくれ」


優子は黙って頭を下げたが、胸の奥は煮え立っていた。


午後になると、木崎専務が総務フロアに現れた。

普段は豪快な男だが、今日は目の奥に焦りが宿っている。


「おい、優子。篠崎くん、なんて言っとった?」

「すぐに動けるそうです。 ただ、情報が少なすぎるので、まずは現場の状況を」

「なんでもええ。とにかく早う動いてもらわんと」


専務は、総務の若手を呼びつけた。


「片桐ちゃんの車、どこで見つかったんや?」

「え、えっと警察からの情報では、住宅街の」

「地図持ってこい! 篠崎くんに渡す!」


若手は慌てて走り去った。


夕方になると、社内の噂はさらに広がっていた。


「犯人、まだ捕まってないんだって」

「水原さん、また狙われるんじゃ……」


不安と憶測が混ざり合い、フロア全体がざわついている。

優子は、社員たちの顔を見渡した。


本当に、このままでは、組織が壊れる。


その危機感が、静かに胸に広がっていった。


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