82.「もう、無理です」――六畳一間の事務所で重なった、優子と海斗の涙。そして絵里奈は、自らの足で“春の風”の中へ。
絵里奈は、自宅マンションを少し早めに出た。
春の少しだけ温かい風が頬を撫でる。
田崎の件を受けて、会社は慌ただしく再発防止策を打ち出した。
そのひとつが、通勤・退勤時に人気のない道を使うことの禁止だ。
全社員にルートの見直しが命じられ、たとえ近道でも、人の気配の薄い場所を通るのは許されなくなった。
女子社員については、通勤時のひとり歩きを原則禁止にする案まで出たらしい、と優子が教えてくれた。
だが、そこまで踏み込めば私生活への干渉が過ぎる。
さすがにその案は立ち消えになったようだ。
絵里奈も、自宅マンションから支店までの徒歩通勤ルートを一部見直した。
人通りのない路地に入り込む瞬間があったからだ。
これからは大通りを経由して、マンションから支店まで歩くことにした。
最初、伊織は「毎日、通勤も退勤も送っていく」と言ってくれた。
だが絵里奈は断った。
その優しさに甘えれば、もう二度とひとりで歩けなくなりそうで、そのほうが怖かった。
朝、家を出る前に、伊織は必ず抱きしめてくれる。
「それだけで十分幸せよ」
そう本人にも伝えた。
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支店のGM室に入り、PCを立ち上げる。
メールをチェックする。
広報部長の佐伯が懲戒処分を受けた。
会社の内部情報を定期的にリークしていたことが、篠崎の調査によって発覚したのだ。
そして、その篠崎も会社を辞めた。
佐伯の件よりも、田崎の件よりも――何よりその知らせが胸に深く染みた。
昨夜、優子からの電話で知った。
「海斗、辞めちゃった…」
「え?…うそでしょ?」
「片桐さんに退職届出して、行っちゃった」
「引き止めなかったの?」
「…引き止められなかった」
「理由は?」
「…よく分からないけど、片桐さんは“解放してあげよう”って言ってた」
「解放…」
葛藤しているようには見えなかった。
人は、外から見える姿だけでは分からない何かを抱えている。
「最近、外で全然会えてなかったし、なんかもう、やんなっちゃった」
「優子…」
そのあと少しだけ業務の話をして、通話は終わった。
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その日の仕事を終えて支店を出ると、伊織が待っていた。
「お疲れ様」
「伊織…?どうして」
「特に用事はないけど、今日は金曜日だから」
そう言って、伊織は自然に絵里奈の腕を取り、そのまま歩き出した。
家路につく途中で、絵里奈は篠崎の話を切り出した。
「海斗が…そうか」
「知らなかったよね?」
「最近、連絡してないしなあ」
「…なにやってるのかな」
少しだけ日が伸びたとはいえ、空はまだ薄暗い。
絵里奈が見上げてつぶやいた声は、春の風にさらわれていった。
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古いビルの前に立つと、優子は息をのんだ。
看板には、まだ新しい紙が貼られている。
《篠崎調査事務所》
その文字を見ただけで、胸がぎゅっと締めつけられた。
ノックしようと手を上げた瞬間、
中からドアが開いた。
「……え?」
そこに立っていたのは、篠崎だった。
買い物袋を片手に、驚いたように目を見開いている。
「……優子さん?」
声が震えていた。
優子は、返事をしようとして、言葉が出なかった。
一瞬の沈黙。
冬の風が二人の間をすり抜ける。
「来てくれたんですね」
篠崎の声は、どこか信じられないものを見るようだった。
優子はようやく口を開いた。
「……名刺、届いたわ。ここから始めますって、あなたらしい、と思った」
篠崎は照れたように視線を落とした。
「ちゃんと、前に進んでるのね」
その言葉に、篠崎は顔を上げた。
優子の目は、泣きそうで、でも強かった。
「俺、苦しかったんです。仕事と、自分自身が嫌でした。だから、やり直したかったんです」
「そう、なんだ」
「優子さんは、元気してましたか?」
「あなたが辞めたことで、大変なこともあるけど…」
篠崎の呼吸が止まる。
「海斗」
名前を呼んだ。仕事以外で会うのは、久しぶりだ。
「あなたに会いたかった」
その瞬間、篠崎の表情が崩れた。
驚きと、安堵と、胸の奥に押し込めていた想いが一気に溢れ出す。
「俺もです。ずっと、優子さんに会いたかった」
二人の距離は、ほんの一歩分だけ縮まった。
触れない。
抱きしめない。
それでも、確かに再会した。
「中、入りますか?まだ散らかってますけど……」
「ええ。見せて」
優子は微笑んだ。
篠崎はドアを開き、優子を迎え入れた。
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中に入ると、まだ家具の少ない事務所に、冬の光が斜めに差し込んでいた。
段ボールがいくつか積まれ、机の上には開封したばかりの文具が散らばっている。
「本当に、始めたばかりなのね」
優子がそう言うと、篠崎は照れたように肩をすくめた。
「まだ形にもなってませんけど、ここから、ちゃんとやっていきたいんです」
その言葉に、優子はゆっくりと頷いた。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
彼が前に進もうとしていることが、嬉しくて、少しだけ切なかった。
「……海斗」
名前を呼ぶと、篠崎は動きを止めた。
振り返ったその目は、さっきよりもずっと弱く、ずっと正直だった。
「優子さん」
呼び返す声が、かすかに震えていた。
優子は、気づけば一歩踏み出していた。
距離が、ほんの指先ほど縮まる。
「会えて、よかった」
その言葉が落ちた瞬間だった。
篠崎が、堪えきれないように息を吸い込む。
「もう、無理です」
次の瞬間、優子の肩に腕が回った。
強く抱きしめるのではない。
壊れ物に触れるような、慎重で、でも確かに求める抱擁だった。
優子も、そっと腕を回した。
胸の奥に溜め込んでいたものが、静かにほどけていく。
「来てくれて……本当に、ありがとうございます」
耳元で落ちるその声は、涙をこらえるように震えていた。
「ううん。私も……あなたに会いたかった」
二人はしばらく言葉を交わさず、ただ互いの温度を確かめるように抱きしめ合った。
外はまだ肌寒かったが、事務所の中だけは、ゆっくりと春が近づいているようだった。




