83.「懲役十二年」――法廷に下された断罪と、伊織が掴んだ文学賞の栄光。繋いだ手に宿る“未来への光”。
地方裁判所の大法廷は、朝から重い空気に包まれていた。
傍聴席には、報道関係者、一般傍聴人、そして事件を追い続けてきた記者たちがぎっしりと詰めかけている。
被告人席の田崎は、痩せこけ、以前の威圧的な雰囲気は完全に消えていた。
拘置所での生活が、そのまま彼の影を削り取ったようだった。
裁判長が入廷し、全員が起立する。
木槌の音が響き、判決言い渡しが始まった。
「主文。被告人を懲役十二年に処する。」
その瞬間、傍聴席に小さなどよめきが走った。
田崎は、わずかに肩を震わせたが、顔を上げようとはしなかった。
裁判長の声は淡々としている。
しかし、その内容は容赦がなかった。
「被告人の行為は、被害者の生命・身体・尊厳を著しく侵害する極めて悪質なものであり、社会的影響も甚大である。反省の態度は一応認められるものの、犯行の動機には自己中心性が強く、酌むべき事情は乏しい。」
淡々とした言葉が、田崎の未来を確定させていく。
「以上の理由から、実刑が相当であると判断する。」
田崎は、ようやく顔を上げた。
その目は虚ろで、判決の意味を理解しきれていないようにも見えた。
だが、傍聴席の後方で静かに見守っていた伊織には、はっきりと分かった。
これで終わりではない。
刑事裁判は区切りにすぎず、民事での責任はこれから一生続く。
田崎の視線が、ふと傍聴席の方へ向いた。
伊織と目が合ったわけではない。
ただ、そこに自分が壊した人生があることを、ようやく理解したような表情だった。
護送の係官に腕を取られ、田崎は立ち上がる。
足取りは重く、引きずるようだった。
扉が閉まる直前、田崎は小さく呟いた。
「終わらないのか……」
その声は、誰にも届かないほど弱かった。
扉が閉まり、法廷に静寂が戻る。
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伊織は、深く息を吐いた。
勝利の実感ではない。
ただ、ようやく現実が動き出したという感覚だけがあった。
絵里奈には、危惧していた後遺症は今のところ何も無い。
だからと言って、絵里奈が背負わされた恐怖と痛みが消えるわけではない。
だが、加害者が法の下で責任を負うという事実は、確かに一歩だった。
伊織は席を立ち、静かに法廷を後にした。
外の光は眩しく、冬の空気は冷たかった。
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家に戻ると、リビングのソファで絵里奈が待っていた。
毛布にくるまり、温かい飲み物を両手で包んでいる。
その姿を見た瞬間、伊織の胸に、安堵と痛みが同時に広がった。
「おかえり」
絵里奈の声は静かだった。
「判決、出たよ」
絵里奈は、ゆっくりと顔を向けた。
伊織は短く答えた。
「十二年」
絵里奈は目を閉じ、小さく息を吸った。
驚きも、喜びも、落胆もない。
ただ、静かに受け止めている。
「そう」
その一言に、これまでの苦しみと、これからの時間と、そして終わらない現実がすべて含まれているようだった。
伊織は続けた。
「これで全部終わるわけじゃない。でも区切りにはなったと思う」
絵里奈は、そっと伊織の手に触れた。
その手は温かかった。
「ありがとう、行ってくれて」
「当たり前だよ」
ふたりの間には、静かな時間が流れていた。
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田崎の実刑判決が報じられた翌日、ニュースサイトのトップには大きな見出しが並んだ。
「グローバルリンクジャパン事件 加害者に懲役12年」
「被害者家族の会見が社会に波紋」
「企業の管理体制に問われる責任」
テレビのワイドショーでは、コメンテーターたちが連日議論を続けていた。
「被害者側が声を上げたことは大きい」
「企業の再発防止策は十分なのか」
「職場の安全をどう守るか」
SNSでは、事件に関するハッシュタグがトレンドに入り、被害者への応援、企業への批判、司法の判断への意見が入り混じっていた。
出版社には、読者からの手紙がさらに増えた。
「どうか絵里奈さんを支えてください」
「あなたの作品に救われた人間がここにいます」
「今回の行動に勇気をもらいました」
書店では、伊織の既刊が平積みされ、売り切れが続出した。
