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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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82/107

82.「もう、無理です」――六畳一間の事務所で重なった、優子と海斗の涙。そして絵里奈は、自らの足で“春の風”の中へ。

絵里奈は、自宅マンションを少し早めに出た。

春の少しだけ温かい風が頬を撫でる。


田崎の件を受けて、会社は慌ただしく再発防止策を打ち出した。

そのひとつが、通勤・退勤時に人気のない道を使うことの禁止だ。


全社員にルートの見直しが命じられ、たとえ近道でも、人の気配の薄い場所を通るのは許されなくなった。

女子社員については、通勤時のひとり歩きを原則禁止にする案まで出たらしい、と優子が教えてくれた。

だが、そこまで踏み込めば私生活への干渉が過ぎる。

さすがにその案は立ち消えになったようだ。


絵里奈も、自宅マンションから支店までの徒歩通勤ルートを一部見直した。

人通りのない路地に入り込む瞬間があったからだ。

これからは大通りを経由して、マンションから支店まで歩くことにした。


最初、伊織は「毎日、通勤も退勤も送っていく」と言ってくれた。

だが絵里奈は断った。

その優しさに甘えれば、もう二度とひとりで歩けなくなりそうで、そのほうが怖かった。


朝、家を出る前に、伊織は必ず抱きしめてくれる。

「それだけで十分幸せよ」

そう本人にも伝えた。


----


支店のGM室に入り、PCを立ち上げる。

メールをチェックする。


広報部長の佐伯が懲戒処分を受けた。

会社の内部情報を定期的にリークしていたことが、篠崎の調査によって発覚したのだ。


そして、その篠崎も会社を辞めた。

佐伯の件よりも、田崎の件よりも――何よりその知らせが胸に深く染みた。

昨夜、優子からの電話で知った。


「海斗、辞めちゃった…」

「え?…うそでしょ?」


「片桐さんに退職届出して、行っちゃった」

「引き止めなかったの?」


「…引き止められなかった」

「理由は?」


「…よく分からないけど、片桐さんは“解放してあげよう”って言ってた」

「解放…」


葛藤しているようには見えなかった。

人は、外から見える姿だけでは分からない何かを抱えている。


「最近、外で全然会えてなかったし、なんかもう、やんなっちゃった」

「優子…」

そのあと少しだけ業務の話をして、通話は終わった。


----


その日の仕事を終えて支店を出ると、伊織が待っていた。


「お疲れ様」

「伊織…?どうして」

「特に用事はないけど、今日は金曜日だから」


そう言って、伊織は自然に絵里奈の腕を取り、そのまま歩き出した。

家路につく途中で、絵里奈は篠崎の話を切り出した。


「海斗が…そうか」

「知らなかったよね?」

「最近、連絡してないしなあ」

「…なにやってるのかな」


少しだけ日が伸びたとはいえ、空はまだ薄暗い。

絵里奈が見上げてつぶやいた声は、春の風にさらわれていった。


----


古いビルの前に立つと、優子は息をのんだ。

看板には、まだ新しい紙が貼られている。


《篠崎調査事務所》


その文字を見ただけで、胸がぎゅっと締めつけられた。


ノックしようと手を上げた瞬間、

中からドアが開いた。


「……え?」


そこに立っていたのは、篠崎だった。

買い物袋を片手に、驚いたように目を見開いている。


「……優子さん?」


声が震えていた。

優子は、返事をしようとして、言葉が出なかった。


一瞬の沈黙。

冬の風が二人の間をすり抜ける。


「来てくれたんですね」


篠崎の声は、どこか信じられないものを見るようだった。

優子はようやく口を開いた。


「……名刺、届いたわ。ここから始めますって、あなたらしい、と思った」


篠崎は照れたように視線を落とした。


「ちゃんと、前に進んでるのね」

その言葉に、篠崎は顔を上げた。

優子の目は、泣きそうで、でも強かった。


「俺、苦しかったんです。仕事と、自分自身が嫌でした。だから、やり直したかったんです」

「そう、なんだ」


「優子さんは、元気してましたか?」

「あなたが辞めたことで、大変なこともあるけど…」


篠崎の呼吸が止まる。

「海斗」

名前を呼んだ。仕事以外で会うのは、久しぶりだ。


「あなたに会いたかった」


その瞬間、篠崎の表情が崩れた。

驚きと、安堵と、胸の奥に押し込めていた想いが一気に溢れ出す。

「俺もです。ずっと、優子さんに会いたかった」

二人の距離は、ほんの一歩分だけ縮まった。

触れない。

抱きしめない。

それでも、確かに再会した。


「中、入りますか?まだ散らかってますけど……」

「ええ。見せて」

優子は微笑んだ。

篠崎はドアを開き、優子を迎え入れた。


----


中に入ると、まだ家具の少ない事務所に、冬の光が斜めに差し込んでいた。

段ボールがいくつか積まれ、机の上には開封したばかりの文具が散らばっている。


「本当に、始めたばかりなのね」

優子がそう言うと、篠崎は照れたように肩をすくめた。


「まだ形にもなってませんけど、ここから、ちゃんとやっていきたいんです」

その言葉に、優子はゆっくりと頷いた。

胸の奥がじんわりと熱くなる。

彼が前に進もうとしていることが、嬉しくて、少しだけ切なかった。


「……海斗」


名前を呼ぶと、篠崎は動きを止めた。

振り返ったその目は、さっきよりもずっと弱く、ずっと正直だった。


「優子さん」


呼び返す声が、かすかに震えていた。

優子は、気づけば一歩踏み出していた。

距離が、ほんの指先ほど縮まる。


「会えて、よかった」


その言葉が落ちた瞬間だった。

篠崎が、堪えきれないように息を吸い込む。


「もう、無理です」


次の瞬間、優子の肩に腕が回った。

強く抱きしめるのではない。

壊れ物に触れるような、慎重で、でも確かに求める抱擁だった。

優子も、そっと腕を回した。

胸の奥に溜め込んでいたものが、静かにほどけていく。


「来てくれて……本当に、ありがとうございます」


耳元で落ちるその声は、涙をこらえるように震えていた。


「ううん。私も……あなたに会いたかった」


二人はしばらく言葉を交わさず、ただ互いの温度を確かめるように抱きしめ合った。

外はまだ肌寒かったが、事務所の中だけは、ゆっくりと春が近づいているようだった。

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