80.「優子さん、大好きです」――退職届と、篠崎海斗が遺した最期の告白。そして絵里奈は、懐かしき“居場所”へ。
会議室のドアが開き、佐伯が入ってきた。
先ほどよりも顔色が悪い。
ネクタイはゆるみ、目の下には深い影が落ちている。
「中村部長。さっきの件ですが、誤解が」
「座ってください」
優子の声は、驚くほど静かだった。
その静けさが、かえって佐伯の背筋を強張らせる。
佐伯は椅子に腰を下ろし、落ち着かない様子で指を組んだ。
優子は資料を一枚、ゆっくりと机に置いた。
「佐伯部長。あなたが外部記者に情報を提供し、その見返りとして金銭を受け取っていた件について、会社として調査を終えました」
佐伯の喉が、ごくりと動く。
「いや、それは金銭なんて大げさなものじゃなくて、ただの、付き合いで」
「付き合いで会社の機密情報を売る人間を、広報部長として置いておくわけにはいきません」
優子の言葉は淡々としていた。怒りも、感情もない。ただ、事実だけを告げる声。佐伯は焦ったように身を乗り出した。
「待ってください!俺は、会社のために、記者との関係を良くしておこうと」
「その結果、会社は重大なリスクに晒されました」
優子は一切の揺らぎなく言い切った。
「本日付で、あなたには“諭旨解雇”を適用します。自主退職という形を取ることはできますが、事実上の処分であることに変わりはありません」
佐伯の顔から血の気が引いた。
「解雇?俺を切るんですか?」
「はい。あなたの行為は、管理職でありながら、会社の信用を損なう重大な違反です」
佐伯は震える声で言った。
「俺だけじゃないんですよ。広報なんて、みんなやってる。俺だけが悪いわけじゃ」
「みんなではありません。あなたがやったことは、あなたの責任です」
優子の声は、冷たくはない。
だが、揺るぎない。
佐伯は、しばらく黙った。
やがて、力なく笑った。
「俺は、ただ、うまくやりたかっただけなんですよ」
その笑いは、哀れで、空虚だった。
優子は席を立ち、最後に一言だけ告げた。
「退職手続きについては、人事から連絡します。今日中に、社内の端末とカードキーを返却してください」
佐伯は、うなだれたまま動かない。
優子は振り返らず、会議室を出た。
その背中には、迷いも、躊躇もなかった。
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佐伯の処分が決まった日の夕方だった。
常務室の片桐のところに、優子が佐伯に処分を伝えたことを報告に来ていた。
「そうか…」
片桐は、腕を組んで、椅子に座っている。
ノックの音が響く。
「篠崎です」
「入れ」
「失礼します」
いつもより背筋が硬く、表情に影が差している。
「どうした、篠崎部長。そんな顔して」
篠崎は無言で、封筒を差し出した。
白い封筒は、角がわずかに湿っているように見えた。
「……これは?」
「退職届です。今回の件の責任を取らせてください」
片桐は一瞬、言葉を失った。
優子も、驚いている。
「お前、何を言ってる」
篠崎は視線を落とし、静かに続けた。
「田崎の件から始まり、佐伯の件に至るまで、全て私の力不足によるものです」
その声には、言い訳も、逃げもなかった。
ただ、痛みを飲み込んだ人間の静かな覚悟だけがあった。
片桐は封筒を見つめ、深く息を吐いた。
「お前が責任を感じるのは分かる。だがな、これはお前一人の責任じゃない」
優子も横で頷いている。
「片桐常務。以前から私は、ずっと考えていました。自分には、部長の資格も無いし、別のことがやりたい、という気持ちがどこかにあったんです」
その言葉は、苦しみを押し殺したように低かった。
優子が、はっとして篠崎を見た。
「海斗、そんなこと、一度も言わなかったじゃない」
篠崎は小さく首を振った。
「優子さん、僕は、みんなのように強くなりたかった」
片桐は腕を組んだまま、じっと篠崎を見つめていた。
「片桐常務、優子さん、今までありがとうございました」
退職届を片桐のデスクに置き去りにして、篠崎は立ち去った。
「海斗」
優子は篠崎を追う。
片桐は腕を組んだまま、退職届を見つめていた。
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「海斗っ」
廊下に出たところで、優子は篠崎を捕まえた。
「優子さん。今までありがとうございました」
「…それ、どういう意味よ?」
実は、二人は騒動が始まってからは、一度もプライベートで会っていなかった。
そういう時間も無かった。
「僕は、優子さんに、いろいろ教わりましたが、やはり、僕は誰かを守ることはできなさそうです」
篠崎は力のない笑みを浮かべる。
「海斗…」
「短い期間でしたが、好きな女性がいるって、悪いことではありませんでした」
「え、ちょっと…まってよ」
篠崎の口調が本気だった。
「…優子さん、大好きです」
篠崎は、そっと優子を抱き寄せる。
「さようなら」
優子から離れると、篠崎は去っていった。
優子は、その場に呆然と立ち尽くしていた。
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支店の自動ドアが開くと、いつもの朝の空気が流れ込んできた。
コピー機の音、電話のコール、スタッフ同士の短い挨拶。
どれも、絵里奈が離れる前と何ひとつ変わっていない。
「おはようございます」
絵里奈が声をかけると、最初に気づいたのは、受付の佐野だった。
「あ、おはようございます、水原GM。今日から復帰なんですね」
驚いた様子も、特別な緊張もない。ただ、いつも通りの笑顔。
「うん。今日からまたよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
佐野は軽く会釈すると、すぐに電話対応に戻った。
その横を通り過ぎると、営業の若手が書類を抱えて走ってくる。
「あ、水原GM!おはようございます!すみません、ちょっと急ぎで!」
「いいのよ、行ってらっしゃい」
若手は慌ただしく駆け抜けていった。
絵里奈は、その背中を見送りながら小さく笑った。
変わってない。
GM室に入ると、デスクの上にはスタッフが置いてくれたらしいメモが一枚。
《おかえりなさい》
その字を見ただけで、胸がじんわりと温かくなる。
「水原GM、おはようございます」
支店長がGM室に入ってきて、あいさつをする。
特別な表情はしていない。ただ、いつも通りの落ち着いた顔。
「今日からまたお願いしますね」
「無理はしないでくださいよ」
絵里奈は、思わず笑ってしまった。
「なんか、普通ね」
支店長の一人が肩をすくめる。
「普通ですよ。だって、水原GMはここにいるのが当たり前ですから」
絵里奈は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
私は、この場所にちゃんと帰ってきたんだ。
誰も特別扱いしない。誰も腫れ物のように扱わない。
ただ、以前と同じように迎えてくれる。
その変わらなさが、何よりの歓迎だった。
絵里奈は深く息を吸い、デスクに手を置いた。
「じゃあ、今日からまた、よろしくお願いします」
支店長は軽く頭を下げ、持ち場へ戻っていった。
支店の空気は、変わらない。
だからこそ、絵里奈は静かに微笑んだ。