事件をきっかけに、彼の作品を読み始める人も多かった。
そして。
仕事部屋にいた伊織は、スマホが鳴ったことに気が付く。
出版社からだった。
伊織の現在連載中の歴史長編小説、風の墓標が文学賞を受賞した、というものだ。
直木賞に続いての連続しての受賞。
出版社は担当者を含めて、狂喜乱舞しているようだった。
最も伊織自身は、ほとんど関心を示していない。
正直なところ、早く連載を終わらせたいというのが本音だった。
とにかく、絵里奈のそばにいる時間が欲しかった。
やはり、自分の心が脆くなっているのだ。
ただ、自分が書くことで救われる、という人がいるから書いているようなものだった。
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田崎という男に絵里奈が襲われた。
逆恨みによる犯行だった。
絵里奈自身の抵抗とそして篠崎により、なんとか甚大な被害を受けずに済んだのが幸いだった。
伊織は田崎の裁判中に傍聴席から田崎を見ていたが、どことなく以前勤めていた会社の人間にも似ている雰囲気だった。
ただのサラリーマンが、どうしたら、あそこまで狂気的になるのだろう。
冷静で見ていられたのは、絵里奈が元気そうにしているからだった。
もし、これで、後遺症などで夜も眠れぬ日々を過ごしていたら。
殺されていたら。
多分、傍聴席から、田崎にとびかかり息の根が止まるまで、殴り続けていただろう。
そう考えれば、懲役十二年の実刑判決も、妥当のように思えた。
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通話を終えると、絵里奈にラインを入れる。
平日の午後で、絵里奈は仕事中なのだ。
文学賞受賞だって。
ええ~?!
授賞式は、明日の19時開始だって。
そこまで送信すると、電話がかかってきた。
「もしもし、伊織、おめでとう」
「ありがとう」
「明日、私も行きたい」
「受賞式?」
「うん、今度は傍で見ていたい」
「分かった」
通話を切ると、伊織は早速授賞式出席への準備を始めた。
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授賞式の会場は、都内のホテルの大ホールだった。
天井のシャンデリアが柔らかく光を落とし、壇上には受賞者の名前が刻まれたパネルが静かに掲げられている。
会場のざわめきは、普段の文学賞とは少し違っていた。
事件の余波がまだ社会に残っている。
それでも、今日ここに集まった人々の視線は、純粋に作品へ向けられていた。
司会者がマイクを持ち、会場が静まる。
「それでは、今年度の文学賞、大賞を発表いたします。」
一瞬、空気が止まった。
「受賞作は、水原伊織さんの『風の墓標』です。」
会場に拍手が広がる。
伊織は、ゆっくりと立ち上がった。
事件後、筆が止まりかけたが、それでも書き続けた。
書くことが、今の伊織のやるべきことなのだ。
壇上に上がると、スポットライトが眩しく照らした。
その光の中で、伊織は深く一礼した。
「ありがとうございます。」
マイクの前に立つと、自然と息が整った。
言葉は、静かに、しかし確かに胸の奥から湧き上がってくる。
「この作品は、自分の中でも大きな分岐点となるであろう作品です」
会場が静まり返る。
「作品のテイストを変えただけでなく、執筆中に身の回りで起きた様々な出来事を含めての意味になります」
その言葉は、事件のことを直接語ってはいない。
だが、会場の誰もが、その背景にある痛みと強さを感じ取っていた。
呼吸を置く。
「この賞は、私ひとりのものではありません。支えてくれた家族、読者の皆さん、編集者の方々。そして、私が書く理由を与えてくれたすべての出来事に、心から感謝しています」
拍手が再び広がる。
その音は、先ほどよりも温かく、深かった。
壇上を降りると、記者たちが一斉にカメラを向けた。
フラッシュが光る。
だが、直木賞のときとは違う。
今日は、うざったくない。
その光は、過去を暴くものではなく、未来を照らすものだった。
会場の隅で、絵里奈が静かに微笑んでいた。
彼女の目には、誇りと安堵と、そして生きているという実感が宿っていた。
伊織は、そっと彼女に歩み寄り、手を差し伸べる。
絵里奈がその手をそっと握りしめる。
どんな拍手よりも温かかった。
ふたりの間に流れる静かな時間は、事件の影を越えて、確かに未来へと続いていた。




