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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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85/107

85.「大切にしたいものができたから、怖い」――古巣へ刻んだ銀狼の言葉。村口への義理と、過去を置き去る“帰還のマイバッハ”。

正門から入って、すぐに駐車場がある。

村口の会社、つまり伊織が前に勤めていた会社の来客用駐車場にマイバッハを停める。


村口を通して、講演依頼があった。

会社の総務から届いたメールには、丁寧すぎるほどの文面が並んでいた。

その中央に、ひときわ慎重に書かれた一文がある。


「講演料は 五十万でお願いできますでしょうか」


伊織個人への報酬としては、かなり安いほうだった。

ただ、金額はどうでも良かった。

村口の顔を立てるためだけに行こうと決めた。


----


エントランスに入ると、見知った顔の総務課長と部長が出迎えてくれた。


「お久しぶりです」

伊織がそう言って、一礼をする。


「お久しぶりです。それにしても、あの山村君が、直木賞作家になるなんてね」

この総務部長は、伊織が数少ない認めていた人だった。


「自分でも、驚いてますよ。まさか、この会社にこんな形で戻ってくるなんて」

「それにしても、あの山村君が」

女の総務課長がそう言って、微笑んでくる。


「何があるか分からないものですね」

伊織も笑い返す。


「じゃあ、どうぞ、こちらへ」

案内されて、エレベーターに乗った。


----


2階のホールが講演会場になっていた。

パーテーションで仕切られたスペースに、整然と椅子が並んでいる。

その向こう側、本会場には、すでに人がぎっしりと詰めかけていた。

司会進行役の社員が、緊張を隠しきれない声でマイクを握る。


「本日は、作家の水原伊織さんにお越しいただいております。水原さんは、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、以前は弊社の社員として――」

紹介の言葉がホールに響き、ざわめきが静かに収まっていく。


司会の声が一段落し、会場の照明がわずかに落ちた。

ざわめきが、波が引くように静まっていく。


「それでは、水原伊織さん、お願いいたします」


その言葉と同時に、視線が一斉に入口へ向けられた。

伊織は、ゆっくりと立ち上がる。

胸の奥に、懐かしさとも緊張ともつかない感覚がひとつ、静かに灯る。

パーテーションの影から姿を現すと、会場から拍手が沸き起こる。

驚き、期待、そして、かつての同僚が戻ってきた、という微かなざわめき。

歩みは落ち着いている。

だが、足音が自分の耳にだけ少し大きく響く。

壇上に上がり、マイクの前に立つ。

かつての上司や同僚が、前列に座っている。

その視線は好奇心、驚き、そして少しの敬意が混ざっている。

さらに、懐かしい顔がいくつも見えた。

そのどれもが、昔より少し年を重ねている。


伊織は、深く息を吸う。

「水原伊織です。本日はお招きいただき、ありがとうございます」

静かな声がホールに広がる。


「まあ、見知った顔もたくさんありまして、こんな形でみなさんと再会するとは思ってもいませんでした」

一呼吸置く。

「今回は、村口さんからの依頼を受けて、こうしてここに立っております」

「私は、ここで働いていた頃は正直に言えば仕事に何一つ興味が湧きませんでした。仕事は嫌いではなかったけれど、どこかでずっと、何かを置き忘れているような感覚があったんです」

会場の空気が、少しだけ柔らかくなる。

「どうでもいい、という思いで、毎日ここに通っていました。その後、退職を決めたときは、すでに今のライフスタイルの形はできていました」

少し間を置く。

「あのときの私は、選びました。自分の人生を」


前列の社員が、静かに頷く。

「物語を書くというのは、誰かの人生を想像することです。そして、想像するためには、自分の人生からも逃げられない」

会場の空気が、静かに深まる。

「皆さんも、日々の仕事の中で、迷うことがあると思います。でも、迷うというのは自分の人生をちゃんと見ている証拠なんです。私は、ここで働いていた時間がずっと無駄に思えていましたが、今となっては、この時間があったから、今の私がいます。今日こうして、かつての職場に戻ってこられたことを、とても嬉しく思っています。皆さんの前で話すことで、ようやくひとつ、区切りがついた気がします」

