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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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80/107

80.「優子さん、大好きです」――退職届と、篠崎海斗が遺した最期の告白。そして絵里奈は、懐かしき“居場所”へ。

会議室のドアが開き、佐伯が入ってきた。

先ほどよりも顔色が悪い。

ネクタイはゆるみ、目の下には深い影が落ちている。


「中村部長。さっきの件ですが、誤解が」

「座ってください」


優子の声は、驚くほど静かだった。

その静けさが、かえって佐伯の背筋を強張らせる。

佐伯は椅子に腰を下ろし、落ち着かない様子で指を組んだ。

優子は資料を一枚、ゆっくりと机に置いた。


「佐伯部長。あなたが外部記者に情報を提供し、その見返りとして金銭を受け取っていた件について、会社として調査を終えました」


佐伯の喉が、ごくりと動く。


「いや、それは金銭なんて大げさなものじゃなくて、ただの、付き合いで」

「付き合いで会社の機密情報を売る人間を、広報部長として置いておくわけにはいきません」


優子の言葉は淡々としていた。怒りも、感情もない。ただ、事実だけを告げる声。佐伯は焦ったように身を乗り出した。


「待ってください!俺は、会社のために、記者との関係を良くしておこうと」

「その結果、会社は重大なリスクに晒されました」


優子は一切の揺らぎなく言い切った。


「本日付で、あなたには“諭旨解雇”を適用します。自主退職という形を取ることはできますが、事実上の処分であることに変わりはありません」


佐伯の顔から血の気が引いた。


「解雇?俺を切るんですか?」

「はい。あなたの行為は、管理職でありながら、会社の信用を損なう重大な違反です」


佐伯は震える声で言った。

「俺だけじゃないんですよ。広報なんて、みんなやってる。俺だけが悪いわけじゃ」

「みんなではありません。あなたがやったことは、あなたの責任です」


優子の声は、冷たくはない。

だが、揺るぎない。

佐伯は、しばらく黙った。

やがて、力なく笑った。


「俺は、ただ、うまくやりたかっただけなんですよ」


その笑いは、哀れで、空虚だった。

優子は席を立ち、最後に一言だけ告げた。


「退職手続きについては、人事から連絡します。今日中に、社内の端末とカードキーを返却してください」


佐伯は、うなだれたまま動かない。

優子は振り返らず、会議室を出た。

その背中には、迷いも、躊躇もなかった。


----


佐伯の処分が決まった日の夕方だった。

常務室の片桐のところに、優子が佐伯に処分を伝えたことを報告に来ていた。


「そうか…」


片桐は、腕を組んで、椅子に座っている。

ノックの音が響く。


「篠崎です」

「入れ」

「失礼します」


いつもより背筋が硬く、表情に影が差している。


「どうした、篠崎部長。そんな顔して」


篠崎は無言で、封筒を差し出した。

白い封筒は、角がわずかに湿っているように見えた。


「……これは?」

「退職届です。今回の件の責任を取らせてください」


片桐は一瞬、言葉を失った。

優子も、驚いている。


「お前、何を言ってる」


篠崎は視線を落とし、静かに続けた。


「田崎の件から始まり、佐伯の件に至るまで、全て私の力不足によるものです」


その声には、言い訳も、逃げもなかった。

ただ、痛みを飲み込んだ人間の静かな覚悟だけがあった。

片桐は封筒を見つめ、深く息を吐いた。


「お前が責任を感じるのは分かる。だがな、これはお前一人の責任じゃない」


優子も横で頷いている。


「片桐常務。以前から私は、ずっと考えていました。自分には、部長の資格も無いし、別のことがやりたい、という気持ちがどこかにあったんです」


その言葉は、苦しみを押し殺したように低かった。


優子が、はっとして篠崎を見た。

「海斗、そんなこと、一度も言わなかったじゃない」


篠崎は小さく首を振った。


「優子さん、僕は、みんなのように強くなりたかった」


片桐は腕を組んだまま、じっと篠崎を見つめていた。


「片桐常務、優子さん、今までありがとうございました」


退職届を片桐のデスクに置き去りにして、篠崎は立ち去った。


「海斗」


優子は篠崎を追う。


片桐は腕を組んだまま、退職届を見つめていた。


----


「海斗っ」

廊下に出たところで、優子は篠崎を捕まえた。


「優子さん。今までありがとうございました」

「…それ、どういう意味よ?」


実は、二人は騒動が始まってからは、一度もプライベートで会っていなかった。

そういう時間も無かった。


「僕は、優子さんに、いろいろ教わりましたが、やはり、僕は誰かを守ることはできなさそうです」

篠崎は力のない笑みを浮かべる。


「海斗…」

「短い期間でしたが、好きな女性がいるって、悪いことではありませんでした」

「え、ちょっと…まってよ」


篠崎の口調が本気だった。


「…優子さん、大好きです」


篠崎は、そっと優子を抱き寄せる。


「さようなら」


優子から離れると、篠崎は去っていった。

優子は、その場に呆然と立ち尽くしていた。


----


支店の自動ドアが開くと、いつもの朝の空気が流れ込んできた。

コピー機の音、電話のコール、スタッフ同士の短い挨拶。

どれも、絵里奈が離れる前と何ひとつ変わっていない。


「おはようございます」


絵里奈が声をかけると、最初に気づいたのは、受付の佐野だった。


「あ、おはようございます、水原GM。今日から復帰なんですね」


驚いた様子も、特別な緊張もない。ただ、いつも通りの笑顔。


「うん。今日からまたよろしくね」

「はい、よろしくお願いします」


佐野は軽く会釈すると、すぐに電話対応に戻った。

その横を通り過ぎると、営業の若手が書類を抱えて走ってくる。


「あ、水原GM!おはようございます!すみません、ちょっと急ぎで!」

「いいのよ、行ってらっしゃい」


若手は慌ただしく駆け抜けていった。

絵里奈は、その背中を見送りながら小さく笑った。

変わってない。

GM室に入ると、デスクの上にはスタッフが置いてくれたらしいメモが一枚。


《おかえりなさい》


その字を見ただけで、胸がじんわりと温かくなる。


「水原GM、おはようございます」


支店長がGM室に入ってきて、あいさつをする。

特別な表情はしていない。ただ、いつも通りの落ち着いた顔。


「今日からまたお願いしますね」

「無理はしないでくださいよ」


絵里奈は、思わず笑ってしまった。


「なんか、普通ね」

支店長の一人が肩をすくめる。


「普通ですよ。だって、水原GMはここにいるのが当たり前ですから」


絵里奈は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

私は、この場所にちゃんと帰ってきたんだ。

誰も特別扱いしない。誰も腫れ物のように扱わない。

ただ、以前と同じように迎えてくれる。

その変わらなさが、何よりの歓迎だった。

絵里奈は深く息を吸い、デスクに手を置いた。


「じゃあ、今日からまた、よろしくお願いします」


支店長は軽く頭を下げ、持ち場へ戻っていった。

支店の空気は、変わらない。

だからこそ、絵里奈は静かに微笑んだ。


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