84.「奪われたままにしないために」――テレビの向こうへ届けた銀狼の真実。そして、古巣からの“異例の凱旋依頼”。
文学賞受賞の翌日から、伊織の周囲は少しずつ騒がしくなった。
出版社の広報部から、インタビュー依頼が殺到しています、という連絡が入り、編集者の携帯はひっきりなしに鳴っている。
新聞社、文芸誌、テレビの文化番組。
どれも、三作目の受賞と、作家・水原伊織の復活を大きく扱いたいという。
伊織はどれもこれも慎重な姿勢だった。
「事件のことを聞かれる可能性はあります。どうしますか?」
編集者がそう尋ねると、伊織は少し考えてから答えた。
「作品の話だけにしたい。事件については、必要以上に語るつもりはない」
その声は静かだったが、揺らぎはなかった。
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ある文化番組の収録日。
控室の鏡の前で、伊織はネクタイを整えていた。
照明の反射が少し眩しい。
スタッフがノックして入ってくる。
「水原先生、あと五分で本番です。」
「分かりました。」
鏡越しに自分の顔を見ると、どこか他人のように感じた。
「変わったな」
小さく呟く。
まさかテレビに出る日が来るとは思いもよらなかった。
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司会者は柔らかい笑顔で迎えた。
「本日は、文学賞を受賞された水原伊織さんにお越しいただきました。」
拍手が起こる。
伊織は軽く会釈した。
「今回の作品は、歴史の転換点に生きた人々の姿を描いたものですが、執筆中、どんなことを意識されましたか?」
伊織は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「人は、どんな時代に生きていても、痛みや葛藤を抱えながら、それでも前に進もうとする。その強さを描きたかったんです。」
司会者は頷き、次の質問へ移る。
「読者からは救われたという声も多いようですね。」
「ありがたいことです。物語が誰かの支えになるなら、それ以上の喜びはありません。」
事件のことには触れられなかった。
番組側も配慮していたのだろう。
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夜の街は冷たく、ビルの明かりが静かに瞬いていた。
タクシーに乗り込む前、伊織はふと空を見上げた。
「こんなふうに、また表に出る日が来るなんてな」
事件の影は完全には消えていない。
だが、作品が評価され、言葉が届き、少しずつ作家としての自分が戻ってきている。
皮肉なものだった。
他人から、評価されなくてもいいと思い始めてから、なぜか評価されるようになった。
サラリーマン時代では信じられないくらいの賞賛を浴びている。
その実感が、胸の奥に温かく広がった。
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玄関の灯りがついていた。
扉を開けると、絵里奈がキッチンから顔を出す。
「おかえり。テレビ、観てたよ」
「恥ずかしいな」
「ううん。すごく良かった。伊織の言葉、ちゃんと伝わってた」
その笑顔を見た瞬間、一日の緊張がふっとほどけた。
「ただいま」
その言葉には、帰る場所があることへの感謝が静かに込められていた。
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ある日の出版社の会議室。
最近の伊織は、平日に都内でこういった打ち合わせをすることが増えていた。
新幹線を使えば、自宅からは一時間もあれば都内に出れる。
編集者が資料を広げながら、慎重な表情で切り出した。
「水原先生。某テレビ局から、事件を扱うドキュメンタリー番組への出演依頼が来ています。」
伊織は、手にしていたコーヒーカップをそっと置いた。
「事件そのものを扱う番組、ですか」
「はい。ただ、センセーショナルな内容ではなく、職場の安全と再発防止をテーマにした社会派ドキュメンタリーです」
「なるほど」
「水原さんには、作家として、そして被害者家族としてコメントをお願いしたい、と」
部屋に静かな緊張が流れた。
伊織はしばらく黙って考えた。
事件があったことを拡げて、もし絵里奈の心を再び揺らしてしまったらと思うと言葉が出ない。
だが、社会が変わるきっかけになるなら。
同じような被害を防ぐ一助になるなら。
「わかりました」
その声は静かだったが、迷いはなかった。
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スタジオは落ち着いた照明で、派手さはない。
司会者も、ドキュメンタリー専門の落ち着いた語り口の人物だった。
スタッフがマイクを調整し、本番5秒前です、と声がかかる。
伊織は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
カメラの赤いランプが点灯する。
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司会者が丁寧に問いかける。
「水原さん、今回の事件を経て、社会に伝えたいことは何でしょうか。」
伊織は、少しだけ視線を落とし、言葉を探した。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「まず、被害者が声を上げることは、とても勇気のいることです。恐怖や恥、社会の目もあります」
司会者は黙って聞いている。
「それらを乗り越えて助けを求めるのは、簡単ではありません。」
カメラの向こうにいる誰かへ語りかけるように、静かに続けた。
「だからこそ、周囲の人間が気づくことが大切だと思います。職場でも、家庭でも、学校でも。小さな違和感を見逃さないこと。そして、声を上げた人を守る仕組みを作ること。」
司会者が頷く。
「ご家族としては、どのように支え合ってこられましたか。」
伊織は、少しだけ微笑んだ。
「私たちは、特別なことはしていません。ただ、そばにいること。話したいときは聞き、話したくないときは無理に聞かない。それだけです。」
そして、言葉に力を込めた。
「事件は、被害者の人生を奪います。でも、奪われたままにしないために、周囲ができることは必ずある。私はそれを伝えたくて、今日ここに来ました。」
スタジオが静まり返る。
スタッフでさえ、息を飲んでいた。
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控室に戻ると、編集者が静かに言った。
「すごく良かったです。水原さんの言葉、きっと多くの人に届きます。」
伊織は、少しだけ肩の力を抜いた。
「伝わればいいんですが」
スマホを見ると、絵里奈からメッセージが届いていた。
**『見てたよ。ありがとう。』**
その短い言葉に、胸の奥が温かくなる。
「帰ろう。」
夜のスタジオを出ると、冷たい風が頬を撫でた。
だが、その冷たさは、もう痛みではなかった。
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放送翌日、全国の書店では伊織の三作目だけでなく、既刊作品まで売り切れが相次いだ。
「昨日の番組を見て来ました」
「この人の言葉をもっと知りたい」
そんな客が増え、書店員たちは追加発注に追われていた。
文学賞受賞の勢いに、番組の影響が重なり、もはや日本で知らない者はいないくらい、伊織の作品は社会現象のような扱いになりつつあった。
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ある日の夜。
リビングのソファで、絵里奈はスマホを見つめていた。
SNSには、伊織への称賛の声が溢れている。
「……すごいことになってるね」
伊織は、キッチンから湯気の立つマグカップを二つ持ってきた。
「村口って会社の後輩を通じて、前の会社から講演依頼が来たよ」
苦笑いしながら、伊織が言う。
「え、そうなの?」
「まだ、俺の事覚えている奴らも多いと思うんだけど、それを考えると変な気分」
「まあ、そうよね、辞めた社員が、今や時の大作家となって戻ってくるんだもの」
「村口のために、行ってくる」
そこまで言うと、伊織は絵里奈に近づいた。
着る毛布がずれ落ちて、露わになっている肩に触れる。
「手、あったかい…」
ふたりの間に、柔らかな沈黙が流れた。
外の世界は騒がしい。称賛も批判も渦巻いている。
だが、この部屋の中だけは、静かで、温かく、確かな生があった。




