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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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87/107

87.「久しぶりだな、片桐」――闇に潜んだ元夫・新田の逆襲。折れた前歯の怨念が、幸せの絶頂を切り裂く。

今日も今日とて、食い物を探しに、橋の下から河川敷の階段を登る。

まだ明け方だった。


朝になると、通勤時間や通学時間になり、人が増える。

特に最近は、SNSの普及で、面白おかしくホームレスを叩いて動画に撮影する輩もいる。

人は少ない方がいいのだ。

実は、駅が狙い目だった。


始発電車の前に構内へのシャッターが開く。

駅の階段や、連絡通路のごみ箱を漁る。

食いかけをビニール袋に入れて、捨てていく人間が駅には多いのだ。


「今日は、大漁だな」

燃えるゴミ用のごみ箱の中にマクドナルドの袋の中に、ポテトが入っていた。

ためらうこと無く袋ごと掴んで引っ張りあげる。

駅員と目が合った。

だが、駅員は何も見てないかの様に通り過ぎていった。


駅の階段を登り、地上に出る。

乗客の邪魔にならない位置に座り込み、袋からポテトを取り出して、口に入れた。

パサパサしてはいるが、しっかりと味が残っている。


久しぶりの塩気が、身体に染みた。

明日も食えるか分からない。


「さて、と」


ゆっくりと立ち上がり、空き缶拾いに向かった。


----


夕方になると、今度は、退勤ラッシュが待ってる。

駅構内は、隅にいれば、どこに座ってても、特に誰にも何も言われない。


その日は、空き缶拾いの後、わすがな小銭を握りしめて、駅の構内に続く階段の隅の方に、身を屈めて座っていた。

ここで、終電まで過ごして、シャッターが閉まる前に、駅から出て、橋の下に向かう。


ふと、階段を見上げる。

スーツ姿の男女が並んで、階段を下りてきた。

両方とも、どこかで見たような気がした。

目を凝らして、二人の姿を追っていく。


片桐だ。


そして、もう一人が、絵里奈だった。


「どうして、駅に?」


何か他に感情が出てきそうなものだったが、咄嗟に出た言葉はそれだけだった。

もう十年、いや下手したら二十年以上も前の事のような気がする。

座り込んでいる新田の目の前を通り過ぎて、階段を降りていく。

新田は、ゆっくりと立ち上がり、身を屈めながら、後をつけた。


今しがたホームに入ってきた電車に、絵里奈は乗り込んでいった。

湘南新宿ラインの下り方面だった。

片桐は、降りてきた階段を戻るように、登っていく。

何故か、足がそちらに向いている。

だんだんと、過去の記憶が甦ってくる。


殴られた事を忘れた事は無い。


見つからないように後をついて、地上に出ると、片桐がハザードをたいてある車の運転席に乗り込むのが見えた。

車のナンバーは覚えた。

またここに来るとは限らないが、次に見かけたら、新田は、ある意味、運命だと思っていた。


----


新田は空き缶拾いの後、駅に来ていた。

夕暮れ時を迎え、人の流れも徐々に増えだしてきつつある。

入口の階段付近の、人の流れに邪魔にならない位置に座り込む。

すると、見覚えのあるナンバーの車が駅のロータリーに滑り込んできた。


片桐だった。

あの日、見かけた以来だった。


乗降場に車が停まると、助手席から降りてきた人物が、遠目にも絵里奈だと分かった。

以前よりさらに美しさに磨きがかかったようで、年を重ねた今のほうが、若い頃よりずっと魅力的に見える。

街頭のテレビで、彼女が作家の水原伊織と再婚したことを知った。

つい先日、会社の元社員に襲われたというニュースも見た。

加害者の田崎という男は、名前だけは聞き覚えがある。

懲役十二年の実刑判決を受けたはずだ。

詳しい事情は分からない。

それでも、こうして遠くから眺めるだけで、今の絵里奈が放つ魅力は、かつてとは比べものにならないほど強く感じられた。


二人は、駅のホームへと向かう階段を降りていく。

ピンときた。

おそらく、送迎だろう。

一人きりの行動を控えさせているはずなのだろう。

絵里奈の行き先は、以前に見た、下り方面のはずだ。


新田の中に、どす黒い感情が沸き起こる。

特に片桐だった。

あの男に折られた前歯のせいで、人前でまともに笑えなくなった。

歯の隙間が見えて、相手が笑いをこらえているのが分かるのだ。


片桐が階段を降りていく絵里奈の背中を見送っている間に、新田はゆっくりと立ち上がった。

ロータリーに停められた車の、後部座席のドアに手をかけた。

鍵は、かかっていなかった。


新田は、音を立てないように身体を滑り込ませ、座席の下に身を縮める。

車内には、微かに芳香剤の匂いが残っていた。

かつて自分を殴った男が好む匂いだと思うと、胸の奥がざらついた。


数分後、足音が近づいてくる。

片桐だ。

運転席のドアが開き、シートが軋む。

エンジンがかかり、車がゆっくりと動き出す。


新田は息を殺し、背中に汗が滲むのを感じた。

新田に気がついていないようだった。


駅前の喧騒が遠ざかり、車は住宅街へと入っていく。

やがて、車通りの少ない細い道に差し掛かった。

その瞬間だった。

新田は、ゆっくりと身体を起こした。



後部座席の影から、片桐の背中を見つめる。

片桐はまだ気づいていない。

ルームミラーにも映らない角度だった。


「久しぶりだな、片桐」


低い声が、車内に落ちた。

片桐の肩がびくりと跳ね、ミラー越しに目が大きく見開かれる。

ブレーキが踏まれ、車が急停止する。

エンジン音だけが虚しく響いた。


「お前は…」


片桐の声は震えていた。

新田は、ゆっくりと前の座席に手をかける。


「覚えてるよな。俺の歯のこと」


片桐は言葉を失い、喉が鳴る音だけが聞こえた。

新田の胸の奥で、長い年月くすぶり続けていたものが、静かに形を成していく。


怒りとも違う。

憎しみとも違う。

ただただ黒い何かだった。


車内の空気が、張り詰める。

そして、新田が内ポケットから折り畳み式のナイフを取り出すと、片桐の肩に思い切り、突き刺す。


「うおおっ」


片桐がひるんでいる隙に、後部座席から、助手席に飛び移る。

肩を押さえてナイフを抜こうとしている片桐の顔面に蹴りを入れる。


「く、ぐおお」

「お前だけは許さない」


自分でも怖いくらい冷静な声だった。

再び、片桐の顔面や身体に繰り返し、蹴りを入れていく。

次第に、片桐の力が抜けていくのが分かった。

新田は、片桐の肩のナイフを引き抜いて内ポケットにしまう。

片桐はぐったりしていた。

肩と口から血が流れている。

新田は、助手席のドアを開けて、周りに誰もいないことを確認すると、そっと降りる。

そのまま、夜の闇に潜む様に立ち去っていった。


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