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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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81/107

81.「守りたいなら、真実を追え」――篠崎調査事務所、始動。優子へ届いた“再起のメッセージ”と、新しい風。

退職届を置いて会社を出たあと、篠崎はしばらく街を歩き続けた。

冬の夕暮れは早く、ビルの隙間から差し込む光はすでに薄い。

人々の足音だけが、妙に遠く聞こえる。



俺は、何を守れたんだろう。

俺は、何を望み、灰にした?

優子さん…いつの間にか大好きになった…

いや、今でも大好きだよな…



胸の奥に沈んだ重さは、会社を離れても消えなかった。

短い期間ではあったが、優子との思い出も去来する。


気づけば、古い雑居ビルの前に立っていた。

看板には、かすれた文字でこう書かれている。


《調査・相談 桐生探偵事務所》


「探偵、か」


篠崎は、ふと笑った。

いいかもしれない、と思った。

ドアを開けると、中には年配の男が一人、新聞を読んでいた。


「いらっしゃい。相談か?」

「いえ。仕事を探してまして」


男は新聞を下ろし、篠崎をじっと見た。

「ほう。スーツの着こなしは悪くない。だが、目が死んでるな」

「そうかもしれません」


男は椅子を指さした。

「座れ。話くらいは聞いてやる」


篠崎は深く息を吸い、椅子に腰を下ろした。

「俺は誰かを守れる人間になりたいんです。でも、会社ではそれができなかった」


男は黙って聞いていたが、やがて口の端をわずかに上げた。

「守りたいなら、真実を追えるようになれ」

「真実」

「人は嘘をつく。会社も、家族も、恋人も。だが、嘘の裏には必ず理由がある。それを見抜けるようになれば、守れるものも増える」


篠崎は、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

「俺に、できますか」

「できるかどうかじゃない。やるかどうかだ」


男は机の引き出しから一枚の名刺を取り出し、篠崎の前に置いた。

《桐生探偵事務所 研修生募集》

「明日から来い。探偵ってのは立ち直りたい人間には向いてるぞ」


篠崎は名刺を見つめ、ゆっくりと頭を下げた。

「……お願いします」

その瞬間、彼の中で何かが静かに動き始めた。

会社では守れなかったものを、別の形で守るために。


----


篠崎が去った廊下は、妙に静かだった。

優子は追いかけたものの、角を曲がった先にはもう彼の姿はなかった。

「……海斗」

呼んでも返事はない。

ただ、空調の音だけが乾いた廊下に響いていた。


優子はゆっくりと常務室へ戻った。

片桐はまだ退職届を見つめている。

「……片桐常務」

声をかけると、片桐は顔を上げた。

「…篠崎は引き止められなかった」

「…そうですね」

「…解放してやりたかった」

片桐がそうつぶやく。


解放。

仕事…

私から…


いろいろな思いが混ざる。


優子はその場に泣き崩れた。


「木崎のところへ行ってくる」

片桐はそう言い残し、常務室を出ていく。

優子は、まだ泣いていた。


----


「あの阿呆……優子を泣かしたら“バらす”って言っておいたのに」

木崎は、専務室に来た片桐から一連の顛末を聞き終え、深いため息をついた。

「バらす?何をだ」


片桐が眉をひそめる。

「40過ぎても童貞だったってことをな。会社辞められちゃ意味ないやろ?」

「……はあ」


片桐は呆れたように額を押さえた。

木崎は椅子に深くもたれ、天井を見上げる。


「まあ、それはともかくとして……田崎しかり、佐伯しかり、最近ほんまヤバいな、うちの会社」

「この際だ。全部徹底的にやるべきだ」


片桐の声は低く、決意がにじんでいた。

木崎は肩をすくめる。


「はあ……誰か呪われてるんとちゃうか?いや、待てよ。わしか?」

「冗談を言ってる場合か?」

「こんなんでも言わんと、もうワシかてやってられんわ」


木崎は苦笑しながらも、目の奥には疲労が滲んでいた。

記者会見、関係会社への連絡、取引先への説明。

専務や社長でしか対応できない案件が山のように積み上がっている。

それでも、やらなければならない。会社を立て直すために。


「あかん、今日やっぱ飲みいこ」

「え?」

「優子、誘ったほうがいいかな…どうすっかな…でもなあ…」

「やめておけ。俺が付きあう」

「なんでやねん…なんでお前しか、おらんねん…はあ…」

「贅沢言うな、ひとりよりましだろ」


そう言って、木崎の肩をたたく。


そうなのだ。もう自分たちしかいないのだ。


片桐は、確固たる意志を胸に秘めていた。


----


桐生探偵事務所で研修を始めてから、一か月が経った。

尾行の基礎、聞き込みの作法、情報の整理、そして、人の嘘を見る目。

もとより気配を消せることが何より役に立った。

篠崎は、まるで乾いたスポンジのように吸収していった。


桐生は、ある日ぽつりと言った。

「お前は、向いてるよ。人の痛みに敏い。それは探偵にとって、武器になる」

その言葉が、篠崎の背中を押した。


そして一か月後の朝。桐生は、古びた鍵をひとつ差し出した。


「独り立ちの時だ。ここにいても学べることはあるが、お前は“自分のやり方”を見つけるべきだ」

「本当に、俺なんかが?」

「俺なんかと言ってるうちは半人前だ。だが、俺がやると言えるなら、もう一人前だ」


篠崎は、ゆっくりと鍵を受け取った。

胸の奥が熱くなる。

会社を辞めた日の、あの重さとは違う。

これは、前に進むための重さだ。


----


駅から少し離れた古いビルの二階。

六畳ほどの小さな部屋に、中古のデスクと椅子、ノートPCが一台。

壁には、篠崎が自分で貼った紙が一枚。


《篠崎調査事務所》


その文字を見つめると、胸の奥がじんわりと熱くなる。

「……よし」

篠崎は深く息を吸い、窓を開けた。

冷たい風が吹き込み、カーテンが揺れる。

ここから始まるのだ。

会社では守れなかったものを、別の形で守るための人生が。


----


開業から数日後。

優子のデスクに、一通の封筒が届いた。

差出人欄には、見覚えのある名前。

《篠崎海斗》

優子は、胸がざわつくのを感じながら封を切った。

中には、名刺が一枚。

《篠崎調査事務所 代表 篠崎海斗》

そして、短いメッセージ。

《ここから始めます。》

優子は、しばらく動けなかった。

胸の奥が、痛いように温かい。

「海斗」

その名を呼んだ声は、誰にも聞こえないほど小さかった。


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