一呼吸間をおいて、続ける。

「どうか皆さんも、自分の人生を大切にしてください。そして、迷ったときは、少しだけ立ち止まって、自分の声を聞いてみてください」

深く一礼すると、会場から大きな拍手が湧き上がった。

その音は、伊織の胸の奥に静かに染み込んでいった。


質問の時間が始まる。

伊織は、総務部長に社員から直接質問を受けてもいい、と言っていた。


司会がマイクを握り直し、少し緊張した声で言う。

「それでは、ここからは質疑応答のお時間とさせていただきます。質問のある方は、挙手をお願いします」

会場の空気が、ふっと揺れた。

誰が最初に手を挙げるのか、その一瞬のためらいが、妙に懐かしい。

最初に手を挙げたのは、前列の男性社員だった。

伊織が在籍していた頃は、まだ中堅クラスの社員だった。

今は、すこしだけ管理職の雰囲気をまとっているように感じた。


「水原さん。…えっと、山村さんだった頃に、よく一緒に残業していた飯田です。覚えていらっしゃいますか」

伊織は、柔らかく微笑んだ。


「もちろん。社畜ナンバーワン争いをしていた頃が懐かしいです」

その言葉に、会場のあちこちで小さな笑いが起きる。


質問者の頬が少し赤くなる。

「ありがとうございます。えっと…質問なんですが――」

彼は一度息を整え、続けた。

「会社を辞めて、作家として生きていくと決めたとき、不安はありませんでしたか。もしあったとしたら、どうやって乗り越えたんでしょうか」

会場が静まり返る。

多くの社員が、その問いに自分自身の影を重ねているのが分かった。

伊織は、少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「不安は、ありました。正直に言えば、今でもあります」

ざわめきが起きる。

意外だったのだろう。

「でも、不安があるからこそ、前に進めるんです。不安がゼロになったら、人は立ち止まってしまう。僕は、自分が本当にやりたいことを選んだとき、初めて怖さを感じました」

伊織は、会場を見渡す。

「怖いというのは、逃げたいということじゃない。大切にしたいものができた、ということなんです」

質問者が、深く頷いた。

「だから、不安があるのは悪いことじゃない。むしろ、自分が何を大切にしているのかを教えてくれるサインなんです」

会場の空気が、ゆっくりと温まっていく。

「…ありがとうございます」

質問者が頭を下げると、自然と拍手が起きた。

飯田の質問に答えたあと、いくつかの手が次々と挙がった。


「作家として、一番つらかった瞬間はありますか」

「会社員時代の経験が、作品に影響したことはありますか」

「締め切りって、やっぱり地獄なんですか」


どれも素朴で、どこか微笑ましい質問だった。

伊織は、ひとつひとつ丁寧に答えていく。

「つらい瞬間は、書けないときではなく、書けているのに“これじゃない”と分かってしまうときです」

「会社員時代の経験は、作品の“空気”として残っています。人間関係の距離感とか、会議室の沈黙とか」

「締め切りは……まあ、地獄ですね。でも、地獄があるから天国もあるんです」


会場に笑いが広がり、空気が柔らかくほどけていく。

最後の質問が終わると、司会がマイクを持ち直した。

「それでは、質疑応答は以上とさせていただきます。本日は――」

拍手が再び広がり、伊織は軽く会釈をして壇を降りた。


エントランスに戻ると、村口が立っていた。

スーツ姿は相変わらず地味だが、どこか誇らしげな表情をしている。


「お疲れさまでした、伊織さん。すごかったですよ」

「そうか?緊張したけどね」

村口は、少し照れたように笑った。

「いや、あれは胸に来ましたよ。みんな、真剣に聞いてました。 あの山村さんが、こんなふうに話すようになるなんて……」

「またそれか」

「いや、ほんとに。俺、ちょっと泣きそうでした」

伊織は、ふっと笑った。

二人の間に、昔と変わらない空気が流れる。

気取らず、飾らず、ただ素直に話せる空気。

村口が、少し真面目な顔になった。

「来てくれて、本当にありがとうございました」

「いいんだ。村口の頼みじゃなかったら、来てない」

その言葉に、村口は一瞬だけ目を伏せた。

そして、静かに頷く。

「……ありがとうございます」


会社を出ると、夕方の光が駐車場に長い影を落としていた。

マイバッハの黒いボディが、淡い光を静かに反射している。


ドアに手をかける前、伊織は一度だけ振り返った。

かつて毎日通った建物。

何も変わっていないようで、すべてが遠い。


区切りがついた。


講演で言った言葉が、胸の奥で静かに反響する。


車に乗り込み、エンジンをかける。

低い振動が足元から伝わり、現実へと戻してくれる。


バックミラーに映る会社の建物が、ゆっくりと遠ざかっていく。


伊織は、ひとつ息を吐いた。


「さて、帰るか」


アクセルを踏むと、車は滑るように動き出した。

夕暮れの道を走りながら、伊織はふと、今日の講演で見た懐かしい顔を思い出す。


あの頃の自分。

あの頃の仲間。

そして、今の自分。


すべてが一本の線でつながっているように思えた。


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